chapitre128. 選び取る意志

文字数 8,380文字

 思えばシェルは幼少期から、人の顔を正面から見つめる以外のことを知らないような人間だった。ともすれば不躾とすら呼べるほど、逃げ場のない真っ直ぐな眼差しで人を見つめる。長い睫毛に縁取られた、印象的な目元の造形も相まって、思わず息苦しくなるほどの存在感を放つ――そんな眼差しが、まっすぐこちらに向いていた。

「エリザ」

 ロンガが意識を宿す身体の名前を、呼びかける。

「貴女の意見を、まだ聞いてないなと思って。ぼくたちラピス市民は、どうあるべきだと考えますか」
「私の意見……良いんですか、言っても」
「少なくとも、ぼくは聞きたい」

 シェルは明快な口調で言って、小さく首を傾けた。

「だって、貴女にも何か志すものがあって、だからここにいるんじゃないですか?」
「……ええ」

 胸の奥にこみ上げた熱を抑えて、頷く。半分は、シェルや大切な友人たちにもう一度会いたくて、それでやってきたのだけど――そちらは堪えて、もう半分の方の理由を口に出す。

「ビヨンド――D・フライヤは、文明が滅亡に際しているからこそ、ラピスにやってきたんです」
「やってきた……? 何のために」
「彼らは文明が好きなんです。そう、言っていました」

 アルシュの問いかけに答えながら、頼んでもいないのに未来視の瞳を授けた、お節介な超越的存在を思い出す。もしも実体を持った人間だったら頬を張ってやりたい相手だし、非常に気持ち悪い言い回しは大嫌いだが、ひとつだけ共感している点があった。

「でも、彼らはいったい何を持って文明と呼ぶのか――それは曖昧ですが、無限の可能性の中からひとつの明日を選び取る、そういう主体的な存在を指しているのではないかな、と思います」

 不透明な未来を見通そうとする瞳、錯綜する情報のなかから本当を掴み取る手、見定めた方向に歩いて行く足、その全てを司る心。過去にも未来にも行けないからこそ、ただひとつ残された()で、一分でも一厘でも明るい方を目指す。

 それこそが人間だ。

 彼らは――という代名詞が適切かも分からないが、ビヨンドあるいはD・フライヤと呼ばれる超越的存在は、はっきりとそう言ってのけた。高みからこちらを見物している、その態度は気にくわないが、「人間」という存在に対する考え方だけは、ロンガのものと良く合致していた。

「私も、そう思います。考えて選び取る意志、それこそが人間ではないか、と」

 胸元に手を引き寄せて、目を伏せる。

「何一つ不自由せず寿命を全うすれば、それで満足なのか。私は……そうは思いません。ただ鼓動が続くだけでは、死んでいるのと変わりない」
「――なるほどね」

 カノンが頷いてみせるが、その薄笑いは苦々しかった。

「あんたも理想主義者ですね。停滞は死んでしまうのと同じだと言ったって、では前進するためなら死んでしまっても良い、とでも言うんですか」
「いいえ、そうは言いませんよ」

 肩を竦めてみせると、おや、と彼は片方の眉を持ち上げる。

「生き残る道を探して進むのでしょう」
「はは……そう、上手く行きませんよ」

 カノンは苦笑しながら椅子を片付けて、休憩室を出て行く。通路に踏み出す直前にぴたりと立ち止まって「ですが」と呟いた。

「俺が欲しかったのは結局のところ、理想論かもしれませんね。何もかも上手く行ったら、と仮定した場合にのみ成立する、空想上の虚構だ」
「そう……ですか」

 数秒かけて、カノンの言わんとするところを考えた。彼らしい、率直ではない物言いだが、多少は助けになれたと判断して良いのだろうか。

「――少しでも何か、良い影響があるのなら、言ってみた甲斐がありました」
「どうも。つまらない話に付き合ってもらって、すみませんね」

 エリザの顔を使って微笑むと、彼は曖昧に笑い返して背中を向けた。固い靴底が地面を踏む、規則的な音が遠ざかっていく。足音の方向を視線で追いかけながら、アルシュがジャケットを羽織り直して、溜息交じりに言った。

「どうせ……綺麗事を掲げたって、実際にやっていることは分断に次ぐ分断です。その方が安全だと、分かりきっているからです」
「短期的にはね」

 シェルが言葉を差し挟んで、アルシュも頷く。

 手を取り合いたくても、簡単には実行できない事情がある。ロンガ自身、今日の午前中を使って、ハイバネイト・シティ内に幾つもの障壁を築いてきたばかりだ。語圏を超えて協力する――というお題目に真っ向から対立する、人の流れを阻む壁を。

「言行の不一致も(はなは)だしい」

 呟いてアルシュが目を閉じる。

「カノン君が迷うのだって良く分かります。でも、だからこそ――遠い場所にある理想を、見失わないようにしなければ。そうしないと、いつの間にか袋小路に迷い込んでしまいそうで」
「アルシュ……貴女が描く、理想のラピスは、どんな姿をしているんですか?」
「まだ、分かりません」

 きっぱりと言い切って、彼女は天井を見上げる。

「でも」

 そこには“春を待つ者(ハイバネイターズ)”が焦がれた青空と、真っ白い恒星のレプリカがあった。本物に比べれば頼りない光に、アルシュが目を細める。

「壁がない世界であれば良いな……と思います。ああ、部屋の壁ではなく、有形無形の障壁のことで……絵空事だと分かってはいますが、そんな未来の礎を少しでも築けたら、生き残った理由が分かる気がします」
「生き残った――」

 頭部打撲の後遺症から復帰したことを指して、そう言っているのだろうか。思わず言葉を繰り返すと、本人も意図せずに口に出していたのか、アルシュが驚いたように目を見開いた。

「なんて……言ったら大袈裟ですよね」
「いや、そうでもないと思うな」

 ロンガの心に浮かんだ言葉を、代わりにシェルが代弁してくれる。

「ぼくらは紛れもなく、生き残った側だよ。それにしても――ふふ、そっか、壁のない世界か」
「……何か、問題でも?」

 笑い混じりで言ったシェルに、アルシュが穏やかとは言えない目つきで振り向いた。彼はびくりと肩を強ばらせて、違う違う、と両手を振ってみせる。

「ちょっと安心したんだよ。何が正解かは、人によって違うんだなって」
「それのどこが()()なの?」

 理解できない、と言わんばかりにアルシュは肩をすくめてみせた。だがシェルは動じない口調で「だってさ」とあごを持ち上げる。

「そっちの方が自然だもの。“春を待つ者(ハイバネイターズ)”みたいに、一番上にいる人の言うことをそのまま信じるのは……」

 シェルはそこまで言って、短い沈黙を挟む。ほんの数秒だけ顔を伏せて、再び持ち上げた顔は曇りない空のような笑顔だった。

「……やっぱり、駄目なんだと思う」
「そう――かもね」
「うん」

 アルシュがほのかに苦い顔をしたのは、シェルの言葉の裏を読み取ったからだろうか。
 “春を待つ者(ハイバネイターズ)”の総代が志半ばで命を落としたこと、その瞬間をシェルが見ていたことは、アルシュも既に聞き及んでいるはずだ。シェルの心を打ち砕き、瞳を陰らせたあの惨劇から、こちらではまだひと月も経っていない。

 だがシェルは()の顛末に触れることはなく、笑顔を保ったまま「だからね」と続けた。

「正解を出す必要はないんだと思う。最善を尽くして道を選ぶけど、それが正解じゃないかもって、それだけ分かっていれば大丈夫だなって」
「でも、じゃあ……もし、間違いだったら?」
「その時は仕方ない」

 シェルが両手を花弁のように広げる。

()()何とかしよう」
「――そっか」

 アルシュが僅かにあごを持ち上げて、疲れのにじんだ頬に光が落ちた。

「なんか、ちょっと元気出た。お礼言っとくね」
「え? あ、うん。どういたしまして」

 小さく首を傾げてから、シェルが頷いた。少し恥ずかしそうに前髪を直しながら、アルシュが口を横に引く。

「私たちがどんなに頑張っても、きっとどこかは歪んじゃうんだ。でも、一緒に何とかしてくれる仲間がいるなら、失敗も仕方ないかなって思えるよ」
「いるなら、って……そりゃ、いるでしょ。あんなに沢山いるじゃない、MDPの仲間」
「そうだけど」

 ――でもそうじゃないんだ。

 口元だけが動いて、言葉は微笑みに変わる。おそらくシェルも、唇の動きを読み取れたはずだが、彼は答えることなく視線を逃した。言葉は読み取れても、その意図までは分からなかったのだろう。

 MDPを代表する立場にある自分は、彼らの責任を肩代わりする立場だから――アルシュが本当に言いたかったのは、きっとそういう意味だ。シェルが思っているほど、MDP構成員たちとアルシュは対等ではない。

 だからこそ、素朴な感性から出たシェルの言葉が――アルシュひとりではなく、皆で対処しようという言葉が、有り難かったのだろう。

「あ――ごめん、呼ばれてる」

 通路の向こうに視線をやって、アルシュが背筋を伸ばす。

「マダム・エリザ、すみません、先に行きます。シェル君、コアルームまで付き添ってもらって良い?」

 前半はエリザに、後半はシェルに視線を向けて、アルシュが言う。シェルが頷いたのを確認すると同時にアルシュは背中を向けたが、通路の向こうに飛び出そうとした足がぴたりと止まる。

「あ、忘れてた……」

 結果的にその場で一回転した彼女が引き返して、ポケットの奥から出した小瓶を手渡す。昨晩シェルが渡していた、茶葉の入った瓶だろう。見覚えのある構造の瓶に、胸の奥が締め付けられるのを感じた。

「これ、返すね。おかげで眠れた」
「あ、本当に。良かった」
「うん。あの……ありがとう」
「ううん、これ、貰い物だから」

 片手をひらりと振って、アルシュが部屋を出て行った。第三者の目があったからかもしれないが、ふたりの間に漂う雰囲気が昨晩よりは緩まったように感じて、他人事ではあるものの安堵する。

 じゃあ、と声の調子を切り替えて、シェルがこちらに向き直る。瓶をパーカーのポケットに押し込んで、にっこりと微笑んで見せた。

「コアルームに戻りましょうか」
「ええ、そうですね――あ」

 立ち上がろうとした足に、思ったように力がかけられず、身体の重心があらぬ場所に向かう。分枝世界に置いてきた本来の身体であれば、まず陥らないようなバランスの崩し方をして、頭の中が真っ白になった。

 天地の境目が不明瞭になり、落ちる――という感覚が先行して訪れる。

 その背中を、血と骨の通った暖かい手のひらが支えて、見失った重力の向きを教えてくれた。痺れにも似た感覚と共に、腰がふわりと地面に付く。

「……シェル」

 ふらついた身体を支えてくれた彼が、喜怒哀楽のどれも浮かばない顔でじっとこちらを見ていた。目蓋に掛かった、雑に切られた前髪を払いのけて、彼は小さく首を傾ける。

「大丈夫ですか?」 
「あ、はい、ええ――ごめんなさい」
「いえ」

 良かったです、と言いながら笑って、彼は緩やかに首を振る。

 手で触れられそうなくらいの距離に近づいた彼の顔を、思わずじっと見つめてしまった。天井の灯りを受け止めて照り返す赤茶色の瞳に、例の白銀の煌めきが宿っていないことに安堵する。ロンガやエリザ、カシェだけでは飽き足らず、ビヨンドが彼にまで手を出すような事態は、絶対に容認できない。

「……本当に、大丈夫ですか?」

 動きを止めてしまったのを気遣ってだろう、ひとつ瞬きをして、シェルが片方の眉をひそめる。

「もし部屋に戻るなら、ぼくから皆に言っておきますけど」
「いえ、そういう訳では――平気です」

 彼の手を借りて、床から立ち上がった。少し捻ってしまったのか、静かに波打つように痛むエリザの身体を、テーブルに片手をついて支える。椅子を片付けてくれたシェルが、記憶より僅かに高い場所からこちらを見て、そうだ、と呟いた。 

「あの、エリザ――ぼく、貴女と会ったことがあるんです。10年も前ですけど」

 心臓が小さく跳ねる。

「……覚えていません」

 話の整合性を保つためには、昔のことは覚えていないと突き通した方が良い。動悸を抑えながらも嘘をついた。

「そうですか」
「ええ、ごめんなさい」
「いえ――別に良いんですけど」

 シェルは背を向けて休憩室の照明を消しながら、何食わぬ口調で相槌を打った。

「貴女はラ・ロシェルの図書館にいて、ぼくの友達といつも話してました。ぼくは外で遊ぶ方が楽しくて、だから、ぼくのことは覚えてないかもしれないですけど――」

 振り返った視線は、明らかに緊張していた。

「ルナの――リュンヌのことは、覚えてませんか」

 いいえ。
 覚えていません――

「ええ、()()()()()()

 口に出そうとしたのとは正反対の意味を、唇が勝手に紡いだ。

「……え?」

 胸がざわりと毛羽立ち、凄まじい違和感に襲われる。

 なぜ――と問う余裕もないまま、視界が端から浸食されて、暗く淀んでいった。目を見開いて駆け寄ってくるシェルの姿を、かろうじて視界の隅に捉えたが、それもすぐに消えてしまう。今度こそ天地が完全に入れ替わり、手足を慣性に揺らしながら、意識は渦巻く暗闇に吸い込まれていった。
 
 *
 
 目を覚ましたときは深夜だった。

 居室の暗い天井を呆然と見上げる。誰かがここまで運んでくれたのか、ブランケットが丁寧に掛けられていた。全身を流れる血液が泡立っているかのように落ち着かない。身体を震わせながら上半身を起こすと、汗をかいた背中が冷えて鳥肌が立った。

 激しい目眩をこらえて、意識を失う直前の記憶を呼び出す。あの時たしかに、自分の意志とは違うものによって唇が動いた。その気持ち悪さを思い出して、吐き気を催した口元を抑える。

 エリザの姿に飲み込まれて、ついに自分が誰だか忘れてしまったのだろうか。

「……違う。私は」

 震えながら首を振った。

 まだ覚えている。自分の存在を。新都ラピスから与えられた名前も、友人がくれた愛称も、自ら名乗った偽名も。だが、口に出して確かめると、その響きの異質さに全身がぞわりと総毛立つ。恐る恐るエリザの名前を呟くと、馴染みの良さに涙が零れた。

「なんで。どうしてっ――」

 ――だって、私の身体だもの。

 そんな声がどこかから聞こえた気がした。

 気がつけば、白銀色の双眸が暗闇に浮かび、煌びやかな虹色のプラズマを伴ってこちらを覗き込んでいる。

「可哀想。可哀想よね、貴女。でも、許せない」

 七色の光が周囲に飛び散って、サイケデリックな銀河を描き上げる。可哀想、許せない、二つの言葉が呪文のように繰り返されて、浮遊しているロンガの心を固く縛りつけた。

 色と色が寄り集まって、いくつもの景色を編み上げた。見たことのない映像が、いくつも浮かび上がる。教堂に似たステンドグラスの建物、七人の祖と思われる人々、若い日のラムやカシェと(おぼ)しき姿。

 エリザの記憶だ。

 白銀色の瞳がそれらを見つめて、静かに泣いている。それは身体の本来の持ち主である、ロンガの母親であるところのエリザ――だろうか。その瞳に手を伸ばすと、ぐっと引き寄せられて、実体を持たないはずの身体が浮き上がった。

「エリザ?」

 暗闇に向けて呼びかける。

「そこにいるんですか」

 見えない糸で身体を縛られながらも、必死に周囲を見回す。目の前の空間が十字に区切られ、扉が浮き上がる。恐る恐る手を当てると、重たい感触を伴って扉が開き、七色の煌めきが隙間から飛び出した。

 思わず息を呑む。

「ここは――」

 ラ・ロシェルの図書館だった。

 かつてエリザと語らい、ひと冬を過ごした思い出の地。ふと見下ろすと、自分の手がやけに小さいことに気がつく。磨き上げられた壁に映る自分の姿は、まだ幼い子供の形を取っていた。

 振り返ろうとした刹那、背中をどんと押される。

 毛足の長い絨毯に倒れ込むのと同時に、派手な音を立てて扉が閉まった。慌てて扉に駆け寄り、取っ手を掴んで引っ張るがびくともしない。

「エリザ……」

 呆然と呼びかけると、厚い扉の向こうで引きつった悲鳴が聞こえた。

「出てこないで、リュンヌ」
「待って、エリザ、エリザなんですか。まだ、貴女と話ができるんですか?」

 今、起きている不可思議な現象よりも、彼女が語りかけてきたことの方がロンガにとっては重要だった。ラ・ロシェル語圏で眠っていた、ロンガの母親本人であるエリザの心は、もう消えてしまったのだとばかり思っていた。

 開かない扉にすがって語りかけると、やめて、と細い声が応じる。

「何も言わないで。お願い」
「せめて理由を! どうしてこんなことを?」
「――嫌いだからよ」

 悲しげな声は、絞り出したように掠れていた。

「可哀想な貴女のことが、嫌い。許せないの」
「……怒っているだろうとは、思っていました」

 彼女の最愛の夫であり、同時に自分の父親であるラムを、ロンガは救えなかったし、救おうともしなかった。それどころか、突き放すような冷たい口調で見送った。もっと伝えるべきことがあると気がついたときには、彼はとっくに死んだ後だった。

 白銀色の瞳を通じてそれを見ていたエリザが、どれだけ悲しんだか。心がかき消えるほどの苦しみ――と言ってしまうのは簡単だが、ロンガの想像する苦痛などは、その一片にも達していないだろう。謝って許されるようなものではないに違いない。

「だけど……エリザ」

 冷たい扉に手を当てて、ロンガは顔を上げる。

「私は、貴女が大好きです。伝えきれないくらい、感謝しています。ずっと、それだけを言いたかった。どんな形でも、また貴女と会えて良かった」

 エリザは答えなかった。

 彼女の気配が遠ざかっていき、ロンガは静かに息を吐いて重たい扉にもたれかかる。この図書館は多分、エリザの記憶だ。エリザの身体に残っていた彼女の心が、ロンガの心をここに閉じ込めたのだ。

 おそらくは――顔も見たくないから。

 よろめきながら立ち上がり、力を込めて扉を引っ張ってみたが、動く気配すら見せなかった。窓に近づいてみるが、本来ならラ・ロシェルの街並みが見えるはずの、ガラスの向こう側は暗闇だった。もちろん窓を開けることも叶わない。

「それじゃ駄目よ、リュンヌ」

 優しい声が聞こえて、振り返る。

 立ち並んだ本棚の間から、シフォンのワンピースを翻してエリザが歩いてきた。どうして中に、と問いかけそうになって、彼女の表情に浮かんでいる微妙な差異に気がつく。

「私よ」

 エリザは唇の前に人差し指を立てて、悪戯っぽく微笑んでみせた。

「小声でね。()に気付かれちゃうから」
「貴女は――分枝世界の」
「そう。貴女の母親じゃなくて、お友達の私。ずいぶん時間は掛かったけど……やっと、ここに来れたわ」

 ソファを回り込んでこちらにやってきた分枝世界のエリザは、幼少期の姿に戻っているロンガに視線を合わせるためか、絨毯の床に膝を付いて微笑む。

「本当は嫌われてなんていないわよ、貴女」
「えっ、でも……」
「だって、()()()()と言ってたでしょう。許さない、じゃなくて」

 ロンガの手を引いて柔らかいソファに座り、エリザは流れ落ちる蜂蜜色の髪を背後に流した。

「それに、本当に貴女なんてもう、どうでも良いのなら……こんな、閉じ込めるような真似はしないわ。貴女を自分の身体から追い出してしまえば、それで済む話」
「じゃあ、なぜ――私はここに」
「大好きな貴女に、酷いことをしてしまいそうだから、じゃないかしら。それこそ、貴女の父親がそうだったように……愛していたい相手を、いつだって素直に愛せるものじゃないのよ。人間は複雑なものだから」

 とはいえ、とエリザは首を傾げる。

「こんな場所に閉じ込められてしまったのは、少し困りものね」
「ええ……せっかく、最前線(フォアフロント)に来たのに」

 ロンガが小さい肩を落とすと、そうだわ、とエリザが立ち上がった。

「ひとつ、考えがあるの。試してみない?」
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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