コモン・エラの終焉
文字数 7,248文字
空間を規定する次元が三つ、時間を規定する次元が一つ、そして可能性――いわゆる世界の分枝を規定する次元が一つ。このうち人間が体感できるのは、せいぜい空間と時間の四次元であり、可能性軸の存在を知覚するには、何らかの超越的存在の力を借りる必要がある。
五次元に住まう種族――便宜上、自律思考する存在を生命になぞらえて考え、似た特性を持つものを種族と呼ぶこととする――のうち、人間にD・フライヤだとかビヨンドだとか呼ばれている存在は、五次元宇宙に漂う
しかし、そんな彼らにも限界があった。
すでに為されてしまった因果を、なかったことにはできない――という制約である。もしも未来をやり直したいと考えた場合、超越者にできることはただひとつ。
時間を遡り、過去の一地点を起点として、新しく
そのため、新しく枝分かれを作る場合、超越者は為されていく因果が既存の歴史をなぞらないように、ときには強引な手段を使ってでも介入しなければならない。太陽系第三惑星の、北半球にある巨大な大陸の西端にて、宇宙歴にして百三十八億年と少し後を起点として分岐した世界の場合、後世で支配者となる者たちをひとり残さず殺す――という手段で、その目的は達成された。
もちろん支配者なき世界が繁栄するとは思えないが、それは超越者の目的には何の影響も及ぼさない、ごく些細な副作用であった。
そして、滅びが確約された世界にて。
五次元宇宙を漂っていた矮小な生命、形を持たない《意識》は、時空を超越した旅の果てに自分自身を見つけて、在るべき身体のなかに帰っていった。
***
黒い幕が上がる。
白い世界が見える。
外部に物理的に存在している世界のなかで、柔らかい板状の物体に包まれている存在。重力と抗力の均衡のなかにある、概形としては細長い直方体だが、内外ともに複雑な形状をした、重さ五十キロの物体。目を覚ました《意識》は、その物体を、意のままに操れる己の実体として認識した。
中央付近で折り曲げる。
見えていた世界が、それに応じて回転する。
折り曲げた点で二分される実体は、より《意識》が存在している側と、《意識》とはやや遠い側に分けて考えることができた。その、遠い側のほうをさらに半分に曲げて引き寄せて、重力が赴くまま下に降ろす。
そこに力を込めると、さっきまで底面に水平だった実体が、垂直になった。どうも重力と同じ向きに実体を向けたほうが、移動がしやすいようだ。《意識》はそう考えて、底面と垂直に実体を保ったまま、実体の「《意識》から遠いほうの」半分、今となっては実体の下半分を使って、視界が向いている方角に進む。
その先に壁があった。
《意識》がいま宿っているのと同じ、実体だ。形のない《意識》と違って、形がある実体同士は同じ座標に存在できないので、壁は実体を拒み、《意識》は壁に寄りかかったまま、次はどうしようと途方にくれていた。
そのときだった。
壁がぐっと向こうに回転して、その向こうから別の何かがやってくる。《意識》よりも僅かに小さく、相似形の立体がこちらに近づく。細長い二本のパーツが本体から分離して、《意識》を抱きしめた。
体温。
絶対零度の宇宙では知り得なかった穏やかな熱が《意識》を抱擁し、実体同士が触れあった部分から、熱が広がっていく。
「おかえりなさい……リュンヌ」
声が言う。
限りなく真空に近い宇宙では響かなかった音が《意識》に語りかけ、意味を持った音の連なりによって、名前を持たなかった《意識》を定義してみせる。
そして《意識》は、自己を思い出す。
「あ、あぁ……」
全てを思い出した彼女は、自分を抱きしめている相手に腕を回して、肺が騒ぐまま、脳が訴えるまま、その瞳が枯れるほど涙をこぼした。
「ど、どうしてっ――」
途切れ途切れの息の隙間に、遠い世界から持ち帰った後悔を、言葉にして吐き出していく。
「どうして……エリザ、どうして私は、あんなことしか、できなかったんでしょう。どうして、貴女のことは、こうして抱きしめられるのに、あの人のことはっ……あんな風にしか、守ろうと、いえ、守ることすら、できたか分からない――」
「……リュンヌ」
その頭を撫でて、エリザは目を細めた。
「私は、彼女ではない。だから、何も言えないわ」
細めた目の縁から、涙がこぼれ落ちる。
複数の並行世界に連なって存在するエリザは、人間のなかではきわめて異端な存在である。
あのエリザが、満足して死んでいったかどうか。
それは、分からない。
「分からない、けれど」
エリザは呟いた。
「でも……ひとつだけ、教えられることがある。
「……そう、ですか」
「ええ」
自分より少しだけ背の高い、遺伝情報のうえでは娘にあたる愛しい存在を、エリザは強く抱きしめ直す。その腕のなかで、彼女は小さく震えながら「良かった」と呟いた。
「リュンヌ」
名前を呼ぶ。
暖かくて柔らかくて、泣いたり怒ったり笑ったりする、雪に閉ざされた分枝世界で唯一の他人。不完全で、どちらかというと優柔不断で、なのに妙に勇敢なときもある。触れた部分と、交わした言葉以上のことは知り得ない、そんな彼女が。
「あのね、大好きなの」
胸のうちが燃えそうなほど。
全身の皮膚が溶けそうなほど。
彼女が、幼馴染の彼や、彼女の母親であるエリザに向けるのと同じくらい、身体中に溢れかえった柔らかい熱。淡く光る星のような
「大好きなのよ。だから、貴女が目覚めてくれて、本当に嬉しい」
「……エリザ」
ようやく、少し落ち着いた声で、彼女が呟いた。
「ずっと私のこと、待っていてもらって……ありがとうございます」
「そうね」
ふふ、と微笑んで、エリザは抱きしめた身体を少し離した。涙が幾筋も伝った、真っ赤な彼女の顔をのぞき込むと、彼女は少し驚いたようにまぶたを見開いた。手の甲で顔を拭って、まじまじとエリザの顔を見つめる。
「……目の色が」
「ええ」
自分の瞳を指さしながら、エリザは小さく首を傾けて見せた。
「初めて会ったときに、貴女はどちらかといえば父親に似ているけど、母親のエリザとも、ちゃんと似てる……って、言わなかったかしら?」
「……そういえば、言われました」
「そうでしょう?」
「あれは……このことを言ってたんですね」
青色の双眸が、お互いを見つめた。
***
閉ざされた地下世界にて。
エリザが与えられた時間を使い切って死ぬまでの、ほんの短い年月の間。ロンガは彼女と、友人のように、家族のように、あるいは恋人のように、ときに関係性を揺らがせながらも、常に離れることなく寄り添った。
「ねえ」
どこか悪戯っぽい声で、エリザが言う。
「貴女の髪って、どうして耳の上の房だけが長いの?」
エリザはうつ伏せの姿勢のまま、シーツに両肘をついて、微笑みながらそう問いかけた。夜明けの空を思わせる、藍色と水色を掛け合わせたような瞳が、じっとのぞき込んでいる。キャミソールの紐がずり落ちた細い腕を伸ばして、エリザの白い指がロンガの髪を掬い上げた。ロンガは額に張りついた前髪をかき上げながら「それは」と彼女に視線を合わせる。
「昔は後ろも長かったんですが、あれは……何年前になるんでしょうね。切られてしまって」
「あら、可哀想」
生まれつき癖のあるロンガの髪を、自分の頬に押し当てて、エリザが薄く目を閉じる。
「でも、どうせなら全て切り揃えてしまえば良いのに……それに、昔のことだと言うのなら、髪はまた伸びたんじゃなくて?」
「ええ、でも……あの日を忘れたくないので、定期的に整えています」
「あの日?」
「はい、大切な日なんです」
ロンガはベッドサイドテーブルに手を伸ばし、外していた一対のイヤリングをつまみ上げた。金属の経年劣化か、かなり輝きが鈍ってきた太陽と月のイヤリングが、薄明かりの下で静かに揺れる。
「ソルが、私のために
「……そう」
微かに不満げな声で呟いたかと思うと、エリザの指が視界の外に向かった。指先はそのまま、左胸から右の脇腹へ続く傷跡をゆっくりなぞる。
「やっ、ちょっと――」
神経をじかに握られたような感覚に、ロンガは思わず背筋を跳ねさせる。かつて自分で抉った心臓の傷は、今はどういうわけか、失われた部位を補うように水晶が析出している。有機的な肉体に、無機質な水晶がどう接続しているのか分からないが、そこに触られると、疼くように痛んで少しくすぐったい。
「何ですか、もう」
ロンガが尋ねると、エリザは唇を尖らせた。
「ずるいわ」
「えぇと……何がです?」
「だって、私はここで一生を終えるのに、貴女はその次を見ているんだもの」
「エリザ……」
目の奥がじわりと熱くなるのを感じて、ロンガは横たえていた上半身を起こした。
「だから、人工冬眠の装置を直そうと、そう言ったじゃないですか。あれがあれば、貴女だって未来に行ける。まだ間に合いますよ?」
今年で三十七、いや三十八歳だったか――そのくらいの年齢になるエリザの頬を両手で包み込んで、ロンガはそう問いかけたが、彼女は小さく首を振った。
「でも私は、生まれた時間から離れずに生きていたいのよ。何だかんだ言って、
「……ずいぶん我が侭ですね」
「そうね?」
「それに――酷いです」
ロンガはわざと、オーバーなくらいに眉を下げてみせた。自分のなかにある感情が、心臓を押し潰すようなもどかしさが、触れた肌の境目を乗り越えて、少しくらいは彼女にも流れ込むように。
「私の時間が、人としての枠組みを超えてしまったのを知っているくせに……それで、そんなことを言うんですから」
唇を尖らせて、ロンガは前髪をつまむ。
季節が一回りしてエリザがひとつ歳をとっても、ロンガに流れる時間は、切り揃えた前髪が少しばらついて、整えた爪先が僅かに白くなる程度。D・フライヤによって与えられた、ここから数世紀先の
今さら、恐怖などは感じない。
だが、自分の何十倍もの速度でエリザが老いていくこと、それが悲しかった。
ごめんなさいね、という囁きとともに、エリザの腕がロンガの首筋に回される。それに応えて、ロンガは彼女の、華奢で骨が少し浮いた背中を抱きしめた。
薄い布越しに、脈打つほのかな体温を感じる。その熱が失われる日まで、きっとまだ数十年はあるけれど、それはロンガの尺度からすれば決して遠い未来ではない。その時を想像して、抱きしめる腕に自然と力がこもる。
「エリザ。私は、本当は貴女にも、一緒にラピスに来て欲しいんですよ」
蜂蜜色の髪に鼻先を埋めて呟くと、エリザが頷くのが分かった。
「ええ、知っているわ」
「なのに、来てくれないんですね」
「そうね……」
微笑むような、嘆くような声で相槌を打って、エリザは身体を離した。ロンガは小さく息を吐いて、カーディガンを羽織る。どれだけ情に訴えてみたところで、エリザが自分と一緒に来る気がないのは、もう変えようがない意志のようだ。
「朝食にしましょうか」
昨日の夜に脱ぎ捨てたスリッパを爪先で引き寄せて、エリザがそう言いながら立ち上がる。スカートの裾と髪の毛がふわりと舞って、おそらくは彼女が使っているヘアオイルの、花に似た人工的な匂いが広がった。
手首に通していたゴムで、ロンガは髪をまとめる。エリザに指摘されたとおり、ロンガの髪は両耳の上の房だけが長い。なので普段は、それぞれ三つ編みにしてから、後頭部でまとめてひとつに結ぶ。だが今日は、食事の後にシャワーを浴びるつもりなので、編まないまま結んだ。
「ねえ、リュンヌ」
そんな身支度の様子を眺めていたエリザが、ふと思いついたように言った。
「今度は何ですか?」
髪をまとめ終えたロンガが、イヤリングを両耳に付けながら問い返すと、あのね、とエリザは少女のようにはにかんでみせる。
「お願いしたいことがあるの。私が死ぬまでは、髪を切らないでもらうことって……できる?」
「えっと、伸ばして欲しいということですか」
髪を指先で軽く引っ張って、問い返す。
「私は結構、今の髪型も気に入っているのですけど……変でしょうか」
「いえ、そういう意味ではないの。貴女が私と過ごしてくれた時間を、貴女の時間の尺度で残して欲しいのよ。駄目かしら?」
「そういう意味なら――いえ、良いですよ。貴女の望むとおりに」
立ち上がりながら頷くと、エリザは満足げに微笑んだ。部屋の扉がスライドして開き、白い照明と紅茶の匂いが清浄な朝の訪れを告げる。カーディガンの前ボタンを閉じながら、ロンガはエリザの後を追って通路に出た。
***
時間は、ゆったりと流れた。
「約束を守ってくれて、ありがとう」
肩を覆う程度まで伸びた髪に、エリザの指が触れる。水分を失った手の甲は小さく震えていた。かつて蜂蜜色だったエリザの髪は白銀色に変わり、波打ったシーツの間に埋もれながら広がっている。
彼女に与えられた時間が、ついに終わろうとしていた。重たく垂れ下がったまぶたの下で、涙の溜まった目元が天井を見つめる。
「夜明けまで……あと、何年だったかしら」
「三世紀と少しです」
「途方もなく、長いわね」
「そうですね……」
「ねえ」
血の気の失せた唇がゆっくりと動いて、言葉を紡ぐ。
「夜明けを待ち続けて、もしも――その時が来なかったら、貴女はどうするの。世界と世界が再び交わる保障は、ないのよ」
「確かに。どうするんでしょうね」
「それに……
「――エリザ」
苦しそうに言葉を紡ぐ唇に、指先で触れた。
「お別れを選んだのは、貴女です」
「ええ……そうね」
「どれだけ脅されたって、私、貴女と一緒に死ぬつもりはありませんよ」
「そうよね」
ふふ、と空気を吹いてエリザが笑う。
「ごめんなさいね。忘れて」
「いえ……貴女の全てを覚えています。もしも私が、人を遙かに超えた時間を持ってしまったのなら、その終わりの日まで」
「本当に、忘れて良いのに……」
閉じたまぶたの隙間から、一筋の涙がこぼれ落ちた。鼓動は少しずつ振幅を緩めて、身体に満ちていた熱は吐息に逃げていく。その最後を捉えて奪いたくて、物体に変わっていく人間の形に身体を重ね、吐き出した息、あるいは生命を唇ごと受け止めた。
***
パチパチと火の粉が弾ける音がする。
共通暦では、それが倣わしだった。
エリザがそう教えてくれたので、ロンガは黒いワンピースに真珠の首飾りを纏って、彼女の亡骸を焼いた。痩せて衰えていたとはいえ、数十キロはある遺体を背負うのは難しかったので、二対の腕を持つロボットのカシスに運ばせた。炎の温度の調整とか、焼却炉から出るガスの処理だとか、細かいところは、自律歩行型データベースのプラリネに任せた。
そうして実感が薄いままに、ロンガは骨になった彼女と対峙した。
骨の欠片を拾い上げる。
ひどく軽く、そして小さかった。骨を拾い上げて、アクリル製の骨壺に入れていく。すべての骨を収めてしまうと、あっさり胸元に抱えられてしまうほど軽い。数時間前、カシスに遺体を運んでもらったのが嘘のようだ――と思った。
「……エリザ」
噛みしめるように名前を呼ぶ。
大好きだった、と思った。
彼女はいなくなり、そして残された骨もまた、彼女ではない。一方的で有限な時の流れに従って年老い、生命としての摂理に逆らわないまま死んだ。エリザという人間は、五次元宇宙のありとあらゆる世界において、何のことはないただの人間として、その生命を終え、灰燼に帰した。
ここに、コモン・エラが幕を閉じる。
そしてロンガは、愛した人を過去に置き去り、大切な人々が待つ
未来は、常に価値あるものだ。
超越者の視点から見れば、いくつもある世界のひとつ、長い時間のほんの一部でしかないかもしれないが。それでも、ロンガたちが考えて作り上げた今日と、その結果として訪れる明日は、何者にも侵されるべきではない。
だから、未来に行く術を持たない彼女とは、ここでお別れなのだ。
「……さようなら、エリザ」
骨壺を握りしめて呟く。
勿論、返事はない。