地下/貴方はここにいる
文字数 6,556文字
時節は十月の半ば。ラピスの周縁都市であるバレンシアでは、穀類の刈り入れが一段落して収穫祭が催される頃である。サジェスが地下にやってきて、ハイバネイト・シティの総権を手にしてからひと月が経っていた。
この間、サジェスは目立った動きをしなかった。
と言うよりも「出来なかった」というのが正しい。サジェスの目標、すなわち地底で使役されている人々の解放を達成するためには、まず彼ら彼女らに語りかけなければならない。いかに不平等な立場に押し込められているかを教える必要がある。しかし地下世界では、サジェスが今まで慣れ親しんできた言葉がまったく通用しないのだ。
ゆえにサジェスは、まず言語を学ぶ必要があった。
練習相手には例の少年、ティアがなってくれた。彼は地下の言語を解するのだ。しかし、その理由は未だに語られていない。地底の生まれなのか、と聞けば首を横に振り、統一機関の人間か、と訊ねれば曖昧に首を傾げる。大いに不審ではあったが、サジェスの方もともかく言葉を学ばねばならない事情があり、謎めいたティアの出自について、とりあえずは見ないふりをしていた。
しかし――ずっとこのままで良い訳がない。
休憩室からコアルームに引き返しつつ、サジェスは短く息を吐いた。携行食と呼ばれる、砂糖の塊のように甘ったるい焼き菓子が、胃の中で重たく凝っている。地下世界はいくつかの階層に分かれており、コアルームのある最下層では、食品と言えばこの携行食しかない。栄養には配慮されているため、ずっと食べていても病気になるわけではないが、およそ文化的な食事とは言えない有様だ。
文化的と呼べないのは、居住環境もそうだった。天井の灯りは絞られて最小限、当然ながら日光は入らず、朝と夜の区別もない。シャワールームや手洗い、洗濯や給湯の設備は一応存在するが、いずれも最低限だ。娯楽などは皆無。話し相手といえば、
サジェス自身は構わない。自分で選んで地下に下ったのだから、いかに劣悪な環境だろうが甘んじて受け入れよう。だが、まだ十歳そこそこの少年を、いつまでも留め置いて良い場所ではないのだ。
コアルームの前に到着し、サジェスは扉の脇に手を当てる。そこに静脈認証を行うパネルがあり、扉のロックが解除されて、金属製の分厚い扉が音もなくスライドして開いた。部屋の奥にあるパネルの前、中央よりやや右側にティアが座っていて、彼は入ってきたサジェスに気がつき小さく頭を下げた。
「お疲れさまです」
所作に従って、ティアの癖っ毛が揺れる。すこし髪が伸びたようだ、とサジェスは少年を眺めていて思った。それだけ長い時間、ティアの問題について、サジェスが見て見ぬふりを続けたということでもあった。サジェスが無言で室内に入り、ティアの隣に座ると、少年は怪訝そうに「どうしたんですか」と首を傾けた。
「練習、午後も続けますよね……?」
「それなんだが」
背筋を正し、サジェスは少年に向き直った。
「ティア。今日を限りに、貴方に教えを請うのは終わりにしようと思う」
「……え」
「そして、貴方を地上のあるべき場所に帰す。ここは、子どもがいるには、あまりにも酷い場所だ。……本当は、貴方と会ったとき、すぐにでもそうすべきだった。それを一ヶ月も引き延ばしたのは、ひとえに俺の都合だ」
すまない、と硬く言って、サジェスは頭を下げる。三秒間きっちりと顔を伏せてから、少年に視線を戻すと、当惑そのものの眼差しがこちらを見ていた。
「なんで……」
ややあって、震えた声が言う。幼い琥珀色の目元に、うっすら涙の膜が張っている。
「なんで、ですか。僕……お役に、立てませんでしたか?」
「違う。逆だ。貴方が言葉を教えてくれることで、俺は実に助かった。現に、これだけ喋れるようになっただろう。だからこそ、もう良いんだ。これ以上、俺の勝手で貴方を連れ回すわけに行かない」
言いながら、サジェスは立ち上がる。
操作盤に手を置き、いくらかの操作をすると、壁面のパネルにハイバネイト・シティの立体地図が浮き上がる。さらに操作を加えると、地表ラピスも描画に加わり、地面を透かして上空から斜めに見る要領で、地上と地下、両ラピスの地図が描かれた。
パネルを一瞥して、サジェスは少年に視線を戻す。
「教えてくれ。ティア、貴方の故郷はどこだ?」
少年は答えず、膝の上でぎゅっと拳を握っている。
「たしか貴方は、リュンヌたちにティア・フィラデルフィアと名乗っていたな。つまりフィラデルフィアの生まれで、それからラ・ロシェルに来たのか?」
「それは……そう、ですけど」
「統一機関の人間なのか? いや、それにしては、以前に九歳だと言っていたか。まだ研修生になる歳ではないな。ああ……そもそも一介の研修生が異言語を解する訳がないか。やはり、地底の生まれだったりするのか?」
「……違います」
「そうか、違うのか。教えてくれてありがとう。しかし、訊ねて否定して、ばかりでは話が進まないんだ、ティア。何しろラピスはこれだけ広い。闇雲に、ここか、と聞いたところで当たる訳がない」
立体地図を指さして、サジェスは言った。
「どうか語ってくれないか。この地図のどこから、貴方がやってきたのか」
「それは……言え、ません」
「……ティア。貴方にも何か事情があるのは、分かっているつもりだ」
ひとつ息を吐いて、サジェスは少年の痩せた体躯を見据える。
サジェスが地下に下って、まだ一ヶ月。ゆえに地下の事情をすべて把握しているわけではないが、少年がこんな場所にひとりで放置されていたのが、相当の異常事態であることは察して取れた。
「俺は、貴方を追い出そうという訳ではないんだ」
サジェスは吊り眉をすこし下げて、少年に語りかけた。
「ただ、貴方をここまで俺の都合に付き合わせた以上、俺には、貴方をあるべき場所に帰す義務がある。総権を使ってできる範疇のことなら、何なりと手伝おう。ちょっとした謝礼と思ってくれれば良い。だから――」
「……違う、んです」
意を決したように、少年が小さく呟いた。
硬く張りつめた頬に、悲壮なほどの緊張が満ちている。違う――とは、何が違うのだろう。サジェスが内心首をひねりながら、続く言葉を待っていると、ティアは真剣そのものの表情でとんでもないことを言った。
「この地図の、どこにも、僕の故郷はないんです……!」
「……は?」
ぴしりと音を立てて、コアルームが固まった。
少なくともサジェスにはそう感じられた。地下五百メートルの人工的な空間と、そこにいる自分、そして少年。視界を構成する要素の全てが、精巧なレプリカにでも置き換わってしまった感覚だった。彼は――自分のいる場所を見失うほどに驚き、呆気に取られたのだ。後にも先にも、サジェス・ヴォルシスキーという人間がこれだけ驚いたのは唯一無二のことだった。
操作盤に手を突き、サジェスは少年のほうに身を乗り出す。
「どういう、意味だ……?」
「……言葉の通りです」
腹を括った表情で、ティアがまっすぐ見返した。
「サジェスさん。僕は、このラピスで生まれていません。ここではない、別の世界があって、僕は……そこから来たんです」
その言葉に続けて、少年は年不相応に落ち着いた口調で語り始めた。
ティアが生まれたのは、紛れもなく「ラピス」という名前の街であったと言う。中枢都市には三本の塔を携えた巨大な建物があり、これがラピスを統べているのは、サジェスが知っているラピスと同じ。七つの街があり、ラ・ロシェル、フィラデルフィア、バレンシア以下略という地名もそのまま同じ。ただし、中枢都市の名前はラ・ロシェルではなく、フィラデルフィアであったという。他にも、ティアの年齢ですでに研修生として訓練を受けていたり、統一機関に対する市民の反発が強かったりと、小さな差異がいくつかあるようだ。
また、最大の差異として、使われている言語が異なる。そして、今までティアが慣れ親しんできた言語が、地下の公用語ときわめて似た構造を持っていたそうだ。ティア曰く、発音や文法の細かい部分にすこし違和感があるそうだが、大まかな意味は取れる程度に類似しているらしい。
「なるほどな」
サジェスは椅子に深く座り直し、足を組んだ。
「似て非なるもう一つのラピスから来た。だからこそ『故郷がない』のか」
「あの……信じてくれるんですか」
「信じると言うか、信じるほかにないだろう。その説明を受け入れることで、全ての謎に納得が行く。貴方が地下の言葉を理解できる理由も、こんな場所に閉じ込められていた理由も、帰る場所がないという意味も」
サジェスがあっさりと言うと、ティアはどういうわけか食い下がる。
「で、でも、変だと思いませんか。もう一個ラピスがあるなんて」
「にわかに信じがたい話だとは思うな。だが、変とは思わない。二つの世界が互いに観測できないのなら、今まで知られていなかったのは自然の道理だ。むしろ、今まで交わらなかった世界がなぜ接続したのか、そちらの方が不可思議だが……」
日焼けした顎に手を添えつつ、サジェスは縮こまった少年を見遣った。
ティア・フィラデルフィアという少年は、紛れもなくコアルームに存在している。最初は身振り手振りでしか意思疎通できなかった二人が、これだけ言葉を交わせるようになった、その積み重ねは、否定しようもなく本物だ。
たとえ――どれだけ出自が謎めいていようが。
「貴方がここにいる。それが、何よりの証拠だろう?」
サジェスが言うと、ティアは小さく跳ねるように肩を動かした。そして俯いたかと思うと、口元にしわが寄るほど強く唇を噛む。瞳の光が不安定に揺らめいたかと思うと、それは球体に浮かび上がって、赤くなった頬を伝った。
「――どうした」
心持ち焦ってサジェスは問う。
「なにか、気に障ることを言ってしまったか」
「……違います。違うんです」
掠れてぼろぼろの声で言いいつつ、ティアは細い背中を丸めた。サジェスは追及する言葉を持てず、椅子の背もたれに身体を倒して、泣きじゃくる少年を見遣る。相変わらず「違う」とだけ言って、何が違うのかを語ってくれない少年だ。ため息を吐きそうになり、すんでの所で飲み込む。悲しくて泣いているのではない、というのは分かったからだ。
「――行き場がないのは、理解した」
ややあって、ティアが落ち着いてから、サジェスは腕を組んで言う。
「しかし……やはり、ここに貴方がいつまでも残るのは、良いこととは思えない。上層の……より浅い区域に、ここよりはまともな生活環境があるようだ。身の回りの品は手配するから、今後はそちらで生活するのはどうだろうか」
「でも……」
少年は躊躇うように視線を惑わせている。
「僕、ここでも大丈夫です。今まで通り、ここにいては、駄目ですか」
「あまり勧められないな。子どもがいるような場所ではない」
「だ、だけど。僕、その……上層? に行ったとして、何をしたら良いんでしょうか」
「何を、か。ティアの年頃なら、学舎で初等教育を受けるべきだが……」
そこで言葉を切り、サジェスは少し考えた。
何しろティアはラピスの市民名簿に登録されていないのだ。サジェスの持っている総権は、あくまでハイバネイト・シティ内でのみ通用する特権であって、地上ラピスの書類を書き換えることはできない。
「学舎に入れるのは、難しいな」
そう結論付けざるを得ない。
「ただ、正式に市民として登録されてないのは、
「――あの!」
サジェスの思索を、少年の固い声が遮った。
「勉強とかは、要らないです。それは僕には贅沢です。それより、仕事をさせて下さい」
「いや、それは」
「言葉の練習相手は要らなくても、雑用くらいならしますから……!」
「ティア――」
少年は椅子から床に崩れるように落ちて、お願いです、と低く頭を下げた。サジェスが止めても聞く耳を持たず、ほとんど床に頭をこすりつけるようにする。床に爪を立て、その小さい拳に骨が浮き上がっている。
「お願いです、お願い、お願いしますっ――」
繰り返す声は、次第に細くなっていく。比例して、呼吸が不安定になり、ひっ、ひっと咳き上げるような高い音がこぼれる。掴んだ肩が、風邪でも引いたように熱かった。地面に縋り付いた身体から力が抜けていき、細い体躯が床に横倒しになる。真っ赤な顔は眉間にしわを寄せて、譫言のように「お願いします」と繰り返していた。
「……どうしてなんだ」
その前に膝を突いて、サジェスは途方に暮れた。
「貴方は、どうしてそこまで、自分を追い込もうとする……?」
***
結局、サジェスはティアを手元に置くことに決めた。
ティアが帰るべき場所を持たず――正確には、故郷はあるのだが帰ることが出来ず、本人もコアルームに残留することを望んでいるから、というのが理由の大部分だ。また、ここまでの一ヶ月で既に分かっていたことだが、ティアは凡百の大人よりも頭の回転がずっと速い。資料を読み解く速度や、ライブラリ内部のツールに熟達する速度など、油断すればサジェスの方が後れを取るほどだった。そんなティアが自分の右腕として動いてくれるのは、経緯はともかくとして、結果としては有り難い限りだった。
また、サジェスの「地底の民を解放したい」という目標にも、ティアは同意を示した。
「ひたすら働かせ続けて、地上にラピスという街があることすら知らせないなんて、おかしいです」
「分かってくれるか」
「勿論です。と、言うより――大抵の人は同意するんじゃないですか。ただ、地下で働いてる人がいるなんて知らないだけで」
「そうだな……俺も、そうであって欲しいと、思う」
僅かに歯切れの悪くなったサジェスを、少年が怪訝な眼差しで見た。だが追及はせず、彼はハイバネイト・シティの配水系統にまつわるデータを整理する仕事に戻った。その背中を見送りつつ、サジェスはかつての自分のことを少し考えた。
サジェスは地上の出身だが、直近の二年間は、地底の民と同等の水準で働くことを強いられていた。この二年間、サジェスは継続的に記憶を消去され続けた。失われた記憶は取り戻しつつあるものの、部分的にノイズが掛かったようになっており、なぜ自分がそんな苦境に追い込まれていたのか、明確には覚えていない。
ただ――唯一、思い出せることがある。自分は統一機関の上層部に逆らったのだ。彼らにとって都合の悪い言動をした結果、記憶を含めて、ありとあらゆるものを奪われた。サジェス・ヴォルシスキーという名前。統一機関の研修生という身分。傷つけられた喉は、まだ大きい声を発することができない。
奪われたものの大きさは、もちろん恐ろしい。
だが、それ以上に恐ろしいのは、この非道をやったのが不逞の輩などではなく、ラピスの最高権力機関であることだ。ラピスのあらゆる采配を担う統一機関の思想は、そのままラピスの思想と言えよう。その統一機関が、自身に異を唱えたサジェスに対し、思考する能力そのものを奪うような処遇をしたのだ。
午後十一時。
地上では夜が満ちた時刻、ティアが眠ってから、サジェスはコアルームで呟く。
「……地上の人間に働きかけるだけでは、不足だ」
サジェスは地上ラピスの市民を信用していなかった。
統一機関の、人を人とも思わぬ所業は、言い換えれば苛烈な分断主義である。自身に不利益な存在を格下げし、邪魔にならない場所に押し込む。そんな思想を体現した統一機関に支配される地上ラピスが、同じ思想を内面化していないとどうして言い切れようか。
「やはり、駄目だ。地底の民が、直接、語る言葉を持たなければ……」
人工的な白色光のなかで、サジェスは額を押さえて俯く。