chapitre122. 太陽の声
文字数 5,103文字
感電したのだ――と気がつく。剥き出しの配線にでも触れてしまったのだろうかと、そう思考している間にも意識が白く塗りつぶされていった。
「リュンヌ!」
エリザの遠い叫びと前後して、硬直した身体を何かが突き飛ばす。伸ばしたままの形で動かせない指先が、冷たい床に触れた。駆け寄ってきたエリザに、触っちゃダメです、と伝えようとしたが、唇が動かせない。
視界がぐるりと回って、暗闇に変わった。
身体を包んでいる服や、ハイバネイト・シティ特有の乾いた空気、吹き付ける冷たい風と痛む身体、そういった感覚がどんどん抜け落ちていく。肉体を捨てて心だけが暗闇に落ちていく、その感覚は眠りに落ちる瞬間に似ていた。
だけど奇妙なのは――思考だけは、どこまでも明晰に、自分自身を捉えていたことだった。消えかけた自分を認識している自分がいる、そんな矛盾した状況が続き、だんだんと不思議に思い始めた。
――これは何だ?
はっきりと形のある違和感が寄り集まって、真っ白い光球になる。無限に広がる銀河を背景に、どんなものよりも明るく光り輝いて、こちらに手を伸ばしているような気がした。
その光に触れようとした。
視界が開ける。
グレーを基調とした、僅かに濃淡のある空間。光をまっすぐに跳ね返す、金属質な壁。空気を揺らす微細動――誰かと誰かの交わす声。視界を遮って動く、影のようなもの。
何かが見えている。
ということは目があり、目があるということは身体もあるかもしれない。指があったはずの場所に狙いを定めて、ぐっと力を込めてみる。関節が軋みながらも動き、形を変えて曲がったのが分かる。ばらばらに動く5本の指を知覚する。
手がある。
身体がある。
気がついた瞬間、パズルのピースが
視界のなかにある影のひとつがこちらに近づいてきて、手首に触れた。
見開いた瞳が見つめている。
「ねえ」
「今、ちょっと動いたかも」
「見間違いじゃないの」
「待って」
その眼差しを知っている気がした。
「ほら、今」
「神経の反射とかじゃない?」
「いや、だが確かに――」
交わされる声の響きを覚えている気がした。
「何というか、顔立ちが違う」
「え、意識が戻ったのかな」
「エリザ? いや」
期待と恐怖が混ざり合った、傷ついた表情。
それがこちらに手を伸ばして、手のひらが頬に触れた。
「……ルナ?」
その名前を。
ずっと探していた、大切な名前を。
体温を知っていると気がついた瞬間に感覚は砕け散り、暗闇に戻った。湖の底のような重たい闇に沈んでいく身体を、誰かが掴んで揺する。
全身が叩かれたように痛い。
目を開けると、エリザがのぞき込んでいた。切羽詰まった叫び声で、大丈夫、と問われる。痺れた感覚の残る首を動かして頷き返すと、エリザは安堵の溜息をついた。
「今のは、何だったんでしょう」
「リュンヌ、D・フライヤの意志に逆らっちゃ駄目よ。本当に危険すぎるから」
「あ――冷凍室は、どうなりましたか?」
問いかけると、エリザは静かに首を振った。隣に膝を付いていた彼女は立ち上がって、冷凍室の扉がロンガに見えるよう、場所を空けてくれた。ロンガが必死の思いでこじ開けようとした分厚い扉は、ぴったりと閉じている。激しく吹き付けた雪のためだろう、小さいガラス窓は真っ白に染まっていた。
身体から熱が抜けていった。
あの向こうはもう、氷点下に閉ざされてしまったのだ。裸同然で放り出された人たちが、生き残れるはずもない。
「見ない方が良いと思うわ」
「そう、ですか……」
「貴女のせいじゃない。それに、D・フライヤの殺し方にしては、苦しまなかった方よ。リュンヌ、気に病まないでね」
「――ええ」
酷く重たい身体を床に預けたまま、視界を上下左右に動かす。もう見慣れつつある構造の、ハイバネイト・シティ居住区域の通路だ。まだ空気は冷たく凍えていて、むき出しの腕に鳥肌がたっていた。エリザと、彼女の従者である三体のロボットが、ロンガを囲んで見下ろしている。そのうちの一体、カシスの表面を覆うセラミックスが少し傷ついているのは、感電したロンガを助けたためだろうか。
分枝世界だ。
エリザと機械の従者とロンガのみが滞在する、深い雪に閉ざされた地下の居住区域だ。
この場所こそが、現実。
なのに、おかしな幻覚を見た。
「夢を見たんです」
天井を眺めたまま、ロンガは呟く。目尻から涙が一筋、こぼれ落ちた。
「懐かしい友人に出会う夢を」
「……そう」
エリザは悲しげに眉をひそめ、子供にするようにロンガの頭を撫でた。
「少し、休むと良いわ」
優しい声と共に、機械の腕がロンガを抱えた。
*
また、夢を見る。
夢の中で自分はエリザになっていて、あの懐かしいハイバネイト・シティの、最下層の部屋にいた。裸足のまま冷たい床に降りて、小高いステージに巡らされた階段を降りる。ゆらゆらと身体を揺らしながら歩いて、高い天井を見上げた。円筒形の壁面に、窓が綺麗に整列している。
その向こうに、大切な友人の顔を見つけた。
名前を呼んでみると、彼が目を見開くのが分かった。だけど手を伸ばすと、その姿は陽炎のように消えてしまう。
窓をじっと見つめた。
祈れば、また彼は姿を見せてくれるだろうか。見様見真似で両手を組んでみると、背後から声をかけられた。
――ルナ、なの?
振り向く。
オレンジ色の髪を揺らした青年が、不安定な光の下に立っていた。目からこぼれる滴がまるで宝石みたいに見えた。雲を踏んでいるように覚束ない足取りで彼に向かうと、躊躇うように伸ばした両手が、身体を支えてくれる。自分だけがそう呼びかける、彼の愛称を呟くと、蜂蜜色の長い髪ごと抱きしめられた。
ごめんね、と言われた。
ありがとう、と言われた。
色々な話をして、笑い合った。今までのことも、これからのことも、彼に言いたいことはいくらでもあった。彼が隣で名前を呼んでくれることが、涙が出るほど嬉しくて、笑ってしまうほど寂しかった。
だって――どうせ、夢だ。
この暖かさだって、懐かしい匂いだって、抱きしめる感触だって、柔らかい毛布の見せてくれた幻覚に決まっている。だけどここは、太陽の光が差さない常闇のハイバネイト・シティ。なら、朝なんて来なくても良いから、永遠にこの時間が続いてくれないだろうか。
――ソル、
眠たそうに目を擦った彼の頭がゆっくりと傾いて、オレンジ色の髪が肩に触れる直前ではっと目を覚ます。ごめんね、と微笑んだ彼の右耳を見て、ふと違和感に気がついた。
――あのイヤリングは……
――それは……ルナに渡したじゃない
――え?
彼の答えに、目を見開いた。
ガラスが砕け散るような感覚と共に、世界を覆い隠す何かが壊れる。その向こう側にいた彼の視線が、空気以外の何ものにも阻まれず、ここまで届いていた。
そこで身体が突然重たくなって、床に崩れ落ちる。支えてくれた手の感覚が、もっと柔らかくて平らなものに変わっていき、体温は遠ざかっていく。目を見開くと、人工的な白い光が満ちた部屋で、ひとり眠っていた。
焼け付くような体温を抱えていた。
夢から覚めただけなのに、妙な違和感がある。
ロンガはマットレスに横向きに倒れたまま、ベッドサイドのテーブルに置いていた一対のイヤリングをつまみ上げて、目の前に持ってきた。金色の太陽と銀色の月が、チェーンの先で揺れる。
ひとつ、確信できることがあった。
今、夢の中で見た景色は、
だって彼は、あれだけ大切にしてくれていた太陽のイヤリングを付けていなかった。その理由が、太陽のイヤリングが
また、あの場所に戻れる?
心臓が大きく脈打った。
寝台に手をついて勢いよく起き上がる。通路に飛び出して食堂に向かうと、ソファに腰掛けて本を読んでいるエリザと出くわした。
「あら、久しぶり」
駆け寄ったロンガに気がついて、エリザは膝掛けの下から出した片手を振ってみせる。その正面の椅子を引いて座ると、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「何かあったのね?」
「ええ……あの、少し話しても良いですか」
「勿論」
いつかのように微笑んで、エリザはロンガの手を取った。出会ったときに比べて少しだけ関節の目立つようになった手が、手のひらを柔らかく包み込む。
「何だって聞くわ。貴女は私の、大切な人だもの」
エリザは真剣に相槌を打ちながら、ロンガの荒唐無稽にも思える話を聞いていた。従順なシトロンの天板から珈琲カップを受け取って口に運び、あのね、と真剣な表情で言う。
「貴女の祈りが……白銀の瞳を辿り5次元を旅して、ラ・ロシェル語圏のエリザに宿ったのかもしれないわ」
「私の、ただの夢である可能性は?」
「勿論あるわよ」
エリザは小さく肩を竦める。
「ただ――かつては
「……じゃあ」
張りつめていた緊張がふわりと緩んで、その隙間から涙がこぼれ落ちた。
「あの時、隣にいたのは、本物の――」
「リュンヌのお友達かもしれないわね」
「――エリザ!」
ロンガは思わず腰を浮かせて、エリザの手を両手で包むように握った。白銀色の目をぱちぱちと瞬かせるエリザの顔を、祈るような思いでじっと見つめる。
「お願いです。少しの間だけ、貴女の身体を私に貸してください」
もう一度、あの世界に戻れるのなら。
大切な人がたくさんいる世界の続きが見られるなら、どんな方法だって良い。たとえロンガ自身として認められなくても良い、あの愛しくて壊れかけの世界に、この心と生命だけでも連れて帰ることができるなら。
奇跡だって超現実だって、何だって頼ってやる。
「お願いします」
もう一度繰り返すと、エリザが苦笑してロンガの手を握り返した。
「ダメだなんて言うわけないでしょう」
「……良いんですか?」
「ええ。あのね、私――きっと貴女が思っている以上に、貴女のことが好きよ。大切なお友達で、たったひとりの娘だもの。ほら、そんな顔しないで」
エリザは白いハンカチを取り出して、ロンガの頬に伝った涙を拭いてくれる。シフォンのワンピースの裾を払って立ち上がったかと思うと、決して強くない力に柔らかく抱きしめられた。お菓子の甘い匂いがふわりと漂う。
「どうか使ってあげて。あの世界の、死んでしまった
*
片手では一対のイヤリングを握りしめて、もう片方の手はエリザが握ってくれていた。意識が遠くなっていき、鼓動の間隔が延びていく。身体は熱を失い、感覚は溶けていく。輪郭だけを残したエリザの表情が、優しく微笑んだ。
両目を閉じて、祈る。
揺れ動く心が世界の形を踏み越えて、愛した場所へ帰れるように、大切な人たちの姿を思い描く。夜空の月に手を伸ばすように、あるいは、草木が太陽を目指すように――志した向きへ、形が与える限界を超えて、形のない心が伸びていく。
「行ってらっしゃい。
優しい声がそう告げたのを最後に、ロンガの意識は人間の形を超え、暗闇の宇宙へ彷徨い出した。帰り着くべき太陽系を探して、果てなき銀河を駆け抜け、彗星とすれ違い、小惑星の海をくぐり抜けて、そして――
この名前を覚えている人のいる世界へと。