アレル・ヤ
文字数 8,829文字
夏の近づき始めた五月初頭、創都三四〇年度の新入団員であるアックスとルージュとロマンは、先輩の団員である三十代半ばの女性、フラムに練習を付けてもらっていた。場所は、コラル・ルミエールがコンサートを開くときの会場でもある「教堂」である。天井が高いためか声がよく響き、歌うには持って来いの場所と言えた。
「――じゃあ、ルージュ君」
ピアノの椅子に腰掛けたフラムが、ルージュを手招きする。
「練習番号の二十三から、きみひとりで歌ってみてくれる?」
「はぁい」
「二小節前から弾くよ――」
そう言って彼女は伴奏を弾き始める。
ルージュは背を向けて立っていて、その表情は見えない。
四、三、二、で息を吸って。
アウフタクト。
柔らかい無声の子音がひとつ生まれた瞬間、教堂じゅうの空気が塗り変わった。
揺らぐ波のように複雑に移りかわる音程とリズムを、澄んだ美しい歌声が追いかけていく。ピアニッシモの表記通りに声量は絞られており、細かなアーティキュレーションも丁寧に表現しているのに、まったく「歌わされている」感じがしない。
ひと言で言えば、あまりにも自由。
楽譜に要求されている枠組みの、わずかな余白まで全てカンバスにして、ルージュは世界を描く。歌――という、少なくとも音であるものを弄しながらも静けさを表現し、高音域を操りながらも重たい闇を表現してみせる。
この部分に対応する歌詞は、たしか――
アックスは自分の楽譜を見て、やはりそうだ、と頷く。練習番号二十三に対応する部分の詩には「暗い水面」や「闇のなかの瞳」や「黒い鳥」といった形容が繰り返し現れる。全体の雰囲気から類推するに、おそらくは静かな夜の泉を描いているのだろう、と予測できる。
真っ黒な空の下、凪いだ水面。
夜空に開いた真っ白な瞳、すなわち満月。
そんな静謐の下で、鳥たちは長い夜を忍んでいる。闇に溶けるような黒色の翼に、わずかな月光の反射のみを受けて、柔らかい白が地平を満たすときを待っている。夜は途方もなく長いが、闇の向こうに
そんな景色が浮かび上がる。
いまは昼間で、ここは中枢都市ラ・ロシェルの中央であり、自然はあまり残っていないような場所にもかかわらず。ルージュは歌声ひとつで、夜の森を歩いた経験などないアックスに、そんな幻影を描いてみせる。
「――はい、そこまで」
伴奏が止み、ルージュも歌うのを止める。
フラムは椅子のうえで足を組んで「良いね」と頷いた。
「かなり独自性のある解釈で歌っているようだけど、悪くない。自分の呼吸と歌の馴染ませ方が分かっているね。まあ、ただ強いて改善点を挙げるならば――」
満足げに頷いた彼女は、母音の発音やリズムの逸脱など、いくつかの軽微な問題点を挙げてから、今度はロマンの方に手招きした。
「続きの、掛け合いのとこ、二人で合わせてみて。練習番号三十九から」
「はーい」
木製のベンチからロマンが立ち上がって、ルージュの隣に並んだ。
練習番号三十九からは、曲の様相が少し変わる。楽曲「フィアト・ルクス」の詩は、三部構成の物語として構成されている。第一部は、暗い森のパート。そして練習番号三十九から第二部に入り、この部分においては、まるで空を駆ける鳥のような視点で、さまざまな夜の景色が描かれるのだ。
先ほどと同様、二小節前から伴奏が始める。
強拍でルージュが歌い始め、一小節遅れてロマンが歌い始める。
この部分は、二つの声部がタイミングをずらしつつ類似したフレーズを歌う、いわゆる輪唱である。ルージュの歌声は自由闊達だが、それゆえに独特の形状を持っている。ソロパートならともかく、全体でひとつのハーモニーを生み出すときや、今回のように他のパートとの掛け合いを行う場合、その自由さはマイナスになりうる。
しかし。
自由気ままに散りばめられた絵の具のようなソプラノに、少年のアルトが被さるとき、それはまるで包み込むように音楽を受け止める。ルージュが次に出す声色を、聴く前から分かっているような柔軟さで適応し、見事に調和に導いていく。それは喩えるなら、高次元のジグソーパズルを瞬時に完成させ続けるような手腕だ。
二つの歌を、ハーモニーに導く才能。
ロマン少年は、もちろん歌そのものの技量も申し分ないのだが、もっとも卓越しているのはおそらくその才覚だ。音楽を俯瞰して見る才能。ハーモニーを作るために何を足すべきか、何を引くべきか――ということが直感で理解できている。将来的には彼は、ひとりの歌い手ではなく、指揮者として大勢の前で指揮棒を振るようになるのかもしれない。
「うん――良いね」
伴奏を止めて、フラムが微笑む。
「相手を尊重できている。音楽のなかで自分が満たすべきポジションを、よく分かってるね。かなり耳が良いんじゃないかなぁ、きみは。まあ、ただ、少し直すべき点はあって――」
彼女は二人に小さく拍手を送ってみせてから、発声が力みすぎている部分などをさらりと指摘した。楽譜になにか書き込んでいる小さな背中を見ていると、アックスは思わず眉間に皺を寄せてしまう。多少は改善すべき点があるとは言っても、二人の音楽は、二人だけで完成している。のびのびとした感性の煌めきと、美しい調和が両立している。
楽曲「フィアト・ルクス」は三声で作曲されている。
しかし――自分がここに、何か新たに付け足せるものなど、果たして存在するのか。
「じゃあ、アックス君も」
フラムが振り返って、アックスに手招きをする。
「続き、練習番号五十五から。三声で合わせるところ、行こうか」
「……はい」
アックスは頷き、立ち上がって、少年少女の隣に並ぶ。
また、ピアノの伴奏が始まる。
四、三、二――
静かに拍を数えて、三人は同じタイミングで息を吸った。
この辺りから「フィアト・ルクス」の詩は、第三部であるフィナーレに向かう。音域が上がり、拍の取り方も大胆になる。また、今までは声部ごとに独立して歌うことが多かったのが、三声そろって同じ詩を歌うことが多くなる。静かだった音楽に高揚感が満ちていき、ゆっくりと温度が上がるように、音符たちが五線譜の上を目指して踊る。
そして「
薄明の空に、ほのかな白が満ちて。
美しい和音が、一日の幕開けを告げる。
そして、アレル・ヤ――という言葉が繰り返し歌われる。三声が揃い、あるいは掛け合い、アレル・ヤと紡ぐ。音楽はやがて、限りない高みに昇っていき、真っ白にフェードアウトするように終わった。
残響の中で、アックスは溜息をかみ殺して、俯く。
二人の邪魔をしないように、調和を乱さないように歌うのがやっとだった。
「うん――」
鍵盤から指を上げて、フラムが頷く。
そして顔を上げて「きみの声は安定感があるね」と微笑んだ。
「上の二声がどれだけ自由に動いたとしても、崩れない安心感がある。ただ、その――何と言ったら良いのかな」
彼女は足を組んで、少し考えるような表情になった。
「うぅん、そうだね……全体的に、もっと主張して良いんだよ。とくにここは、ほら、男声が歌うのを、他の声部が見守るような構造でしょう。ここで、しっかりきみに歌ってもらわないと、詩のニュアンスが後ろに隠れちゃうから」
「……はい」
「どうかな、できそう?」
どこか気を遣ったようなトーンで尋ねられる。
できます、と頷く自信はなかった。ルージュとロマンの二人で完成している音楽に、楽譜の構成上自分が割って入らないといけないことが、間違っているようにすら思えるのだ。だが、先輩の団員であるフラムに、わざわざ時間を割いて指導してもらっている以上、あまり不甲斐ないことも言えない。
「――頑張ってみます」
どうにかそんな返事を絞り出すと、フラムは「うん」と頷いた。
「あぁ、あと。もし、音が難しいとかリズムが難しいとかで、自信を持って歌えないところがあったら、聞いてね」
「はい……あ、それなら――ひとつ、良いですか?」
アックスが自信を持って歌えなかったのは、実を言うと、同期に対する気後れの他にも理由があった。良い機会なので質問してみよう――と、アックスは自筆のノートを取り出して、後ろの方のページを開く。そこに記されているのは、資料室で夜な夜な書いた「フィアト・ルクス」の歌詞の翻訳である。
「最後の、アレル・ヤ……って歌詞ですけど」
「うん」
「意味が分からない、というか。いえ、資料には目を通したんですけど、その、今ひとつ実感がないと言うか……対応する言葉が、僕らの言葉にないように思えて――」
アックスは目蓋を押さえて、言葉を濁す。
もちろんアックスは、代々の団員が残した資料を隅々まで読んで、アレル・ヤという言葉の意味を掴もうとした。その結果、アレルが「褒め讃えよ」という意味の動詞なのは分かったのだが、ヤ――すなわち褒め讃えられる対象に対する記述が、どの資料を読んでも漠然と濁されていたのである。
それが理解できず、ゆえに「アレル・ヤ」というフレーズは、アックスの中でどうも収まりが悪く、宙に浮いたままだった。
「どの解釈を見ても、なんだかぼんやりしていて」
「ああ……それはね」
フラムは肩をすくめた。
「ごめんね。私たちも、悩んでいる部分なんだよ」
彼女は譜面台に置かれた楽譜をめくりながら、溜息をこぼす。
「アレル・ヤという表現は、頻度で言うとかなり多く出てくる。最終的にここに辿りつく歌が非常に多い、と言うべきかな。多分ね、素晴らしい、この上ない賛美、みたいな意味合いだとは思うんだけどね――」
「その、最上の賛美を、歌い手はこの『ヤ』に捧げることを求められているんですよね」
「そうだね」
「じゃあ『ヤ』は、何者なんでしょう。こうして、飽くなき賞賛を捧げるに値する相手、それほど素晴らしい存在……ああ、もしや、祖のことでしょうか」
三世紀半の昔にラピスを創ったと言われている伝説上の存在、七人の祖を引き合いに出してアックスは尋ねてみるが、フラムは「いや」と首を傾けた。
「祖のことではないだろう、と言われてる。諸々の記述や、史実を照らし合わせると、どうも違っているようだ――と」
「……しかし。祖でないなら、それ以上のものは、何だと」
「分からない。ごめんね」
フラムは首を振ってから「でも」と口元を持ち上げてみせた。
「具体的な対象がないと分かりづらいと言うのなら、きみにとっての『ヤ』を考えてみるのはどうかな。きみにとって、何よりも素晴らしいと思うものは何か……それに捧げるつもりで、アレル・ヤと歌ってみたら、自信を持って歌えるんじゃないかな?」
***
アックスにとっての「ヤ」――すなわち最上の価値。
それは音楽であり、美しいハーモニーだ。いくつもの声が完璧な波形で重なり、音と音とが引き立て合い、深い言葉を紡ぐ瞬間の、全身を焦がすような多幸感。自分という存在が透明になり、世界の真実につながる軸が心臓を貫いたような、万能感にも似た高揚。あの感覚以上に素晴らしいものは、おそらく存在しない。
だが。
歌そのものに賛美を捧げるべく歌う――というのも、どうにもしっくり来ない。自己陶酔が過ぎるというか、あまりに狭い領域で完結しすぎている、というか。
レンガの道を歩きながら、アックスは重い息を吐く。
団長のディニテに頼まれて、ラ・ロシェルの外れまで食料を受け取りに行った、その帰り道だった。両手に提げた保冷ボックスが重たい。南中高度の太陽が暖めた空気は蒸し暑く、レンガ敷きの地面で反射した熱が足下から持ち上がってきて、膝の裏側を灼いていく。
橋のたもとで立ち止まり、アックスは額から流れた汗を拭う。
空は眩しく、地面に落ちた影の色が濃い。
太陽が天を極める季節が、すぐそこまで近づいていた。
そう――もう少し視野を広げてみるのなら、たとえば、太陽などは「最上の賛美」に値する目的語と言えるかもしれない。人間も含め、ありとあらゆる生命が太陽の恩恵を受けている。コラル・ルミエールが団名に「光」を冠するのも、おそらく近しい感性によるものだろう。楽曲「フィアト・ルクス」にしても、夜明けの美しさを描いたものだ。地球という星が、生命体の存在する地として機能しているのは太陽あってこそであり、そう考えれば太陽は「ヤ」に据えて不足ないかもしれない。
しかし――
荷物を足下に置き、橋の欄干に寄りかかって、アックスは天を仰いだ。
午後二時の陽光がまっすぐに落ちてきて全身を灼く。閉じたまぶたの向こうにも、暴力的なほど強い白が広がっているのを感じる。夏が近づき、気温は日に日に上昇していく。解放されない体温が内側に篭もって内臓を煮やしていく。
「……暑い」
首筋に汗が伝うのを感じながら、アックスは呟く。
実際のところ、夏は好きではなかった。
暑さと湿気が不快であるのは勿論のこと、変わりやすい天気は注意力を散漫にさせる。食物も腐りやすいし、虫や動物もうるさくなる。音楽を創るうえでは、いずれも無駄なノイズでしかない。
最上の賛美を捧げるには、あまりにも――あの星は、尊大すぎる。
欄干にもたれたまま、アックスは目を閉じた。
橋の下を流れている川が、轟々という力強い水音と、わずかな涼しさを足下にもたらしている。夏が近づいて色めき立つ自然を感じていると、不意に、自分がとてつもなく小さなものになってしまったような、そんな気がした。実際、取るに足らない存在であることには違いないだろう。何より得意だったはずの音楽で四つも五つも下の子供に追い越され、敬愛を捧げるべき「ヤ」すら見つけられないのだから。
ふと、合格発表の日を思い出す。
十五歳のアックスにとって、受験資格に年齢制限があるコラル・ルミエールに入団するチャンスは、今年が最後だった。もしも最後のチャンスさえ失ってしまったのなら、故郷のサン・パウロには帰らず、この川に飛び込んでしまっても良いような気がしていた。人生はまだ何十年も続く予定だが、憧れの場所で歌えない人生ならば、いくら時間が残されていようが、それはアックスにとって無意味だったのだ。
そして、あの日。
ディニテが扉を開けたことで、五年越しの夢は叶い、アックスは輝かしい余生を手に入れたかのように見えた。しかし、その先で突きつけられたのは、自分よりずっと幼いライバルに、才能で絶対に敵わない――という事実。
ああ――と、意味のない音を吐き出した。
川の轟音が響いている。
欄干の高さは腰くらいまでしかない。あと少し、後ろに体重を落とせば、初夏の水流が全てを攫っていってくれるのではないか。年下の子どもに負けている自分も、見つからない「ヤ」の正体も、五年間溜まり続けた薄暗い鬱屈も――その全てを。
そんなことを思いついた折だった。
「あのぅ」
という声とともにシャツの裾を引っ張られて、アックスは我に返る。
重たいまぶたを押し上げると、アックスの胸くらいまでしか身長のない子どもたちが、いつの間にかすぐそこにいた。初夏の太陽を受けて、丸みのある頬やひたいが白く光っている。ぼんやりとしていた様子を見られてしまって、どことなく気まずかった。服の裾を引っ張っていたルージュが「あのぅ」と繰り返して、首を傾けた。
「ディニテさんに、倉庫に行くよう頼まれたんですけど。っていうか、なんで手伝いに行ってないの、みたいに怒られたんですけどぉ……」
「ああ……それなら、もう持ってきた」
足下の保冷ボックスを指さして、アックスは言う。
「別に君たちに手伝ってもらうほどじゃないから。帰っていいよ」
「えぇ~……ここまで来たのに」
不満をありありと顔に出して、ルージュが唇をひん曲げる。
その後ろからロマンが顔を出して「そういうの先に言えよな」と唇を尖らせる。
「お前が黙って出るから、オレらが怒られたんだろ」
「ああ……うん」
アックスは曖昧に言葉を濁した。
別にディニテに「同期三人で行きなさい」と指示されたわけではないので、彼らに声を掛ける義理はないはずだ。とはいえ、どうもディニテは「同期は一緒に行動するもの」と考えているらしいので、彼の指示の裏には、ルージュとロマンを誘いなさい、という文字列が隠れていたのかもしれない。
「まあ、うん。悪かった」
思うところがあるのは呑み込んで、とりあえずアックスは軽く頭を下げる。
「だけど手伝いは、別に、要らないから」
「せっかく来たんですけどぉ……」
不満げに頬を膨らますルージュの隣で、ロマンが「あ、そうだ」と手を叩いた。
「じゃあさ、
「えっ。ああ――あの、丘の?」
「そうそう。近いじゃん、こっから」
どこか遊びに行くつもりらしい。
丘――というと、ラ・ロシェルの外れにある森のことだろうか。小高い地形や、手入れされていない茂み、苔むした倒木などが雑多に転がる森林は、たしかに子ども好みの遊び場なのかもしれないが。
あまりにも飾り気のない子供っぽさを見ていると、八つ当たりじみた怒りの感情が腹の底から持ち上がってきて、アックスは荒っぽい溜息とともにプラスチック製の保冷ボックスを持ち上げる。
すると、保冷ボックスの陰に、茶色っぽい毛玉があった。枯れ草を丸めたような風合いの毛玉は、もぞりと動いたかと思うととつぜん加速して動き出した。目にも留まらぬ速度で、アックスの足下をすり抜けていく。
「うわ――何」
「あ……!」
ロマンが声を上げて、毛玉を追いかけて走って行く。
橋を渡りきる手前あたりで追いついたらしく、少年は茶色い毛玉を抱え上げてこちらに戻ってくる。ロマンの胸元に抱えられている、その正体は猫だった。展開に追いつけないアックスが顔をしかめるのをよそに、少年は一切動じず猫の背中を撫でている。
「なに、その猫」
「教堂の近くにいたんだよ。連れてきた」
「あぁそう……毛を室内に入れないようにね」
脱力感を覚えながら、アックスは言う。
どこぞの丘に遊びに行くのと言い、こうやって猫と戯れるのと言い、
ルージュが「ちょーだい」とロマンに両手を突き出して、少年が「ほい」と少女の腕に猫を乗せる。茶色い猫を胸元に抱えたまま彼女は振り返り、今にも立ち去ろうとしていたアックスを見上げて「あのぅ。お兄さん」と目を細めた。
「夜に、丘に行くのって、どう思います?」
「どうって」
「だからぁ、ディニテさんに怒られるかなぁって……」
「そりゃあ怒られるでしょう。夜中に勝手に抜け出したら」
「勝手に――じゃなかったら、イイってことですか?」
「いやいや……」
額に手を当てて、アックスは呻いた。
蒸し暑さと相まって、頭の芯がぐらぐらと揺れる。
「何重にもダメでしょう。夜中に歩くなんて危ないし、森に入るなんて尚更。だいたい、夜、ちゃんと睡眠を取らなかったら、翌日の練習に支障が出るでしょう――」
――君たちは本当に、団員としての自覚があるのか。
そう叱りつけたい衝動があり、しかし、それが八つ当たりだと内心で理解していたアックスは、ぎりぎりの部分で踏みとどまりながら彼らを諭した。どれだけ遊び歩いていようが、今、目の前にいるのは、アックスよりもずっと優れた才能を持つ幼き音楽家なのである。実際に結果を出している相手に対して、その過程をあげつらって文句を言うのは、あまりにも馬鹿馬鹿しく滑稽だ。
腹にぐっと力を込めて、アックスは声を抑える。
「行くなら昼にしなさい」
「……それじゃあ意味がないんですけどぉ」
むう、とルージュが唇を尖らせる。
その隣で、ルージュが抱えた猫にちょっかいを掛けていたロマンが「そうだ」と明るい顔になって、アックスの服を引っ張った。
「なぁ。お前も来ねぇ? あの丘」
「はぁ……?」
「オレら二人だけだったら、ディニテも――」
「ディニテ
「……ディニテさんも怒るかもしれないけど。でも、大人のお前と一緒ならさぁ、もしかして見逃してくれねぇかなって――」
その言葉を聞いた瞬間、ぶち、と自分の中で何か切れる音がした。
「誰が、行くか。そんなの」
大きな声を出してしまって、はっとアックスは我に返る。
目の前にいる少年少女は、驚いたのか、あるいは気圧されたのか、大きく開いた目をぱちぱちと瞬きさせていた。一瞬で沸騰した体温が、風に冷やされてゆっくりと下がっていく。自分のしたこと――すなわち、四つも五つも下の子どもに声を荒らげてしまった事実を冷静に認識して、喉が焼かれたように渇くのを感じた。
今の一瞬、自制心というものがどこかに吹き飛んでいた。頭のなかで、何か間欠泉でも噴き出したような感覚だった。それだけ、ロマンが何気なく口にした「大人」という言葉に神経を逆なでされたのだ。
なぜか。
その理由は分かりきっている。
ロマンが顔を非対称に歪めて「でかい声出すなよ」とぼやく。
「大人げない」
「……大人じゃないからね」
「ちぇ、なんだよ」
少年がむっと唇を突き出した、その横でルージュが「あ」と小さく声を上げる。アックスの大声に驚いたのか、それまで大人しく抱えられていた猫が、彼女の腕から抜け出して走って行ってしまったのだ。子どもたちは、待って待って、と楽しげに叫びながら、橋の向こうへ猫を追いかけていく。
その背中は、あっという間に街中に消えて。
アックスに残された選択肢は、重たい保冷ボックスを持ち上げて教堂に帰るのみだった。