chapitre95. 世界の起点
文字数 5,845文字
「よし」
壁面のパネルを取り外すと、シェルがいつも通り素早く下に飛び降りて、ロンガはひやひやしながら彼を見守る。うわっ、と小さい悲鳴が聞こえて、慌ててペンライトで下を照らした。バランスを崩したらしく、床に尻もちをついているシェルがこちらを見上げる。
「あれ、浸水してるのか」
彼の足下は、暗い水に飲み込まれていた。うん、とシェルが応じる。
「おかげで転んじゃった。床、金属で滑るから気をつけて」
「それは10秒前の自分に言ってくれ。だからいつも、下を確認してから降りろって言ってるんだ。まあ、でも、ありがとう」
溜息交じりに答えて、ロンガはスロープの壁面にぶら下がり、慎重に床に降りた。天井からぽたぽたと水が滴り、床に落ちて音を立てる。足の甲が飲み込まれる程度には水深があった。ロンガたちは革のブーツを履いているから良いものの、丈の短い靴や布製の靴ではまともに歩けなかっただろう。
「どこかの水道管がやられてるのか。
歩きながらロンガが小声で問いかけると「それもあるかもしれないけど」とシェルが振り返らないまま応えた。
「地下水の水圧が異常に上がってるそうだよ」
「そうなのか」
相槌を打って、それから気がつく。
「それってもしかして――ラピスが水没する予兆なのか」
「かもしれない、って言ってた」
「もう本当に時間がないんだな……どうしたら、良いんだろうな」
ロンガの独り言めいた問いかけに彼は答えず、こっちだね、と言って道を曲がった。
スロープから降りて数十分程度で目的地に辿りつき、ここだ、と頷き合ってから小さくノックをする。数秒後にロックが解除された音がしたが、押しても引いても扉が開かない。
「水圧で開かないのか」
「中の水位が高いってことだね。ああ、これ内開きか――間が悪いなぁ」
「扉ごと外せないか。あるいは穴を開けるとか」
「音を立てたくないからなぁ……」
シェルは扉に拳を打ち付けて「聞こえる?」と中に問いかけた。
「そちらからも扉を引っ張って」
「結局、力業か。まあそれしかないな」
「少し開けばこちらに水が流れてくるから、ルナが思ってるよりはスマートだよ」
ドアを全身で押し込み、なんとか数センチの隙間を作ることに成功する。シェルが向かいの壁に足を突っ張って、彼自身の身体を突っ張り棒にして扉を支える。
ちらりと見えた室内は、ベルトの高さくらいまで水位が上がっていた。隙間からこちらをのぞいたアンクルの顔は真っ白で、かなり体温が奪われているようだった。背負われているサテリットが、怯えたような顔でこちらを見ている。
「久しぶり、アン、サテリット。無事か」
「ロンガ、それからお友達も、ありがとう。ただ、その、今は――」
「……何かあったのか?」
アンクルの表情に不穏なものを感じて問い返したとき、その目元が腫れているのに気がついた。彼は少し俯いて、驚かないで聞いてね、と囁くような声で言った。
*
膝下まで水の引いた部屋で、サテリットは沈鬱な顔で壁に寄り添って立っていた。彼女の顔が白い理由は、アンクルが言うには、長時間冷水に浸かっていたことによる身体の冷えだけではないらしい。
「……記憶操作。こんな場所で、またか」
ロンガが額を抑えると、アンクルが浅く頷いた。
「僕たちがリヤンにしていたことを、今度は彼女が受けて苦しんでいる……なんだか罰みたいだ。その罰なら、僕だって受けるべきなのに」
「罰なんかじゃない。記憶を奪われていい人なんていない……けど」
ロンガは首を振って、充血した彼の目にちらりと視線をやった。その口元はなんとか笑顔の形を保っているが、アンクルが無理をしているのは、表情の機微に疎いロンガでも分かった。
「アンが苦しんでいないとは、私には思えない」
「……でもサテリットに比べたら全然だよ」
「そんなことは――」
そんなことはない、と喉元まで出かけたが、当事者ではない自分が言い切ってしまうのも間違いに思えてロンガは口をつぐんだ。
部屋の水位が下がってきて、アンクルが背負っていたサテリットを下ろしたとき、ずっと引きつった表情を浮かべていた彼女は逃げるようにアンクルと距離を取った。これでもまだ、近づいてくれるようになった方だと言う。恋人だった相手が、たった一日で様変わりして自分を嫌悪するのだ、彼だって辛いに決まっているのに。
「大丈夫だよ、アン」
あまりにも彼が無理をしているのが心苦しくて、ロンガはわざと明るい声を出した。
「記憶操作は完全に忘れるわけじゃなくて、思い出せないようにしてるだけ、って言っただろう。ちゃんと思い出すときが来る。だからとにかく、安全な場所に行こう」
「うん……気を遣わせてごめんね」
アンクルが眉を下げたのと前後して、荷物運搬用のスロープに引っ込んでいたシェルが顔を出した。ベルトコンベアの様子を確かめていた彼が、水しぶきを立てながらこちらに駆け寄ってくる。
「ソル、ありがとう。どうだった?」
「ダメだ、ぼくの権限じゃ動かせなかった」
シェルは指先を交差させてみせて、でもね、と視線を上げる。
「カノン君たちがそろそろ、コアルームに着いてるはずだよね。あちらからなら動かせるかも」
「ああ――確かに。メッセージを送ろうか」
「いや、ちょっと試してみたいことがあって」
そう言ってシェルは口をつぐみ、自分の
「アルシュの声だ」
「
『はいはい、こちらコアルームですよ。何なりとどうぞ』
今度はカノンの声が天井から降ってきた。
「ベルトコンベアをね、そちらから動かせないかと思って」
『ああ――あれって荷物の運搬用だったよね。ダミーの運搬を指示すれば行けそうだけど……』
『察しが良いねぇ。まさにその方法で、できるよ』
『ええと――シェル君たちがいる部屋はここ、だから、このスロープかな』
『じゃあそっちは任せて、俺はダミーの選定でもしておこう』
スピーカーの向こうで、驚くほど迅速に処理が進んでいく。シェルがこちらに視線を向けて、大丈夫そうだね、と囁いた。ロンガも頷き返す。分かってはいたが、頼れる仲間がいるというのは、やはり心強いものだ。
『あと10分くらいで、外からダミーの荷物がやってくるから、その時だけ施錠を開けてくれ。近い区画は今のところ無人だから、まあ大丈夫でしょう。行けそうかい?』
「うん、ありがとう」
「助かったよ、2人とも。そちらも頑張ってくれ」
はいはい、とカノンが答えたのを最後に、スピーカーが再び沈黙に戻る。ふう、とロンガが息を吐くと、今まで黙っていたサテリットが、顔を上げてこちらを見ていた。
「ねえ、凄い。今の、どうやったの」
慣れない様子で杖をつきながらこちらにやってくる。シェルが持っていた
「見せて貰ってもいい?」
「あ、良いよ。サテリットちゃんだっけ」
「そんな
「畏まってるかなあ」
「ソル、あの辺りの人間は結構、誰でも呼び捨てで呼ぶ」
ロンガが口を挟むと、へえ、とシェルは目を見開いた。彼もバレンシアの生まれなので、昔は近い文化のなかにいたはずだ。とはいえ10年以上も前の話で、そもそも人に敬称を付けるという概念すら良く知らなかった子供の頃だから、彼が覚えていないのも仕方ない。
「じゃあ、サテリット。えっと、歩きづらいんでしょう。ぼくがそっちに行くよ」
「ありがとう、シェル」
目新しいものに目を輝かせるサテリットを見て、彼女はそういう性格だったよな、とロンガは懐かしく思いだした。5年分の記憶が丸ごとなくなっても、性格まではあまり変化しないようだ。楽しそうな笑顔を浮かべるサテリットを見て、ふふ、とアンクルが小さく笑う。
「もう仲良くなってる」
「……そうだな」
サテリットを知っているはずのロンガより、全くの初対面であるシェルのほうがかえって彼女に受け入れられているようだ。お互いにお互いを知らないという前提があるから気楽なのだろう。
羨ましい感情を認めたくなくて、ロンガは視線を逸らす。
「まあ、ソルは人と仲良くなるのが昔から上手かったからな」
「そっか――ねえ、ロンガ。あの子、可愛らしい顔だけど男の子なんだよね?」
「そう。中性的なのは見た目だけだな」
それがどうかしたか、と聞き返そうとして、アンクルがいつになく険しい表情をしていることに気がつく。唇を真横に引き、眉根を寄せた表情を見て、わざわざ言葉に出して聞かずとも彼の思っていることが読み取れた。
ロンガは溜息と苦笑いを同時に吐き出した。
「ごめん。代わりに謝っておく……いや、多分ソルは、サテリットが女性じゃなくてもあんな態度だと思うよ」
「分かってる。ごめん、僕の心が狭いだけだ」
「まあ、気持ちは分か……らないけど」
ロンガは言いかけて肩を竦める。要するに恋人に対する嫉妬とか独占欲という感情なのだろうが、ロンガには該当する相手がいないので、その感情を味わったことがないのだ。
「何だろう。想像はできるというか、概念は理解できるよ」
「あはは、ありがとう」
ひどく予防線を張ったロンガの言い回しに、アンクルが苦笑する。それから彼はふと真顔になって「あのさ」と声を潜めた。サテリットと話し込んでいるシェルを、こっそりと手で指し示す。
「失礼な質問だったら悪いけど、ロンガとシェルはその――違うの?」
「ああ、違うよ。彼は友人だ」
「そうなんだ、ごめんね。特別な相手なのかなと思っていたから」
「特別は特別だよ。ああ、たしかに、友人というのは少し弱い言い方かもしれない。ソルは、私の……」
ロンガは言葉を切って、いちばん馴染む表現を探した。
「私にとっての
「そうか。素敵だね」
「……ありがとう」
何だか決まりが悪くなって、思わず首の後ろに触れる。これ以上この話を広げたくなくて、そういえば、とロンガは話題を変えた。
「
ロンガたちがこの部屋に駆けつけて扉を開けたとき、どう見ても中にはアンクルとサテリットしかいなかった。
「
「ああ、多分――お腹の子に反応しているんじゃないかな」
「あ、そうか、そうだよな。まだ顔は見えないけれど、もう
ロンガが納得して頷くと、サテリットに
「ごめん、聞こえちゃった。そうなの?」
「……そうよ」
サテリットが頷き、スカートの上で両手を握りしめる。その顔が固く張りつめているのが、遠くから見ているロンガでも分かった。サテリットがアンクルと恋人だったことを覚えていないということは、妊娠していることも当然、彼女には心当たりがないはずだ。安易に触れてしまって良かったのか、と内心で気を揉みながら、ロンガは2人を見つめた。
サテリットに話を振った当人のシェルは、組んだ指を解いて「そっか」と頷いた。
「妊娠したルナの友達って、君か」
「……ええ」
「良かった!」
シェルはサテリットの握りしめた拳を両手で包むように取り、相変わらず以前に比べて表情は乏しいながらも、高揚感のにじんだ顔で彼女をまっすぐ見つめた。
「おめでとう、サテリット」
「貴方……祝福してくれるの?」
「もちろん。
「あ――ありがとう」
サテリットが上ずった声で言って、両手で顔を覆う。指のすき間から小さい
「ごめん。無神経だった?」
「違う、嬉しいの。初めて会ったはずの、今まで何のゆかりもなかった人まで、祝ってくれるのが」
「だって、良いことだもの」
口の端を小さく持ち上げて微笑んでみせたシェルに、涙ぐんだサテリットが笑顔を返した。良かった、とロンガは胸をなで下ろす。その一方で、シェルの不自然な言い回しに、サテリットが違和感を覚えなかったことに安堵した。
『この世界でもまだ、新しい
そうだ。
ラピスではもう、正規のルートでは、新しい生命は産まれない。自然な妊娠もあまり望めない。
ロンガは唾を飲み込んで、隣に立っているアンクルに視線を向けた。
「アン。大切な話がある」