フィアト・ルクス
文字数 11,127文字
***
太陽が落ち、部屋は暗闇に包まれる。
部屋の輪郭が闇に溶けていく部屋は、冷たく澄んだ空気で満ちており、それらは音を伝えることを忘れてしまったかのように静かに佇んでいた。何もかもを包み込む静寂のなかで、自分の呼吸や鼓動すらだんだん遠ざかっていく。板張りの椅子は冷たく、触れた背中から体温が奪われていく。
死んでいるようだ、と
自分のつむじを遥か上から見下ろしているような気分で、彼は自身の存在を知覚した。彼はいま、人生においてもっとも大きいと考えられる岐路にいる。緊張しているはずだ。本来ならもっと、心臓はうるさく鳴り響くべきだし、胸元が圧迫され息苦しさを覚えて然るべきなのだが、身体そのものが無機物のように静かだった。
そんな静寂のなかで、彼は目の前の扉を見つめている。
静かに扉を見つめている、こんな黄昏は、彼の人生において六回目だった。過去の五回と同じく、今日もまた、粉雪がちらつく初春の日だった。春が近づき、静かな地中にざわめきが生まれ始める季節だった。
彼は扉を見つめている。
この扉は――過去五回、五年の間、一度も開かなかった。この扉が今年も開かなかったとき、それは彼にとって、事実上の人生の終わりを意味していた。そのときは、ここに来る道中で見た川にでも飛び込んでしまおうと思った。冬眠から虫や獣たちが目覚める、春の訪れに逆らうように、静寂に身を沈めてしまおう――彼はそう思った。
カツ、カツと足音が近づく。
扉の向こうで、誰かがこちらに向かって歩いてくる。彼が見つめているこの扉を、開けるも開けないも自由に選択できる者の足音だ。過去五年間にわたって、扉の向こうを素通りし続けた足音だ。
カツ――と一歩。
また一歩、近づいてくる。
その音は高く響き渡り、暗闇にひそんだアーチ型の天井で、あるいは彼の頭蓋骨の内側で、跳ね返って増幅する。無限に反響した音たちが重なり合い、共鳴する。飽和した雑音によって形成される逆説的な静寂のなかで、彼は扉を見つめていた。
そして――ぎぃ、と音が鳴る。
光が上下左右に広がる。
暗闇に慣れた網膜に光が突き刺さり、痛みを覚えて目を細めた。視界が真っ白にハレーションを起こし、サイケデリックと形容できるほどの眩しさを幻視する。たまらず目元を擦ると、少し視界が明瞭になって、扉の向こうに立っているシルエットが見えた。
「おめでとう」
滲んだシルエットが言う。
「アックス・サン・パウロ。君を、コラル・ルミエールに迎え入れる」
***
コラル・ルミエール。
新都ラピスでもっとも技術的に優れていると讃えられる
もちろん、誰もが入団できるわけではない。
農業や工業やその他の『役割』に比べて、音楽の技術は生まれ持った才能によるところが大きいとされている。だからだろうか、通常であれば横並びで基礎教育を受けているはずの十代前半にして、アックスたち音楽家は、人生最大の試練――入団選抜に挑むのである。
コラル・ルミエールの場合、受験資格があるのは十歳から十五歳まで。
一年に一度、三月下旬に選抜が行われる。毎年数十人が選抜に応募して、ラピスの七都市からラ・ロシェルの試験会場まで集まってくる。だが合格者は多くても一年に五名程度で、全員が不合格になる年度も珍しくないと言う。十歳から十四歳までの実に五年間、コラル・ルミエールからノーを突きつけられ続けたアックスは、その厳しさを身に染みて理解していた。
「しかし……アックス君」
先を歩く年配の男が、振り返って言う。
彼――ディニテは、コラル・ルミエールの団長である。精鋭の唱歌団員たちを統べるディニテも、また、優れた音楽家だ。濃い臙脂色のスリーピーススーツを洒脱に着こなし、グレイヘアをワックスで整えた彼が、豊かに動く口元を持ち上げてみせる。
「君は本当に、諦めない人だったねぇ」
壮年の音楽家らしく、深みのある声が微笑んだ。
「なかなか珍しいよ。受験資格がある六年間、六回とも挑戦しにくる人は」
「……そう、ですか」
うまく喉が動かせなくて、アックスはやっとそれだけ言った。
まだ、自分が選抜に合格したのだ――という実感が湧いていなかった。毎年春にコラル・ルミエールの選抜に挑み、そのたびに不合格を突きつけられた五年間は、アックスにとってあまりにも長かった。長い修練の日々にようやく終止符を打ったのだ、と頭の中では分かっていても、感情が伴ってこない。
ディニテが振り返って「だから」と口の片端を上げてみせた。
「我々としてもね。今年の審査には緊張したよ」
「緊張……?」
「君の熱意に
「……はぁ」
アックスは曖昧な相槌を打った。
ちゃんと――とはどういう意味だろうか。霞が掛かったような頭で、ぼんやりと考えながら歩いて行くと、次にディニテは「ところで」と別のことを尋ねてきた。
「アックス君。君は、どうしてそこまで、この団に拘ったんだ?」
この質問には、アックスは明瞭な答えを持っていた。
なので、即座にこう答えた。
「最高の仲間とともに、音楽を創りたかったからです」
アックスがまだ幼少の折、コラル・ルミエールが故郷サン・パウロを訪れて、演奏会を催したことがあった。荘厳にして自由、斬新にして調和的な彼らの音楽は、耳にした瞬間にアックスを魅了した。それ以降アックスは、自分の目指すべき場所は、コラル・ルミエールを置いて他にないと考えるようになった。
だが。
明快な返答に反して、ディニテは少し苦笑する気配を見せた。
「……アックス君」
ディニテが、こちらを見上げる。
アックスがディニテと最初に出会ったときは、その胸元くらいまでしか背丈がなかったが、去年の段階でアックスは彼の身長を追い越した。この六年で少し腰が曲がり、つむじ回りの毛が薄くなったディニテが、深い年月を刻んだ口元を持ち上げてみせる。
「これは、面接ではないんだ」
垂れ下がったまぶたの下で、褐色の瞳が光っている。
「私は、志望動機を聞いているのではないよ……ただ、君の本音を聞かせて欲しいだけなんだ。なぜ君は、地方他都市の
「あの――ムシュ・ディニテ」
アックスは左右に首を振ってみせた。
「僕には、その違いが分かりません。ただ僕は、いち声楽家として、コラル・ルミエール以上の選択肢はないと思った……それだけです」
「……そうか」
ディニテは小さく頷き、扉の取っ手に手を掛けた。
「君を
その言葉とともに、彼は扉を開ける。
ぎい、と錆びたような音を立てて扉が開く。その向こうには緋色のカーペットと、二列に並んだ木製のベンチがある。そこに二人のシルエットが座っていて、彼らは扉が開いたことに気がつくや否や、ぱっと顔を上げてこちらを見た。
こほん、とディニテが咳払いをする。
「改めて、合格おめでとう。今年の新入団員は、君たち三人だ」
「――三人」
ごくりと唾を飲み込む。
心臓が、どくりと大きく跳ねた。
片手の指で数えられるほどの枠のなかに、自分が収まっていることが、まだどこか信じられないながらも、アックスは高揚感とともに部屋に踏み込んだ。扉が大きく開かれ、廊下の光が室内に差しこんで、影になっていた二人の表情が明らかになる。
二対のまなざしがアックスを見る。
「……え?」
その顔立ちを真正面から見て、アックスは思わず間抜けな声を出した。
「彼が、ロマン君」
柔らかそうな金の髪を揺らした少年が、ぱちりと瞬きをする。
「こちらがルージュ君」
焦げ茶色の髪を後頭部でまとめた少女が、訝しげな視線でこちらを見る。
「そして、アックス君だ」
ディニテが振り返り、こちらに手のひらを差し出す。ディニテの視線が斜め上を向いているのは、彼の身長をアックスがすでに追い抜いたからだ。やや小柄な老人であるディニテの向こうにいる、二人の合格者は、遠近法を加味しても明らかに小さかった。
まだ十歳を超えたばかりと思わしき、子供。
「君たち三人は、
「……あのぅ」
ルージュと呼ばれた少女が、小さく首を傾げた。
「同期、なんですか。先輩じゃなくて?」
「コラル・ルミエールでは、年齢にかかわらず、同じ年に合格した者を同期と言うんだよ、ルージュ君。君たちは皆、創都三四〇年の試験で合格した。ゆえに、同期だ」
「そう……なんですか?」
不思議そうに眉根を寄せて、ルージュが呟く。
その背丈はアックスの胸元くらいまでしかない。もう一人の少年であるロマンも同様。丸みのある顔といい、明らかに未発達な骨格といい、紅をさしたような頬といい――とても自分と同質な存在とは思えず、同じ単位で数えられることに違和感があった。
――それでも。
ディニテの言うとおり、同じ年度に合格した以上、アックスと彼らは同じ立場にある。逆に言えば、コラル・ルミエールに入団するために五年間の修練を積んできた自分と、同等か、もしくはそれ以上のものを見込まれて、彼らはこの場所にいる――ということだ。
不意に、眩暈のようなものを感じた。
「よろしくね。二人とも」
口元に笑顔の形を作りながら、アックスは握手のために手のひらを差し出した。戸惑いながら握り返す手は、どちらも冗談のように小さくて握力も弱い。柔らかく幼い、疲れていない手のひら。アックスが声変わりと成長期を越えるうちに失ったものを、まだ当たり前のように有している彼らは、それでも、音楽の技能にかけてはアックスと同等――あるいは、それ以上なのである。
ひとつ、思い違いをしていたようだ――とアックスは思った。
コラル・ルミエールの選抜に通過できないまま、いたずらに背丈ばかりが伸びていった五年間が過ぎるうち、いつの間にか、選抜に通ることそのものが目的のようになっていた。倍率がどれだけ高かろうが、選抜に合格さえしてしまえばゴールだと思っていたのだ。
そうではない。
幼い少年少女を見て、アックスはぐっと唇を噛む。
ここにいるのは――いま目の前にあるのは、アックスが必死の思いで積み上げた五年間の鍛錬を一瞬で吹き飛ばす、目も眩むほどの才能だ。コラル・ルミエール――光の唱歌団という名にふさわしい、超新星じみてずば抜けた、生まれながらの音楽家たちだ。
対等な仲間――などではない。
とても、そんな立場にはなれない。
それでもコラル・ルミエールの一員として、同年度に合格してしまったからには、これからアックスは、そんな化け物じみた才能たちと互角に渡り合って行かなければならないのだ。そびえたつ崖に素手で登る試練を、ようやく乗り越えたと思ったら、今度は空を飛べる相手と競えとでも言われているような――そんな状況。
どうしろというのか。
底知れない暗闇が、腹の底で渦巻いた。
***
朝六時半。
夜明けとともに目を覚まして、アックスは寝台で起き上がる。寄宿棟の個室はあまり快適とは言えず、窓の方から常に冷気が漂っていた。幸いにも厚手のブランケットを二枚借りられたので、別段寒くはなかった。しかし、身体を大切にしないといけない唱歌団員の生活環境としては、もう少し断熱に気を遣った方が良いのではないだろうか。
そんなことを考えながら、着替えて階下に降りていく。
「アックス君、ちょっと」
食堂で先輩の団員たちに挨拶をしていると、団長のディニテに声を掛けられる。
「君たち新入生には、今日の朝食の前に、団員に向けて一言挨拶をしてもらおうと思っているのだけど……君の同期二人は、まだ、来ないのかね」
「ああ、えっと……ロマンとルージュでしたっけ?」
覚えたばかりの名前を思い出しながら「いえ」とアックスは首を振る。
「まだ、見かけてはいませんが」
「声を掛け合ったり、していないのかい?」
「え? はい」
アックスは首をひねる。
「あの、した方が良かったですか」
「いや……例年、同期どうしで仲良くなるものだと――」
ディニテは珍しく口籠もる。
「まあ、それは良い。私が口を出すようなことでもない。ただ、挨拶に間に合わないと少々困るのでね……アックス君、申し訳ないが、二人が部屋にいないか見てきてくれるかい?」
「分かりました」
アックスは首肯して、食堂を出る。
冷え切った廊下を早足で引き返して階段を上り、ロマン少年の居室の前に立って、扉をノックすると「どうぞ~」と元気そのものの返答があった。どうも、寝過ごしたというわけでもないらしい。
何やってるんだ――と内心でぼやきながら扉を開けると。
「――寒っ」
途端に、廊下とは比べものにならないほどの冷気が吹き付けた。身体を芯から凍らせていく寒さに、知らず知らず全身を強ばらせながら扉を大きく開ける。見ると、部屋のガラス窓が全開にされていて、その窓際に同期の二人が腰掛けていた。
「おぅ……えっと、アックスだっけ」
ロマンが片手を上げる。
その横で楽譜を開いていたルージュが、ぺこりと頭を下げた。白く曇った空から粉雪がちらついていて、二人の髪の毛にも雪がついている。全身の皮膚が粟立つのを感じながらも、アックスは後ろ手に扉を閉めて、早足に窓際に向かった。
「なんで窓開けてるの」
「外がよく見えるから」
「は……? か、風邪、引くでしょう」
開いた口が塞がらないながらも、アックスはようやくそれだけ言った。窓枠に腰を下ろしていた二人を強引に追い払って窓を閉めると、明らかな不満の視線を向けられたが、構っていられない。こんなに子どもって愚かだったっけ、と呆れながら、アックスは床に座っている少年少女を見下ろした。
「ムシュ・ディニテに呼ばれてる。食堂に行くよ、二人とも」
「え、何でですかぁ。まだ、時間ありますよね?」
ルージュが時計を見て唇をとがらせる。
たしかに彼女の言うとおり、朝食は七時からで、今の時刻は六時四十分過ぎなので、多少の猶予はある。だが、ディニテに呼ばれているとなれば話は別だ。アックスが「新入団員は朝食の前に挨拶をするんだって」と伝えると、ルージュとロマンは顔を見合わせた。
「あのさ……」
ややあって、ロマンが首をかしげる。
「それ、行かなきゃダメ?」
「はぁ?」
何を言っているんだ、とアックスは目を剥く。
「ダメもなにもない。入団の挨拶、しなくて良いわけないじゃない」
「今すぐじゃなきゃダメ?」
「そうに決まって――」
「あのぅ。お兄さん」
ルージュがずいと割り込んできて、顔の前に楽譜を掲げてみせる。
「アタシが、今日の朝ってちょうど『フィアト・ルクス』みたいだねって言って、ロマンも分かってくれたんですけど。お兄さんは分かりません?」
「え?」
「だからぁ『フィアト・ルクス』みたいな朝じゃないですか?」
ルージュがそう言って、白い空を指さした。
フィアト・ルクスとは、昨日の夜ディニテが三人に渡してきた楽譜のタイトルだ。例年、コラル・ルミエールの新入団員は、聖夜のコンサートでひとつステージを任される伝統になっている。そのステージの、いわば課題曲が、この「フィアト・ルクス」なのである、が。
「昨日の今日で、もう練習したの?」
「音源を聞いただけですけど」
ルージュが悪びれもせずに首を傾げる。
はあ、とアックスは溜息を吐いた。まだ音もろくに取っていない、詩の内容も読み込んでいないのに、何が分かると言うのだろうか。
「Cパートのフィナーレのとこ。練習番号五十八の……こんな感じじゃないですか?」
「さあね、分からない。いいから、行くよ」
「ええ~……」
ルージュがあからさまな不満の声をこぼしながらも「フィアト・ルクス」の楽譜を鞄にしまって立ち上がる。その隣でロマンが、脱いでいた靴を履き直しながら「つまんねぇの」とむくれた表情をした。
「いーじゃん。オレら音楽家だろ。挨拶とかよりさぁ、音楽に関係することの方が、優先なんじゃねぇの?」
「共同生活をきちんと営むのも音楽のうちだ。ろくに人柄も分からない相手と、一緒に音楽を作っていけるわけがない」
「そーいうのは練習の場で分かるだろ」
ロマンは不満げに言い返したが、流石に逆らうのを諦めたらしく立ち上がる。つまらなそうな顔を隠さない少年少女を引き連れて、アックスは重々しい溜息を吐きながら階段を下りていった。
階段の踊り場に、明かり取りの天窓があった。
――『フィアト・ルクス』みたいな朝じゃないですか?
ルージュの言葉を思い出して見上げるが、向こうに広がっているのは曇り空で、どことなくパッとしない天気だった。この朝のどこを指して、ルージュが「フィアト・ルクス」っぽいと言ったのか、まったく理解できなかった。
フィアト・ルクス、とは「光あれ」の意味だ。
合唱曲として歌い継がれているもののなかには、アックスたちが日常的に使うものとは違う言語で書かれたものが多く存在する。そういった曲の正確なルーツは不明だが、ラピスが創都された初期には今より多彩な言語があり、その時期に書かれた曲なのだ――というのが定説である。時代が下るにつれて多種多様だった言語は廃れてゆき、いまアックスたちが使うひとつの言語を残してすべて滅びたのだ、と言われている。
この「フィアト・ルクス」も、そんな滅びた言語で書かれた曲のひとつだ。昨日の夜、楽譜をもらってから、寝るまでの自由時間を使い、アックスは資料室で「フィアト・ルクス」という文章の意味合いを調べた。ルクスは「光」を表す名詞で、フィアトが「生まれよ」といった意味の動詞であった。団名に光を冠するコラル・ルミエールに相応しい一曲と言える。
しかし。
「光あれ――と言うのなら、もっと晴天の昼の方が」
曇天を見上げて呟くと、少年と少女は不思議そうな顔で目を見合わせる。ややあって、ロマンの方が二人を代表して「あのさぁ」と首をかしげた。
「光あれ、って、なに?」
「は――だから『フィアト・ルクス』の翻訳だよ」
「あぁ。そういう意味なんだ、アレ。いやぁオレらは、単に、あのフレーズが今日の朝っぽいよなって話をしてたんだよ」
「……そんな非言語的な話をしていたのか」
絶句の果てに、アックスはようやくそれだけ言った。何をもって「フィアト・ルクス」らしい朝と言ったのかといえば、大したことはない。何の理論にも裏付けされていない、ただの直感に基づくものの話をしていたようだ。
馬鹿馬鹿しい、と切り捨てそうになって、しかし、別のことに思い当たる。
非言語的。
つまり、技術として体系化されていない、曖昧で繊細な部分。すなわち感性とか、あるいは才能と言い換えてもいい部分。音楽家としての感性が通じ合った結果、ロマンとルージュのあいだで、同じ「朝」の光景が共有されたとでも言うのだろうか。
アックスには見えない景色が、二人には見えたのだろうか。
ふと、ロマンの言葉を思い出す。
――オレら、音楽家だろ。
高い声が脳内でよみがえる。
頭の芯がかっと熱くなって、アックスは思わず口の内側を噛んだ。じわりとした痛みと、血の生っぽい味が口の中に広がる。雰囲気の変化を察知したのか、ロマンがぎょっとした表情になって「なんだよ」と肩を強ばらせる。その言葉には答えず、アックスは手をぐっと握って、自分の手のひらに爪を突き立てた。
***
コラル・ルミエールの一日は忙しい。
基礎体力を維持するための体力作りに始まり、発声のトレーニング、コンサートに向けた曲の練習など、スケジュールが分単位でみっちりと組まれている。それらの、音楽の技能に直接関係するものに加えて、集団生活を維持するために必要な仕事――要するに料理やら洗濯やら掃除が持ち回りで課される。
全てのスケジュールをこなすと、午後八時から九時になる。
そこから就寝までは自由時間だが、しかし多くの唱歌団員にとっては、この自由時間こそ、むしろ一番大切だった。唱歌団員たちはこの余暇の時間を使って、昼の練習でうまく歌えなかった部分を克服するために個人で練習をしたり、あるいはソロパートの練習をしたり、あるいは楽譜を読み込んだりするのである。
夕食の片付けの後、アックスは資料室に向かった。
資料室には、代々の団員が蓄積した、古い言語に関する知見を残した文献が数多く保存されている。今までにも数多くの新入団員が「フィアト・ルクス」を歌ってきたので、この曲に関しては完全な翻訳文が存在している。だが、歌詞を自分のものとして深く理解するためにも、団員には自力で原文を訳すことが推奨されていた。
自分でいちから翻訳すれば、当然それだけ労力が掛かる。しかし、聖夜のコンサートまで、まだ半年以上残されている。正しく抑揚を付けて歌うためにも、文の構造や、あるいは単語の語源を詳細に理解しておくことは不可欠だ。アックスはそう考えて、毎晩二時間ほどの自由時間を、すべて詩の解釈に費やした。
そんな日々が始まって、二週間ほど経った。
ときにはひとつの単語の解釈に数日を費やしてしまうこともあり、進捗は遅々たるものだったが、ようやく翻訳は終盤に差し掛かる。この「フィアト・ルクス」は、光あれ――というタイトルとは裏腹に、どうにも陰鬱な歌詞だった。闇、暗い森、夜行性の鳥、奥行きが見えない暗い洞窟――という、明るいとは言えないモチーフばかりが現れる。旋律やハーモニーは美麗でこそあるが、どうにも頭を抑えつけられたようなフレーズが続くのだ。上がりたいところで上がりきらない、伸ばしたいところで伸ばせない。そんな抑圧的な音楽が、楽譜の終盤に至るまで延々と続いていた。
アックスは今日も資料室に向かい、乏しい明かりの下で、練習番号五十八のページを開く。練習番号とは、五線譜の上に記された、正方形で囲まれた数字のことである。これらは、メロディラインの節目にあたる場所に振られた通し番号であり、曲の中で特定の箇所を指定するために用いられるものだ。
「……五十八」
その番号を見て、アックスはふと思い出す。
練習番号五十八といえば、あの朝、ルージュとロマンが話していた部分だ。どういうわけか彼らは、曇天の白い空を見上げて「フィアト・ルクス」の練習番号五十八にある旋律をイメージしたらしい。あの後アックスも、幾度となく音源を聴いたり、楽譜の音を取ったりしたものの、ルージュやロマンが共有していた感覚の正体は掴めずにいた。
ノートを開き、歌詞を一語ずつ写していく。
ひとつの文章を写し終えたら、それぞれの単語に対応する意味を、膨大な資料から見つけて一行下に書く。過去の団員が各々のフォーマットで残した資料は、整ったものとは言い難い。そのため、この逐語訳の作成が、もっとも労力を要する作業であった。しかしながら、翻訳も終盤に差し掛かると、過去に出てきた単語がふたたび顔を出すことも多く、また資料の読み方に慣れてきたこともあって、翻訳は順調に進んでいった。
「あれ――」
四十分後、アックスは新出の単語を見つける。
「ええと……オゥ――ロ――ラ?」
そこまで一度も登場してこなかった単語だ。前後の文から類推するに名詞のようだ。その単語が出てくるフレーズは、全ての声部がタイミングを合わせて歌うため、おそらく重要な意味合いを持つのだろう。
未知の単語は、そのなかでもさらに、
フィナーレに近いパートで、音楽的にも美しく飾り付けられて歌われる、新出の一語。となると、この「フィアト・ルクス」という歌全体を象徴する一語と言えそうだ。アックスは分厚い資料をめくり、対応する単語を探した。
茶色っぽく変色したノートに、それは手書きで書いてあった。
『
それを見た瞬間。
全身の皮膚が、ざわりと浮くような感じがした。
アックスはなかば息を止めながら、自筆のノートを勢いよく遡っていく。そこまで記された言葉は時に抽象的だったり、完全な文章としては成立していなかったりした。そんな、空中に浮いていた言葉の数々が、文脈という一本の糸で初めて繋がれる。
「そうか――」
この詩は。
夜明けの光を待つ詩だったのか。
ずっと現れてきた陰鬱な描写は、すべて夜明けを待つ者たちの物語だったのだ。どこか抑圧的なメロディだ――と感じたのも、だから、正しい感覚だった。一歩踏み出す先も見えない、そんな暗闇を、夜の恐ろしさを綴るための音楽だったのだ、これは。
はああ、と重たい息を吐いて、アックスは天井を見上げる。
体重を掛けた椅子の背が軋んで、ぎぃと音を立てた。
「あの子たちは、これが……分かったのか」
あの日、粉雪の舞い込む窓際にいた二人のことを、アックスは思い出す。まだ「フィアト・ルクス」という言葉の意味さえ理解していなかった二人は、おそらくは声の響きやハーモニーの構成のみから、この「夜明け」という単語に、無意識に辿りついていた。この曲は、溢れんばかりの光を歌った曲ではなく、長い夜の果てに訪れるほのかな光芒を歌った曲であると、歌詞を読む前から気がついていたのだ。
どうして分かったのか。
その説明を求めたところで、納得のいく回答は得られないだろう。なぜなら、それは非言語的で非論理的なものだから。確立したセオリーの存在しない、当人の感性とかセンスといった領域で知覚されているものだからだ。
ルージュとロマンは。
そして「フィアト・ルクス」の作曲家は。
同じ感性を共有していて、だからこそ、同じ朝の景色が見えた。
「無理だ……」
アックスは机に突っ伏して呻いた。
――僕には、見えない。
コラル・ルミエールに合格するまでの五年間は、思い返せば、果てしなく長い夜のようなものだった。その夜は終わり、ようやく光明が見えたと思ったのに、夜明けが訪れない。むしろ今まで以上に暗い夜のなかに閉じ込められたような気さえする。
「……どうして」
アックスは問いかける。
どうして自分は、コラル・ルミエールの選抜に通過できたのだろう。いくら技術を磨いたところで、所詮それは基礎の部分に過ぎない。あの目を灼くような才能を、五感の枠を超えた感性を、自分は持っていない。
思い返せば。
表現したいものを、自分は持っていないのだ。
ただ、歌声を合わせるのが楽しいから、声楽そのものが好きだから、地方他都市の
君を採れて良かったよ、というディニテの言葉を思い出す。
まさか、自分が合格できたのは――
五年間挑み続けてきたから、情けを掛けられただけのことなのだろうか。
考え始めると、心がどうしようもなく暗闇に蝕まれていき、とても、楽譜を読み込めるような気分ではなくなってしまった。まだ就寝時間には早かったが、アックスは資料室の灯りを消して、暗い廊下を歩き、自分の部屋に引き返した。