chapitre149. ラピシア
文字数 8,167文字
――新都ラピス
「目標は、ただひとつ」
スピーカーの向こうで、アルシュの声が告げる。
「現在ハイバネイト・シティ居住区域に滞在している推定52万人に、可能な限り迅速に安全なエリアまで移動してもらうことです」
ロンガは服の生地を強く握りしめて、彼女の声に耳を傾けた。隣にはシェルがいて、彼は真剣な表情でスピーカーに視線を注いでいる。配電系統の向こうには、“
「今――配電系統を通じて繋がっているのは、二百名弱です。居住者の数に比べ、あまりに少ないことは承知の上ですが、それでも私たちがやるしかありません」
ロンガたちとは別の言語を主要なコミュニケーションツールとする“
配電系統の向こうで、声に僅かな緊張を滲ませたアルシュがひとつ咳払いをする。
「暫定的に進行をします、MDP総責任者のアルシュです。よろしくお願いします……早速ですが、ハイバネイト・シティの現状をこちらから共有します」
その言葉とともにアルシュの声は一旦途切れ、コアルームで作業をしているMDP構成員が代わりにマイクを取る。
「現状、居住区域への浸水はありません」
その第一声で、シェルがほっと息を吐いた。
顔こそ直接は見えないが、回線の向こう側でも安堵が広がったのが分かる。必要以上に不安を煽らないための配慮かもしれない。そこから、あらかじめ話の構成を考えていたと思われる滑らかさで、貯水タンクの破損の状況と、それに伴い予測される諸問題が説明された。
「懸念される点ですが――先の
「崩れる?」
シェルの独り言に応じるように、つまり、と言葉が続けられる。
「建造物の重みに耐えきれず、ラ・ロシェル地下が連鎖的に崩れる可能性があります。そのため、避難はラ・ロシェル直下にあたるC地区から優先的に行うべきでしょう」
「避難の順番は、具体的にどう決めるんですか」
「優先条件をこちらで設定したうえで、
『それで大丈夫なのか?』
合成音声が問う。
『機械に任せて問題ないのか』
「ええと、それは――」
「……
言い淀んだMDP構成員に代わり、自分が口を出すべきか悩みつつも、ロンガは思い切ってスピーカーに声を掛けた。ばらばらだった磁石の向きが揃うように、人々の意識がぐっとこちらを向いたのが分かる。隣に座っているシェルも、ひとつ瞬きをしてこちらを見る。暗い視界の片隅に彼の視線を捉えながら、ロンガは慎重に息を整えて話し始めた。
「感染症対策としての語圏の隔離、思うように動けない居住者への配慮……考えることがたくさんある状況で、52万の人間の動きを私たちが監視するのは困難ですから。
『なるほど。だが、性能
無機質な声が答える。
『争点としたいのは別のことだ。AIの判断について、責任は誰が取る』
「責任、ですか?」
『誰から逃がすか――というのは、人命が懸かった判断だろう。上手く行かなくて犠牲が出たときに、その責任は誰が取る? 機械が勝手に決めたことだから仕方ない、とでも言うのか。少なくとも、私たちの語圏の人間は、それでは誰ひとり納得しない』
とっさの返答はできなかった。
スピーカーから流れ出す人工音声は、感情が乗っていないだけに、輪を掛けて冷淡に聞こえる。身体の中央が固く凝っていく感覚を堪えて、ロンガは緊張で熱くなった頭を慌てて回転させる。
誰が責任を取る。
人の生命という、そもそも償えるはずがないものに対して、責任を負うのなら、所詮プログラムの羅列でしかないAIでは不足だ。せめて、同じ生命の重みを持つ人間でなければ、責任を負いようがない。
『返答を』
無機質な声が、まるで刃を突きつけるように響いた。
*
コアルームで一連のやりとりを聞いていたアルシュは、ひとつ唾を飲み込んだ。
MDPの総責任者と言えば、自分だ。
失敗したときに、自分が責任を負わされるかもしれないという感覚は、容易に人を萎縮させる。アルシュがMDPで総責任者を名乗っているのは、MDP構成員たちに、必要な時に適正な判断を下してもらうためだ。だけど、いま問われている「責任」は、それとはまた別物だ。アルシュのそれより遙かに巨大で、手に負えないものだ。
「ねえ」
マイクに拾わせないよう小声で、隣に立っていたカノンに声を掛けた。彼が瞳だけをこちらに向けるのを確認して、ほとんど唇の動きだけで、問いかける。
「私……かな」
「誰が責任を取る、という話かい。あんたが?」
彼は肯定とも否定とも取れる返事をよこして、視線をパネルに戻す。
「ま、名乗り出るなら止めないけどね」
「それじゃあ……」
目を強く閉じて、ほんの数秒だけ、アルシュは暗闇と見つめ合った。背筋が氷をかざされたように冷たい。52万人を逃がす作戦で、誰ひとり死者を出さずに済むとはとうてい思えない。何も危険なことがなくたって、急病や事故や衰弱で、当たり前のように毎日誰かが死ぬ規模の人数だ。どこまでが不可避の死で、どこからがAIの過失による死だと定義できない上で、それでも責任を引き受けるならば、その行き着く先は破滅だと最初から決まっている。
それでも……それでも、誰かがやらないといけないのなら。
アルシュは冷たい塊を飲み下して、一歩前に踏み出そうとした。
「私が――」
「いや、アルシュ」
身体の前に、カノンの腕がかざされる。止めない、というさっきの発言と真っ向から矛盾する行動に、アルシュは眉をひそめるが、カノンはいつになく真剣な表情をこちらに向けた。
「やっぱり……少し考えた方が良い」
「どうしたの?」
緊張と困惑をごまかすように、アルシュはわざと軽く笑って見せた。
「そうやってあからさまに止めるの、なんか、カノン君らしくないね」
「いや、まあ……あんたがここで名乗り出たら、せっかくこうやって、対等になったはずの立場が、ふたたび歪んでしまう――と思った。そうやって、どこかに役割を集中させないための、この会議の場じゃないのか?」
「……それは、そうだけど」
彼が言っていることは、いつも通り筋が通っている。しかし、カノンの態度にどうにも違和感があった。もしや――と閃いたものを確かめたくなり、彼のシャツの肩辺りをつかんで引き寄せ、耳元に口を寄せて「ねえ」と尋ねてみる。
「ロンガと話した?」
「なぜ、その名前が出てくる」
「通信がつながったとき、マダム・エリザと一緒にいたでしょう。だから、そういうことなのかなって……」
アルシュはさらに声を潜めて、直接的に問いかけた。
「話をさせてもらえたの?」
「まぁ……そうだよ」
「そっか――羨ましいな。そうだと思った」
コアルームに詰めたMDP構成員たちに見せないよう、顔を片手で隠しながら笑ってみせると、なぜ分かる、とカノンが怪訝そうに眉をひそめた。
「あんたはなぜ、そうやって、他人の考えを読むのが上手いんだ」
「うーん……だって、いつもと調子が違うから。カノン君がそこまで揺さぶられる相手って、他にいないかなって。ねえ、何か言われたの?」
「敵わないな、あんたには。まあ、何というか……俺たちは対等な立場にいるべきだと、それだけ」
「へぇ?」
曖昧にぼかされた返事にアルシュが肩をすくめたとき、回線の向こう側で、今まで黙って聞いていた声が話し出した。
*
ふぅ、と隣で溜息。
「……わざわざ聞くまでもないのに」
頭の中でぐるぐると渦巻いていたロンガの思考を、物心ついてからずっと隣にいた人の、慣れ親しんだ声が引き戻す。はっと我に返って横を見ると、隣の床に膝をついたシェルがこちらをのぞき込んでいた。
「エリザ。貴女が言わないなら、ぼくが言います」
「え……シェルが?」
「前にも、似たような話を、皆でしたんです。覚えてますか? 携行食食べながら、休憩室で」
「――あ」
シェルの言葉が触媒となって、ロンガも思い出す。エリザの意識が目覚めてから色々と起きたせいですっかり忘れていたが、たしかにあの時、シェルと、アルシュとカノンと一緒に四人で話した。上手く行くとは限らない道を、それでも選んでいく自分たちが、取るべき姿勢について。
「ええ……覚えています」
「良かった」
シェルが笑う。
「ぼくの結論は、あの時と同じです。だから――聞いて。責任を誰が取るかなんて、この会議を聞いたときから、決まってるとぼくは思います」
途中から声を大きくして、彼は天井のスピーカーにまっすぐ呼びかけた。
「ここにいる全員でしょ。そのために、こうやって、皆が集まってるんだと、ぼくは思ってました。違いますか?」
『私たちにまで、責任を取れと?』
「そうですよ。今、ぼくたちは、ひとつの目的を共有している仲間のはずです」
責めるようなトーンの合成音声にも、シェルは少しも屈せずにあごを持ち上げてみせた。
「ここに集まった、ぼくたちの出せるアイデアが全てです。
『いや……』
スピーカーの向こうは、しばらく静まりかえった。
『申し訳ない』
十数秒、息を詰めたような沈黙が続く。
謝罪らしき言葉に対し、シェルは何も応じずに黙っている。その真意を問おうとロンガは息を吸ったが、シェルが抑えるように手のひらを広げて見せた。待って、と言うように口元が動く。
ややあって、マイクノイズとともに、合成音声が静かに言葉を繋ぎはじめた。
『少し、言葉が足りなかったかもしれない……ただ、私たちは、貴方がたラ・ロシェル語圏に比べて、ハイバネイト・シティのことを何も知らない。地下にこんな広大な空間があったことすら、
ロンガは
『私たちは、貴方がたの言うことに従っているばかりだ。何もかも遅れをとっていると思っている。だから、都合良く利用されているのではないかと、心配だった』
「それは――ごめんなさい」
「シェル?」
彼があっさりと謝ったので、ロンガは不思議に思って、彼の肩に手を掛ける。シェルは言葉の代わりに、大丈夫です――と言うような笑みを浮かべて、淀みなくスピーカーに話しかけた。
「いま、厳しい言い方をしたので。貴方の顔を見て、貴方と同じ言葉で喋ってたら、きっと、戸惑うようなニュアンスとか、こちらを伺う視線とか、そういうのが見えたんだと思いますけど……今は、不完全な言葉しか、交換できないから……だから」
シェルはひとつ息を吸って、まっすぐ顔を上げた。非常灯の光が頬に落ちて、少し痩せて大人びた横顔の輪郭を照らし出す。
「話しても伝わらないこともあるんだ、って前提で、お話ししましょうか」
――ソル。
昔はそんなこと言わなかったのに。
声には出さないまま、ロンガは心の中だけで呼びかけた。
話しても伝わらないこともある。それが、この二年間で彼が得た、ひとつの結論なのかもしれない。言葉の力は有限で、でも、それしか頼るものがないから、ひとつひとつを拾って丁寧に紡がないといけない。
「――って」
あはは、とシェルは弾かれたように小さく笑った。
「ぼくが言えたことじゃないですけど」
砕けた口調に、回線の向こう側の緊張が少し緩んだのが伝わる。誰かが吐き出した笑いは、自動翻訳にかけられず、そのままの音でスピーカーを揺らした。ほんの数秒の間だけ、七つの言葉はどれも使われず、代わりに笑い声が重なり合って響いた。
使う言葉が違っても、どうやら、笑い声の響きは大差ないらしい。
*
そこを境に、七語圏を横断した緊急会議には、少しだが打ち解けた雰囲気が訪れた。とはいえ状況がひどく切迫していることには変わりなく、およそ二百名の会議参加者たちは、一刻も早く意見を一致させることが求められた。
次に求められたのは、どこを避難先として指定するかだった。
「知っている方もいるでしょうが……ラ・ロシェルの地上にでも、うっかり逃がした日には悲惨なことになります」
ラピスの中央都市、ラ・ロシェルは現在もまだ“
「バレンシアも難しいでしょう。避難できる建物がそもそも少ないですし、火災の被害が大きすぎる」
『海沿いの地域もあまり勧められない。こちらの語圏ではまだ平気らしいが、私たちの世界では、バレンシアとフィラデルフィアは既に水没している』
『否定ばかりだな。仕方ないことだが』
「じゃあ、ハイデラバードはどうです?」
「ハイデラバードか……」
アルシュは腕を組んで、以前に目を通した報告書の内容を思い出す。堅牢な石造りの、街がまるごと要塞と化したような都市。ハイデラバードであれば、一時的に人々を受け入れるキャパシティ程度なら有しているかもしれない。
「うん、悪くないアイデアかも」
アルシュがひとり頷くと、以前に何度かハイデラバードとの交渉で矢面に立っていたカノンが「だが」と低い声で呟いた。
「断られない保証がない。ただでさえ、建築技術の融通のために、あの街にはかなり無理を言っているんだ。拉致の件ひとつで
「それなら、たぶん大丈夫」
人差し指を立てて見せてから、アルシュは操作盤の前に座っている構成員のひとりに話しかけた。
「ヴォルシスキー支部から来た、例の資料……いま出力できますか」
「例の……えっ、あ、あれですか!?」
ともすればマイクに拾われかねない音量で、目を剥いた構成員が驚きの声を上げた。静かに、と唇の前に指を立てながら、アルシュは頷いてみせる。彼が新しいウィンドウを開いて、データベースを検索するのを横目に見ながら、アルシュは後ろで腕を組んでいるカノンに振り向いた。
「カノン君、MDPの研究成果を対価に、ハイデラバードと交渉してみて。ヴォルシスキー支部の調査レポート……たぶん、十分な交渉材料になるはず」
「レポート……初耳だね。なんの調査だい」
「ええと……」
アルシュは周囲に目を配った。ヴォルシスキー支部で行っている調査については、コアルームに詰めている構成員たちも、全員が知っている話ではない。あまり広く知らせるべきではないだろう、と判断して、必要最小限の一部を除いては情報を伏せてあった。
「ちょっと耳貸して」
大柄な彼に屈んでもらい、あまり大声で言えない話を耳元で伝える。簡潔に説明してから「どう?」と尋ねると、カノンは数秒あごに手を当てて考えてから頷いた。
「交渉してみよう。少し、席を外す」
「うん、よろしく」
データの入った
*
人々を向かわせるべき目的地が定まると、話がぐっと具体的になった。
『ハイデラバードまでの移動はどうするんだ。足の悪い者もいるだろう』
「ひとまず地上にさえ出れば、
『操縦できる者なら、私たちの中にもいる』
そう発言したのは“
ガタンと椅子を蹴って、構成員のひとりが立ち上がる。
「お前――その発言をする意味が、自分で分かって言っているのか!」
『分かっている』
即座の応答。
思わず怒号を発した構成員は、すでに周囲に取り押さえられたが、“
『私たちはたしかに、地上ラピスを攻撃した。許して欲しいとは言わないし、言えない。だが、ここにいるだけで数十名、呼びかければその十倍はパイロットを提供できる。今はその事実だけを伝えたかった』
「……分かった。お前たち“
『喜んで手を貸そう』
スピーカーの向こうが、ふと沈黙を挟む。
『申し訳ない――その呼び方は止めてもらっても良いだろうか。このようなことを頼める立場ではないことは、分かっているが』
「なぜ?」
マイクを取った構成員が首を傾げる。
「そう名乗ったのはそちらだろうに」
『だが、もう
「では……」
アルシュは眉を持ち上げて、回線の向こう側にいる、かつて敵だった相手に問いかけた。
「貴方がたは、誰ですか?」
*
「私たちは……」
リジェラは言葉を切って、居住区域の一室に詰めた仲間たちを見渡した。半分だけ空いた扉の向こう、通路の壁にもたれて、議論を聞いている少年と目が合って、リジェラは小さく手を振って見せた。
「答えは決まってるわよね」
確認するように問いかけると、白い肌に痩せた体躯の、かつて“
*
『私たちは、ラピシア』
スピーカーから降ってきた響きに、シェルとロンガは同時に顔を上げた。忘れられるはずもない、音の繋がりだ。借り物の心臓が途端に早く打ち始め、身体が火照ったように熱くなる。
「もしかして、これ――」
床に置いていた
「ラピシアというのは、私たち、ラピス市民のことよ」
「あ、やっぱり、この声だ……」
シェルが呟いて、ぐっと身体を丸めた。
「えっと……思い出せない。ぼく、会ったことあるんですけど、名前が――」
「……リジェラ、です」
「え?」
首を傾げるシェルに、ロンガは
「彼女の名前。リジェラですよ」
「ああ、そう言えば、そう呼ばれていた気も……すみません。地下の人の名前って、覚えづらくって」
シェルはそう言い訳をしてみせるが、本当の理由をロンガは知っている。誰かの顔立ちや声の記憶は、会わなければ次第に薄れていくものだが、名前を忘れるのは容易なことではない。捨てると決めた世界に、これ以上未練を残さないために、シェルは出会う人の名前をわざと覚えないようにしていたのだ。
「ちゃんと覚えとかないと……」
薄く目を閉じたシェルが、自分のこめかみを指先でつつきながら、独り言めかして呟く。それが嬉しくて、ロンガは彼から見えない角度に顔を背けながら、口の端を小さく持ち上げた。