chapitre103. 光の道標
文字数 6,949文字
「ルージュのこと、気遣ってくれてありがとうな」
「あ……ううん。結局、勘違いだったみたいだし」
そう言って彼は寝台に上半身を倒し、凄いなあ、と呟いた。天井を眺める瞳に、細長い蛍光灯が映り込む。
「言葉の壁を越えるために、新しい言葉を作る、か。それを閃くのも、実行できるのも、今まさに前に進んでいるのも――全部、素晴らしいと思う。彼らならきっと、地上と地下の
「……本気でそう思ってるのか?」
惜しみない賞賛のわりに淡々とした口調なので、ロンガが
「だからこそ、間に合わなかったことが残念だ。あと少し早ければ、もしかしたら何か違ったかもしれないけどね」
「また、そんなことを言う。気が滅入るだろうに」
「もう起きちゃったことは、気の持ちようでは変わらないよ」
「そうか……今日、
「あのね」
シェルは真剣な声で、ロンガの言葉を遮った。彼は上半身を起こし、図鑑で見たブラックホールを彷彿とさせる暗い瞳でこちらをのぞき込む。
「出生管理施設が燃えた。次世代が望めなくなった。それは、ぼくやルナの心とは関係ない、ただの事実なんだよ。まさか分かってないの。それとも気がつかない振りをしてるの」
「いや、分かってるけど」
「……けど?」
「何だか、ソルがすごく苦しそうで。そちらのほうが気になってしまうんだ」
ロンガが正直に答えると、何それ、とシェルは苦笑した。あーあ、と溜息交じりに呟いて、寝台から下ろした足をぶらぶらと揺らす。
「だって今、すっかり諦めてしまっているだろう」
「……そうだよ? ルナも、ぼくと一緒に諦めてくれたら、話が早いんだけどね。いつの間に、そんな前向きな性格になったの」
「言ったら悪いけど、ソルの影響だと思う」
「ぼくのせいかぁ……」
彼は小さく肩をすくめて、それから勢いを付けて立ち上がった。部屋のテーブルに無造作に投げ出してあったパーカーを引っ掴み、良かったらさ、とこちらに振り返る。
「きっと今もさ、新しい言葉を作るための会議、してるでしょ。ぼくらも見に行かない」
「ああ――良いな。行こうか」
「うん」
頷く表情には、先ほどまでの
ロンガが2年前にシェルと別れてから、全く異なるコミュニティで最初から人間関係を作り直したとき、意識的に笑顔を浮かべる重要さをようやく学んだ。ロンガの場合、あまり目つきが良くないことも災いし、自分では笑っているつもりが他人から見れば無愛想に見えていたりしたのだ。
笑顔を
それが完全に読み違えだったとは思わない。しかし、彼が外面を取り繕えないほど傷つき苦しむさまを見て、ようやく理解した。
その笑顔は相手を安心させるため。
そして、内心を見せまいとするために、意志と理性でコントロールされた仮面だったのだ。
シェルが仮面を被ろうとするなら、それはそれで良い。だけど内側に潜んでいる苦しみを、今度こそ晴らしてやりたいと願うのは、それができるとすれば自分だと思うのは――唯一無二の
21年と少しの半生。
その道をロンガはひとりで歩いてきたようで、ずっとシェルに助けられていた。太陽が月を照らすように、当たり前のような支えが常にそばにあった。月が太陽を照らし返すことは、きっと叶わないけれど、自分と彼は人間であり対等な友人だ。彼がロンガに教えてくれた光や色を、温度や微笑みを、今度はロンガから彼に返したかった。
一緒に諦めてしまえば、もしかしたら楽になれるかもしれないけど、それは最後まで取っておこう。希望を投げ出すのは、いつだってできるから。
「よし」
内心で拳をぎゅっと握り、決意を固め直してから、ロンガは後を追って通路に出る。数歩先を行くシェルを追いかけてその隣に並び、周囲に誰もいないことを確認してから、念のために声を潜めて彼に話しかけた。
「――ソル。ひとつ、頼んで良いか?」
「うん、何?」
「コラル・ルミエールの皆には、出生管理施設のことを言わないでおきたいんだ。せっかく地上と地下が手を取ろうとしているんだ。今教えてしまうのは、それを妨げると思う」
「それは……同意できない」
シェルは伸びた前髪を払うように首を振った。
「真実の伝え方として、適切なタイミングや形式というものは確かにあるだろうね。でも、どこかで唐突に知ってしまう方が危ない……実際に地下で何が起きたか、言ったでしょ?」
突然のショックを処理しきれなかった人たちは、握手するために伸ばしたはずの手で銃を握ってしまったのだ。シェルが巻き込まれた惨劇を思い出し、ロンガが口を
「いつ、どういう形で教えるかの制御を、誰かがしないといけない。特に、彼らはまだ子供だもの」
「そうか。そうだよな――分かってるけど」
「でも今じゃない。ルナはそう思ってるんだね?」
言いたいことを先回りされた。確認するように振り向いたシェルに、頷き返してみせる。
新しい意思疎通の方法を創り出そうと決めて、あれこれと話し合いに明け暮れる彼らはとても楽しそうに見えた。あれは明るい未来が待っていると信じているからこそであり、出生管理施設が燃えたのだと教えた瞬間に、あの活気が嘘のように消えてしまう気がして怖かった。
たとえラピスの寿命がもう長くないとしたって、今この瞬間、地上と地下が手を取り合い始めているのは本当なのだ。
その歩みを、止めて欲しくはないのだが。
「それじゃあ、こうしよう」
考え込んだロンガの目の前に、シェルが人差し指を立てて見せた。
「一部の……真実を受け止められて、最適なタイミングで彼らにそれを伝えられる人にだけ、教える。どう?」
「ああ! それなら」
ぱっと目の前が明るくなった。
ロンガはほっと息を吐いて、誰にならその役目を任せられるか考える。
「アックスと……それからリジェラには、教えておいても良いと思う。ふたりとも信頼できる人だし、地上と地下から一人ずつで。どうだろう?」
「良いと思う。それに、コラル・ルミエールの雰囲気については、ぼくよりルナの方が詳しいはずだ。ルナの判断に従うよ」
分かった、とロンガが頷こうとした瞬間、シェルの表情が強ばった。
「ちょっと待って」
唇の前に人差し指を立てたシェルが、横に視線を滑らせる。ロンガも程なくして気がついた。誰かの歌声が聞こえる。聞き覚えはないが、高く澄んだ歌声からしてコラル・ルミエールの団員だろう。
「一旦、この話を終わろう」
ロンガが唇の動きだけでシェルに告げると、彼も頷く。
しかし、コラル・ルミエールの利用している区画にはまだ遠いはずだ。自主的な練習でもしているのだろうか、と疑問に思いながらも歩いて行くと、女性らしい高い歌声はどんどん近くなっていった。
声がはっきり聞こえるようになると、音楽の素養がないロンガさえ、思わず聞き惚れるほどだった。
歌詞は地上と地下のどちらでもない言語のようで、その意味は分からないが、彼女の歌声には、理由も分からないまま心が震えるほどの感情が込められている。青空のように高く澄み渡ったかと思えば、まるで年老いた賢人のように言葉を語り、踊る風のささやきになり、野を駆ける小動物になる。
声ひとつで森羅万象を表現する、その歌を聴いているだけで見たこともない景色が眼前に浮かぶようだった。
誰が歌っているのだろう。
だが、もう次の角を曲がったすぐ先にいる、と分かるくらいまで近づくと、突然歌声が途切れて、その代わりに足音が遠ざかっていった。
「ありゃ、邪魔しちゃったかな」
シェルが申し訳なさそうに呟く横で、ロンガは曲がり角の向こうに目をやる。すると、小さなシルエットが物陰に消えていくのが見えた。
「あれ?」
その後ろ姿には見覚えがあった。ロンガは目を瞬いて、一瞬だけ網膜に焼き付いた映像を見返す。
「今の、ルージュだ」
「え、見間違いじゃないの。だって、喉を痛めてて歌えないんでしょう」
「そのはずだけど……確かに彼女の服だ。すごい、あんな歌が歌えたんだ。でも、ルージュの声には聞こえなかったな」
「ふぅん……?」
シェルは目を細めて、しばらく黙って歩いた。ややあってからロンガに視線を向け、もしかしたら、と切り出す。
「本当は声が出ないんじゃなくて――」
その言葉に続けてシェルが説明した仮説を、ロンガはすぐには受け入れられなかった。
「まさか、そんな――可能なのか?」
「可能みたいだよ。ぼくは実際にこの目で見た」
「なるほど。仮に本当だとしたら……何というか、やりきれない話だな」
絞り出したロンガの言葉に、シェルも重たい表情で頷いて見せた。
*
翌日。
アックスとリジェラに遠い区画まで来てもらい、人のいない倉庫を見つけて出生管理施設の一件について説明した。万一にも他の居住者に聞かれないように鍵を閉め、通路から離れた場所で声を潜めて説明する。シェルのほうが事情に詳しいので、主には彼に説明してもらい、ロンガが補足したり話の流れを整理する運びになった。
「――なるほど、分かりました」
「教えてくれてありがとう。ふたりとも」
ロンガが見込んだとおり、アックスとリジェラは冷静に話を聞いてくれた。説明が終わると、アックスは腕を組んで暗い天井を見上げた。
「新しい才能がもう見込めないかもしれないのは、率直に言えば残念です。若さというのは可能性だった。芸術と人間が新しく出会うとき、それまでには世界のどこにもなかったものが、必ず生まれていましたから」
「あら、でも芸術も人間も、どんどん変わっていくじゃない。貴方たちはいつも、音楽と出会い直していると思っていた。一度として同じ演奏はないんだもの」
「そう言ってもらえるのは嬉しいです、リジェラ。でも、ロマンやルージュのように年下の才能を見ていると、やはり、勢いのある時期というのは一過性のような――」
「自分で決めつけちゃうのは勿体ないわよ」
リジェラが眉をひそめて、そうでしょうか、とアックスが頭をかく。彼らの掛け合いも見慣れてきたなと思いつつ、ロンガが横に座ったシェルをちらりと見ると、彼は持ち上げていた眉を元の位置に戻して「驚いた」と囁いた。
「コラル・ルミエールの人が、音楽を何よりも大事にしてるって言ってたの、あれ比喩じゃなかったんだね」
「そうだな。
ロンガが頷くと、リジェラと話していたアックスが照れくさそうな表情を浮かべながらも「はい」と頷いた。
「統一機関の人から見れば、僕らは、なんて下らないことに心血を注いでいるのだろうかと思われるかもしれません。音楽は空腹を満たすこともできないし、病を治すこともできない」
「でも生きる道しるべとなる」
シェルが言葉を挟んだ。
「そういうこと?」
「はい。生きるために音楽があるのではない、音楽があるから生きるのです、僕たちは」
「私は違うけど」
リジェラは小さく肩をすくめる。
「でも、そんな彼らを見ていられる幸せが、今の私の道しるべよ。ねえ、ロンガ……私たちだけに、これを教えてくれたのは、子供たちが悲しむと思ったからだよね」
「――ええ」
「でもね、私は大丈夫だと思う。この場所でも音楽が続いていることが、彼らにとって何よりも希望なのよ。ねえ、
「いえ……」
「新しい言語で作詞がしてみたい、だって」
彼女は祈るように手を組んで、ここにはない教堂のステンドグラスを眺めるときの表情になった。
「きっと歌のように綺麗な言葉を作るつもりなんでしょうね」
「ええ――お二人とも、気を遣ってもらってありがとうございます、でも、僕らはきっと平気です。コラル・ルミエールが一番危なかったのは、歌う場所だった教堂を失ったときでした。でも僕らは、音楽に場所は関係ないと気がついた」
「それに“
「――そうか」
呆気にとられていたシェルが、ゆっくりと瞬きをして頷いた。
「貴方たちのなかには、何のために生きるのか――っていう問いに対する答えが、はっきりあるんだ」
「そう言われると恥ずかしいですけど、ええ、そうですね」
「ぼくには真似できない。眩しいなぁ」
シェルの口元がほんの僅かに持ち上がる。本人すら気がついていないだろうと思うほど、微細な表情の変化だった。
「分かった。そうしたら、この件はお任せしても良いですか。そちらから、皆に伝えてもらっても」
「ええ、ありがとう。任されたわ」
リジェラが微笑んで、アックスも同調するように力強く頷く。胸の中に引っかかっていたものがひとつ解消されて、ロンガはほっと息を吐いた。
音楽と太陽。
それが、彼らにとっての希望そのものなのだろう。ロンガも諦めない意志はあるものの、持っている感性はシェルに近い。次世代が望めないことを知った彼らが、ここまで前向きに物事を捉えていることは驚きだった。
「好きなものがあるって、すごいな」
シェルの独り言めいた呟きに、ロンガの感想も集約されていた。
だが。
立ち上がろうとして、そこで不意に、音楽を愛する少女の姿を思い出した。まだ泥に覆われていなかった頃のラ・ロシェルで、夕暮れの太陽に目を細めながら、堂々とした態度で放ったあの言葉。
『音楽は、アタシにとっては
何の躊躇もなく、そう宣言したルージュが、今はコラル・ルミエールの仲間たちと歌うことを避けている。一人で歌っている声だって楽しそうだったけれど、それが彼女の本望だとは思えないのだ。
「ルナ、どうしたの」
木箱に腰掛けたまま考え込んでしまったロンガを、シェルが怪訝そうに見遣る。
「帰らないの」
「あのさ。せっかく、アックスたちを呼んだから、その――相談できないかなと」
ルージュのことを。
最後は唇の動きだけでそう伝えると、ああ、と彼は目を見開いた。そのまま振り返って、今にも倉庫を出て行こうとしていたアックスとリジェラに声をかける。
「もう一つだけ。良いですか」
「あ、ええ。何でしょう」
「もしかしたらこちらの方が、貴方たちにとっては重要かもしれません。ルージュちゃんの声なんですけど……出せないのではなく、声質が変わってしまったのかも」
シェルが単刀直入に切り出したときのアックスの表情は、出生管理施設が燃えたと聞いたときよりも、よほど深刻そうに歪んだ。何ですって、と唇を震わせて問い返す。
「喉を痛めたからということですか?」
「いえ。失った声帯を回復する技術が地下にはあります。だけど、完璧に同じ声音を再現することは多分、できなくって。彼女は地下に来てすぐに、その処置を
「う、嘘ですよね。止めてください」
アックスが額を抑えて壁にもたれかかるが、いえ、とリジェラが強い口調で言って首を振った。
「知っているわ、それ。地上の人間によって喉を傷つけられた総代は、地下の技術で声を取り戻したのよ」
「……取り、戻した?」
アックスは掠れた声で呟いた。
「声が変わってしまったら、取り戻したなんて言えない。それは奪われたって言うんです。ルージュの声は、もう――」
この世界の、どこにもないんですか。
そう呟いて背けたアックスの顔は、太陽を浴びて育った地上の人間とは思えないほど白かった。