chapitre168. 闇夜を裂いて
文字数 7,748文字
「そう――そこの結び目を掴んで、ぐっと身体を持ち上げる」
「えっと……こう、か」
ロープの結び目を掴んだロマンが、慣れない様子ながらも自重を引き上げる。ほとんど滞らずに登り切る様子を見て、おお、とシェルは思わず感嘆の声を上げた。
「上手だね」
「舐めんなよ」
シェルが素直に賞賛すると、ロマンはむっとした表情を隠さずこちらを睨んだ。
「音楽って結構、体力勝負なんだからな。これくらいオレだって」
馬鹿にしているわけではないけど――とシェルは肩をすくめる。シェルは身軽さに自信があるほうだが、そんな自分に、ロープを使った移動に慣れていないだろうロマンが余裕すら残して付いてくるのは、なかなか予想外だった。
彼が鉄骨によじ登るのを見守りながら、シェルはポケットに押し込んでいた
「あ――行けそう」
投影されたウィンドウの表示を見て、シェルはほっと息を吐く。少し通信が不安定なものの、短い音声メッセージを送るくらいならできそうだ。
天井に付いているスピーカーを見つけて、近くに移動する。
「シェルです。居住者と合流したんですけど――」
停電区域に集団が取り残されている旨を吹き込んでいると、また、どこかから地鳴りのような低音が聞こえ始めた。
あれ、とロマンが叫ぶ。
シェルは振り返って、ペンライトで暗闇を照らし出す。すり鉢のような形に抉り取られた壁の一部から、また砂煙が上がり始めていた。
*
ルージュ、と近くで呼ぶ声がした。
小石のようなものが、頭にコツリと跳ねる。
ルージュは咳き込みながら、肘を使って身体を持ち上げる。全身の表面が、巨大な平手で叩かれたように痛かった。周囲は砂煙に包まれていて、どうなっているのか良く分からない。
「――ルージュ」
近くでまた、アックスの声がする。
妙に篭もったような反射したような、近くから聞こえるのに不鮮明な声。
ルージュが目を細めながら周囲を見回すと、少し離れたところに落ちているペンライトを見つけた。痛みで覆われた身体を引きずるようにしてそちらに向かい、不規則に明滅するライトを拾う。
視界が鮮明になって、ようやく状況が飲み込めた。ルージュたちがいるのは、おそらく先程までいたのより、さらにひとつ下の階層。支えを失って不安定になっていた床が崩れ、瓦礫と化してルージュたちを飲み込んだ。
『アックス、どこ』
ほとんど出ていない声で呼びかけると、ここ――と応答があった。瓦礫の山をぐるりと回り込んで、ようやくアックスを見つける。
「――ぇ」
その彼を見て、ルージュは息を止めた。
アックスは、右腕を突っ張った不安定な体勢をしていた。左足の腿から下は、積み重なる瓦礫に覆い隠されていて見えない。そして――灰色をした瓦礫の隙間から、明らかに周囲と色の違う、どす黒い液体が広がっていた。
「ルージュ、悪いんだけど――」
光源がペンライトしかない暗闇でも分かるほど、血の気の失せて真っ白な顔になったアックスが、顔をしかめつつ瓦礫を指さす。
「これ、
「――っ、あ、あ……ぁ」
ひゅう、と風音のような音が喉からこぼれる。
驚きで過呼吸を起こしかけて、ルージュは激しく高鳴る胸を抑えた。空気は冷え込んでいるのに、頬が炙られたように熱い。ルージュは
歯をぐっと噛みしめて、足を踏ん張る。ところどころ礫の飛び出した断面が、手のひらの皮膚に食い込む。全身の力を込めて持ち上げ、どうにか隙間を作ろうと試みたが、瓦礫の山はびくともしなかった。
パキッと軽い音。
指先で痛みが弾けて、思わず手を離す。見ると、力を掛けすぎた爪が中央で割れて、血が滴っていた。痛みと疲労に耐えかねて、ルージュは肩で息をする。
無理か、とアックスが呟いた。
「ルージュ、ごめん。もう良いから、先に、みんなのところに戻って」
――そんなわけには行かない。
ルージュは首を振るが「平気だから」と肩を押し返される。その手のひらを掴むと、ぞっとするくらい冷たく、力が込められていない。どう見てもアックスが「平気」な状態でないことは、医学知識のないルージュにだって分かった。
コンクリートブロックの端まで広がった血溜まりが、いくつかの筋を描いて床に落ちる。
「戻って……ってば」
苦しそうな呼吸をしながら、アックスがそう繰り返した。
眉間にしわが寄り、目蓋から力が抜けかけている。虚ろな目の焦点はふらふらと揺れて覚束ない。いつも下から見上げていたせいか、慣れない角度から見るアックスの表情は、ルージュの目に、恐ろしいほど力なく映った。
助けを呼ばないと。
だけど、戻って人手を集めようにも、
声が、出れば。
声さえ出れば、ここに自分たちがいることを伝えられる。
「――ぁ……っ」
喉元を両手で抑えて、必死に力を込めた。
何か音を創り出せれば、
そこに意味なんて乗せなくていい。綺麗な声でなくてもいい。言葉ですらなくていい。ただ、自分たちがここにいるという――それを伝えるためだけの音を! 変わってしまった声を誰かに聞かれたくない、などというプライドはどこかに消え去って、ルージュはひたすらに声の出し方を模索した。
裂けそうなほど固く引き絞った喉から、ひたすらに息を吐き出す。肺が空っぽになるまで続けるが、わずかに風音のようなものが鳴るばかりで、とても遠くまで届くような音量ではなかった。
だけど、諦めるわけにはいかない。ルージュはもう一度、喉を力ませたまま大きく息を吸い込んだ。
そのとき。
ガラスの擦れるような音が、一瞬だけ鳴る。
「っ――!」
ルージュははっと目を見開く。
喉から一瞬だけこぼれた音は、技巧の一種として使われる特殊な発声に近い、笛の音のような高音だった。歌声よりは叫びに分類されるが、とにもかくにもその音だけは、まだ出し方を忘れていなかった。
これなら、もしかしたら。
ルージュは拳をぎゅっと握り、空気を思いっきり吸い込む。力んだ喉を弦のようにぴんと張って、円筒形に固めた空気を勢いよく押し出す。
空気が震えるのが聞こえた。
暗闇を切り裂いて飛ぶ矢のような高音が、ルージュの身体を弓にして全方位に放たれた。
*
シェルがコアルームに向けたメッセージを吹き込み終わるのと前後して、笛のような音が、どこかから響いた。
「あれ?」
怪訝に思って顔を上げる。
「何の音だろう――」
「――ルージュの声!」
首を傾げたシェルの横で、ロマンがはっと顔を上げて叫んだ。
「アイツ、近くにいるんだ」
「え、待って、声?」
荷物を置いたまま走り出そうとするロマンを、慌てて引き止めながら問いかける。
「今のは声じゃないと思うけど……多分、排気管から空気が漏れて、笛みたいに鳴ったとか、そういう感じじゃあ――」
「違う、ルージュの声なんだよ!」
掴まれた腕をばっと払って、ロマンがそう断言した。
「悪い、オレ先に行く」
「え、ちょっと――」
シェルの制止に一切の聞く耳を持たず、ロマンはペンライト一本だけを握りしめて、非常灯の消えた通路に駆け出してしまった。やや細身なシルエットが、あっという間に死角へ消えていく。
とにもかくにも追いかけなければ。
シェルが慌てて荷物をまとめ直していると、天井のスピーカーからバチッと音がした。ざらついた雑音が数秒流れたのちに、それは人の肉声に変わる。
『シェル――まだ、そこにいますか』
「あ――エリザですか?」
しまいかけた
『停電区域に集団が取り残されているという話でしたが――今、その近辺にいますか』
「はい、おそらくは――」
ロマンの走り去っていった方向をちらりと見て「あの」とシェルは切り出した。
「いま、停電区域にひとり入ってしまって……ぼく、後を追いたいんですけど」
『それは……だけど、困ります。連絡が付かなくなるので……』
「ど――どうにか、なりませんか」
いくら
そうだ――と小さく呟くのが聞こえる。
それと前後して、近くの壁がとつぜん横にスライドして開く。シェルが驚いて振り向くと、暗がりから多関節の金属アームがぬるりと伸びてきて、シェルの眼前で止まる。どうやら、先端に付いているカメラがシェルの顔を認識しているようだ。
『ロボットアームに後を追わせてみます』
今度は天井のスピーカーではなく、ロボットアームの側面に添えられたスピーカーからエリザの声が発せられた。
『上手く行くか、分かりませんが……コアルームからもアシストしつつ、試してみます』
「わ――分かりました」
ペンライトを握り直して、シェルはロマンの向かっていった方向に目を凝らす。
「行きましょう」
カメラを見て言うと、まるで頷くように先端が上下に動いた。少し傾き始めた床を蹴って、真っ暗闇の停電区域へ足を踏み入れる。何もかも溶け合ったような黒色のなかで、ペンライトの光と自分の息遣い、そして斜め後ろを追ってくるロボットアームのモータ音のみが確かだった。
永遠に続くトンネルのようだった暗闇の向こうに、かすかな光が見えた。
シェルは手元のペンライトを消して、星明かりより小さいそれに目を凝らす。はじめは針の先で突いたような点だった光は、次第に大きくなり、ついにシェルはロマンの後ろ姿を捉えた。
「ロマン君!」
彼は崩れた壁のふちを掴んで、上に登ろうとしている。シェルはロマンに手を貸してやって、どうにかひとつ上の階層に登った。二人の後ろをぐねぐねと付いてくるロボットアームに、ロマンは奇異の視線を向けたが、表立っては言及せず「行こう」とだけ言って、砂を払いながら立ち上がった。
「あ――あれだ!」
ロマンが指さした先に、白い光がこぼれている部屋を見つける。ロマンは勢いよく飛び出して行き、シェルはロボットアームが付いてくるのを一瞥して確認してから、彼の後を追いかけた。
部屋には砂煙が立ち込めて、視界は灰色の靄がかかったように霞んでいる。
「ルージュ!」
涙目で咳き込んでいた少女が、はっと顔を上げてこちらを見た。口を大きく動かして、たすけて――と言う。ロマンの肩ごしに室内を見て、そこでシェルは、積み重なっている瓦礫の影に倒れている青年の存在に気がつく。
血の臭いがする。
「彼、足を挟まれてる?」
シェルが再会の挨拶を省いて尋ねると、ルージュは驚きに目を見張ったが、無言のまま何回も頷いた。蒼白な表情になったロマンが振り返って「シェル」と叫ぶ。
「な――何とか、して」
「分かってる」
シェルがリュックサックに下げたバールを外すと、その背後からロボットアームがすっと追い越した。指に模した先端のパーツを展開して、砕けたコンクリートブロックのひとつを持ち上げる。シェルもそれに加勢して、瓦礫を崩さないように気をつけながら山を崩し始めた。
機械と人間の奇妙な共同作業を、ロマンたちはしばらく呆気に取られた顔で見ていた。シェルが「これ、退けてくれる」と背後に崩した山を指さすと、はっと気がついて手伝い始める。四人で崩しても瓦礫の山は大きく、最終的にアックスを助け出すまで十分ほどかかってしまった。
荷物を降ろしながら、シェルはアックスの様子を見る。
コンクリートブロックに挟まれた左腿の傷は大きいが、見たところ骨は無事だ。だが、砕けたブロックの角がめり込んだのか、部分的に抉られたようになっていて出血量がかなり多い。青ざめて虚ろな表情から見ても、急いで止血しないと下手をすれば命に関わるだろう。
「な――なぁ、これ……大丈夫、だよな?」
「うん」
不安を顔中に浮かべたロマンに、シェルは意識的に明るい口調で頷いてみせる。
「そこまで酷い怪我じゃないよ」
「――本当?」
少年は暗かった表情を一転させ、ぱっと上気した笑顔になる。本当に素直な子だな――と内心でシェルは呟いた。
「うん、だから君たちは、
「わ、分かった。戻ろう、ルージュ」
「――ぇ、と」
ルージュが戸惑った顔で、ロマンとシェルを見比べる。彼女は、ロマンよりは多少訝しげな表情を浮かべていた。疑われている気配を感じつつ「大丈夫だよ」とシェルは口元を持ち上げてみせる。
「コアルームとも連携が取れている。彼のことは、ぼくらに任せて」
ロボットアームを指さしながら言うと、ルージュはそれでも不安そうにしていたが、唇をぐっと横に引いて頷いた。
『アックスのこと、お願いします』
声はほとんど出ていなかったが、唇の動きからそう読み取れる。彼女はロマンと一瞬だけ視線を合わせて、部屋を駆け出していく。
『シェル』
傷口を抑えるためのタオルを取り出していると、スピーカーから呼びかけられた。
『私は、彼らに付いていって、
「分かりました」
カメラに向けて頷いてみせる。
「その後は?」
『行けば分かります』
「……あの」
そこで、掠れた声が割り込んだ。
「ちょっと……良いですか」
身体を倒していたアックスが肘で身体を支えて、部屋を出て行こうとするロボットアームを引き止める。彼は口の端から苦しそうな呼吸を漏らしつつも、蛇のように頭をもたげる機械の腕に、訝しげな視線を向けた。
「えっと、これは何でしょう――誰かが、遠隔で操作をしている……?」
『そうですが』
「貴女は、もしかして……“
『……ええ』
ほんの一秒にも満たない沈黙ののち、エリザが肯定してみせる。
『その通りです』
「やっぱり……」
アックスが呟き、血の気の失せた唇をぐっと横に引く。シェルはふと、カメラを見上げる彼の視線に、敵意にも似た鋭さが宿っていることに気がついた。
「……助けていただいたのは、分かってます。でも僕は、“
「アックス君」
シェルは起き上がろうとする彼の肩を押し戻しながら、会話に割り込んだ。
「“
「――ですが」
『ありがとう、シェル。でも、それは違います』
アックスが食い下がるのとほぼ同時に、スピーカーの向こうでエリザが言う。小さく首を振る仕草が、見えたような気がした。
『私たちは彼の嘘に乗ることで、いわば“
ひとつ、息を吸う気配があった。
『私が、大切な子供たちを預けて良い相手か、それが不安なんですね?』
「なぜ貴女がそれを知って……」
彼は一瞬だけ、眉を非対称に歪めたが「いえ」と床に視線を落とした。
「ええ……その通りです」
アックスが頷いて、そこでようやくシェルは彼の言動に合点がいく。自身が大怪我をしている状況でも、それを差し置いて案じなければならないほど大切な存在――それが、彼にとっての若い音楽家たちだった。
『アックス』
落ち着いたトーンを崩さないまま、エリザが彼に呼びかける。
『例えば――貴方がたは、音楽を通じて、語らずして心を通わせることができるかもしれません。でも“
「それでも……嘘には変わりない。今、貴女が僕たちを騙していないと、そう思える保証がないんですよ」
『それは確かに。私が、私は嘘を吐いていない――と言ったところで、その真偽は分からないのですから、証明はできませんね』
自身の不利になることを淡々と述べてから、エリザは「ですが」と少しトーンを下げて言った。
『私たちや
「……分かりました」
アックスが小さく頷く。
「引き止めて、すみません」
『いえ』
短く応じると、ロボットアームの先端がくるりと反転して、部屋の外に向かっていった。シェルが黙って止血の処理をしていると「あの」と遠慮がちな口調でアックスに尋ねられる。
「その、総代という人は、今はどこに」
「今は――もう、どこにも」
「……そうでしたか」
胸が疼くのを堪えて、シェルは短く答える。
その言葉だけで全てを察したのだろう。アックスは小さく頷いて、それはすみません、と呟いた。
彼――“
だが。
ラピシア緊急集会で“
太陽を目指した金色の信条が、どうか、かつて地底の民だった彼らの胸に、届いていますように――シェルはそう祈らずにはいられなかった。
ひとまず処置を終えて、アックスに肩を貸して立ち上がらせる。
彼を支えながら通路を引き返す。赤く光る非常灯の近くまで向かうと、通路の向こうから微弱な風が吹いていた。そういえばエリザは「行けば分かる」と言っていたように思うが、ここからどこに向かえば良いのだろう。シェルが内心で首を傾げながらも歩いて行くと、遠くから足音が近づいてくるのに気がついた。
崩れ落ちた天井から、黒いコートを着た華奢なシルエットが飛び降りる。
彼女はシェルたちを見て、あ、と口を開いた。