chapitre133. 境界を越えて
文字数 10,158文字
瞳から虹色の煌めきを散らして、エリザが人差し指を一本立ててみせる。
「総権を渡してしまえば、取り返しが付かない。それは間違いないわね? 総権を誰かに渡す、そのプロセスそのものが総権保持者でないと実行できない」
「その通りです」
カノンが応じたのに数瞬だけ遅れて、カシェも頷いた。ふたりの反応を確認してから、「では」とエリザは声を潜めた。
「私――
「待って。駄目よ」
カシェが立ち上がって、エリザの肩を掴む。
「そんなの、許すわけがないでしょう。どう考えたって、貴女が危険な目に遭う――どうして、そんなことを考えるの」
「カシェ、最後まで聞いてちょうだい」
取り乱したカシェとは対照的に落ち着いた表情で、エリザが手を差し伸べる。カシェが表情を歪ませながらも、寝台に腰掛け直すのを待って、静かだがはっきりとした声が淡々と言葉をつなげていった。
「良い? 総権は、ひとたび渡せば取り返せないわ。だけど、
エリザはひとつ呼吸を挟んで、顔を上げる。
「それが私の提案よ」
「――受け入れられないわ」
カシェが短い周期で首を振る。
「いくら何でも、不確実な点が多すぎる。せっかく目覚めたのに、生きる権利を取り戻したのに――どうして、そんな危険に身を晒そうとするの」
「そうは言うけれど、あと何十年も生きられるような身体じゃないわ」
入れ替えられた臓器が収められている腹部に手を当てて、エリザが無表情のまま呟く。体力が落ちている様子は散見されていたものの、改めて本人の言葉で告げられると、淡々とした口調にも関わらず、その響きは重たかった。
「なら、娘の大切なお友達のために、ひとつ賭けてみても良い」
「だ――だが。待って下さい」
半ば唖然としていたカノンは、我に返って口を挟む。
「あんたの中には他でもない、あの子自身がいるんでしょう。あの子はどう考えているんですか」
「それは……残念ながら、分からない。ええ、私が危険に身を晒すということは、当然
「なのに、あの子の考えていることは分からないのか。
思わず矢継ぎ早に問いかけてしまう。どう見てもひとつしかないエリザの身体に、ふたつの心が宿っているという状況は、未だに上手く飲み込めない。
そうね、と相槌を打ち、エリザが肩を丸めた。
「リュンヌがこちらに話しかけようと試みているのは、伝わるわ。時折、声のようなものが聞こえる。隣に気配を感じることがある。でも、見ないよう、聞かないようにしているの」
「なぜ」
「知覚してしまえば、その瞬間に心が混ざってしまいそうだからよ。以前に言ったでしょう。あの子の人格を――そして私の人格を、一分一秒でも長く保ちたい。そのためには……声を聞いてはいけない」
胸元に手を引き寄せて、だから、とエリザは顔を上げる。
「代わりに教えて欲しいの、貴方の知っているリュンヌなら、どうするかしら」
「はあ。彼女なら――ですか」
空を映したような碧眼を思い出して、その姿を脳裏に描く。彼女について知っていることは、多いようで少ない。遠くから眺めるしかなかった時期が長すぎて、その内面と素直に会話をする機会もほとんどないまま、彼女は遠い場所に行ってしまった。それでも僅かに交わした言葉を思い起こして、カノンは彼女の心を推し測ろうとする。
「守るべき誰かのために身を挺する……率直に言うなら、あまり彼女らしくはない。誰かのために生きているような子ではないと、そう、思っていました」
「思って
「――はい」
口元を抑えて頷く。
「だから俺には……まだ、分かりません。本来の身体を捨ててまで、彼女がここに来た理由が。素性さえ隠して、ただラピスに貢献しようとした――その意味が。でも、それが、彼女が自分の安全よりも仲間を選んだ結果だと言うなら、あるいは――シェル君やアルシュのために、危険を冒すことも厭わないのかもしれません」
思いつくままに言葉を並べてから、あまりにも断定を避けた言い回しであることに気がつき「すみませんね」とカノンはあごを引いて見せた。
「俺からは、あまり……確かなことは言えません。だけど――」
言いながら、頭の中で電卓を叩く。
エリザの提案は、確かに上手く行けば総権と仲間の双方を失わずに済む。だが、フィラデルフィア語圏がどんな陣形でエリザを囲ってくるか分からず、切り札の総権も行使できない状況では、エリザを無事に救い出せる保障はどこにもない。エリザを助けられないまま、総権がフィラデルフィア語圏の誰かに無理やり移動させられてしまう方が、可能性としては高いように思えるほどだ。
それでも、彼女があのふたりを見殺しにするような未来は、想像できない。
「あの子にとって彼らが大切な存在であることだけは、確実じゃないですかね。それこそ――決して可能性の高くない賭けだろうが、打って出るくらいには」
「とても、よく分かったわ。ありがとう」
何もかも受け止める寛大さをにじませる、そんな笑顔をエリザが浮かべる。彼女はそのまま、くるりと振り返って、頬を震わせているカシェに向き直った。
「カシェ。大切な相手のために、期待値を度外視して動く――そんな感覚は、貴女にだって理解できるはず」
「な――なら」
カシェは震えながら目を見開いて、反らせた手のひらを胸の前に置く。
「どうしてもと言うなら、総権を私に戻して、私に行かせて。エリザ、ただでさえ身体を痛めている貴女が、わざわざ出る必要なんて――」
「いいえ。それは駄目」
皆まで言わせず、エリザが首を振る。
「カシェ、貴女だけは死なせない」
「どうして……」
「貴女は、死んではいけない。貴女、ラムに償ったかしら。リュンヌに償ったかしら。どちらも、まだでしょう」
ナイフでえぐるようなエリザの言葉を真正面から受け止めたカシェが、絶句で応じるのが痛々しくて、カノンは思わず目を伏せた。もう死んでしまった人と、今はここにいない人に、どう贖罪を果たせというのか。
もっとも、自分がシェルに言ったのも――彼の幼馴染に謝る日まで誠実に生きろ、と告げたのも、およそ似たような性質の無理難題かもしれないが。
「……それにね」
床に視線を落としたカシェを見て、エリザが僅かに声の響きを柔らかくした。
「もしかしたら――私なら、彼らの目を欺けるかもしれない。そうね、カノン、少し借りたいものがあるのだけど、持っているかしら?」
そう言って彼女が求めたものを、ちょうど後ろのポケットに入れていたので、話の流れが読めないながらもエリザに手渡す。礼を言って彼女が
「これは――凄い」
「そうでしょう?」
エリザはどこか自慢げに胸を張ったが、次の瞬間に眉をひそめて額を押さえた。ふらりと傾いた上半身を、カノンと同じように目を見張っていたカシェが慌てて支える。そのまま、数秒のあいだ彼女は俯いていたが、やがて冷や汗の伝った顔を上げて微笑んだ。
「ごめんなさいね。少し、疲れたわ」
肉の落ちた頬は生白く、血の気がすっかり失せている。筋肉の落ちた身体は軸を失ってふらつき、カシェに支えられてどうにか倒れずにいる――という様子だった。それでも瞳に宿る虹色の煌めきは消えず、むしろ鮮やかさを増しているようにさえ思える。
思わず唾を飲み込んで、その色を見た。
あれが――D・フライヤに祈りが届いた証。
まだ高鳴っている心臓を抑えながら、落ち着くために扉にもたれ直して「なるほど」とカノンはあごに手を当てた。
「今のを見て、たしかに……上手くやれば、あるいは成功するかもしれない、とは思いましたね。不確実には変わりありませんが――賭けてみても良い、と感じるくらいには」
「ふふ、それは良かったわ」
エリザが口角を持ち上げて、問いかける。
「協力してくれる?」
「まだ……確約はしたくありませんが。一時的にとはいえ総権を手放すアイデアに、MDPが同意するわけもないのでね。相談したら最後、あんたはどこかに閉じ込められて終わりだ」
「ええ、そうね」
エリザが鷹揚に微笑む。
勿論分かっているわ、と言わんばかりの表情だ。
つまり――これは隠密の誘いかけであり、カノンにはMDPの面々を裏切って単独で行動することが求められる。自分が彼らの仲間だと明言したことはないし、向こうもカノンを完全な味方だとは思っていないだろうが、明確に敵対するのは躊躇いがあった。
「その、俺とあんたとマダム・カシェだけで、MDPの意志に逆らうのは――流石に無理がありゃしませんか」
「あら……三人だけなんてことないわよ」
「はぁ。あの子やシェル君や、アルシュもいると――そういう詭弁ですか?」
「違うわよ。味方はもっといるわ」
ね、と微笑んで、エリザがカシェに視線を向ける。一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべたカシェが、次の瞬間に顔を引き締めた。統一機関の重鎮だったころを思い出す、鋭く磨かれた雰囲気で「分かったわ」と呟く。顔を隠す長い前髪をかき上げて、左右で色の違う瞳がはっきりと光った。
「そこまで考えてしまったのなら――もう、仕方がない。エリザ、そちらの遂行は私に任せて頂戴」
「ええ。信頼しているわ。そういうの得意、でしょ?」
「……そうね」
苦々しく頷いたカシェと違って、カノンは話の流れが全く読めなかった。あの、と割って入って、こちらを振り向いたカシェの無表情に問いかける。
「マダム・カシェ、どういう心変わりで? あんたは先ほどまで、随分と反対していたじゃないですか」
「あら――貴方もずいぶん前から地下にいたのでしょう。分からないの」
「
ようやく話を理解して、感嘆とも嘆息とも取れる声が喉から零れた。参ったな、と呟いて、カノンは後頭部をかき上げる。
「成功の可能性が高いのでは――なんて、俺にも思えてきてしまいましたよ」
「貴方も私に賭けてくれる?」
「……良いでしょう」
姿勢を正して、はっきりと首肯する。
「では――少し支度が要りますね」
「ええ。貴方にもカシェを手伝ってもらうのが良いと思うわ。それで、申し訳ないのだけど、私は少し休んでいて良いかしら」
「ああ……勿論です」
ありがとう、と微笑むエリザの眉間にしわが立っていた。短い呻き声を漏らしたかと思うと、彼女はこめかみに手を当てる。力の込められた表情が、激しい苦痛をありありと表していた。
エリザは身体をふらつかせて、半ば倒れるように寝台に横たわる。彼女の名前を切迫した声で呼びながら、カシェがその顔をのぞき込んだ。
「どうしたの。どこか痛むの?」
「違う、いるの――あの子が」
頭を両手で抑えて、エリザが呻く。きつく閉じられたまぶたの隙間から、ひと筋の涙が伝ってマットレスに落ちた。躊躇うように触れたカシェの手を、関節が浮き出るほどの力でエリザが掴んでいる。
「だめ――」
うわごとのように呟いたかと思うと、そのままぷつりと途切れるようにエリザの全身から力が抜けた。掴まれていた手を呆然と見下ろしているカシェと、たったふたり取り残される。カノンは重たい溜息を吐いて、施錠していた居室の扉を開けた。
「ふたつの心が混ざり合ってしまう前に……やるしかありません、マダム・カシェ。ブレイン・ルームにご案内します」
*
エリザの心の中、思い出の図書館を模した檻に閉じ込められたロンガは、幼少期に戻った姿のまま溜息をついた。
――どうすれば、ここから出られるのか。
閉ざされた扉は重たく、開かない。しかし、もっと本質的な問題は別のところにある。エリザがロンガを閉じ込めているのは、悪意からではない。ひとつの身体の中に、ふたつの心が存在するという現状は、紛れもない異常事態だ。こうして心の一部に隔離された領域を作り、そこにロンガの心を閉じ込めることで、『混ざり合わず、排斥せず』に複数の人格が共存することを実現しているのだ。
そうでなければ、エリザとロンガの人格が混ざり合って、どちらでもない人間になってしまうか――あるいはこの身体から一方が追い出されてしまうのだろう。どちらにしても、ロンガにとっては有り難くない展開だった。だが、このままエリザの身体に閉じ込められていては、
ガタガタと音を立てて建物が揺れ、ロンガは思わず肩をすくめる。エリザが言っていた通り、防壁として機能しているこの図書館も、荒れ狂う暴風のせいで今にも崩れ落ちそうだ。
時間はあまりないようだった。
どうにかして、混ざり合わず排斥せず――それでいて、ここから脱出することはできないものだろうか。
叩きつけるような雷の音がして、肩がびくりと震えた。世界が一瞬、真っ白に塗り潰される。明るすぎる白が消えた、その数秒後に照明が消えて、図書館は薄闇に包まれた。
途方に暮れたまま天井を見上げると、パネルのひとつがぐらりと傾いた。とっさに壁に寄って屈み込むと、先ほどまでロンガが立っていた場所に落下する。激しい音と衝撃に、思わず胸元を抑える。ここに実体としての身体があるわけではないが、心臓が激しく鳴る感覚があった。
目に入り込んだ塵を涙で押し流すように、あるいは喉につっかえた痰を咳で吹き飛ばすように、エリザの無意識がロンガを異物として排除しようとしている。
落下物から頭を守る場所を求めて壁沿いに移動すると、絨毯の床が傾いてなすすべもなく転がり落ちる。階段の手すりにぶら下がり、どうにか壁に叩きつけられる未来を回避したが、足が虚空に揺れて、恐怖が胸を支配する。
このまま死んだら、どうなるのだろう。
今ここにいるロンガは、心そのものと呼べる存在だ。もしも落ちてきた照明や倒れた本棚がこの姿を押し潰したら、心ごと消えてしまうのだろうか。
「……そんなの、駄目だ」
つるりと滑る手すりにしがみついて、振動に耐える。それでも耐え難い力が身体を引きずって、指先がついに離れ、ロンガの身体は横向きに吹き飛んでステンドグラスに叩きつけられた。
ひび割れたステンドグラスの向こうは、今や嵐どころではなく、冷え切った真っ暗闇だった。暗闇に空気が吸い込まれるように流れていって、ロンガの身体までも押し流そうとする。必死に捕まって耐えていたが、背中を支えていたガラスごと砕け落ち、ロンガは暗闇の向こうに放り出された。
言葉にならない声で、叫んだ。
しかしその悲鳴は、自分の耳にすら届かない。ロンガは無我夢中に短い手足を振り回して、ようやく、果てない暗闇に見えていた空間が宇宙だと気がついた。遠くに光点の瞬くだけの、孤独で静謐な空間に、自分と、思い出の図書館だけが浮かんでいる。砕け散った小惑星のように、瓦礫や図書館の蔵書が真空に漂いだして、ロンガの目の前を流れていった。
はるか遠い場所に太陽が見えた。
それはどんどん遠ざかり、無数の光点に混ざり合う。縋るものの何もない空間を、あべこべに回転しながら飛んでいく。幾光年の旅の向こうで、ふと何かに背中がぶつかる。ロンガは手足をもたつかせながら、
それは自分の身体だった。
両耳から太陽と月を象ったイヤリングを下げ、厚い前髪の下で目を閉じている。訳も分からないまま、自分の顔と向き合うと、眠っている自分の腕を掴んでいる片手が、腕の中にめり込んでいった。
「……そういうことか」
強烈な引力に引かれ合い、ロンガの身体と心がひとつに混ざり合おうとする。本来あるべき身体に帰れと、そう言われているのだ。
「嫌だ――」
諦めてたまるか、と歯を食いしばる。
ここで意識が分枝世界に戻ってしまったら、全てが水の泡だ。
ロンガの身体が、薄く目を見開いた。
身体と心は、もうほとんど一体化している。周囲の暗闇が明滅しながら掠れていき、ハイバネイト・シティの白い天井が見えたような気がした。どうにかならないのか、と周囲を見渡して、右手にステンドグラスの破片を握っていることに気がついた。
猶予はなかった。
鋭い断面を持つ破片を握り直し、もはや身体と心が一体化しつつあるロンガの眼前に振りかざす。思い切り勢いをつけて、肋骨の隙間を狙って突き立てる。自分自身の左胸を、白いカッターシャツごと斜めに切り裂いた。
間欠泉のように鮮血が噴き出した。
まぶたの下に覗いていた瞳から、見る見るうちに力が抜けていく。焼け付くほどの痛みを一瞬だけ感じたが、すぐにそれは遠ざかり、ロンガの意識は暗闇に飲み込まれていった。
*
顔に当たる水滴が冷たくて、我に返る。
図書館の、毛足の長い絨毯は水浸しになって、倒れていたロンガの身体は隅々まで濡れていた。服の貼り付く不快な感触に耐えながら起き上がる。
戻って来たのだろうか。
違和感を覚えて見下ろすと、色ガラスの破片が左胸に突きささっていた。手で掴んで引っ張ってみるものの、抜けない。
「――どうでもいいか」
小さく呟いて、痛々しい光景から目を逸らす。どうせ生身の身体でもないのだから、いくら血を流そうが関係ないだろう。
分枝世界に残してきた身体は、もしかしたら死んでしまった。自分自身の胸を切り裂いた感覚は、痛みこそ覚えていないものの、肉や筋を絶つおぞましい感触は忘れられなかった。あるべき身体への回帰を、考え得る限りもっとも強引な方法で拒絶した――それに見合う結果は、果たして得られたのか。たとえエリザに拒絶されたって、ロンガの心の存在できる場所は、今となってはここしかない。
恐る恐る立ち上がって、周囲を見渡す。
図書館の壁面を虹色に彩っていたステンドグラスは大きく割れ、大半が暴風で吹き飛んでいた。天井の一部が吹き飛んだのか、大粒の雨が激しく叩きつけている。図書館の内装はことごとく剥がれ落ちて、まるで廃墟のような有様だが、ロンガを排斥しようとする力は感じ取れなかった。
地面にいくつも落ちている色ガラスの破片を踏まないように気をつけながら、濡れて滑る手摺りに手を掛けて、慎重に一階に降りた。書棚の本はことごとく床に落ちて散らばり、水に濡れてしまっていた。
崩れていく思い出の場所を数秒だけ見つめてから、ロンガは扉にまっすぐ歩いて行った。力を込めて押すと、開かなかったはずの重たい扉がゆっくりと開き、向こうでうずくまっているエリザと目が合った。寝台の備え付けられた暗い部屋は、ハイバネイト・シティの一室だろうか。
ひいっ、と引きつるような悲鳴が聞こえる。
「い、嫌……どうして、そんな怪我を」
「怪我? ああ、これですか」
胸元に突きささったガラスの破片を指先で突くと、一粒の血が滴った。濡れたシャツの布地に広がって、赤く染まっていく。
「危うく分枝世界に戻りそうになったので、向こうの身体を――」
片手を握って、胸元に引き寄せる。
「こう、刺しました」
「――何て馬鹿なことを」
こちらを見つめる顔が蒼白に染まる。
自分の心臓を抉るなんて、とでも言いたいのだろう。身体の健康を失い、長い間眠っていたエリザに、ロンガの行動が理解されるとは思っていない。理解や共感なんて、最初から求めてはいないのだ。
欲しいものは、たったひとつだけ。
「エリザ。私は……」
「だ、だめ! 近寄らないで」
ロンガが扉を潜った瞬間に、幼少期の姿をまとっていた身体が揺らいで、大人の姿に戻る。こうして見ると自分よりも小柄なエリザに、一歩ずつ踏みしめながら近づく。エリザの瞳に映り込んだ姿は、ずぶ濡れな上に血塗れで、おまけに真っ白な顔をしている。
「止めて……! 混ざってしまう」
「――エリザ。私は、それでも、ここから出たいんです」
「私だって閉じ込めたいわけじゃない。でも駄目なの、心が混ざってしまう、お願いっ、来ないで!」
頭を抱えて震える彼女の隣に膝を付き、至近距離で覗き込んだ。恐る恐るといった様子で顔を上げたエリザの瞳を、じっと見つめる。
ひとつの身体の中に複数の心が存在する歪な状況では、一方が他方を飲み込むか、あるいはどちらかが排除されるしか未来はない。エリザはそう言ったし、実際にロンガの心はエリザの身体から追い出されそうになった。
だが帰り着くべき身体は、ロンガ自身の手で拒絶した。その経験によって、図らずもひらめいてしまった。共有した単一の身体のなかで、混ざり合わずに存在する方法を。
「では――ひとつ、アイデアがあるんです。こう考えてみては、どうですか」
怯えて身体を縮めるエリザに、もう一度名前で呼びかける。それから少し身体を離して、ロンガは口元を小さく持ち上げた。
「あなたの目の前にいるのは、愛すべき娘なんかじゃない。ムシュ・ラムを救えたかもしれない状況で、助けようとすらしなかった人間だ……と」
紙に書かれた文章を読み上げるように落ち着いた調子で言うと、エリザは一瞬だけ険しい表情をした。それから視線を逸らして、髪の毛を指で弄ぶ。
「リュンヌ?」
やけに甘い口調で呼びかけて、エリザはあらぬ場所を見つめたまま微笑む。
「嫌だわ。突然、何を言ってるの」
「単なる事実です。仲間を守ってくれた、恩も確かにあるはずの相手を見殺しにしました。指一つ触れないまま、彼が頭を撃ち抜かれるさまを見ていた」
彼女の夫であり、自分の父親であるラムが目の前で死んでいったときの光景を思い描きながら、ロンガは淡々と言葉をつなげた。ひとつ思い出して、そうだ、と付け足す。
「父さん……とすら、一度も呼びませんでしたね。最期に胸に縋って泣くくらい、しても良かったんですけど。それすら、できなかった。いいえ、しなかったですね」
ふふ、とロンガが唇を歪めて笑うと、エリザはついに眉を釣り上げて目を見開いた。明らかな憤りが、まっすぐこちらに向けられる。
「ねえ――もう止めて。私、貴女を許したいのよ。分からないの?」
「いいえ。許さなくて良いんですよ」
串刺しの心臓が痛むのを堪えて、微笑む。
それこそが、ロンガの思いついた策――ひとつの身体の中で、複数の心が混ざり合わず、排斥せずに存在する方法だった。
「恨んで下さい。エリザ、悲しみとか怒りとか、貴女の負の感情を全部、私に下さい」
恨み。
それは、主体と客体が分離していなければ存在し得ない感情だ。エリザがロンガを恨んでいる限り、ふたつの心の境界は明白であり続ける。歯を食いしばって拳を震わせる、エリザの頬にゆっくりと手を伸ばして――そして、触れた。
肌の柔らかさが、触れた手のひらに伝わる。その体温が肌の境界を乗り越えても、エリザの心はロンガを拒んだまま、ふたりの心は別物であり続けた。
「ね……ほら。混ざり合わない」
ロンガは微笑んでみせたが、エリザの白銀色の瞳は怒りに染まっていた。紅潮した頬を、ぼろぼろと涙がしたたり落ちる。熱っぽいエリザの身体を抱きしめると、雨に打たれて冷え切った体温との差を感じて、動かないはずの心臓が脈打つような気がした。大好きです、と告げる代わりに、ただ噛みしめるように名前を呼ぶ。
「エリザ」
貴女に会いたかった。
その体温に触れたかった、ずっと。
生まれ育った世界を離れて、自分の身体を離れて、貴女に嫌われて――やっと、貴女に出会えたのだ。