chapitre176. 祈りが終わる刻
文字数 5,873文字
「別にさぁ?」
あざけるような笑い声が反響する。
「ぼくも、十年や百年くらい待ってあげて良いかなと思ったんだけどねぇ? だってきみの身体が死んだ後は、何億年でも一緒にいられるんだから。宇宙の寿命に比べれば、そんなの待つうちに入らないものね」
D・フライヤはうっとりと夢見るような口調で言う。それから不意に、空間を揺るがすような低い声で「でもさ」と呟いて、絡まり合う腕の一本がロンガの意識を指さした。貫くような意志の強さに、ロンガは思わずびくりと震える。
「そこにいる、リュンヌとさぁ――彼女と何度も混ざりかけるんだもの。濁っちゃったら意味がないんだよ、きみの白は、透明で純白で美しい祈りは……!」
D・フライヤの叫びが空間を揺らがせた。
エリザは口を真横に引き、黙って彼を睨みつけている。その横顔には、ロンガの目から見ても明白なほど怒りが浮かんでいるのに、D・フライヤはむき出しの敵意に一切ひるむ様子もない。絡まり合った腕のうち数本が彼女のほうに伸びて、華奢な身体を抱擁する。
「だから迎えに来たんだ」
「……ビヨンド」
ロンガがエリザの代わりに声を上げると、顔のない超越者はとたんに不機嫌そうな声になって「なに?」と呟いた。
「不純物は来ないでよ」
世界がびりびりと揺れる。
D・フライヤの展開する幻像世界そのものが、ロンガを威嚇していた。気を抜けば倒れそうなほどの圧力に耐えて、ロンガは顔を上げる。
「ビヨンド、お前がエリザの祈りを愛しているのは、理解したくないけど、理解してる。でも、じゃあ……分かるだろう。今、お前がやっていることは、エリザの祈りを否定してる」
「否定?」
「エリザは地上に行きたいんだ。そこで生きたいんだ、愛した人たちが何よりそれを望んだからだ!」
「……リュンヌ」
無表情に抱きしめられていたエリザが、絡まり合う腕のなかで小さく目を見開き、ロンガの本名を呟いた。ロンガはぐっと拳を握りしめて、幻像世界に浮かんでいる白い超越者を睨みつけた。
「それが……エリザの祈りだろう」
分かっているはずだ。
D・フライヤは人の祈りが見えるのだから。
なのにどうして、エリザの悲願を根幹から破壊するような真似をするのか。ここで肉体が死んでしまったら、彼女の祈りは、そしてラムやカシェの祈りは永遠に叶わないのに。
「どうして、そんな真似をするんだ」
ロンガの問いかけに、D・フライヤは答えない。時間が止まったような沈黙のなかで、白い腕が静かに蠢いていた。
「きみさぁ……」
やがて、呆れたような声色がぽつりと呟く。
「あぁ、本当になんにも分かってないなぁ……願いを叶えたら、ダメなんだよ」
「ダメ?」
ロンガは眉をしかめる。
「どうしてだ」
「だって、満たされたその瞬間、人は祈らなくなるじゃないか」
「……は?」
まさか。
嫌な予感が身体を凍らせる感覚に耐えながら、ロンガは視線を持ち上げた。
「
「そうだよ、やっと分かったの?」
何でもないことのように、D・フライヤはあっさりと肯定した。
「逆風のなかでしがみつく、必死に手を伸ばす――だからこそ、人の祈りは素晴らしく美しいんだよ! きみたちだってそうだ。今にも滅びそうな、吹けば飛ぶような塵芥でしかないきみたちが、分不相応な夢を見て、必死に未来を掴もうとするから美しいんじゃないか!」
「――な、何を……言って」
ロンガは言葉を失って立ち尽くした。
「……リュンヌ」
エリザが、虹色の瞳をこちらに向ける。
口元を悲しげに持ち上げて、彼女は小さく首を振った。
「貴女は、理解できないままで良いわ。理解しようと思わなくて良い。D・フライヤの声に、もうこれ以上、耳を傾けないで」
彼女はきっぱりと言ってから「でも」と呟いて目を伏せる。
「ごめんなさいね。これ以上、貴女をこの世界に、フォアフロントに置いてあげることができないわ。私の肉体が死んでしまうから」
「そんなっ――そんなことは、今はどうでも良いんです!」
いてもたってもいられなくなり、ロンガはエリザのそばに駆け寄る。放たれる威圧感に逆らって、白い腕の一本を掴んだ。
「
「……いい加減うるさいなぁ」
低い声が言う。
「ちょっと黙っといてよ」
そう言われたかと思うと、腕の一本が勢いよく伸びてきてロンガの腹を貫いた。生ぬるいものが滴り、吐き気と痛みが全身を襲う。ロンガは体重を支えられなくなり、目を見開いたままその場に膝を付いた。
視界が歪んだ。
息苦しさで、声も出せない。
「……っ、あ」
「リュンヌ……!」
こちらを見つめたエリザの両目から、涙が滴る。それまで無抵抗だった彼女は、自分に絡みついている腕のひとつを掴んで、縋るような声で叫んだ。
「お願い――何をしても良いわ。でも、それだけは止めて。あの子に、これ以上酷いことをしないでっ……!」
「だって、邪魔をしてくるんだもの」
傷口から無造作に手を引き抜かれる。
自分の血溜まりのなかに崩れ落ちながらも、ロンガは絡まり合った腕の集合体を睨みつけた。そんなロンガの視線にはお構いなしに、無数の腕はエリザの身体に絡みついて、蜂蜜色の髪や痩せた手足をもてあそぶ。
「――っ、うぅ……」
無数の腕が巻き付いたエリザの胴体から、軋むような嫌な音が響いた。エリザは歯を食いしばり、苦痛の唸りをこぼす。ロンガは地面を這いずって、彼女のほうに向かおうとするが、まるで身体に力が入らない。
「別にさぁ……きみの娘には大して興味はないんだよ、ぼくは。祈りの強さって、親から子に引き継がれたりするのかなぁと思って、ちょっとは期待してたけど――でも、期待外れ」
言葉と同時に、エリザを締め上げている無数の腕に力がこもった。
同時に、木の幹が折れるような音。
目を見開いたエリザの上半身が、だらりと力なく垂れ下がる。その目は虚ろに宙を彷徨い、唇からは声にならない音が断続的にこぼれていた。
「ねえ」
そのあごを持ち上げて、D・フライヤがどこか甘ったるい声で言う。
「苦しいでしょう、エリザ。こんなのは嫌かなぁ。ぼくと一緒に旅をするんじゃなくてさ、このまま死にたいとか……思ってたりするのかな?」
「こ――殺してくれる、の」
「うぅん……」
D・フライヤは曖昧にはぐらかす。
エリザの声は今にも崩れ落ちそうで、自制がほとんど残っていないのが読み取れた。
「それは、きみ次第かなぁ」
「エリザ――駄目ですっ……」
あからさまに、エリザの懇願を引き出すための罠だ。ロンガは必死に声を絞り出すが、すでに苦痛で意識が朦朧としているらしいエリザには届いていない。
「さあ」
D・フライヤは楽しげに言って、さらに腕に力を込めた。
「どうしたい、エリザ」
「死……あっ――死なせてっ……」
「ん、なんだって?」
「ラムのいた、ここ――この世界で……死にたい、お願いっ……!」
「あぁ……っ、そうだ――その祈りだよ、エリザ!」
恍惚として震えている声が言う。
腕たちは楽しそうに痙攣して、支えを失ったエリザの身体は地面に落ちる。おかしな方向にねじ曲げられた胴体が、まるで物体のように転がった。
「まあ、叶えてあげないんだけどさ。でも、ひと思いに殺さなくて、かえって良かったかもなぁ……肉体が死ぬ間際の祈りは、今この瞬間しか見られないもんねぇ?」
腕たちが再びエリザのもとに向かい、力なく転がる彼女の身体を抱き寄せた。
「それにさぁ」
そこで、ふと声色が暗くなる。
「……あの男の臓腑も、潰してやれた」
蛇がくねるような動きで、D・フライヤが腕を高らかに掲げた。そして勢いよく振り下ろされた拳が、エリザの胴に――ちょうど鉄骨が刺さったのと同じ位置に穴を穿つ。赤黒い血が四方にびしゃりと飛び跳ねて、エリザの身体が苦痛にのけぞった。
「ずっと目障りだったんだ……きみはずっと彼のことを忘れようとしない。彼が死んだら、きみの心まで死にかけた。そのうえ今度は、あいつの娘が、きみの祈りを汚そうとして……とっくに死んだくせに、まだ、邪魔をして……!」
ぐちゃぐちゃと音を立てて、白い指先が腹の中身をかき乱す。先程までの、舐め回すような抱擁とは全く違う、暴力的で容赦のない手の動き。
そのときだった。
どうにもできないまま、エリザがD・フライヤにいたぶられるさまを見せつけられていたロンガは、ふと脳の片隅に引っかかるものを覚える。自分が何に違和感を覚えたのか、その根源に思い当たって、ロンガは重たい身体を無理やり持ち上げた。
「本当に……痛めつけたいだけ、なのか?」
「……なに?」
今までロンガの存在を無視していたD・フライヤが、突然手の動きを止めた。D・フライヤには顔がないのに、無数の視線がこちらに向いているのを感じる。押し潰すような威圧感に耐えながら、ロンガは立ち上がって彼を見つめる。
「お前は……本当は、エリザに愛されたかったんじゃないのか。理解されたくて、受け入れてもらいたかったんじゃないのか……」
「別に……彼女の意志がどうあれ、ぼくは彼女を手に入れられる」
「……いや」
ロンガはごくりと唾を飲み込んだ。
「私は違うと思う。お前は」
「……止めろ」
「本当は私の父に……ラムになりたかったんじゃないのか」
「違う――」
掠れた声が呟く。
次の瞬間、世界を構成するありとあらゆる粒子を振動させんばかりの大声が叫んだ。
「違う! 言っているだろう、エリザがあの男を愛しているように見えるのは、きみがあいつの娘だからだと! あんなものは一時の気の迷いなんだよ――気の迷いから生まれた分際で、お前が偉そうな口を叩くなよ! たかだか数年を寄り添っただけで、あの男がエリザの隣に相応しいわけがないだろう!」
「そう思うなら、エリザの心のなかを見れば良い。今だって、彼はそこにいる。エリザの心の中央にいるのは、何億年後だって私の父だ!」
「――うるさいっ……!」
ドン、と衝撃。
思いっきり突き飛ばされて、ロンガの意識は幻像世界の外縁まで吹き飛んだ。見えない壁にぶつかって、なすすべなく地面に崩れ落ちる。
ダメだ――こんな結末は。
このままD・フライヤがエリザの心を喰らったところで、誰も浮かばれない。エリザも、彼女を愛したラムも、その二人から生まれたロンガも――愛した相手に拒絶されたままのD・フライヤも。
それならエリザが望むとおり、その心が誰にも奪われることなく、ここで消えてしまったほうが、まだ良い。だけど、人知を超えた存在であるD・フライヤにエリザの心を奪わせないまま消し去るなんて、一介の人間に過ぎないロンガには、到底不可能な――
「あ……」
いや、方法はある。
成功する保証はないが、可能性はありそうなアイデアが。だけど、どのみち幻像世界に囚われたままでは不可能だ。何とかここから脱出したいが、普通の
どうすれば。
その時、伸ばした腕の向こうに微かな体温を感じた。白い靄の向こうに、彼の存在を感じ取る。意識を研ぎ澄まして耳を澄ますと、ルナ――と呼んでいる声が聞こえた。はっと目を見開いて、ロンガはそちらに声を掛ける。
「ソル――そこにいるのか?」
「……ルナ、いるの?」
真っ白に塗りつぶされた世界のなか、シェルの輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。幻像世界と現実の境界線上に、彼はいた。僅かに知覚できる彼の気配に向かって、ロンガは一か八か問いかけた。
「いま、銃を持っているか」
「えっ――うん、持ってるけど」
「そうか……良かった」
それからロンガは、D・フライヤに聞かれないよう声をひそめて「ソル」と呼びかける。
「頼みたいことがあるんだ。エリザの身体が死ぬ前に、頭を撃ち抜いて欲しい」
「……え」
彼が言葉を失った気配を、白い壁の向こうに感じ取る。
「……どういう、こと」
数秒の沈黙を挟んで、シェルはようやくそれだけ呟いた。顔は見えないが、彼が動揺しているのが伝わる。無理な頼みをしていることは分かっていつつ、ロンガは「時間がないんだ」と追い打ちを掛けた。
「手短に言う。このままだと、エリザの心がD・フライヤに喰われてしまう。そうしたら最後で、彼女はもう二度と、人として死ぬことが叶わないんだ」
ロンガは早口で言ってから、そこに感じる彼の手をぎゅっと握りしめた。
「でも、それより先に頭を撃ってしまえば、もしかしたら奪わせずに済むかもしれない」
「つまり……心の入れ物自体を壊すってこと?」
「そうだ。そこに賭けてみたいんだ」
「……分かった」
幻像世界と現実の境界線上に佇んでいる、シェルの強いまなざしが僅かに見えた。大きく見開かれた目は涙をこぼして、それでも真っ直ぐにロンガを見据えている。
「ルナも……それで良いんだね?」
「うん」
ロンガは静かに頷く。
こんな方法をエリザが望んでいるのか、ロンガには分からない。それに、エリザの頭を撃ち抜けば、当然、そこに間借りしているロンガもただでは済まないだろう。それでも――今この瞬間を逃せば、永遠に取り返しが付かない。
「お願い、ソル」
「……うん」
彼が小さく頷く。
コツリと、金属が頭に触れた。
ロンガは手探りで、銃を握っているシェルの手を見つけ、彼と一緒に引き金に指を掛けた。鈍った感覚の向こうに、銃の冷たく硬い感触を感じる。
「……こんな真似をさせて、ごめん」
ロンガは目を閉じる。
ううん、と彼が首を振る気配があった。
「ここで待ってるからね、ルナ」
「……ありがとう」
発砲音。
幻像世界そのものにひびが入り、ガラスのように砕け落ちる。虹色が混ざり合って灰色になるように、世界に意味を与えていたあらゆる色が剥がれ落ちて混ざり合う。熱や光、物体と意志、動きと音、祈り――別々であるはずの概念たちが、自身が何者であるかを忘れて渾然一体となる。
存在が失われていく。
そのなかで、何かが寄り添っていた。
「リュンヌ」
「……エリザ」
最後に残っていたものを、伝える。
「私に、私をくれて、ありがとうございました」
存在は、一点に収束する。
「――さようなら」
そして、かき消える。