chapitre84. 再生論
文字数 5,255文字
寝台から重たい身体を起こし、冷たい水で顔を洗う。服を着替えて、イヤリングを着けて、髪を結う。鏡の向こうでこちらを見ている自分と目が合った。ずいぶん暗い顔をしていたので、指で口の端を持ち上げてみる。
笑顔になった。
でも、指を離すと元に戻ってしまったので、どの表情筋に力を入れれば笑顔になるか、それを考えながらもう一度試してみる。何回か練習して、笑い方を思い出したので、「よし」と呟いて、シェルは居室を出た。
通路を歩いていて、ふと、上に視線が行く。
配管の這っている天井ではなく、その遥か上にあるはずの、ラ・ロシェルの街並みに思いを馳せた。昨日の昼から夜にかけて、空からラ・ロシェルに降り注いだ砂は、雨と混ざり合って泥になり、街中を粘ついた灰色で覆ったそうだ。
シェルにとってのラ・ロシェルは、10年の歳月を過ごした、第二の故郷と言える場所だった。それに、今は友人が住んでいたはずの街だ。地上に向かったカノンたちが助けてくれると信じてはいるが、やはり心配で、平常心を保っているのはどうにも難しかった。
目を擦りながら昇降装置に乗り込むと、サジェスと出くわした。ぴしりと表情を整えて立っていた彼の雰囲気が、シェルを認識して僅かに和らぐ。シェルはにっこりと笑顔を浮かべて片手を上げた。
「おはよう」
「ああ、おはよう――ちょうど良い、シェル。今日は午前の作業を早めに切り上げて、昼にコアルームに来てくれないか」
「え? ……うん、分かった」
唐突な頼みに首を捻ったが、サジェスにはそれ以上説明する気がないように見えたので、シェルはとりあえず頷いた。
言われたとおり、正午の少し前にコアルームに行くと、いつもとは違う種類のざわめきが扉の向こうにあると気がついた。静脈認証を使って扉を開けると、手前に立っていたサジェスがこちらに振り向く。その後ろにいる人々を見て、シェルは思わず口を開けた。
「シェルさん、閉めて下さい」
「あ! ごめん」
呆然と立ち尽くしてしまったシェルに、ティアが小声で言った。慌てて、外の通路に誰もいないことを確認し、扉を施錠する。部屋の中に向き直り、眉をひそめた。
「――どういうこと?」
「そうだな。まず、シェルに自己紹介をしてもらおうか。
「経緯って」
シェルは肩に力が入るのを感じた。
「……どこからの経緯?」
「貴方が統一機関の研修生だったころからだ」
サジェスがはっきりと言うと、集まった人々がざわめいた。つまり、全て正直に話すよう求められているのだ。シェルは唾を飲み込み、分かった、と頷く。
「ぼくはシェル。でも、本当の名前はソレイユ・バレンシアだ――
“
「2年前までは統一機関の開発部に所属していた。でも――」
ラム・サン・パウロに謀られて、塔の上の小部屋に閉じ込められたことと、そこから脱出した方法。スーチェンの牢獄グラス・ノワールで過ごした2年間と、ハイバネイト・シティに招かれた理由、そして最下層にやってきた経緯を簡潔に話す。
「――これでいいのかな?」
「ありがとう。次は彼らの紹介をする。とは言っても、もう知っているはずだが」
「――
それ以外あり得ないと思い、地上ラピスでいま最も勢力があると考えられる団体の名前を出すと、「そうだ」とサジェスが頷いた。集まった
「MDP総責任者、代理のエスト・フィラデルフィアです」
「代理? アルシュちゃん――えっと、アルシュ・ラ・ロシェルが代表だと聞いてたんですけど」
「ああ――ご存知でしたか」
エストと名乗った男は、渋い表情をした。
「マダム・アルシュは“
「あ――それ、は」
「それが貴方がたの本意でないことは知っています。ご安心を」
そう言いながらも、エストの表情は暗かった。彼は目を固く閉じて、開いたときにはうっすら涙が浮かんでいた。シェルは心臓の動きが速くなるのを感じつつも、冷静な表情を保ち、頭を下げた。
「それでも言わせて欲しい――ごめんなさい」
「……はい」
彼は小さく頷いて、それから視線をシェルの背後に向けた。後ろに立っていたサジェスが歩み出て、エストと視線を交わす。彼は頷いて、背後のMDP構成員たちを一望し、それからサジェスに片手を差し出した。
「――改めて。MDPは、このたび“
「“
エストとサジェスが握手を交わす様子を、隣でシェルは見つめていた。緊張で速くなった鼓動が、今度は別の理由で加速を始める。頬が熱くなり、手のひらに思わず力がこもっていた。
――これは。
“
「貴方がたに太陽の当たる街を」
「貴方がたに旧時代より続く技術を」
そして――再生を。
彼らはしっかりと頷き合い、何度も手を握り直した。
*
MDPの面々を、与えられた区画に案内したあと、コアルームに戻ったシェルは、そこにいたサジェスとティアに「
「ねぇ、どうやって連絡をつけたの」
「彼らはMDPのなかでも、ラ・ロシェルから地下へ避難してきた人々だ。ELIZAを通じて話しかけたところ、協力を約束してくれた。言い方は悪いが――タイミングが良かったと言うべきだろう」
「ん、どういうこと?」
「出生管理施設への攻撃予定を微調整するつもりなんだ。これは以前ムシュ・ラムに言われたことなのだが……血を流して手にした臓腑を真祖に差し出しても、彼女は喜ばないだろう、と。俺もその点は引っ掛かっていた。それでだ」
サジェスがちらりとティアに視線をよこす。彼は頷いて、パネルに巨大なタスクツリーを表示した。
「事前に出生管理施設に交渉し、真祖エリザの甦生が和平の鍵であることを伝えて、技術を借りられないかと考えた。地上ですでに信頼を勝ち取っているMDPの協力が得られれば、その実現可能性は何十倍にもなるだろう」
「奪うのではなく、借りる……」
「そうだ――それに」
サジェスは少し躊躇うように目を伏せてから、シェルにまっすぐ眼差しを向けた。
「真祖の心を痛めない方法で彼女を甦生させることは、俺の安全のためでもある。目を覚ました彼女が、俺との協議に応じてくれれば――同胞たちから反感を買わず、裏切られたと思わせずに事態を好転させることが可能かもしれない」
「そうか。サジェス君に代わる総代としてエリザを立てるのではなく――」
「ああ。彼女と協力して、穏健に集合意志を動かしていく。そして出生管理施設と協力し、役割にとらわれず、地上と地下の境のない世界を実現する」
彼は強い口調で言い切ってから、シェルとティアから背を向けた。
「……どう、だろう」
打って変わって心許ない声で、噛みしめるように呟く。黒いローブの裾からのぞく、握りしめたサジェスの手が震えていた。
「生きたいと、そう望んでしまったんだ。多くの人間を傷つけた俺が、まだ、そんなことを考えている。だが――俺が醜くも生き延びることで、まだこの世界の役に立てるかもしれないと、思ったんだ。生命を、正しく自由な形で創り出すことが、ラピスへの、死した者たちへの――せめてもの、償いになるのではないかと」
サジェスはひとつ大きく息を吐いて、こちらに向き直った。
「シェル、ティア。賛同してくれるか」
「……勿論です」
「うん、ぼくも賛成だ」
ティアが掠れ声で呟いたのに続いて、シェルも頷く。陽光を固めたような、サジェスの金色の目がはっきりと見開かれて、たしかに明日を見据えていた。眠っているエリザの白銀色をしていたという瞳と違って、未来を見通すことの叶わない瞳でも、夢見ることはできる。渇望した未来をこの手に入れようと、一歩一歩進むことならできる。
それが希望だ。
生きている限り消えない、可能性だ。
*
翌朝。
コアルームに集まった人々は、地上と地下の人間がそれぞれ半々程度だった。パネルの前に立ったサジェスが、投影されたラピスの地図を示しながら、計画の説明をしている。
MDPから2名、“
「まだ、賭けには違いない」
パネルを見つめたサジェスが、独り言とも取れる小声で呟く。
「だけど希望はある――と、信じています。ティア、ヴィル、アストル、ジェーン、ツェット」
ヴォルシスキーに向かう5人の名前を、サジェスはひとつひとつ確かめるように呼んだ。地上の人間と、地下の人間と、そのどちらでもない場所から来た少年が、決意のこもる眼差しを交わす。
地上の代表者であるエストが、小さく頷いて言葉を続ける。
「貴方がたに再生を託します」
「――はい」
地上と地下の連名で書かれた書簡を、ティアが小さい手で受け取る。
彼らは、ある者は笑って手を振り、ある者は小さく頷いてコアルームを出て行き、地上に向かった。それに応えるようにシェルも微笑んで、ふと、自然に笑えていることに気がつく。
どうやって笑うかなんて、考えるようなことじゃなかった。ただ、心の底から湧き上がってくるこの希望を、喜びを、素直に出すだけだ。
地下のコアルームに残った人々は、
「夢を見てるみたいだ」
シェルが呟くと、誰かが同意するように長い息を吐いた。映像を見るために照明は落とされており、薄暗いので、肌の色の違いが分からない。MDPの人間も“
サジェスは、シェルは、コアルームにいる人々は、ほとんど言葉を交わさないまま、期待と緊張で張り裂けそうな心臓を抑えて、ヴォルシスキーに近づく
その瞬間は唐突に訪れた。
「あれだ……」
直方体を基調とした大規模なコンクリート建築が、茶色い山の向こうに見えた。
ヴォルシスキー、出生管理施設。
カメラは一直線に、導かれるように、その直方体めがけて進んでいく。誰もが息を止めていた。壁に等間隔に並べられた、ガラス窓の向こうに、誰か人が動いているのが見えた。ひとつの窓が開き、顔を出してこちらを見ている。その顔はすぐに中に引っ込んだが、次々に他の窓から人が顔を出した。
カメラがどんどん近づいていく。
生命が新しく生まれる、再生の地へ。
最高の技術が集積した、未来を導く場所へ。
いったいどんな人が、ラピスの未来を担っているのか、考えるだけで胸が高鳴った。扉が開いて、何人かが外に駆け出してきた。解像度が低くてよく見えないが、こちらを見ているようだ。
「ん?」
その表情に少し違和感を覚えて、シェルが身を乗り出した、次の瞬間。
窓から火が噴き出した。