chapitre44. 揺動、そして
文字数 8,415文字
ごぼ、と口から音を立てて空気が抜けていく。
口を閉じようとしても顎に力が入らない。
空気を吐き出せば吐き出すほど、確実に死に近づいていく。
冷え切った指先が、ぴくりと動くのを感じる。
限りなく死に近い身体、だが、まだ生きている。ここで死んでたまるか、と脳内の自分が叫ぶ。
力任せにまぶたを押し上げた。
肺活量と気力で命を賭したレースをして、なんとか窒息する前に身体のコントロールを取り戻したソレイユ・バレンシアは、でたらめにもがいて重力に逆らった。ようやく水面に顔を出すと、飲み込んだ水を吐き出し、
棺に納められていた無数の花に混じって木材が浮いていた。失神しそうなほどの疲労と戦いながら泳ぎ、渾身で伸ばした右手に触れた木材を
――意識を失っている、だけであることを祈って、四肢の全てを使ってやっとの思いで砂浜までたどり着いた。彼女が正常に息をしているのを確認して、ソレイユは柔らかい砂浜に全身を投げ出した。視界がぐるりと回転して空が見える。濡れた服に大量の砂が付着するが、それに構っているほど余裕はなかった。
心臓の動きが冗談のように早く、全身の筋肉が痛い。何しろ、薬剤で仮死状態だったのに水中に投げ出された挙句、いきなり激しい運動をしたのだ。しばらく
体力の回復を見計らって起き上がり、
着替えてから大切なことに気づき、慌てて包みの奥を漁る。
「あ、ちゃんとある! 良かった」
無事にお目当てのイヤリングを見つけ出し、安堵の表情になった。カノンあたりが気を利かせて入れてくれたのだろう。
眠る友人の隣に座り、砂浜に脚を伸ばしてふぅ、と息を吐いた。
目の前には、広大な水たまりが広がっていた。空を写し込む一面の青色。壮観な光景に、思わず目を奪われる。
「――海、かぁ。こんな景色があったんだね、ねえ」
あまりにも自然に呼びかけて、答えるべき友人は意識を失っていることに気がつき、ソレイユの笑顔は行き場を失った。持ち上げた口角をゆっくり下ろして、視線を前に戻す。
死者のみがたどり着く海岸。
そこは美しく、そして、世界の果てのような場所だった。
彼女が目を覚ますまで、ここで待っていようか悩んだ。
今を逃せば次にいつ会えるか分からない。彼女はバレンシアに向かい、自分はスーチェンに向かう。二度と会えない可能性すらあるのだった。
「――そんなことにはしないけど」
ソレイユは首を振って弱気な考えを振り払う。
時間は掛かろうと絶対また会いに行くのだ、と自分に言い聞かせるように強く拳を握って、だが、ふと弱気になる。自分たちは共に死んだことになったわけだ。2人が別々の街に向かうのは、少しでも統一機関に見つかるリスクを減らすためだ。
ならば……もう会えない、ということも覚悟しなければいけない。それが彼女のためならば。
ソレイユは水に濡れた友人の顔を見下ろした。
前髪が張り付いた額に指先で触れる。青ざめて冷たい顔は、見慣れた彼女のはずなのに、妙に見慣れない。思い返せば友人が眠っているところを見るのはほとんどなかった。2人で一組の
愛おしい頬に触れている指を離すのが辛かった。
でも。
彼女が目覚めてしまえば、言葉を交わしてしまえばそれだけ別れがたくなるだろう。
ソレイユは意を決して立ち上がり、「寒くなる前に起きてね」と呟いてその場を後にした。重たい足を引きずるようにし、砂浜を踏みしめて歩きながら、ふと思い出す。
「――ぼくのために泣いてくれたの、初めてかもなぁ」
生命機能が停止していた期間の記憶は、
霞んだ遥か遠方に、統一機関の三本の塔が見えた気がした。
*
半日歩き通して、スーチェンに辿りついた。
教えられていた通りに道を選び、無事に日が落ちる直前に到着できたが、どんどん暗くなっていく森の中をひとりで抜けるのは生きた心地がしなかった。街灯りが目に入ったときは安心のあまり膝から力が抜けて、思った以上に緊張していたことに気がついた。
寒っ、と呟いて身体を竦める。
吹き付ける風が体温を奪っていく。服はまだ生乾きで冷たい。おまけに嫌な臭いを放っていた。そこまで衛生に気を遣う性格ではないが、さすがに一刻も早く着替えたかった。
「暖かいシャワー、浴びたいなぁ……」
ソレイユが灯りの方向を目指して山中を右往左往していると、舗装された道が視界の端に映った。馬車などのために整備された、七都をつなぐ幹道だ。見つけた道は高架を走っていたが、ソレイユは木によじ登って、揺れる枝先から飛び移り、無事に柵を掴んで乗り越えた。こういう思い切った――友人に言わせれば、無謀で危険な行動は彼の得意とするところだった。
「さて」
樹皮の破片や土で汚れた手をぱっぱっと払い、ソレイユはスーチェン方向に歩き出した。もともと人が歩くために整備された道ではないので歩きづらい。
街の境を超えて人が移動するケースは非常に少ないのだ。たいていどのラピス市民でも、その機会は一生に数回あれば良い方だ。ソレイユも例外ではなく、バレンシアからラ・ロシェルに向かった10年前が1回目、そして今スーチェンに向かっているので2回目だ。
「いや、3回、かな?」
独りごちて首をひねる。まだ自我が目覚める前の話だが、新都ラピスにおいて全ての、というのは
何はともあれ、新しい街にやってきた。数時間前に海岸で別れを告げた友人の顔を思い出すたび、胸が締め付けられる感覚になるのだが、同じくらい高揚感に満ちていた。変だなぁ、と自分でも思う。あまりに日常離れした経験が続きすぎて情緒がおかしくなっているのだろうか。
疲労でふらつく足取りのまま、オレンジに染まったスーチェンに一歩踏み入れると、横から伸びてきた手に腕を掴まれた。体勢を崩して地面に倒れ込むと、首の辺りに撃力を感じた。
空気が遠ざかる。
何かが遮断される感覚。
耳鳴りと共に視界が黒く染まっていく。逆らえない圧倒的な力強さで、意識と身体が引き剥がされる。
気がつくとコンクリートの床に転がっていた。
目覚めて一秒、跳ねるように上半身を起こして周囲を見回す。濃い灰色で六面を覆われた直方体の部屋。無骨なパイプが這っている。壁の一つに取り付けられたドアを見てそちらに向かいかけて――部屋の隅に佇む人影にようやく気付いた。
涼しげな目元をした女性だ。
彼女は長い前髪をかき上げ、ソレイユに無表情を向けた。
「――遅い目覚めですね。初めまして」
「え? 初めまして、って。君、軍部の研修生でしょ? ぼく覚えてるよ」
事態に圧倒されながらもソレイユは即座に問い返した。少しでも関わったことのある相手は覚えているのが彼の自慢だ。だが彼女はその問いを聞き流して、「私はグラス・ノワール入牢管理人のひとりです。仕事の都合上名前は伏せさせていただきます」と無機質に告げた。
「グラス・ノワール?」
おうむ返しに呟く。その名前が示すのは、ラピスで唯一スーチェンにのみ存在する牢獄だ。
そういえば、スーチェンに向かえば生活は保障してやる、とカノンは言っていたものの、その住処がどこであるかは聞いていなかった。断片的な情報が頭の中で組み合わさり、「ああ、なるほどねぇ……」とソレイユは溜息をついた。
要するに自分は囚人として迎え入れられたわけだ。
身動きが取れないので思ったより厄介だ。だが人目に付かないというのは利点でもある。カノンがどこまで考えてくれたのか分からないが、ここは彼の策に乗っておくのが吉だろう。
「――ご自身の状況は理解されましたか」
「まあ何とか。ええと、じゃあ貴女は何て呼べばいいですか?」
「貴方が私を呼ぶことはないと思いますが、では
「よろしく。マダム・アドミン」
ソレイユが笑顔と共に敬称を付けて呼びかけると、そういうことではないのですが、と彼女は少し嫌そうな顔をしたものの、すぐに咳払いをして表情を戻した。
「これよりグラス・ノワールで生活するにあたり、いくつか告知事項があります。まず貴方にはナンバー27が与えられました。以降、名前ではなくナンバーで諸管理を行いますので、決して忘れないようお願いします。それから専用の服に着替えて頂き――」
アドミンが事務的に読み上げる内容を頭に叩き込み、与えられた服に着替える。人目、それも女性の目がある状況で着替えるのは気になって「ここで?」と一応抵抗してみたが、彼女がいつものこととばかりに飄々としているので腹をくくって着替えた。無地の白いTシャツに膝下丈の黒いボトム。これ以上ないほど無愛想な服だが、海水で濡れた砂まみれの服よりはまだ良いかな、と楽観的に考える。
「――あ」
着替える途中で、右耳にいつも吊していたイヤリングの不在に気づく。
慌てて床を見るが、この部屋で落としたわけではないようだ。多分、スーチェンの入り口で襲われたときにでも落としたのだろう。気づいた瞬間、体中の血液が下に落ちていくような気がした。アドミンに尋ねてみるが、知りません、と首を振られて終わりだった。「分かった、ありがとう」と答える声は自分でも分かるほど沈んでいた。
一通り話を終えると、では、と言ってアドミンが扉を開ける。
開いた扉の両脇にセンサが取り付けられていて、人が通ると反応するようだ。どうやら彼女が入れるのはここまでらしい。ありがとう、と礼を言ってソレイユが彼女の横を通り過ぎると、彼女は無声のまま、薄い唇を僅かに動かした。
その唇に乗せられた言葉を読み取って、ソレイユが思わず目を見張ると、「どうしたのですか? 早く行きなさい」と冷たい顔に戻ってぴしゃりと言った。
背後で音を立ててドアが閉まり、空気が遮断される。
ソレイユは知らなかったのだが、グラス・ノワール内部は高度に自動化されていた。一日のスケジュールは厳密に管理されており、昼は労働、夜は就寝。日に二度の食事と週に一度の風呂。時間帯によって入れる場所が決まっていて、扉は自動で施錠・解錠される。彼が気絶している間に、首元に極小のチップが埋め込まれていた。それで囚人の居場所をモニタする仕組みらしい。当然、規定の時間に規定の場所にいなければ罰する必要があるわけで、とあれば首元のチップが違反者に対し何かしら作用するのだろうが、詳しいことは聞かされなかった。
アナウンスに従っていくつかの階段と廊下を抜けると独房があった。トイレしか家具のない3メートル四方の部屋。すり切れたタオルケットが置かれている。奥の壁に明かり取りの窓が2つ開いているが、どちらも柵が設けられている上に小さい。廊下との境界を区切る壁は上半分が頑丈な鉄柵になっていて、人目を遮る役目はほとんど果たしていなかった。
だが今、ソレイユにとって、部屋の造りなどはどうでも良かった。疲れて床に座り込むふりをして、さりげなく壁際に寄る。
『部屋の隅、コンクリートの割れ目を確認しなさい』
去り際にアドミンが残した言葉通り、床には片腕が突っ込める程度のひび割れがあった。外の正面にカメラがあるので、身体で隠しながらさりげなく中をのぞく。コンクリートの隙間に、確かに金色の反射が見えていた。
消灯時間を過ぎ、部屋が暗くなってから指先でたぐり寄せる。月光にきらめくそれは、彼の私物のなかで一番大切なものである、太陽を象ったイヤリングだった。
ソレイユは安堵の溜息をついた。
*
グラス・ノワールでの日々は思ったほど悪くはなかった。
食事のメニューが単調かつ少量なのは少し
ある日、明らかに機嫌が悪そうな相手に絡まれ、気がつくと頬を腫らせて床に転がっていた。何てことない言葉の応酬のつもりが相手の気に触っていたらしい。その頃にはすでに何人か友人ができていたこともあり、取り合ってもらって最終的には和睦を結んだのだが、似たようなことを何度か繰り返した。
その度に「ナンバー27、きみ、相手を選んで話しかけた方が良いよ」と苦笑されながら、「なんかおかしいな」と頭をかいていた。
しばらくして理由が分かった。
「あぁ……そうか。止められてたんだ、ぼく」
本当に危険な真似をする直前には、たいてい、彼女が静止してくれたのだ。
そういえば塔の上の小部屋に閉じ込められていたときにも、命綱なしで窓の外に出ようとしたのを全力で止められた覚えがある。何となく自分だけは危険なことをしても助かるような、そんな全能感に近いものを抱いていた理由は、身近に見張ってくれる相手がいたからなのかもしれない。
そんな経緯で自制することを学んだ。
意識して観察すれば、今は話しかけられたくないというサインを出していることが分かる。ソレイユは持ち前の人懐こさを生かして彼らとコミュニケーションを交わしながら、新しい生活に急速に馴染んでいった。
出られる目処もないままに牢獄で暮らしている人々、という言葉からソレイユはもっとやさぐれた世界を想像していたのだが、意外にも囚人たちは気さくで優しく、制限された生活の中で彼らなりの秩序を作っているようだった。老若男女が年齢や性別の隔てなく助け合い、順番を譲り合い、備品を融通しあっていた。
入牢して七日を数える頃、ナンバー28の囚人がやってくるとアナウンスされた。
この頃になるとソレイユは、アナウンスの音声が変声器を通したアドミンの声であると気づいていた。声は加工されていても、話し方の癖や言葉の切り方に個性が出るものだ。思ったよりもグラス・ノワールでは、システム管理に人員が割かれていないのかもしれない。
新しく入牢した彼はソレイユと同様、アナウンスに従ってやってきた。夕食時間が終わり、自分の独房で寝転がっていた彼は、ふと上半身を起こして柵から外を見た。何のことはない、新しくやってくる同居人の顔を知ろうとしたのだ。
先に気づいたのは相手のほうだった。
「お前は――」
柵ごしに視線がぶつかる。口をぽかんと開けたラムは、沈黙ののちに数歩後ずさり、はは、と乾いた笑いを零した。
「なんだお前。俺の幻覚か?」
ソレイユは無言のままラムを見つめ返した。服を替えて髪を結んだ程度で彼の目が欺けるとは思えない、と冷静に考えながら、この可能性を検討していなかった自分を悔しく思う。そう、彼は他ならぬソレイユを殺した罪で、統一機関から追放されたのだ。言わずもがなソレイユがお仕着せた罪だ。
しばらくまじまじとこちらを見つめていたラムは、「そうか、そういうことか」と何かを理解したように呟き、暗い笑みを残して独房に消えた。
翌朝、顔を洗っていると「おい」とカメラの死角で声をかけられた。
「……声も拾われますよ」
ソレイユが顔を上げないまま呟くと、「聞かせるために言っているんだ」と声のトーンを高めて言った。
「俺の罪状がお前のでっち上げだったと、分かってもらう必要がある」
「――貴方がぼくたちを塔の上に幽閉したのは事実では?」
「だから何だ? それは罪でも何でもない。俺に課されたのはソレイユ・バレンシアを殺した罪だけだ」
「今は罪に問われてなくたって、すぐ明るみに出ますよ」
ソレイユは冷静に言葉を返しながら、内心ではかなり焦りを覚えていた。自分でも気づかないうちに肩に力がこもっている。2人の周りに人だかりができて、いきなり勃発した言い争いを興味深そうに眺めていた。
そのとき天井のスピーカーからバチッと音がして、雑音と共に「諍いは控えてください」と加工音声が言う。ラムはその声にはっと振り返り、天井に向かい吠えた。
「聞いてくれ
「自身の罪状について問うことはできません。ナンバー28、諍いは控えてください」
「俺は減刑しろと言ってるんじゃない。こいつは俺が殺したことになっているソレイユ・バレンシアだろう! その確認もできないのか?」
「確認できません。諍いは控えてください」
「ふざけるなっ――」
ラムが血相を変えて怒りを爆発させようとした瞬間、彼は目に見えない何かに突き飛ばされたように膝をついた。首元を抑え、額には脂汗を浮かべている。何人かが彼に駆け寄った。ソレイユは天井を仰ぎ、スピーカーに話しかける。
「アドミン、ちょっと待って――」
「朝食は2分後です。早急に移動してください」
再び、バチッと音を立てて放送が切られる。ラムは荒い息を吐きながら、「電流を流された」と呟いた。入牢時に体内に仕込まれたチップか、と思い当たる。ラムのようにアナウンスに従わない者への懲罰として機能しているようだ。ソレイユが葛藤しながらもラムの隣に膝をつくと、彼は憎々しげな目で呟いた。
「どうやら死んだ者が勝つゲームだったらしいな」
その皮肉な口調を聞き流して、ソレイユは彼を助け起こした。宿敵だろうが何だろうが、グラス・ノワールの同居人を助けない選択肢はなかった。いくらもしないうちに、アドミンの見ている前で言い争うのは損でしかないと悟り、2人はひとまず休戦協定を結んだ。
「てかさ、別にもう上司じゃないし、敬ってやる必要もないよね」
そう言ってソレイユは雑な口調に切り替えた。「お前から敬意を感じたことは一瞬たりともない」とラムが冷たく切り返すと、周囲がどっと沸いた。先日の一悶着はほとんどの囚人に見られていたので、一体どうしたのだと根掘り葉掘り聞かれ、ソレイユは隠し通すのを諦めて自分の身分やラムとの関係について明かした。
成り行き上、隠しようがなかったとはいえ、出自について話すのは違反行為なので、アドミンに叱られるかな、と思ったが彼女は不干渉を貫いていた。
ソレイユとラムは、お互い自制することを選んだとはいえ和解したと言うにはほど遠く、緊張感を伴った2人の関係はグラス・ノワール内部で面白がられた。些細なことで2人が衝突して皮肉の応酬を交わし、それをはやし立てるのは囚人のひとつの娯楽として見なされるようになっていった。
冬が近づくころ、何だか変だな、と思った。
食事の量が減っているし、風呂のお湯は妙に冷たく、気温が下がっていくにも関わらず暖房の使えない日が増えた。身体の弱い者に食事を分けたり、ブランケットを貸してやったりしたが、生活に必要な資源が絶対的に不足しているのは如何ともしがたい。
寒波に耐えきれず、老年の囚人がひとり亡くなった。
その頃からだんだん、おかしいぞ、と誰もが気づき始めた。