chapitre66. 決意
文字数 6,436文字
身体が重たく、肌は火照っているのに妙に寒い。脱臼の応急処置を受けたのか、左腕が胴体ごとギプスで固定されていた。まだ
受け取った水を飲み下すと、べたつくような嫌な味がしたので「これ、ホントに水?」と聞くと、パイプ椅子に座った彼は「体調が悪いときは味覚が狂うもんだよ」と言って唇のはしを上に持ち上げた。
「左肩がぶっ壊れてるくせにヘラヘラ笑う、アルコールと胃液の匂いがする気味の悪い人間が来た、って仲間が言うから何事かと思ったら知り合いなんだからさ、
「――カノン君がここにいるほうが驚きだけど」
「そりゃお互い様だよ」
冗談めかして笑ったあと、カノンは顔の微笑みを消した。薄暗いなかでも分かる、油断なく光る目がソレイユを見据えている。
「何を願ってこんな場所までやってきた?」
「ええとね……」
ようやく自分がここにいる経緯を思い出して、ソレイユは寝台に熱っぽい身体を倒した。綺麗に体裁の整えられていた居住区域の、無地の壁紙が貼られたものとは似ても似つかない、金属板のひどく無骨な天井が目に映る。
「お酒飲んで、酔っ払って倒れちゃった」
「っていう建前でしょ?」
カノンは椅子の背にもたれて笑った。すぐにネタを明かすつもりではあったものの、予想以上にあっさりと見抜かれてしまい、ソレイユは返事の代わりに唇を尖らせる。
「あんた、アルコールほとんど受け付けない体質みたいだからね。今後も飲まない方が良いよ」
「あ、そうなの。道理で回りが早いと思った」
「飲んだのは初めてかい」
「うん。グラス・ノワールに入ったときまだ19だったから、機会がなくてね」
「そうかい。で、俺の質問に答えて欲しいな」
「ぼくの方も色々聞きたいんだけどなぁ……」
ぼやきながらも、ソレイユは自分がここに来るに至った経緯を正直に話した。グラス・ノワールを脱獄したところまでは、どういう理由か分からないが既に知られていたようで「そこの説明は良いよ」と止められた。
熱っぽいためか、舌が上手く回らないなか懸命に説明すると、カノンが視界の外で微笑む気配があった。
「“
「じゃなくてシェルね。今は」
名前を訂正してから「カノン君こそ」と話の矛先を彼に向ける。
「どうして地下にいるの。それも、明らかにここ、ぼくがいた居住区域とは違うとこだよね?」
ソレイユは首を持ち上げて部屋を見回した。
扉に小さい金属プレートがはめ込んであり、C-11-34と記されている。二番目の数字は縦方向の階層を表しているようなので、少なくとも第28層からは出たようだが、その番号が指す具体的な場所まではまだ分からない。
しかし、部屋の雰囲気からして居住区域とは全く異なっていた。無骨で飾りっ気がなく、不潔感こそないが人間が生活する場所にも見えない。配管が露出している壁といい、工場の一画のような雰囲気だ。
「俺かい。俺はね、ひとりでも多く助けたくて動いてる」
「曖昧だね?」
「これ以上聞いたら、シェル君も協力してもらうか、記憶を消すかの二択になるよ」
「あぁ……やっぱり人の記憶に手を出すくらいのことはしてるんだな。いや、それはこの際、別にいい。元研修生のよしみで、協力すると言いたいところだけど。ひとつ聞きたいな、その助けたい人たちってのは何人いる?」
「およそ18万だね」
「地上も地下もってことね。じゃあぼくと目的は同じだ」
ソレイユは気怠さの残る半身を起こして、固定されていない方の右手を、手のひらを上に向けてカノンに差し出した。余裕のある笑みを浮かべたまま動かないカノンに、まっすぐ言葉を紡ぐ。
「協力させてよ。ぼくにも」
「――成功する保障はないよ」
「それは何でもそうでしょ?」
「安全じゃないって言ってるんだよ」
「良いよ。地下に来た時点で危険なのは分かってたことだ、ぼくは少しでも可能性のありそうな方を目指す」
「今ならまだ、居住区域に戻してやることもできる」
「あそこが嫌だから逃げ出したんだ」
あまり気乗りしていない様子のカノンの言葉に、きっぱりと一つ一つ答えていく。それからふと、不思議なことに気がついて「あのさぁ」と逆に聞き返した。
「ぼくを居住区域に戻すなら勝手にすれば良かったんだよ。わざわざカノン君が姿を見せたってことは、多少なりともぼくを味方に付けようと思ったんじゃないの。違うの? なんでそんな、回りくどい聞き方をするのさ」
「――まあね。正直、味方が増えるのは悪いことじゃないよ、けど、俺たちには記憶操作の技術がある。この会話を全部なかったことにして、あんたを第28層に戻すのだってできる。俺は“
「友達として?」
ソレイユが口の形だけで笑うと、「そう、友人として」とカノンも目を逸らして微笑んだ。ソレイユは差し出していた右手を一度引き戻して、なるほど、と呟く。
真意をなかなか伝えようとしない言葉と同様、見ている先を隠すかのように揺れるカノンの瞳に、真正面から視線をぶつけた。こちらを見てくれない相手と話すには、まず自分から視線を向けることが何よりも必要だ。
「決意のあり方を疑われてるなら、ずいぶん今更な話だ。ぼくはあの日、カノン君がくれた毒か薬かも分からない錠剤を、きみの言葉一つで信じて飲み込んだんだよ。たった一人の友達を守るためだけに」
「ちゃんと効いたでしょ?」
「うん、完璧にね。あの時はありがとう」
言ってから「今はその話じゃなくて」と口を尖らせる。話をあっちこっちに持って行こうとするのは彼の癖なのかもしれないが、今に限っては少し面倒だ。
「ぼくは、カノン君の味方になりたいって言ってるんだ。これじゃ不足?」
「……分かったよ」
カノンは眉尻を少し下げ、溜息をついて立ち上がった。部屋の端にあったテーブルを引き寄せ、そこに錠剤と水筒を置いた。
「じゃあ、まずは体調を何とかしてもらおう。肩はとりあえず処置したけどさ、あんた、気づいてないかもしれないけど、相当ひどい熱だよ」
あと、俺以外が訪ねてきても扉は開けちゃダメだよ。
そう言ってカノンは部屋を出て行き、ソレイユは立ち上がって内鍵を施錠した。薬を飲んで寝台に寝転がるが、やはり上の居住区域に比べて快適とは言い難い。熱が出ているためか、部屋の床に落ちていた薄い毛布をかぶってもなお寒く、ソレイユはつま先を引き寄せて小さく身体を縮めた。グラス・ノワールの独房よりはずいぶん良い寝床のはずなのに、第28層居住区域での柔らかいマットレスに慣れたせいで苦痛に感じる。
だが、こんなことで文句を言っていたら、カノンに笑われてしまう。ソレイユは毛布を被りなおし、目をきつく閉じて体力の回復に努めた。吐く息が熱く、頭の芯がじわりと濡れたように痛んだ。疲労やら心労やら慣れないアルコールが重なって体調を崩したのだろう、と考える間もなく、暗闇に吸い込まれるように眠りに落ちた。
寒さや痛みで目覚めてはまた眠ることを繰り返して、半日ほど経っただろうか。
コツン、という音で目を覚ました。
目をこすりながらテーブルの水を取って飲むと、また音がする。扉を誰かが叩いているようだが、カノンが開けないように言っていたなと思いつつ、ソレイユは扉の方に呼びかけた。熱が引き、楽になってきた身体を起こす。
「どちらさま?」
「――地上の来た人?」
扉越しに、文法が少しおかしい声が話しかけてくる。ここで嘘をついてもすぐ暴かれるな、と直感して「そうだよ」と答えてみせる。
「ひどく酔っ払って、気づいたらここにいたんだ」
用意していた言い訳を口にすると、扉の向こうから笑い声が聞こえた。会話をしているのは一人だが、もう何人か一緒にいるようだ。何を目的に話しかけてきたのか分からないが、言葉にあまり慣れていない印象を受けるあたり、おそらくあちらは地上と共通語を異にする「地底の人」なのだろう。“
「何。名前は」
「ぼくはシェル。君は?」
「グライン。扉を開けようよ」
立ち上がって鍵を回しそうになって、すんでのところでカノンが開けないように言っていたことを思い出す。危ない、と内心で焦りながらソレイユは座り直して「ごめんね」と答える。
「開けられないんだ。約束したから」
「話そう。シェル、僕と友達になろう」
「――それはとても嬉しいけど」
言いながら、ソレイユは不吉なものを感じて扉から遠ざかる。
地上に踏みつけられ続け、恨んでいるはずの“
でも、だったら。
「グライン。君さ、一人じゃないだろ。なんで仲間の人は名乗らないの?」
扉がある場所とは対角の、部屋の隅を陣取ってソレイユが問いかけると、扉越しにも関わらず、相手が表情を変えたのが見える気がした。
カチ、と金属と金属がぶつかるような音がした直後、短く硬い音が連続して響く。ほぼ反射的に身を屈めたソレイユは、それが銃声であること、彼らが扉越しに発砲したことに気づく。銃弾は扉の金属板を突き破って、いくつかは奥の壁に刺さって煙を立てていた。ソレイユがあのまま扉の前にいればひとたまりもなかっただろう。
即座にテーブルを倒してその影に入る。
扉の向こうから聞こえる声は聞き取れないが、やけに高い笑い声が混じっていた。
友達になりたいなんて最初から嘘で、彼らは単に地上の人間をだまし、痛めつけて楽しみたかったのだろう。
テーブルを盾にしながら、部屋の様子を伺う。幸いというべきか扉はまだ壊れてはいなかったが、彼らが発砲し続けたら吹き飛ぶのも時間の問題だ。心の中で舌打ちしながら、音を立てないように扉のそばに寄った。彼らが部屋に踏み込んできたら、武器を持っていない上に片腕を負傷しているソレイユが勝てる見込みはない。一瞬の隙を突いて逃げ出すしかない。
なにか
ソレイユがまだ生きているか、の相談かもしれない。彼らがこのまま立ち去ってくれたら楽なのだが、そう上手くはいかないだろう。ソレイユはテーブルの影で息を詰めた。ポケットの奥に押し込んだイヤリングの形を触って確かめ、勇気を奮い起こす。
彼らはまた撃ってくるだろう。
そして扉が壊れ、雪崩れ込んできた瞬間を付いて逃げる。
話し合いが終わった雰囲気と共に、ガシャンという音がした。銃のマガジンを交換した音だろう。また来るぞ、とソレイユが口元を引いた瞬間、全く予期していなかった方角から銃声がした。
誰かが息を呑む音。
泥の塊が地面に落ちるような音。
「出てこい!」
叫び声。
それがカノンの声だと認識した瞬間に内鍵をひねり、目の前にいた人影をテーブルの天板で押しのけて、ソレイユは声の聞こえたほうに飛び出した。何かわめき立てているが、振り向く暇もない。
「こっちだ、走れ!」
カノンの言うまま、暗い廊下を駆け抜ける。身長が違うので歩幅に差があり、また病み上がりなのもあって体力が落ちているためか、度々引き離されそうになりながらも何とかついていく。曲がり角を左右に何度も曲がり、階段を駆け上がって、身長ほどの高さを飛び降りた。太い柱のある部屋に辿りつくと、カノンは脇のパネルに手を当てた。ピコンと軽快な音がした後に、重たい音を立てて分厚い扉が閉まる。
「無事かい」
「……さっきの子、撃ったんだね」
金属質の壁に寄りかかって、荒れた息を整えながらソレイユが呟くと「ああ」と顔を背けたカノンが頷く。
「じゃなきゃあんたが死んでたでしょ」
「うん、ありがとう。でもさ、今こんなことを言って申し訳ないんだけど、ひとりでも多く守る、って言ったのは――」
「撃たなきゃ確実にあんたが死んだ。撃ったら、奴らの誰かがひとり死ぬかもしれなかった――俺は期待値の高い方を取った」
「……そんな」
言っている意味は分かるのに、嫌だ、という感情が先んじてこみ上げて、ソレイユは目を見開いた。カノンは溜息をついて、ソレイユの足下に拳銃を投げ出した。
「こういうことだ。俺が言ってる決意ってのは、自分が傷つく覚悟だけじゃない、誰かを傷つける覚悟でもあるんだよ。あんたが今俺に向けてるような、非難の目に晒されたって志を曲げない、そういう決意だ。あんたなんかに、できるかよ」
「……ぼくは」
「そんな
自分より頭ひとつ分以上小さいソレイユの襟元を片手で掴み上げて、目の前まで顔を近づけたカノンは吠えるように怒鳴った。鼓膜がビリビリと揺らされ、首元が締め上げられる。圧倒的に体格差があり、ほとんど身動きが取れないが、それでも視線を逸らさずにカノンの顔をまっすぐ見据えた。
「話し合いで全てが解決すると思ってるような奴に! 全ての人間が善意に満ちてると思ってるような、あんたみたいな奴に、この銃が拾えるか。上の居住区域でお
「――じゃあカノン君は嫌じゃないって言うのか」
カノンの言い分を聞いていたソレイユは、襟を掴み上げているカノンの手を無事な方の右手で掴み、引き剥がそうと力を込めた。薄笑いの虚飾をそぎ落としたカノンの瞳をまっすぐのぞき込んで叫ぶ。
「きみは楽しくてグラインを撃ったのか。違うだろ、誰かを傷つけるのが嫌だと思って何が悪いんだ! その感情まで捨てたら、カノン君、きみが人間である意味がなくなってしまうだろ」
「日和った数瞬の遅れが命取りになるんだ」
「ぼくがさっき一瞬でも迷ったか」
ソレイユが睨み返すと、カノンは溜息をついてその襟元から手を離した。小さくよろめいたソレイユに背を向けて「銃を拾え」と呟く。
言われたとおりに銃を拾うと、カノンは柱の裏に回って、そこにあったパネルに手を当てた。柱の壁面が別れて横にスライドし、空洞になっている内面が見える。太い柱に見えたのは昇降装置だったのだ、と遅れて気づく。
カノンは無言で乗り込み、ソレイユも彼に従った。
とげとげしい沈黙のなか、昇降装置が降下を始める。背中を向けたままカノンがぽつりと「悪かったね」と呟いた。
「あんたみたいに、綺麗な世界を信じている人間には、できればそのままでいて欲しかった。白い手のまま生きていて欲しかったんだよ」
「まるで人間の本質が汚物だと思ってるような言い方だね」
ソレイユが肩をすくめると「そういうとこだよ」と言ってカノンは振り返り、その横顔がかすかに笑った。