chapitre100. 別れの日
文字数 7,435文字
水を含んだ布のように重たい目蓋を押し上げる。ロンガは乳白色の天井をぼんやりと見つめて、
回らない頭で考える。ムシュ・ラムの死に突然涙が止まらなくなって、寝台に突っ伏して泣いてからの記憶がない。あれは、たしか――12月25日の朝。
「は、28日!?」
三日近く眠っていたことになる。
叫んで飛び起きると、同じく横で眠っていたらしいシェルが跳ね上がるように身体を起こして、お互いの額が激突する。脳を揺さぶる衝撃に2人が悶えていると、叫び声を聞きつけたのだろう、扉が開けられる。隣室を使っていたはずのアンクルが顔を出して、おはよう、と笑った。
ロンガは額を擦りながら、おはよう、と応じる。
「ああ、悪いんだが、今日は何日だ?」
「貴女が今、叫んだとおり。28日よ」
「良く寝てっから放っといたんだ」
廊下にいるらしいサテリットとシャルルの声が聞こえる。シェルが顔をしかめながら起き上がって、嘘でしょ、とぼやいた。
「そんなに寝てたの、ぼくら」
「2人とも疲れてたんだよ。朝ごはんを食べに行かない?」
「ああ……ソル、どうする」
彼が最近ほとんど食事を摂れないことを思い出して、ロンガが振り返ると、彼は自分の腹部に手を当ててしばらく考えた。それから顔を上げて、うん、と頷いた。
「お腹、空いたかもしんない」
彼は寝台から飛び降りて、靴を履きなおした。
ロンガも立ち上がり、凝り固まった身体を大きく伸ばした。長いこと眠っていたためか、身体と精神が、良くも悪くもリセットされている感覚があった。ラムの死に際で何かもっと言えることがあったのではないか、と問いかける感覚はまだ消えていない。だが、その後悔ごと型に流し込んで固めたとでも言うのだろうか。触れればじわりと痛む、小さくて丸い欠片だけが残って、胸の底でゆらゆら転がっていた。
食堂に行くために通路に出ると、少し雰囲気が違うのに気がついた。常にぴんと張りつめていたような空気が、どこか緩んだように感じられる。
「何だか賑やかじゃないか?」
ロンガが首を捻ると、うん、とアンクルが頷いた。
「君たちが眠ってた数日の間に、少し事態が変わった。銃の取り扱いに対する規制が変わって、個人単位で統計を取り有意に攻撃的だと見なされると、認可の如何に関わらず摘発されるようになった――だって」
「アン、意味わかって言ってっか?」
「ごめん。丸暗記したのを言っただけ」
「さっき説明したじゃない」
サテリットがちらりと振り向いて、不満げに唇を曲げてみせる。なるほど、とロンガは腕を組んだ。
「要するに認可銃だろうが、好き勝手には撃てなくなったわけだ」
「ええ。だからでしょうね、規制が変わってからは、今のところ危険な目には遭っていないわ」
「それで皆、部屋から出てこれるようになったんだね。良かった」
「そうね、でもシェルたちも銃を持っているのだから、気をつけて。うっかりELIZAに目を付けられないようにね」
シェルはサテリットの気遣いに頷いてみせてから、ロンガにちらりと視線を向ける。隣を歩く彼らに気付かれないように、彼はこっそりと自分の唇を指さした。
「ハイバネイト・シティのルールを書き換えられるってことは、エリザが目覚めたってことかもしれない」
唇の動きだけでそう告げられる。その推測が当たっているなら大事件だが、ロンガは冷静に首を捻りつつ「そうなるのか?」と同じく声には出さずに問いかけた。
「うん、多分、総権が必要なレベルの介入だと思う。でも……それにしては静かというか、控えめだよね」
「そうだよな。地上の人間にとってはともかく、地下の人間にとっては、エリザの目覚めは重大な出来事のはず」
ずっと会いたかったはずの人が目覚めたかもしれない。そう言われたにしては、ロンガの心がほとんど揺らがなかった理由は、違和感のほうが強かったからだ。
「もっと大々的に祝うものじゃないのか」
「ぼくもそう思う。何か裏がありそうだ」
シェルが頷き、前を行くアンクルたちが振り向きそうになった気配を察知して、さっと正面に向き直った。
しばらく、とりとめもない会話をしながら食堂に向かって歩く。角を曲がると、他の集団に出くわして、ロンガは反射的に身構えた。丈の長いシャツの下に咄嗟に手を伸ばし、隠した拳銃に手を掛けたところで「待って」と制止される。
「気をつけてって言ったでしょう? それに、普通の入居者よ」
サテリットが手を軽く抑えてくれて、すんでのところで銃を見せずに済んだ。何人かが連れ立った集団が、やや警戒しつつも友好的な笑みを浮かべて小さく会釈する。
先頭に立っていた女性が遠慮がちに「どちらから?」と尋ねてきた。
「僕らはバレンシアからです。そちらは?」
「私はフィラデルフィアから。彼女たちはヴォルシスキー、あと彼らは……地下から」
連れ立った集団の最後尾から、明らかに肌の白い人間が2人、ひょっこりと顔を出した。ロンガは思わず息を呑む。リジェラと同じく、地下をルーツとする人間のようだ。
不安そうな様子がらも、笑顔を浮かべてみせる“
「言葉が通じないんです。まだ、お互いの名前すら分からないんですが、昨日会いまして。困っていたようだったので、一緒に行動しています」
「じゃあ『君の名前は?』」
いつの間に勉強したのか、シェルが慣れた様子で異言語を発した。“
『俺はダイカ。こっちはメグ』
『どうやってここに来た?』
『木箱を運ぶ、動く道を見つけた』
「ああ、荷物運搬用のスロープのことだな。じゃあ私たちと同じだ」
「そうだね」
ロンガの呟きに頷いてから、いつもの口調よりは多少丁寧な言い回しで、シェルは先頭に立つ女性に顔を向けた。
「名前はダイカと、メグだって。あのね、ELIZAに頼めば言語学習のライブラリが使えるから、見てみたら良いと思います」
「そんなものがあるんですか?」
彼女は口の前に手を当てて、知らなかった、と驚いたように言った。地上と地下の垣根を踏み越えた彼らと、手を振って別れると、好奇心に目を煌めかせたサテリットが「詳しく教えて」と言って服の袖を引いた。
*
食後、シェルは今すぐにでも地上に向けて出発するつもりだったようだが、部屋で荷物を整理しているとアンクルが顔を出して「ちょっと良いかな」と聞いてきた。彼が通路に手招きをするので、部屋を出て後ろ手に扉を閉めると、彼は少し言いづらそうに切り出した。
「あのね……ロンガたちが起きたら、ラムへお別れを言いに行こうと思ってたんだ」
「行くって、どこに。だって彼はもう」
「その、ラムの身体が下層に送られたのは知ってるんだけど。せめてその場所を見ておきたくて。僕は結局、お礼を言えなかったから」
アンクルは顔を背けて、込み上げるものを堪えるように鼻を抑えた。目元を拭い、ごめんね、と言って微笑む。
「無理にとは言えないんだけど、もし良かったら、一緒にどうかな」
「うん、ありがとう。私も行くよ」
良かったと言ってアンクルが微笑み、それから声を潜めて「シェルは」と尋ねてきた。
「彼も、その――来たがるかな」
「ソルか。どうだろうな」
「何となく、ロンガが来るなら彼も来るんじゃないかなって思うんだけど」
決まったら教えてね、と言い残してアンクルは部屋に帰っていった。ロンガは自分の使っている部屋に引き返し、シェルの意向を聞いてみる。
「そっか。まあ……これで最後だしね」
シェルが目を伏せて頷いたので、結局全員でラムが息を引き取った場所へ向かう。サテリットはラムに守られていた頃の記憶はないはずなのだが、アンクルたちの恩人なら、と一緒にやってきた。
先頭を歩くシャルルの歩調が、だんだん鈍くなった。記憶と周囲の景色を照らし合わせると、あのときの場所にかなり近づいているようだ。心なしか、壁や天井が煤で汚れているような気もする。
「俺のせい……なんだよな」
シャルルは立ち止まって、ぽつりと呟いた。
「悪い、今のうちに言わせてくれ。おっさんが死んだの、俺が不用意に部屋に入ったからなんだ。部屋の暗がりにいた奴に、俺が気付けなかったからなんだ」
広い背中が、小さく震えていた。
「俺を守ってくれて、銃で応戦したけど弾切れになって――それで多分、自分も死ぬ覚悟で爆発を起こしたんだ」
「……だからあんなに煙ってたんだな」
「そうだ」
「でも、シャルルたちは通路にいたよね」
シェルが平坦な口調で問いかける。
「多分シャルルが、吹き飛ぶ直前にムシュ・ラムを外に出そうとしたんでしょう。じゃなきゃ、説明が付かないよ」
「ああ……いや、よく覚えてねぇや」
「おかげで彼はルナと話せた。それに、エリザの役にも立てたはずだ。身体ごと吹き飛んでたら、どっちも叶わなかった」
彼は、背を向けたシャルルの前に回り込んで、自分よりもずっと背が高い彼の顔を見上げた。赤みの強い瞳に、天井の照明が映り込む。
「最善を尽くしたと思う。ぼくは君を尊敬する」
「……はは、何だよ」
シャルルは、笑っているとも泣いているとも取れる声を吐き出す。顔を乱雑に服の袖で擦り、行くぞ、と呟いて再び歩き出した。
「すっかり元気になりやがったな、お前」
「そう? 寝てご飯食べたからかなぁ」
「人間それが一番大切だからな」
笑われたシェルは肩を竦めていたが、そんな彼を見て、ロンガは少し安心した。今の、まっすぐな言葉で他人を気遣うシェルは、本来の彼の姿に近い気がしたからだ。
しばらく歩くと、通路の隅に広がる黒い染みが目に入って、嫌でもそこが
食前に祈りを捧げるのと同じ動作だと気がついて、ロンガも彼らに倣った。しばらく目を閉じて、胸の奥にある、丸い小石のような形をしたラムの記憶に触れた。頼れる大人だった彼も、自由を制限する敵だった彼も、最後の瞬間だけは父親だったかもしれない彼も――全てもう過去のものだ。もう変わり得ないから、丸い小石の中に封じ込められている。
もうこれ以上、彼のせいで危険な目に遭うことはないし、彼に助けられることもない。死んでしまうというのは、世界の終点に辿りつくことなのだ。閉じた世界の外側から、ロンガは両目に彼の姿を映す。色々な感情が浮かんでは消えていった。
目を開けると、シェルが不思議そうな顔で一同を見渡していた。今のって、と視線が問いかけているので、ああ、とロンガは頷いた。
「本来は、食前の祈りなんだけど」
「本質は同じよね。自分の時間を使い終えた
「空より至り土へ還る、ラピスの恵みに感謝して――って言うんだよ」
「あ、そのフレーズは聞いたことあるかも」
シェルが小さく頷く。彼はアンクルの隣に膝を付き、真似をするように両手を組んで目を閉じた。ラムに対して複雑な思いを抱えているはずのシェルが、真剣に彼に祈りを捧げているのが少し予想外で、ロンガは目を見開いた。
やがて目を開けた彼は「不思議だ」と呟いた。
「ぼくは彼を本気で殺そうと思ったことがある。あの人だけを排しても事態は変わらないって分かってたから、しなかったけど。世界で一番嫌いな相手だった。止めを刺せた時は少し安心した」
でもさ、と静かな声が呟く。
「仲間でもあったんだ、って気付いた」
彼はゆっくりと立ち上がって、暗い血溜まりの跡を無表情に見下ろした。それから少し早口になって、まるで言い訳をするように言う。
「別に、お互い利益があったからそうしてただけで。宿舎のみんなみたいに、心まで繋がっているような関係じゃなかったけど」
「結局何が言いてぇんだよ、お前は」
シャルルが呆れるように笑って、シェルの肩に手を回した。シェルは驚いたように指先をびくりと強ばらせる。それから恐る恐る、宿舎の仲間たちを振り返って、小さく唇を動かした。
「……悲しいって言っても良い?」
「悲しむのに許可が要るか。どんな世界で生きてんだお前」
ありがとう、と平坦に呟いて、シェルはしばらく黙って血溜まりを見下ろしていた。
*
部屋に戻り、ロンガとシェルは再び地上へのルートを構築した。アンクルとサテリットを助けるとき、はじめに想定したルートから外れてしまったのだ。だが、最下層のコアルームからコントロールしてもらえば、スロープの向きを操れることも新たに判明したため、かなりルート構築の自由度が増した。
そこでロンガはシェルに、コラル・ルミエールの面々に一度会えないかと我が侭を言ってみた。分かった、とあっさりシェルは頷き、すぐに
「この辺だ。第45層――かなり地上に近い」
「ありがとう、だが回り道になってしまうな」
「良いよ、全然。他にもさ、地下に知り合いとか、いたら会って行こうよ」
シェルはそう言うが、流石に彼をあまり引き回すのも気が引けてロンガは断った。アンクルたちを助けたのは非常事態だから仕方なかったが、ロンガの用事にばかり何回も付き合わせるのは申し訳ない。
それに彼は、地上に行ってから向かいたい先があると言っていた。それがどこかは知らないが、彼の目的をこれ以上後回しにしたくなかった。
昼過ぎにルートを決定し、宿舎の仲間たちにひとまずの別れを告げに行った。ひとりひとりと手を握り交わしてから、また会おう、と笑い合った。
「君たちも、一緒に来たりは――しない?」
シェルが問いかけると、ごめんなさい、とサテリットが眉を下げて微笑んだ。
「私は出産するまでは地下にいるって決めてるの」
「僕も、サテリットのそばにいるつもり」
「ということで、俺もだ」
「そっか」
少し悲しそうにも見える無表情で、シェルが頷いた。
「じゃあ。これでお別れだ」
「まあ、また会おうぜ。そんときは、ここよりずっと美味い飯を食わせてやるよ」
「ありがとう」
そう答えて、彼は久しぶりにはっきりと笑顔を浮かべた。名残惜しさはいつまでも残りつつ、ロンガたちは彼らに別れを告げて、次の階層へ向かうスロープへ乗り込んだ。
*
壁面のパネルを、アンクルとシャルルが協力して元通りにはめ直した。サテリットは椅子に腰掛けて彼らを見守っていた。小気味よい音を立ててパネルが閉まった瞬間、はあ、とシャルルは溜息を吐く。そのままずるずると床に屈み込んだ。
「……お疲れさま」
サテリットは労いの言葉をかけて、まだ慣れない杖をつきながら彼らに近づく。
「ちゃんと笑顔でいてくれて、ありがとう」
「ああ。笑うって疲れるな」
シャルルが呟いて、包帯を巻いたままの右手に視線を落とした。その口元が引きつるように歪む。
「美味い飯食わしてやるって、この手じゃ、今まで通りに料理なんてできねぇよな」
サテリットは答えられず、静かに目を伏せた。気丈に振る舞っているが、内心では相当苦しんでいただろう。身体の不調のせいで好きなことができなくなる、その苦しみは、突然歩くことすら困難になったサテリットもよく理解していた。
目を閉じると、深い緑色の靴を思い出した。5年前は大切にしていた靴だけど、きっと今では捨ててしまっただろう。杖をつかなければ歩くこともできないのに、踵の高い靴なんて履けるわけがない。ラピスの外側に出てみたいという、昔からの夢だって、この足ではきっと叶わない。
思いがけず胸がずっしりと重くなり、サテリットはその場に屈み込む。
「……治せないのかな」
すると、見守っていたアンクルがぽつりと呟いた。彼の目に、あまり見たことのない色の光が宿る。
「地下の技術は凄いって言ってた。シャルルの指も、サテリットの足も、もしかして何とかなるんじゃ――」
「失ったものは生やせないって言ってたぜ」
「でも僕は機械の腕を見た。サテリットも覚えてるよね」
そうだよ、と目を見張って、アンクルが目の前に膝を付いた。
「ここの技術を利用して、完全に指や足の代わりにはならないかもしれないけど、サポートするものなら作れるんじゃないかな」
「アン? どういうこと」
「僕に作れないかな。シャルルとサテリットが、好きなものを諦めないための
「なあ、有り難いけどよ」
シャルルが身体を起こして、アンクルの肩を揺すった。
「お前にそこまでさせらんねぇよ」
「ううん、僕が宿長だから。リゼがしてくれたみたいに、誰かの好きなものを大切にできる宿長に、僕もなりたいから」
「……良いの?」
「もちろん」
そう言って微笑むアンクルは、いつになく頼もしい。シャルルとサテリットは目を見合わせてから、よろしくお願いします、と同時に頭を下げた。アンクルが戸惑ったような表情をしつつも、頑張るよと微笑む。
その夜、ふと思い出して聞いてみた。
「そういえば、リゼみたいにって言ってたけど、彼に何かしてもらったの?」
問いかけられたアンクルは少し顔を赤くして、ああ、と曖昧に応じた。
「ごめん、流石に恥ずかしくて言えない」
「何よそれ」
サテリットは苦笑して、ありがとう、と呟いた。