chapitre155. 断絶
文字数 6,332文字
呆然とアルシュが立ち尽くした背後で、あっ、と切迫した声が叫んだ。
「こ、これ――見て下さい」
「えっと……」
表示された図を見て、アルシュは目を瞬いた。
突然の事態に着いていけず、止まりかけた思考を必死に巡らせて、線と長方形から構成された、抽象的な図の示すところを読み取る。ハイバネイト・シティ最下層の、かつてエリザが眠っていた円筒型の部屋の天井付近で、耐荷重寸前であることを示す警告が表示されている。一箇所だけではなく複数の地点で警告が示され、パネルはまたたく間に赤い警告文で染まった。
「そうだよ……うっかりしてた」
思わず舌打ちをこぼしながら、アルシュはコマンドを叩く。上層に被害が及ぶかどうかばかり気にしていたが、アルシュたちが滞在しているコアルームは、ハイバネイト・シティ最下層の中央、地上の地図と照らし合わせばラ・ロシェル直下に存在する。先に自分たちの心配をすべきだったかもしれない――という後悔が胸をよぎるが、どのみち取るべき手段は他になかっただろう。
「これは……シナリオFに近い状況ですね」
避難計画の考案を先導して行っていた構成員が、顔をしかめて言う。アルシュは振り返って、彼に問いかけた。
「シナリオFというのは?」
「はい、
彼は蒼白な表情でキーを押し込んだ。
「さっきからどんどん優勢になって、いま70パーセントを越えました」
「そんな! 急に上がりすぎでしょう」
「システムが捕捉できていなかったファクタがあるのかもしれません。何か小さなものが引き金となって、結果的に大きな被害となる可能性は十分に考えられます」
シナリオの実現確率は見る間に上がっていき、それから数秒で90パーセントの大台に達した。そういうことか、とアルシュは呟く。
「マダム・エリザは、あの目でこれを見たんだ」
未来を見通す白銀の瞳は、ラピスという社会が辿りつく先は予測できないが、海面上昇に伴うラピスの水没は予期できていた。おそらく、その時点において、実現する可能性が高い未来が見えるのだろう。アルシュたちが通路の閉鎖を実行したことで、
「なるほどね……」
アルシュの推論に頷いて見せたカノンが、ふと顔を上げる。
「いや、待て……ってことは、彼女があっちの部屋に行ったのは――」
「向こうが危ないってことか!」
いてもたってもいられず、アルシュは身体を反転させた。その勢いのまま、コアルームを飛び出そうとしたが、背後から腕を掴まれて急停止する。
「ダメだ」
「――でも!」
「出るな、と言われただろう」
カノンが硬い表情でこちらを見下ろしていた。腕を払おうと身体をよじるが、力では全く歯が立たない。
「あの目はおそらく、ELIZAのシミュレート以上に正確に未来を見ている。確定した事象に限っては、という話だが――俺たちが行ったところで、邪魔になるだけだろう」
「だからって、マダム・エリザにひとりで行かせるなんて!」
「アルシュ、ここは地下だ」
彼は断固として首を振った。
「本来、人間がいるべきではない場所で、俺たちを守ってくれている殻が壊れようとしている、この事態を、もっと深刻に見た方が良い」
「……分かったよ」
アルシュが唇を噛んで押し黙ったのを見て、カノンが掴んでいた腕を解放する。その背後で、パネルを見守っていた構成員が唾を飲み込んだ。
「シナリオF、確定率98パーセントを超えました」
アルシュは気を静めるためにゆっくり息を吐いて、エリザが駆けていった方向を見つめた。カシェたちが作業をしているブレイン・ルームまでは、走ってもそれなりの時間が掛かる。
「どうか、無事で――」
思わず祈った、そのとき。
パシッという軽い破裂音とともに、天井の灯りのひとつが消えた。一秒にも満たない間を置いて、液晶パネルがふっと暗くなる。一瞬のうちにコアルームは闇に包まれ、視界が遮断されたように何も見えなくなる。
停電か、と誰かが叫ぶ。
また破砕音。
足元の地面が横に滑って、身体が傾く。
アルシュはとっさに、静脈認証パネルがあった場所に手を押し当てた。遠くでモータの低い音がして扉が開き、板状の光が通路から差し込むのを見ながら、バランスを崩して床に腰を打つ。
ドン、という音。
身体ごと引きちぎるような轟き。
鈍い痛みに顔をしかめながら、壁のでっぱりを指先でとらえて身体を支える。揺さぶられる頭の中で、さっき言われた言葉が何度も何度も渦巻いていた。
――ここは地下だ。
――俺たちを守ってくれている殻が、壊れようとしている。
壁や床や天井、ハイバネイト・シティを構成する全てがぐらぐらと揺れて、共振して砕け散る。弱い人間の身体など、ひと息に引き裂く岩の重みが、何気ない談笑のすぐ頭上にあることを、分かっていたつもりで分かっていなかった。
「ああ……そうか、こういうことなんだ」
地の底とは。
空のない世界とは。
逃げ場のない洞穴の果てなのだ。
暗い、真っ黒な土壁が両側から迫ってきて、アルシュの身体を挟み込む。身動きが取れなくなったところに、みぞおちに巨大な礫が落ちてきて、肉を割り骨に食い込んだ。自分の胴体が両断されるような錯覚を覚えて、アルシュは目を閉じた。
*
――創都345年1月28日 午前11時17分
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第42層
突然、静かになった。
例えるならば、聞こえていることにも気がつかなかった耳鳴りが止んで、知らない種類の静寂に包まれたような――そんな印象だった。避難の補助のため、無人区域を走っていたシェルはふと立ち止まり、静寂の正体を探ろうと耳を澄ます。
次の瞬間、天井の照明がひとつ消えた。
隣、また隣と照明が落ちていき、暗闇が波のように通路を伝っていく。数秒もしないうちに視界が真っ暗になり、シェルは手探りでペンライトを取り出す。
「停電かな」
自分の爪先も霞んでみえるほどの暗闇で、独り言はやけに大きく響いた。
以前にも似たような事態があったことを思い出し、シェルは当時の記憶を手繰る。感傷に浸りそうになるのを堪えて、必要な部分だけを記憶から抜き出した。
結論として、何らかの原因でシステムが停止した場合も、手動で非常電源に切り替えることが可能だ。最下層にはカノンが残っている。彼ならば電源の復旧も対処できるだろう――とそこまで考えを巡らせて、ひとまずシェルは胸をなで下ろす。
とはいえ、暗闇はパニックの温床だ。
幸か不幸かシェルは無人区域におり、悲鳴やら怒号といったものは聞こえてこないが、この停電がハイバネイト・シティ全域に及んでいる場合、混乱は相当なものではないだろうか。
立ち止まって悩んでいても始まらないので、ひとまず移動を再開しよう――とペンライトで前方を照らしたところで、シェルは遠くに音を聞いた。
ビスケットを割るような音。
そして細かい振動。
ぶわっと湿った空気が髪をあおった、次の瞬間に轟音が響いた。天井のパネルがひとつ外れて足元に落ちる。とっさに身を屈めて頭を守りながら、振動が収まるのを待った。
数十秒経って揺れが収まった。
ゆっくりと立ち上がり、周囲を照らす。
通路の雰囲気は一変していた。
落下物が床に転がり、壁には亀裂が入って中の構造が見えている。埃が舞い散り、ペンライトの光を受けてぼんやりと光る。リュックサックの紐を締め直して、とにもかくにも前に進んでいくと、通路のはるか遠くで、奇妙に明るい場所を見つけた。
壁に白い光が落ちている。
シェルと同じくペンライトを持った人がいるのか、あるいはまだ灯っている照明があるのか。確かめてみようと思い、また振動が襲ってくるのを警戒しつつも、シェルは一歩また一歩とその光に近づいた。
光は扉の向こうから溢れていた。
シェルは取っ手を掴み、ゆっくりと開く。
本来ならば寝台と机と椅子、それに物入れが取り付けられているはずの一般的な居室――その奥行き半分が、抉られたように消え失せていた。
傾いた床と、砕けた壁の向こうには。
「……何が、起きてるの?」
崩れそうな膝を支えて、シェルは扉に片手をつく。なにかの錯覚かと目をこすり、視線を逸らしてまた戻すが、見えているものは同じだった。
光の正体は太陽光だった。
南中高度に近い太陽が、白い空に浮かんでこちらを見下ろしていた。
*
「おい――無事か」
声を掛けられて、アルシュははっと我に返った。反射的に身体を起こそうとして、あばらを刺す鋭い痛みに歯を食いしばる。呻き声とともに痛むそこを抑えると、隣にカノンが膝を付いた。
「立てるか」
「……何とか」
両足を引き寄せ、体勢を整えて慎重に立ち上がる。一時的にパニックを起こしてしまったようで、あまり明晰に覚えていないが、何かが胴体の上に落ちてきた記憶がある。アルシュが倒れていた脇に、操作盤から外れた金属板が転がっていたので、おそらくはこれだろう。肋骨にひびでも入ったのか、身体をよじるとずきりと痛んだ。
「無事かい」
多少緩んだ口調で、同じことを再度問われる。
アルシュは頷いてみせて、それからコアルームを見回した。椅子が倒れたり、操作盤が落ちたりしている。MDP構成員たちはいない。天井に埋め込まれた照明は、液晶パネルと同様に暗かった。部屋の様子が見えるのは、カノンがペンライトで照らしてくれているためだ。
「みんなは」
「電源の復旧と、それからマダム・エリザたちを助けるため、向こうに行った。あんたが平気なら、後に続こう」
「分かった。行ける」
カノンがひとつ頷いて、半開きのまま固まった扉を、身体を横向きにして抜けた。彼の後を追いかけて通路に出ると、そこの照明も落ちていることに気がつく。
「停電……どこかで断線した?」
「おそらくは」
カノンが頷いて、だが、と声を濁らせる。
「非常灯まで落ちているところを見ると、配電系統の一部がやられた、とかそんな部分的な問題ではなく――もっと根本がやられた可能性がある」
「根本というと」
「発電棟だ」
そう言ってカノンが指先を上に向ける。
会話はそこで一度中断になり、ふたりは通路を走って向かいのブレイン・ルームに向かう。円弧を四分の一ほど回ったところで、歩幅ほどの亀裂を飛び越えた。そこを境目にところどころ床が崩れており、カシェたちが作業をしていたブレイン・ルームの手前では、細い鉄筋のうえを伝わなければならなかった。先に着いていた構成員の手を借りて、どうにか無事に渡りきった。
ブレイン・ルームに踏み入ると、そこは以前の記憶とは全く異なる様相を呈していた。運び込んだ巨大な計算機の機体がドミノのように倒れ、ひとつが壁を突き破って隣の居室が見えている。足を挟まれたらしい構成員が呻いている隣で、力なく伸びている細い腕には見覚えがあった。
「……マダム・エリザ?」
どくどくと心臓が鳴り出すのを感じながら、アルシュは人だかりに歩み寄る。エリザが万が一ここで死んでしまったら、困るし、問題だし、そもそもそんな事態は想像したくもない。ほんの数秒で嫌な予想がいくつも脳内を駆け巡ったが、幸いなことにエリザは目を開けていて、アルシュの姿を見てひとつ瞬きを返した。
「良かった……」
安堵をどう言葉にしていいか分からず、アルシュが胸元を抑えると、エリザは寝転んだまま首だけを持ち上げて、どこか茶目っ気すらある口調で応じた。
「大丈夫よ、総権保持者は死んでいないわ」
「そんなことを心配してるわけでは――いえ、たしかに大切ではありますけど、まずは貴女自身の安全でしょう!」
歯切れが悪くなりながらも、アルシュは彼女の横に膝をつく。
「ご無事、ですか? いったい……」
「手術の傷が、また開いてしまって。カシェが今、手当てしてくれてるから、とりあえず平気よ……それより、施設は無事かしら?」
エリザは自分の腹部と、そこに包帯を巻いているカシェに順に視線をやって、それから通路の方を見た。
「停電しているようね」
「あ、ええ……カノン君が、発電棟のほうに支障が出たんじゃないかと、そんなことを言ってましたけど」
語尾を曖昧にぼかしながら周囲を見回したところで、部屋の明るさが少しだけ増していることに気がついた。アルシュがそこに疑問を呈すると、構成員のひとりが「非常電源を起動したそうです」と教えてくれる。
そこでちょうどカノンが部屋に入ってきたので、アルシュは彼に手招きをした。
「カノン君、さっきの話の続き――発電棟について教えてくれる?」
「教えるも何も、言葉の通りだよ」
「そうじゃなくて」
思わず溜息を吐いてしまう。
「どんな施設なのか。どんな問題が起きうるのか。対処法はあるのか。発電棟って言葉だけじゃ、それが判断できないから、詳しく教えて、と言ってるの」
「ああ、そういう意味かい」
「他になんだと思ったの」
「発電棟は」
アルシュの追及は無視して、カノンは上の方向を指さしてみせる。
「地熱をエネルギー源とする大規模発電施設だ……あんたも知っているだろうが、ラピスの電力は半分以上、地下の発電棟によって賄われていた。以前からずっと。ハイバネイト・シティだけではなく、地上を含んだ全域だ」
カノンは両手を広げて、ぐるりと球を囲むようなジェスチャをしてみせる。発電の規模がいかに大きいか形容してみせた、というところだろう。
「地下水を汲み上げて利用する仕組みだから、配水系統の異常が波及している可能性は……ないとも言い切れないね」
「上に、確認しに行った方が良いわね」
エリザが口を挟む。
「
彼女がそう言って唇を曲げたとき、ドン、とまた音がした。
続いて振動。
アルシュは壁に手をついて、揺さぶられた身体を支える。揺れはすぐに収まったが、叩きつけるような音は途絶えず鳴りつづけていた。
何の音だろう、とアルシュは考える。
例えるなら激しい嵐の日に、風が建物を揺する音に似ている。もちろん嵐の音であるはずはないのだが、耳を澄ますと時折、雨粒が地面を叩くような高い音まで聞こえる。
「もしかして」
脳裏をいやな想像がよぎった。
アルシュはブレイン・ルームを飛び出し、向かいの居室の扉を開けて、中に入る。奥の壁にひとつ窓があり、汚れたガラスの向こうには、かつてエリザが眠っていた巨大な円筒状の部屋が見える。
アルシュは窓に近づいて、ハイバネイト・シティ最下層を縦に貫いた円筒の、目が眩むほど高い天井を見上げた。
崩れ落ちた天井から、黒い柱が何本も下に伸びていた。
柱の正体を理解して、アルシュは思わず後ろに一歩下がる。黒い柱――に見えていたそれは、濁水の滝だった。上層から絶え間なく水が注ぎ込み、中央の部屋の床は、すでに濁水の層で覆われている。
「どうしましたか?」
後ろから追いかけてきた仲間が、中央の部屋を見て言葉を失う。
飛沫がひとつ跳ねて、ガラスに付着する。渦巻きながら迫ってくる黒い水面を、アルシュは絶望的な気持ちで見下ろした。