地下/定義する音節
文字数 9,794文字
痩せた体躯に白い肌の二人組がいる。一方は女、他方は男。彼らは二人とも、紙に包まれた黒っぽい塊を片手に持っている。携行食と呼ばれる、彼らの主食だ。必要最低限の栄養と、歯に染みるほどの甘さが特徴的な焼き菓子である。彼らには、この携行食を除いて食べるものがないため、二人の体躯は小枝のように華奢で、髪には一切の艶というものがなかった。栄養の偏りや衛生の欠如により、若くして死んでしまう者も多かった。
だが、それを不幸と嘆く人間はいない。
何故なら、彼らにとって、人間とはそういうものだったから。理由も分からずに働き、飢えても怪我をしても働き、働ける限り働き、ついに働けなくなれば死ぬ。無償の労働を当然として生きる存在は、なぜ自分が働くのか、自分が働くことによって何が起こるのか、それを理解していなかったのだ。
サジェスが救おうとした人々は、悲しいほど呑気だった。
現状に疑問を持っていない人間ほど御しがたいものもない。ゆえにサジェスは、最初の一石をいかに投げるべきか悩んだ。凪を極めた彼らの水面を揺らしてやらねばならない。貴方がたが受け入れている日常は、本当はとんでもなく劣悪なのだ――と教えるために、サジェスは地底の民のあいだを歩いて回り、ごく小さな種を植え付けた。
彼女――小麦色の髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ彼女は、サジェスが最初に語りかけた何人かの一人だった。
「うぅん……」
尖った顎に指先を当てて、彼女は口の中で音節を転がす。
「グラル……グラ――んん……グラン? うぅん、ちょっと違うなぁ。グレイ、レイ、んん、ライン……ああ、そうだ! グライン、というのはどうかな」
彼女が言うと、彼は首を六十度ほど傾ける。その傾きは、ちょうど壁沿いに這っている配管の角度に似ていた。
「アンタ、なに言ってんの。さっきから」
「あなたにも名前があったら良いな、と思って。だから、グライン。あなたの名前」
「名前?」
彼は眉間にしわを寄せる。
「何それ」
「だから、これからわたしがグラインって呼びかけたら、それは『あなた』って意味ってことにしようよ」
「なんで、そんな面倒くさいこと。別に要らないじゃん」
グライン――と呼ばれた彼は、心底呆れたと言いたげに顔を歪め、生白い頬に携行食を詰め込む。相対する彼女は、む、と唇を尖らせたが、携行食を飲み込んで「もう決めたから」と胸を張った。
「わたし、あなたのことはグラインって呼ぶ」
「はぁあ。好きにしろよ。俺、たぶん気がつかねぇけどな」
「それじゃ意味ない」
「分かんねぇな。番号で良いじゃん、いつも『声』はそう呼ぶんだから」
「それは、そうだけどさ」
彼女は不承不承頷く。
こなすべき労働の指示を与え、労働時間と休憩時間の切り替わりを告げる合成音声――彼らが言うところの「声」とは、これのことだ。声の正体はハイバネイト・シティを統べる包括的管理AI・
「でも……」
細い両腕を組んで、彼女は首を傾ける。
「もしもだよ。あなたの番号がわたしのより、一だけ多かったとして」
「一じゃないだろ。えっと……三百、くらい?」
「たとえばって話だから。とにかく、何て言うのかな……番号が三百後ろでも、実際に、あなたがわたしより三百個ぶん後ろにいるわけじゃないよね」
「あぁ――それは、そうかも?」
「でしょ。だから『グライン』なのよ。わたしたちは、一列に並んでる数字じゃないから」
彼女が自慢げに言うと、グラインと呼ばれた彼はしばらく考え込んだ。何かを深く考えようとすると眉間にしわが寄るのか、と、彼はこのとき生まれて初めて知った。考えたこともないことに思いを馳せる、不思議な旅路を数十秒ほど歩む。ややあって彼は組んだ腕を解き、やけに紅潮した顔をしている彼女、顔見知りの相手を見返した。
「じゃあ……アンタは」
「え?」
「俺がグラインだって言うなら、アンタは、何だよ」
「ああ、わたし」
艶のない髪を払って、彼女は自慢げに笑う。
「わたしは、リジェラって言うの」
「へぇ。……結構良いじゃん。自分で決めたのか、それ」
「ううん。貰ったんだ……わたしを表す言葉にして欲しい、って。この間ね、もっと下のほうに行ったとき、会った人がくれた……」
彼女――リジェラは、目を細めて、その邂逅を思い出す。
思い返せば不思議な人だった。やけに茶色っぽい肌をしていて、それが物珍しかった。掠れているのに、妙に力強い声をしていた。瞳は黄色をさらに濃くしたような色で、おのずから光っている訳がないのに、電球よりよほど眩しく見えた。不思議な雰囲気を纏った彼は、ふらりと現れて、一つ二つの難解な話をしたかと思うと、リジェラ、という単語だけを残して、暗闇に去って行った。
一連の話を伝えると、グラインは「変な奴だな」と顔を歪めた。
「そいつがアンタに、リジェラって文字をくれたのか」
「そうなの!」
リジェラが高い声で頷くと、グラインは胡散臭げに彼女を見遣る。
「じゃあ、ソイツは? なんて名前なんだよ」
「……あれ」
リジェラは翠の瞳を瞬かせた。
「知らない、かも」
「何だよ、意味わかんねぇな……俺、次は上のフロア行くから、じゃあな」
「あ、うん……」
グラインを見送りながら、リジェラは暗い天井を見上げる。金属の板を貼り合わせた天井の向こう、そこに青空があることを、彼女は未だ知らない。ただ、彼が残した強い眼差しと、リジェラという音節だけが、なにか不思議な予感めいたものを抱かせていた。
きらきら瞬く、磨いた小石のような高揚。
「また、会えるかなぁ」
斜め上を見上げてリジェラは呟く。
天空を知らない彼女も、目に見えないもの、手が届かないものに憧憬を抱くとき、上を仰ぐものと知っていた。それは人間に刻まれた原初の本能なのか、あるいは、単に上を向くことで蟠った胸もとの血流が開けるからなのか。塞がれているに等しいリジェラの双眸は、その瞬間たしかに、はるかな空に浮かぶ太陽を指向していた。
***
同時刻、ハイバネイト・シティ最下層のコアルーム。
少年が部屋の隅に腰掛けて、黒いヘッドセットで何かを聴いている。いかめしいデザインのヘッドセットは、小柄で痩せ気味の体躯にはいささか不釣り合いだった。少年――ティアは何かスイッチを押してヘッドセットを外し、部屋の対角に振り返る。
「お互いに名前を与え始めたみたいです」
「それは良かった」
言って、別の作業をしていたサジェスは振り返る。
すべての地底の民にサジェスが名前を与えられれば良かったのだが、十万を数える人々をひとりひとり訪ねたら、何年掛かるか分かったものではない。だが、そんな果てしない作業をせずとも、地底の民に「名前として固有名詞を持つ」という概念を教えれば、それが波紋のように周囲に伝播するのでは、とサジェスは踏んだのだ。
ティアの報告は、彼の読みが当たったことを示していた。
「では、ティア」
次の目標を見据えて、サジェスは少年に問う。
「このまま行った場合、すべての地底の民に名前が行き渡るのはいつになる」
「そうですね――」
少年はパネルの前に移動して、なにか操作をする。数十秒ほど操作をした後、真っ黒だったパネルにひとつのウィンドウが浮き上がる。ティアはそれを一瞥して、
「年が明ける頃には、九割以上に行き渡ると予測されます」
「うん、十分だ。ありがとう――しかし、ひと月足らずとは、ずいぶん速いな。ひとたび拡がり始めれば指数関数的に増大するから、そういうものかもしれないが」
「それもそうですし――」
パネルから視線を動かさないまま、ティアが応じる。
「皆さんの移動をモニタしてると、どうも、その時々で作業場所が違うようなんです。ゆえに人の入れ替わりが多く、だから拡散速度も速いのではないかな、と」
「なるほど。それは僥倖だ」
サジェスは言って、わずかに口元を上げた。
「名前を持っていない状態など、一刻も早く脱して欲しいからな。それに、この段階を完遂しなければ、次に移行することもできない」
「はい、あの……でも。サジェスさん」
「何か問題があったか」
「問題、というわけではないんですけど……」
ティアは椅子ごとサジェスのほうに振り向いて、躊躇いを表情に滲ませた。すこし困るように視線を惑わせてから、両手をぎゅっと握って「あの」と切り出す。
「どうして、名前を与えるのを第一段階にしたんですか。いえ、僕も――呼ぶべき名前がないという、その、不自由さは分かります。でも、貴方が、何を置いてもまず名前を持たせようとしている、その意味が、僕には分からなくて……」
「ああ、そのことか。そうやって改まらずとも、普通に聞いてくれて良かったんだが」
「えっと……すみません」
「いや、構わない。そうだな、俺が名前を与えた意味か……」
サジェスは目を細める。
同時に己の記憶に潜り、奥底に刻まれた傷に触れた。
――ゼロ。
冷たい音節がそこに書き込まれている。いや、書かれているというよりは、むしろ、文字の輪郭に沿って切り抜かれているような、そんな虚ろな音節だった。ゼロとは原初の数字であると同時、無を示す概念でもある。記憶を持たず、自我と呼べるものを失っていた頃のサジェスに与えられていた名前――否、識別名だ。
「俺は、名前を与えるというのは……存在を認める、ということだと思っている」
サジェスはゆっくりと言う。
ティアは黙って、彼の言葉を聞いている。
「名前が何であるか、それ自体に意味はない。数字を名前に冠していることが悪いと言いたいのでもない。ただ――名前という名詞は、その者を一番上層で定義するものだ。彼を如何なるものと記すか、その著述の題名となるものだ。そんな重要な単語を、機械的に割り当てた番号などで代用して良いとは、俺は思わない。相手に敬意を払い、その存在を尊重したうえで、名前を授けるべきなんだ」
サジェスは一息置いて続ける。
「だから、本当は……地上のラピス市民が、機械的に名詞を割り振って命名されるのも、俺はあまり好きではない。サジェス、という名前は好きだが――あくまで結果論だ。俺がサジェスという名前を気に入った、その『俺』は、サジェスという名前に優越する」
「……なるほど」
ティアが小さく頷いた。
「サジェスさんは、地底にいる人たちに『自分』を持って欲しかったんですね」
「そうだ。そして俺は、名前こそが、その象徴だと思った。ティア、貴方の価値観には、沿わなかっただろうか?」
「いえ……あまり、考えたことが、なかったんですけど……」
少年は目を瞬き「でも」と繋げた。
「僕が、リュンヌさんとソレイユさん……あ、えっと、二人は、僕と最初に話してくれた人たちなんですけど……」
「覚えている。俺にとっても恩人だ」
「あ――そ、そうでしたか」
「……申し訳なさそうな顔をしなくて良い。彼らがどうかしたか?」
サジェスの記憶に言及したのを失言とでも思ったのか、顔を強ばらせた少年に、サジェスは声色を緩めて尋ねた。何にしても神経質なほど気を遣う少年である。言われたティアは、それでも僅かに残る罪悪感と、それを押し殺そうとする意志がない交ぜになった表情で頷き、話を進める。
「お二人に、ティアって呼んでもらえたとき……ようやく、僕は、自分が誰かから目を向けられた気がした。真正面から向き合ってもらった気がしたんです。サジェスさんに、最初にティアって呼んでもらえたときも……」
そう言って、彼は口元を少しだけ緩めた。
「あの、嬉しくて……」
「――そうか」
「だから分かります。名前が大事って言うの、何となく」
あどけなく少年が笑う。
嬉しかったと言われれば、サジェスとて悪い気はしない。それに、今となっては自分の右腕であるティアが、サジェスの思想に共鳴を示してくれた事実は、少なからずサジェスを安堵させた。
だが――一方で。
リュンヌたちに初めて真正面から向き合ってもらえた、と彼は言った。それは裏を返せば、ティアはあの二人と会うまで、周囲から目を背けられていたことになる。言葉が通じないから話せない――というのは、サジェスに言わせれば言い訳だった。事実、お互いにまったく言葉を解さない状態でも、ティアとサジェスは互いに名前を呼んで通じ合えたのだから。
「……ティア」
作業の手を止め、サジェスは問う。
「どうして地下にひとり残されていたのか、そろそろ俺に話す気は無いか?」
薄暗いコアルームに、その声はしんと響く。
帰ってきた返事は、完膚なきまでの沈黙だった。先ほどまで幼くほころんでいた頬が、今は石のように張りつめている。サジェスを見つめる双眸も同様、石のように光明がない。凍りついた拒絶をありありと感じつつも、サジェスは真正面から言葉を紡いだ。
「先に言っておく。貴方が、俺の思想に同意してくれたのは有り難い。リュンヌたちに恩義を感じているのも、否定する気はない。ただ……あの二人に巡り会うまで、誰も貴方に真正面から向き合わなかったのなら、そちらの方が問題だ。そして、それは、貴方があんな場所に放置されていたこととも関わっているように思う」
「……サジェスさんには関係ないことです」
「無関係ではない。俺は貴方の安全に責任を負っている。なぜなら俺は貴方に協力を依頼しており、地底の全権を握っていて、大人だからだ」
言い淀んだ挙げ句にティアが発した拒絶を、サジェスはばっさりと切り崩した。
「ティア、前にも言ったが、俺は、貴方がここにいるのは危険だと思っている。ただ、貴方はどうにも思い詰めているようだから、危険を呑んでここに置いている。だが、安全な居場所が用意してやれるなら、俺は本当は、貴方をそちらにやりたいんだ……まあ」
サジェスは小さく笑う。
「有能な補佐を失うのは、俺としても残念ではある。貴方は大人より余程頼りになるから――しかし、それは子供を危険に晒していい理由にはならない。だから教えて欲しい。なぜ、貴方には居場所が与えられていなかったのか」
「それは……」
ティアは俯く。
また、長い静寂があった。ただ、先ほどまでの頑なな拒絶とは違い、ティアが深く思い悩んでいるのが分かる沈黙だった。涙が溜まった琥珀色の瞳で、少年はサジェスの人柄を推し測ろうとしている。事情を話すに足る相手だと、果たして思ってもらえているのだろうか。サジェスは少年と出会ってからの数ヶ月を思い返しつつ、彼のなかで自身への信頼が醸成されていることを祈った。
「……僕、は」
瞳のなかの闇に、光明が兆す。
少年がわずかに顔を上げて、消え入りそうな声で言った。
「僕は、罪人だから」
「罪人」
「あっ――いえ……」
「良い、何を言おうと咎める気はない。地上の掟はここには存在しないからな」
サジェスが片腕を広げて言うと、ティアは物言いたげな視線をちらりと投げてから、椅子を斜め後ろに回した。拒絶されたかと落胆したが、そうではなかった。少年はサジェスに背中を向けたまま、ぽつりぽつりと自分のことを語り始めた。
曰く――ティアがこのラピスにやってきた、あの朝のこと。
その日、折が悪いことに、ティアが生まれたラピスでは暴動が発生していたという。統一機関に市民たちが押し入ってきて、上層部はそれを武力で制圧する決断を下した。ティアも幼年ながら武器を持たされた。それは建物を破壊するのに適した銃で、もしも市民が侵入してきた場合、階段を破壊するようにと命じられた。少年は緊張を必死に堪えて、物陰に潜み、階段の下方を窺い続けた。
そして、目を開けていられないほどの眩しさに呑まれて、次に目を開いた瞬間。
見覚えがあるのに、どこか違う景色がそこにあった。本能に突き刺さる違和感に周囲を見回した、次の瞬間――先ほどまで無人だったはずの廊下に人が溢れかえっていた。彼らはティアを指さして何か言っているが、何を言っているのか、まったく頭に入らない。
少年は思った。
――僕がちゃんと見張っていなかったせいで、侵入を許してしまった。
頭のなかが真っ白に痺れる。身体中の体温が抜け落ちてゆき、初秋の日射しをやけに冷たく感じた。寒気がするのに、全身から汗が噴き出した。ティアは柱と壁の合間に蹲ったまま、身体の前面に隠した銃を握りしめる。
ソファから誰かが立ち上がり、こちらに歩いてくる。
ティアにはそれが、銃を奪おうと近づいてくる反乱軍の兵士に見えた。
――止めないと。
隠した銃を出した瞬間、ざわ、とどよめきが響いた。周囲からばらばらと人が集まり、険しい顔をしてティアを取り囲む。いつの間にこんなに沢山の兵士を入れてしまったのか。人垣に周囲を阻まれ、影になった廊下で、少年は我知らず呟いた。
――誰か、助けて。
だが、その懇願に応じる仲間はいない。心臓をばくばくと波打たせ、大きく見開いた目を血走らせながら、ティアは震える腕で銃を構え直す。
銃口を、いちばん近くに立っていた相手に向ける。
――こんな真似はしたくない。だけど、他に方法がない。このまま殺されて武器を奪わせるわけにはいかない。
思い詰めて少年は、引き金をついに引いてしまった。
もちろんティアを取り囲んだ人々は反乱軍の兵士などではなく、公用語が違う「もう一つのラピス」で統一機関に所属している研修生たちだった。カフェテリアで朝食を摂っていた彼らは、突然現れたティアに驚きつつも、少年を保護すべく近づいてきたのである。だが、ティアが事情を知ったのは、取り返しの付かない事態が起きてしまってからだった。
「……ひとり、死んでしまった、と聞きました」
ティアは静かに言う。ぎりぎりまで押し潰したような、小さな声だった。
「最初に声を掛けてくれた人です。今から思えば優しそうな人だった、あの人を、僕は撃ってしまった。縋って泣いてた人がいたのを覚えてます。あの人は、僕を助けようとして、何も悪くなかったのに……」
「では、貴方が悪いのか?」
「――え」
黙って聞いていたサジェスが問うと、ティアは訝しげに視線を上げた。
「ティアを助けようとした相手には何の責もない。それはそうだろうな。だが、だったら貴方に責がある、と直ぐさま結論付けられるものでもない。貴方はひどく混乱したのだろう。周囲の人間を敵だと思ったのも、致し方ないように思うが――」
そこでふと気がつき、言葉を切る。
ティアの顔が俯いている。語れば語るほど、少年が自分に心を閉ざしていくのが分かった。なにか気に障ったのだろうか――と自分の発言を省みて、そこでサジェスは、己の浅慮に気がついた。
ここで自分がティアを赦免することに何の意味があるだろうか。一連の出来事にはさまざまな要素が絡み合っているにせよ、ティアが要因で死んだ者がいる事実は変えようがない。その罪悪感が少年を瀬戸際まで追い込んでいることも容易に想像が付く。今のは違うな、と打ち消して、サジェスは小さく頭を下げた。
「俺の感想など貴方には関係ないな。ぺらぺらと勝手なことを喋った。悪かった」
「――いえ」
「ただ、ティアが罪を感じるのと、周囲が貴方に罪を持たせるのは別だ。今の話を聞いても、俺は、貴方が居場所を奪われるべきとは思えない。否……どんな人間だろうが、安全を奪われて良いわけがないんだ」
「……そう、でしょうか」
「勿論だとも」
サジェスは力強く頷いた。
「だから、こう言わせてくれ、ティア。俺は地底の人間に安全と平穏を与え、暗い地底から解放するつもりでいる。これと同様に、俺は貴方にも安全を享受してもらいたい。これは、罪を免責するものではない。己の罪に向き合うことは、明日の生死に気を遣うような場所では出来ないと思うからだ」
「……はい」
背けていた眼差しをこちらに戻して、少年がしっかりと頷いた。その顔は血の気が失せて悲壮ではあるが、頬に涙は伝っていない。幼く、しかし強い意志を持つ視線が、まっすぐサジェスを見ていた。
「僕……罪を償うために、もう死ぬくらいしかできないって思ったことがあります。けど、僕が死んだら、この罪悪感とも別れてしまうから……それは駄目なんです。ちゃんと向き合うために生きるから……だから」
彼は言葉を切り、凜と背筋を正して言った。
「それが出来るようになるまで、ここにいさせて下さい」
「それは俺のほうから頼むことだな」
サジェスがそう切り返して笑うと、少年はほんの少し口元を持ち上げる。それから彼は目元を拳の甲で拭い、続きをやります、と言って自分の仕事に戻った。操作盤を指で叩く規則的な音を聞きながら、サジェスもパネルに向き直り、己の作業を再開する。少年が内側に抱えた闇は深いが、ともかくティアが包み隠さず真実を教えてくれたことで、闇の全容が見えたのは良かった。
一方――サジェスの言葉には欺瞞があった。
ティアが背を向けているのを確認して、サジェスは操作盤を叩き、パネルに新しいウィンドウを展開する。リスト形式でずらりと並んでいるのは、ハイバネイト・シティに対する呼びかけである。昨日と比べて五件ほど増えたそれらの、一番新しいものを展開して、サジェスは内容にざっと目を通した。
差出人は地上。
宛先人はカシェ・ハイデラバード氏――先の総権保持者である。
他のメッセージもすべて同様だった。メッセージの内容は悉く督促、あるいは「一体何をしているんだ」と責め立てる内容である。どういうことかと言うと、マダム・カシェが総権を保持していた頃、おそらく彼女は地上と地下をつなぐ唯一の窓口だったのだ。地下の人間は地上のために労働しているが、彼ら自身は自分が働く意味を知らない。彼らを監督し、地上の利益に繋げる誰かが必要で、それがつまり「総権保持者」の真の義務だったのだ。
サジェスは、はるか前から自身の責務に気がついていた。
その上で、あらゆる呼びかけに無視を返し続けた。
地上の要請に応える気は一切ない。応えることは地底の民にさらなる労働を強いることと同義であり、サジェスの野望と真っ向から反するからだ。それこそ地上の人間がハイバネイト・シティに直接乗り込んできても、サジェスは持ちうる全力でこれを迎え撃つ気でいた。ただでさえ深い地上と地下の格差を、これ以上拡大させるわけには行かないのだ。
だが。
地下の労働が地上の暮らしを支えていたこと、これは事実だ。地上ラピス市民の大半に罪の意識がなかったこと、これも事実だ。きっと地上は飢えているだろう。深まる冬に凍えているだろう。あらゆる生活基盤の不足が市民を苛み、それを彼らは理不尽と感じるだろう。
飢えと凍えの行き着く先は、無論――死だ。
地上と地下の安寧は、少なくとも地上が地下の労働に頼っている限り両立しない。サジェスが地底の民に味方するのは、地上ラピス市民を見捨てることでもある。このまま地上の要請を無視して突き進めば、何百何千の咎なき犠牲が積み重なる。あるいは、既に犠牲は出ているかもしれない――それでも。
サジェスはコマンドを叩き、ハイバネイト・シティに助命を求める全てのメッセージを抹消した。蒸発するようにメッセージが消えていくさまを一瞥してウィンドウを閉じ、別の作業に移行する。頭を切り替えつつも、サジェスは、後ろで自分を手伝ってくれている無垢な少年に向けて、すまない、と心のなかでだけ謝った。
――俺は、これから罪人になる。
それも、ティアの罪など非にならないほどの大罪を犯す。地底の民を解放する、という正義を掲げた聖戦のつもりでも、社会を根元から作り替えようという試みには、どう努力しても犠牲がついて回る。今、幾許かの血を流すことで、未来における犠牲を減らす――それは革命家の論理であって、犠牲者に大義名分の有無などは関係ない。
だが、これはサジェスが始めたことであって、ティアに責任はない。如何なる結末が待っていたとしても、どうか気に病まないでくれ――と、本当は伝えられたら良いのだが。