chapitre160. 決別
文字数 10,122文字
「ん……?」
暗闇の僅かな濃淡に、目を凝らす。
何か、大きなものが動いたような気がした。
同時に、耳で捉えられないほど低い、音と振動の狭間のような鳴動が、はるか遠い場所で響く。アルシュは手摺りに片手をかけて身を乗り出し、貯水槽の奥をじっと見つめる。ところどころ段違いになっている天井と、
「気のせいかな」
「どうしましたか」
先を行く構成員が振り返る。
「柱が……なんか、垂直じゃないような」
アルシュの独り言に、彼は難しい顔をして暗闇に目を凝らした。長方形の天井から規則的に伸びている柱の群れは、どれも寸分違いなく平行であるはずなのに、その輪郭線に微妙な違和感があった。
「傾いてる……?」
「どうした」
後からティアと、遅れてカノンが通用口をくぐり、こちらに追いついてくる。立ち止まっているアルシュたちに彼が片目を細めた、そのとき。
とつぜん、空間が音を立てて震えはじめた。
靴の裏がふわりと浮いて、とっさに手摺りを掴もうと伸ばした手が空を切る。横に吹き飛んだ身体を壁が叩きつけて、胸郭を突き抜ける衝撃に息が止まる。
ほとんど身体のコントロールが利かないまま、アルシュは壁に沿って崩れ落ちる。突き出した構造にこめかみを打ち付けて、痛みに思わず呻く。
暗い貯水槽が視界に映る。
柱のひとつがゆらりと傾くのが見えた。
直後、垂れてきた前髪が視界を遮り、何も見えなくなる。闇に包まれた視界の向こうで、銃声のような音のパルスが空気をつんざいた。
「みんな屈め!」
誰かが叫ぶ。
床が、壁が激しく揺れる。自分がどこかに飛んでいかないよう、身体を支えるだけで精一杯だった。
「違う、走って!」
少年の高い声。
ジャケットの襟首を引っ掴まれて、身体が持ち上げられる。地面を捉えそこねた爪先が宙に浮く。逆さまに吊られた視界に、構成員たちの手を引いて起こそうとするティアの姿が映った。
破砕音。
通路の床が傾く。
「アルシュさん!」
ティアが叫び、こちらに手を伸ばした。
細い体躯の重心が、不安定に傾く。
「――来るなぁっ……!」
硬直した喉から叫びを絞り出す。
全ての動作がスローモーションのように見えるなか、アルシュは腕を伸ばして、少年の身体を向こうに突き飛ばす。反動で放り出された身体を、何かが包み込むように抱えて、その腕ごと、重力に引かれるまま落下した。
悲鳴だけが虚空に留まった。
一秒にも満たない滞空。
そして衝撃。
一瞬ののち、黒い流体が視界を閉ざし、アルシュは壁に埋め込まれたように身動きが取れなくなる。濁流に手足を巻き取られて、その無情な怪力が、羽虫を指の腹で潰すように軽々と身体を引き裂きかけたとき、視界の端で何かが光った。
指先よりずっと遠くに、水面。
靄のような光に目を凝らしたとき、どこからか伸びた手のひらがアルシュの首を鷲づかみにして、ほとんど強制的に身体を引き上げる。見る間に水面が近づいて、頬が冷たい外気に触れる。息苦しさに襲われて、反射的に顔をしかめたアルシュの顔を、ほとんど影になった顔が一瞥した。
「――落ち着け」
水を吸い込んだらしい、鼻の奥が刺すように痛む。げほげほと咳き込みながら、涙で霞んだ目元を片手で拭うと、良く知った声が落ち着いた調子で言った。
「足は着く深さだ」
「あ――」
カノンの声だ、と気がついた。
そこでようやく視界が開け、アルシュは自分の置かれた状況を理解した。
下を見る。
水没した通路のような場所に立っていた。
だから足が着くのだ、と理解する。
上を見る。
貯水槽の壁に巨大な亀裂が入っている。
通路は大きく傾いて、途中から崩落している。
あそこから落ちたのだ――と理解したとき、崩れた通路の向こうに、少年の姿が現れる。ティアがへし曲げられた手摺りに掴まって、こちらに身を乗り出していた。
「――何やってるの!」
アルシュは立ち上がって、上に目掛けて両腕を振り回した。
「行って、ティア君、早く!」
「でも! お二人が」
「地上に行くって約束したでしょう!?」
ほとんど金切り声のような叫びに、ティアがびくりと怯んだ。引き返してきた構成員がティアの胴体を抱えて、無理やり引き剥がして連れて行く。少年の身体をせまい通用口に押し込んでから、彼はアルシュたちの方を一瞥だけして、それから姿を消した。
その直後、ふたたび轟音が響く。
アルシュは音の方に顔を向けて、そして、貯水槽の全容を目の当たりにした。
直立していたはずの無数の柱。
それらが、ことごとく倒れ始めていた。
始めはゆっくりと傾き、そして徐々に加速し、最後は豪速で水面に落下する。コンクリートが水面を叩き、銃声のような音が空間にこだました。
隣にいるカノンと、一瞬だけ視線が合う。
じきに崩れる、と彼が言う。あるいは、言ったように感じただけかもしれないが、ともかくふたりは危機感を共有して、どちらからともなく立ち上がり、逃げられる場所を探した。
「――あ」
カノンの背後で、柱がゆらりと傾いた。
アルシュは目を見開き、後ろ、と叫んだ。焦れったくなるほど緩やかに振り向こうとする、カノンの胸ぐらを掴んで、祈るような思いで横に飛ぶ。直後、ふたりが立っていた場所を押し潰すような形で、折れた柱が倒れてきた。
足場を失って視界が不安定に揺れる。
その片隅に、まだ崩落していない通路を見つけた。水面から数メートルは上に離れているが、斜めに倒れた柱のひとつを橋のように伝っていけば、どうにか辿りつけそうだ。
「カノン君、あれ、行こう」
彼の腕を掴んで方角だけを示し、答えは聞かずに泳ぎ出す。濡れた服が身体にまとわりついて、濁水の底にアルシュを引きずり込もうとする。死力を振り絞って泳ぎ切り、倒れた柱のふもとまで辿りついた。コンクリートのへりに指をかけて、水を含んで重たい身体を持ち上げる。
「走って!」
カノンの腕を引いて、ガタガタと揺れる柱の上を駆け抜ける。あばらの周りに痛みが走るが、構っている余裕はなかった。柱に押し潰された手摺りを乗り越えて、一メートルほど下の通路に飛び降り、やっとの思いで通用口を抜けた。ひとまず安全圏まで辿りついて力が抜け、アルシュが壁に寄りかかって息を吐くと、カノンが膝を付いた。
「大丈夫?」
引き返し、屈んだ肩に手を置く。
伏せられた顔から「いや」と掠れた声が応じる。
「悪いが、少し……上まで、肩を貸してくれ」
「わ――分かった。左、それとも右?」
「右に」
ひとつ頷き、彼の肩の下に身体を入れて、のしかかる重量を全身で支える。不安定な狭い階段をどうにか登り、身体を休められる広い空間まで辿りつく。
「足……痛めた?」
「ああ、多分」
カノンは赤い非常灯の下に座り込んで、眉間にしわを刻みながら右足を引き寄せた。浸水したブーツを脱ぐときに、口の端から小さな呻き声を零す。
「通路から落ちたときに、おそらくは。折れたかもしれない」
「折れた……」
まだ事態を整理しきれないまま、アルシュは曖昧に頷く。
通路が崩落し、ティアを床の方に突き飛ばしたとき、反動で後ろに飛んだアルシュを支えてくれたのが、おそらく彼だったのだ。そのままふたりは下の通路に落ちたが、落下した距離のわりにアルシュが怪我をしていないところを見るに、彼が受け止めてくれた――と考えるのが妥当に思う。
「えっと……どうしよう」
以前にアルシュがハイバネイト・シティで頭部の治療を受けたときには、器用なロボットアームが施術をしてくれたが、今は手近にあるもので対処するしかない。
「包帯くらいしか持ってないけど――添え木になるもの、その辺で探してくるよ」
「いや、それより……あんたは戻って、MDPの連中と合流したほうが良い」
「なにそれ」
アルシュは眉をひそめる。
「置いて行けって言ってる? 大体、どうやって戻るって言うの」
周囲を見回すが、どう道を辿ればさっきの地点まで戻れるのか、見当も付かなかった。広大な貯水槽の、ほぼ反対側まで回ってきてしまったのだ。
「たぶん無理だよ」
「なら、せめて上の階層へ――」
「って……いうか」
隣の床に腰を下ろして、アルシュは彼の台詞を遮る。
「今まで散々、助けられて……ここでカノン君を置いていくほど、恩知らずなことはできないって」
「だが」
「あのさ」
額に貼り付いた髪を横に避けて、アルシュは友人に視線を正面からぶつける。
「私が、私のことを軽んじてるって――言ったよね。あの意味、さっき、やっと分かった……たしかに私は、自分の身を顧みないことばっかしてるなって思った。色々、必死で――とにかく、何かしていないと、苦しかったんだ」
「それは……あんたの友人が、不慮の事故で亡くなったからかい」
「そう。それだけじゃないけどね」
彼の隣に膝を付いて、アルシュはリュックサックを下ろす。その奥を手で探って、筒の形に巻かれた包帯を取り出した。
「でも、それって……カノン君も同じでしょ」
言ってから、正確性に欠けるなと思い「違うな」と小さく首を振る。
「私たちは、多かれ少なかれ、そういうとこがあるよね。私も貴方も、ティア君も、シェル君も。統一機関っていう箱庭にいたから、その外側で、どうやって自分の存在を肯定したら良いのか、それが分からない……」
「ああ……」
「違うかな」
「――いや」
カノンが短く呟いて、包帯を受け取る。
「俺は……まさに、それが言いたかった。俺たちという存在は、きっと無価値ではないはずなのに、安全を
「うん、そうじゃないんだよね……」
アルシュはペンライトを片手に立ち上がり、通路を照らした。突き当たりの角に、備品入れらしいロッカーがある。扉に手を掛けて引くと、鍵は掛かっていなかったらしく、あっさりと開いた。アルシュは腰を屈めて、ロッカーのなかを物色する。
発電棟の再起動は済ませた。
データボードは全て仲間に託した。
コアルームはエリザたちに任せてきた。
アルシュたちが地下で果たすべき役割は、もうこれ以上何もない。ここで二人が生きても死んでも、それは累計52万の
「誰も証明してくれないけど……きっと私たちは、誰かの役に立てなくたって、ただ、生きていて良いんだ。だから、カノン君」
添え木の代わりに使えそうな端材を片手に、アルシュは振り返った。
「地上に行こう」
*
同時刻、コアルームにて。
パネルの中央に、赤く縁取られたウィンドウが浮き上がる。貯水槽のひとつが決壊した――という
長い髪を後頭部でひとつにまとめたカシェがこちらを振り向き、温度のない一瞥をよこした。
「統一機関の直下付近で、大規模な崩落が生じている。一部は地上にまで達している……連鎖的崩壊のシナリオが、かなりの精度でトレースされていると言って良いわ」
「崩落……とは、具体的にどのような」
「これを見なさい」
カシェは事務的な口調で言ってパネルを指さす。
そのラ・ロシェルの街の、まさに中央。
放射状に伸びた道が交わる先で、巨大な大穴が口を開けている。遠近感を狂わせる光景だった。リアルタイムの映像であるはずだが、後付けで巨大な穴を合成したのでは、と思わず疑いたくなる。
「ねえ、カシェ」
エリザが問いかける。
「これって広場の辺りかしら。ええと、名前は忘れてしまったのだけど、覚えている? ほら、焼き菓子を頂いたとき、待ち合わせをしたベンチがある――」
「……そうよ」
「じゃあ、統一機関はこれかしら」
パネルを指さして、エリザが首を傾ける。
彼女と共有した眼球で、ロンガもパネルを見つめた。エリザが指さしたのは、崩落の大穴から少し離れた位置にある建物のひとつだ。解像度が低く分かりづらいが、たしかにエリザの言うとおり、統一機関の特徴である三つの塔をはじめとして、正三角形を基調とした構造が映っているようにも見える。
そうね、とカシェが頷く。
「地図と照らして、おそらくその通り」
「そう。崩れなくて良かったわ」
「ええ、そうね。あの高さの塔が崩れると、周囲に甚大な被害が――」
「それだけじゃなくて」
エリザは横を向いて、カシェの表情をまっすぐ見つめた。
「私たちにとっては特別な場所でしょう? 私と貴女と、そしてラムが出会った、思い出の場所よ」
「――エリザ」
ラムの名前を聞いたからだろう、暗いコアルームでも分かるほど、カシェの頬が蒼白になる。対するエリザは、穏やかな声の調子と表情を保ったまま「あら」と小さく首を傾げた。
「そんなに悲壮な顔をしなくても」
「……怒っていないの、貴女」
「だってラムが亡くなったのは、別に、貴女のせいではないもの」
エリザは何食わぬ顔で言って、結った髪を背後に払う。カシェはなにか言いたげに口を開いたが、数秒の逡巡ののち、息を吐いて視線を逸らした。
ロンガは息を潜めて、ふたりの会話を聞いていた。
エリザ本人がラムの名前を出したのは、ロンガもカシェに負けず劣らず驚いた。エリザは優しく、寛容な性格をしているが、それでもラムの一件だけは、彼女のなかで許せない過去として残り続けているはずだ――と思っていた。
死にゆくラムに冷淡な言葉しか浴びせられなかったロンガと同様、彼を殺そうと画策したカシェのことも、完全に許せる日はこないだろうと、どれだけ時間が経ってもわだかまりが残り続けるだろうと、そう思っていた。
隣に佇むエリザの気配をちらりと見る。
違うのだろうか。
かつて三人は友人だったという。もうラムは帰ってこないにせよ、カシェとエリザが十年の生命凍結を経てふたたび友人に戻る――そんな未来を期待しても良いのだろうか。
「エリザ」
唇は動かさず、意識のなかでだけ、ロンガはエリザにこっそりと話しかける。
「マダム・カシェのこと、貴女はどう思っているんですか?」
「お友達、よ」
「……そうですか」
本当だろうか。
多少、含みがある言い方にも思えた。
ロンガが内心で首を捻っていると、エリザは「だから」と呟いて背を向けた。
「ごめんなさいね、リュンヌ」
「え? どういう意味――」
言葉が途中でとぎれる。
どん、と背後に突き飛ばされた。
今のロンガはエリザと身体を共有しているので、突き飛ばされた――というのは感覚だけの話だが、そこで気がつく。いつの間にか、半々で共有していたはずの身体のコントロールが、ほとんどエリザに支配されていた。どろりとした水に腕を絡め取られたかのように、指先ひとつ自由に動かせない。
「エリザ?」
彼女は答えない。
視界が横にスライドした。
エリザはコアルームの隅に移動して、コードの千切れた操作盤を持ち上げた。基板となっている金属板が厚く、重さは三キロといったところ。見るからに細いエリザの手首が、金属の重みに軋んだ。
視界が再びスライドして、コアルームの中央近くを向く。横に長い楕円形の視界、そのほぼ中央に、後頭部で髪をまとめたカシェの姿が映った。彼女はこちらに背を向けている。操作盤に両手を置いて、管理AIに提示されたメッセージを読んでいるようだ。
エリザはゆっくり、凍りついた水面を踏むように慎重な足取りで、そちらに向かう。
カシェは振り向かない。
「どうしたんですか?」
ロンガの問いかけはエリザに届かない。
全てが息を潜めたような静寂のなか、エリザはカシェの背後に近づいて、両手で抱えた操作盤をゆっくりと持ち上げる。重たい金属塊であるそれを、エリザが頭上まで掲げたとき、ロンガはようやく彼女の意図に気がついた。
「エリザ!」
千切れたコードがゆらりと揺れる。
次の瞬間、エリザは両手首に力を込めて操作盤を振り下ろした。金属塊は重力のまま加速して、引き寄せられるように落下し、カシェの後頭部を殴りつけた。
*
バキッという痛々しい音に、ロンガは思わず視線を背けようとした。だが実際には、眼球の動きひとつ取っても自由にはならない。カシェが小さく呻いて崩れ落ちるさまを、エリザと全く同じ視線で、ロンガは呆然と見つめていた。
エリザが操作盤を床に捨てる。
衝撃で、手首がじんじんと痺れていた。
エリザは横倒しに崩れたカシェの身体に馬乗りになり、体重を掛けて抑えこむ。後頭部を強く殴打されたカシェは、意識は辛うじて保っているようだが、自分よりずっと小柄なエリザに対してほとんど抵抗できないまま、うつぶせに床に押し付けられた。
馬乗りの姿勢のまま、エリザは背後に手を回して、どこから取り出したのか、手錠でカシェの手首を拘束する。
「ねえ、カシェ」
息を切らしながらも、エリザは穏やかな口調でカシェに語りかけた。ワンピースのなかに隠していた拳銃を取り出して、長い金髪を括った後頭部に、黒光りする銃口を押し付ける。
「私はね、怒っていないけれど、貴女のこと、許してもいないわ」
「エリザ……そうよね、やっぱり――」
「動かないで」
乾いた銃声が響く。
カシェが顔を伏せた、そのすぐ横の床に穴が開く。焦げたような匂いが広がり、細く煙が立ち上る。ひっ、と声帯を震わせたカシェを見て、エリザは「へえ」とどこか嘲笑うような声で呟いた。
「貴女でも、やっぱり銃は怖いのね。こんなのに怯えてくれるとは思わなかった」
「そうね……生理的な恐怖はあるわ」
震えているが抑制された声で、カシェが言う。
「だけど、エリザ……貴女が私を殺すなら、抵抗しない。痛めつけたいのなら、それでも良い。何もかも、貴女のしたいように」
「……ずいぶん素直だこと」
「それだけのことを、私はしたわ。ラムや、貴女の娘を脅かして、銃を向けた……償ったって償いきれないのは、分かっている」
「ええ、そうね?」
エリザはカシェの髪を掴みあげて、その顔を至近距離でのぞき込む。額の生え際から血がにじんで、鼻筋のわきをしたたり落ちる。青と白銀色の瞳は、いずれもエリザの、氷のような無表情を映していた。
「昔は、空と海の青を混ぜたような、美しい瞳だったのに……そんな醜い灰色になってしまって」
エリザの指先が、小さく痙攣するカシェの下まぶたを辿る。その手つきは乱暴で、ともすれば眼球を爪で引っかきそうだった。
「そうやって、D・フライヤの媒体に成り果てるほど、後悔した――それほどまでに非道なことをしたのよね、貴女は」
「……ええ」
「それをまさか、私に断罪してもらえるとでも思ったのかしら。私が貴女を殺す、ですって?」
エリザは小さく身を引いて、溜息を吐いた。カシェの後頭部を掴んだ指に力を込めて、冷え切った声のトーンで言う。
「貴女の
それを聞いて、カシェの表情が絶望に染まった。
「悪かったわ、ごめんなさい、本当に!」
「謝罪なんて求めてないわ」
「何でもするから!」
見開いた目から涙をこぼして、カシェが叫ぶ。
「どんな苛烈な罰でも受け入れる」
「違う。貴女がどれだけ苦痛の叫びを上げたって、なにひとつ、修復されないのよ。過去は変えられないのよ。あの楽しかった日々は――ラムは帰ってこないのよ!」
ほとんど絶叫に近い声が、コアルームの壁を揺らした。
涙腺が
「どうして……かしらね」
呟くように問う。
「たった十年で、何もかも変わってしまった。ラピスの歴史に比べればずっと短いはずの時間なのに……もう、私たち、永遠に帰れないのね」
全身が刺すように痛んだ。
エリザの悲しみを、ロンガは肌で感じ取る。
「それでも……年老いて死ぬには、貴女はまだ若い。戻れないあの頃を、渇望して夢に見て、目覚めるたび、それが過去であることに絶望して、そんな日々を、何十年も生きないといけない……」
エリザは小さく息を吐いて立ち上がった。
「それが、せめてもの罰じゃなくて?」
声のトーンが変わる。
エリザは天井のスピーカーに視線を向けて、彼女と同じ名前の管理AIに呼びかけた。
「
『はい』
即座に合成音声が応じて、天井の一部がスライドして開き、ロボットアームが降りてきた。先端がフックのように曲がって、カシェの両脇に入り込んだ。事態を呆然と見守っていたカシェが、はっと目を見開く。
「――待って、それは駄目!」
「貴女を死なすわけには行かないのよ」
ロボットアームの関節が曲がり、無慈悲な力強さでカシェの長身を持ち上げる。カシェは身体を捻って逃れようとするが、背中側で手錠を掛けられているために、拘束を振りほどくには至らない。
「何を考えてるの、エリザ」
青い顔でカシェが叫ぶ。
「貴女ひとり地下に残るなんて、無茶よ!」
「分かってるわ。そうね、私はこのまま、地下を脱出できず、瓦礫に埋もれて死ぬかもしれない」
「そうでしょう! だから、今すぐ、これを止めさせて――」
「私が死んだら、尚のこと」
ロボットアームに引きずられるカシェを追いかけて、エリザはコアルームを出た。暗い通路をゆっくりと歩きながら、頬を持ち上げて微笑む。
「貴女は後悔に塗れた、辛く重たい余生を送るのでしょうね」
「――エリザ、貴女、まさか」
死ぬつもりなの。
ひび割れたカシェの唇が、そんな言葉を乗せて動く。エリザは否定も肯定もせず、ただカシェの顔をじっと見つめ返した。
「ねえ、カシェ」
穏やかな声が言う。
「私はね……ラムやリュンヌと同じくらい、貴女のことが大切よ。すごく恨んでるけど、同じくらい大好き。お友達でいてくれて、本当にありがとう」
昇降装置の扉が開いた。
もはや抵抗を諦めて、ぼろぼろと涙をこぼすカシェの身体が、狭い円筒形のなかに引きずり込まれていく。
「私は、私のお友達を守りたいのよ。ごく自然なことじゃないかしら」
「エリザ……どうか、考え直して」
「いいえ、これでお別れよ。貴女とは、もう会わないと思うけど……私たちのこと、今度は絶対、忘れないでね。
長い髪を払って、エリザはカシェに背を向けた。モータの低い作動音とともに、昇降装置の扉が閉まるのを、背後に感じ取る。
「さようなら、カシェ」
ほとんど音になっていない掠れ声で、エリザがそう呟いた。
*
「……ごめんなさいね、リュンヌ」
息を潜めて成り行きを見守っていたロンガは、エリザに声を掛けられて、おそるおそるそちらに意識を向ける。すぐ隣にあるエリザの意識が、悲しげに微笑んだような気がした。
「私、本当に、ここで死ぬかもしれないわ。もし昇降装置が止まったら、アルシュたちが言ったとおり、ひとりで脱出するのは、私の力では無理だもの」
「……良いんですか、エリザは、それでも」
「もちろん、死にたいわけじゃないわ」
腹部を覆う、コルセットのような包帯に手を当てて、エリザが目を伏せる。手術痕がまた少し開いてしまったらしく、脈拍に合わせて疼くように痛んだ。
「ラムがせっかく、生かしてくれたんだもの……こんなの、彼が望んでるわけがない」
「私も……そう思います」
自分が口出しすることではない、と思いつつも、ロンガは黙っていられなかった。
「ムシュ・ラムもマダム・カシェも、何はともあれ、貴女の身を第一に考えていたはずです」
「そうね。馬鹿なことをしたのは分かってるわ」
静まりかえったコアルームに戻り、エリザは椅子を引いて腰掛けた。操作盤に手を置いて、待機していたウィンドウに提案された命令を、総権保持者の権限を使って実行させる。
「でも、何を天秤に掛けても、守りたいものってあるでしょう……私にとっては、カシェも、そのひとりなのよ」
「守りたい、ですか。本当に?」
もう少し愛憎の入り混じった、複雑な感情にも見えたが。ロンガの問いかけを受け流して、エリザは新しいウィンドウを開いた。
「さあ、仕事に戻りましょうか」
「……はい」
たったひとり、暗い地底に残されたふたりは、白銀色の瞳でパネルを見つめた。