chapitre131. 見上げる深夜
文字数 6,890文字
――だから言ったのに。
危険を冒してでも理想を追求しようとしたのは彼らだ。その宣言に絡め取られるようにふたりは危険に巻き込まれて、助けようにも助けられない場所にいる。交渉に向かうのを止めれば、あるいは自分も一緒に付いていけば何か変わっただろうか――無数に後悔は浮かぶが、全てはもう済んでしまった後だ。
カノンが深い溜息を付く横で、簡素な椅子に腰を下ろしたエリザがじっとパネルを見つめていた。
――創都345年1月26日 深夜
――新都ラピス ハイバネイト・シティ居住区域
壁に背中をぴったりと付けて、手の甲を二、三回叩きつける。両手首を繋いだ鎖が、耳元でじゃらじゃらと音を立てて鳴った。
「聞こえる?」
「――うん」
アルシュの声が遠くで答える。
会話くらいはできそうで良かった、とシェルは胸をなで下ろした。ふたりが今閉じ込められている場所は、牢として機能するように改造されているものの、元々は普通の入居者向けの部屋だ。鍵を改造するくらいはできても、壁の厚みを増すことは難しいのだろう。
「そちらは無事?」
「うん。洗面台もトイレも寝台もあるし、空調も効いてるし、さっき食事も出てきたし――人質と呼ぶには待遇が良いね」
シェルが冗談めかして言うと、溜息交じりの声が返ってきた。
「余裕あるねぇ……」
「うん、まあ……ぼく、脱獄囚だから。グラス・ノワールよりはずっと良い」
「そういえば、そうだった」
言葉の後ろに、微かな笑い声が聞こえる。その声色がかなり疲弊しているように感じられて、そちらは、と逆に問いかけた。
「アルシュちゃんは大丈夫?」
「私なら、うん、平気だよ。シェル君の言うとおり、手酷い扱いを受けてるわけでもないし」
「なら良いけど。何かあったら教えて」
「ううん」
苦情を言われたところで、手を打とうにも手錠で拘束されているのだが、とりあえず言ってみる。笑って顔を振る表情が見えた気がした。
「私の待遇なんかより……コアルームが心配。私たちさ、交渉材料として使われてるんだよね」
「うん、そうだろうね」
捕まえるだけ捕まえて、何かの情報を引き出そうとするでもなく放置されている。こんな不可解な行動をする理由は、それ以外に考えられない。
シェルたちが捕らえられてから、正確な時間は分からないが、もう六時間は経ったはずだ。コアルームに何らかの要求を突きつけた頃だろう。要求するのは生活環境の改善か、居住区域の拡大か――あるいはもっと思い切った何かだろうか。
はぁ、と壁越しにも関わらず溜息が聞こえる。
「彼らの命が惜しいなら、俺たちの言うことを聞け――みたいな。嫌だな、迷惑かけちゃってる……私が、不注意だったばっかりに」
「そう言われると、ぼくも同罪だけど……」
シェルは唇を尖らせて、でもさ、と声の調子を明るくした。
「フィラデルフィア語圏って、今までさ、全然交渉に応じなかったじゃない。こうやって、彼らがスタンスを明確に示してくれるのは、ある意味、進展があったってことだ。何もかも上手く行ってないわけじゃない」
「そう、なんか……やけに前向きだね。それとも、わざと、そうしてくれてるの?」
「えっと……」
シェルは暗い天井を見上げて、その向こうに浮かんでいるかもしれない月を思い描いた。
「なんか、前向きでいないといけないような気がして」
帰ってくるか分からないシェルの幼馴染に、起きたことに対して誠実なのが君だと、そんなことを言われた。
そう言われたときのシェルは、まさに過去に戻ってやり直す作戦の真っ最中で、だから彼女の見込みは大間違いも良いところだったのだが――たしかに昔の自分は、そんな性格だったような気もする。
作戦は失敗して、もう過去には戻れない。
全部リセットする道は絶たれたからこそ、起きてしまったことは事実として受け入れて、その上で良い方を目指す――そんな風に動いている方が、多少は良いように思えた。最善を尽くしているという錯覚を得ることができた。
「この間さ、どんなに頑張ってもどこかが歪む、って言ってたじゃない」
彼女自身の言葉を引用して問いかける。
「うん……言ったね」
「なら逆にさ、めちゃくちゃ失敗したように思える今だって、見方を変えればひとつくらいは良いとこがあるんじゃないかな。その尻尾を捕まえて、明るい方に持って行けたら良いなって――」
「……でも結局、私たちには何もできない」
声の後半は、だんだんと掠れていった。
「ただ、ここで助けてもらうのを待ってるだけ。私は……みんなの、役に立たないと、いけないのに」
「うーん……」
途切れ途切れの上ずった声で、明らかに彼女が泣いているのが分かる。対応に困ってしまい、一体どう声をかけるべきか悩んでいると、ふと気がついたことがあった。
あのさ、とできるだけ軽い口調で切り出す。
「アルシュちゃんは……役に立ちたい、じゃなくて、立たないと――なんだね」
壁の向こうで沈黙が応じる。彼女の表情が見えないから、その沈黙の意味は掴めない。的外れなことを言っていないと良いな、と思いながら、シェルは言葉を続けた。
「役に立てなかったら――どうなるの」
長い静寂の末に、小さい声が「分からない」と呟いた。
「考えたことがないから」
「じゃあさ、そんなに……自分を追い詰めるような言い方、しなくても良いじゃない」
「それは、そうだけど」
「だけど――何かあるの?」
曖昧に言葉を淀ませたアルシュに問いかけると、返事の代わりに微かな溜息が聞こえた。彼女は諦めたような口調で「分かった」と呟く。
「あんまり言いたくなかったけど、やっぱり聞いてほしい。この間……私は生き残ったんだ、って言ったでしょう」
「うん。あれって、頭を打ったことを言ってたの?」
「……それだけじゃないんだ」
薄い壁の向こう側で、涙のこぼれた目元を拭い、アルシュは天井を見上げた。
人前で泣いてしまうことは、以前に比べればずっと減った。けれど心の奥底は弱いまま、頼りない草のように風を恐れている。
「ずっと、助けられてばかりなんだよ。シェル君、二年前の葬送を覚えてる? 塔の上に閉じ込められてるって、教えてくれたあの日」
「もちろん。忘れるわけないでしょ」
シェルが少し強い語調になって言う。
「アルシュちゃんは、ぼくらの恩人なんだから」
「そう言ってくれると思った。でも、違う……私、あのとき、あの話を聞いてなかったら、多分、ラピスに帰ってこれなかった」
「えっと――それって」
「棺と一緒に、海に沈んでたと思う」
アルシュは唇をぎゅっと横に引いて、今日に至るまで誰にも言えないままだった過去を言葉に変えていった。ひとたび声に出してしまえば、もう戻れない。固唾を呑んで見守っているようなシェルの沈黙を背中に、アルシュはあの日の景色を思い出した。
異世界からやってきた少年に撃たれて、
起床時刻を過ぎても、アルシュはぼんやりと天井を眺めていた。いつも気にかけてくれた隣のベッドの友人も、その日に限っては不在だった。担当者が部屋まで呼びに来て、アルシュは顔も洗わないまま葬送の広場に連れて行かれた。
棺に詰められた花の芳香。
頭を内側から揺するようなざわめき。
平衡感覚を狂わせる、小さく揺れ続ける木製の船に身体を預けて、アルシュは空を見上げた。薄いベール越しに空を見上げていると、そこに吸い込まれるような錯覚を起こす。身体は朝の空気に溶けてしまって、自分という存在はもうどこにもいないような気さえしていた。
そんなアルシュを引き止めたのが、友人の存在だった。よりによって
「私がいなければ助けられない人がいる。私しか手を差し伸べられない人がいる――そう思えたから、ラピスに帰ってこれたんだ。あのときからずっと……私の
喉の奥から引きつった声が零れる。涙がぼろぼろと頬を伝って落ち、スラックスに染みをいくつも広げた。言葉で形容しきれなかった感情が、結局は涙に変わってしまうのが悔しくて、だけど止めようもない。
「役に立てなかったら、生きてる方が邪魔になるなら――私が生き残った理由って、
「……なるほどね」
全て吐き出してしまうと、シェルの落ち着いた声が相槌を打った。予想よりもずっと平坦な応答に、なぜだかとても安堵する。生きている意味はあるに決まってる――という安易な励ましも、弱気なことを言うな――という陳腐な叱責も、どちらも欲しくなかった。
「分かるよ。全部じゃなくて、少しだけね」
代わりにそんな言葉が返ってくる。
「死ねない理由は沢山あるけど――生きてく理由って、簡単には見つからないよね」
「……シェル君でもそう思うんだ」
「ぼく
どこか気の抜けた声が、アルシュの発言をそのまま繰り返す。
「一体どんな風に見られてるのか、気になるとこだけど――まあ、でもさ、その恩なら、とっくに返してるんじゃない」
「返してるって……どういうこと?」
訝しく思って問い返すと「だってさ」とシェルは何食わぬ口調で答えた。
「塔の上まで迎えに来てくれたでしょ。いつまでも、借りたままの気分でいなくて良いと思うけど」
――いつまでも借りたままでいなくて良い。
アルシュは暫し黙り込んで、シェルの言葉を胸の中で反復した。
自分が誰かの足を引っ張っていると感じるとき、空気が鉛にでも変わったかのように息苦しくなる。それはアルシュにとっての慣れ親しんだ日常で、ゆえに、あえて問い返すこともなかった。誰かに救われて今ここにいるのだから、誰かを助けなければならない。明快な論理のはずだった。だけど考えてみれば――恩に報いなければ、と思うだけで、何をすれば借りた恩を返したことになるのか、考えてみたことがなかった。
コツコツ、と壁が叩かれた。
返事をしなかったからだろう、「大丈夫?」と尋ねられる。
「ごめん。余計なこと言ったかな」
「……ううん」
借りを重く捉えすぎていたのかもしれない――と考えると、少しだけ心が明るくなった。軽くなった胸元を抑えて、彼からは見えないと分かっていつつも首を振る。
「でも、恩を返す必要がないって言われたら、それはそれで途方に暮れちゃうから……やっぱり私は、誰かの役に立っていたいな。こういう性格なんだと思う」
「その感覚は、ぼくにもある。研修生だったころの名残じゃないかな」
「ああ……そうかも」
腑に落ちて、目を伏せる。
ラ・ロシェルの街並みを見下ろして暮らしていた、平穏で清浄だった日々の匂いを思い出す。幹部候補生の選抜を通過できるかどうか――なんて、今から思えば些細すぎることに、心の底から囚われていた。年端もいかない頃から統一機関の研修生という肩書きを着せられ、誰かの役に立てることこそ正義だと、教え込まれて育った。
「懐かしいな」
つい、そう呟いてしまう。
「ただ求められるままに働けば、ラピスの役に立てた。なんで生きてるのかなんて、考えなくても良かった、あの頃は……考えてみれば楽だったな」
「――戻りたい?」
「絶対に嫌だよ。もう一回、悲しいことを乗り越えないといけない……」
「そっか……そうだよね」
どこか水を含んだような声で、シェルが応じた。
悲しそうな声音に触発されて、彼もまた、親しい人を亡くしたばかりであることを思い出す。胸の奥が軋む感覚と共に、アルシュは
アルシュの
――だけど。
「あのさ……シェル君は、どうして平気なの」
踏み込んだ質問だと感じつつ、思い切って切り出してみる。冷たい壁越しならば、普段なら聞けないようなことも尋ねられるような気がしたのだ。
「今はどうして、何のために生きて、私たちに協力してくれるの。だって“
彼女の名前を出した瞬間に、壁を隔てているにも関わらず、シェルの雰囲気が切り変わるのが感じ取れるような気がした。
失ったものの数を数えてしまえば、アルシュよりシェルのほうがずっと多くのものを失っている。実際、年が明ける前にハイバネイト・シティ中間層で出会ったときの彼は酷い表情をしていた。そこから更に大切な
「そう……だね」
押し殺した声が呟き、続く言葉を並べるのに時間を要しているのだと分かる沈黙が後に続いた。
アルシュは緊張しながら、彼の応答を待つ。
自分自身の心の安寧を保つためだけでなく、エリザの処遇を決めていく上でも、彼の考えは把握しておきたかった。エリザの身体の奥底にロンガの意識が眠っているという、突飛極まりない話は、まだシェルには伝えていない。これは数日前、カノンと協議して決めたことだった。シェルは幼馴染であるロンガの存在にかなり重きを置いている。彼女の幻影に囚われているとすら言える。
『大きすぎる価値は人を狂わせると思う』
カノンはそう述べて、アルシュも同意見だった。ひとつの身体にふたつの心が宿っているという荒唐無稽な話を信用するにしても、エリザはロンガ自身ではない。彼女であって彼女でないのだ。そんな現実を目前にして、せっかくサジェスの死から立ち直りつつある彼が、また均衡を欠かない保障はない。
だが、シェルの考え方次第で、この判断はひっくり返る――アルシュは密かにそう思っていた。
ふたつの人格を持つ人間への接し方など、どこの文献にも書いてはいないだろう。しかし、ロンガと仲が深く、エリザとも面識があると聞く彼ならば、あるいは――エリザとロンガが相乗する
小さく息を吸う気配があった。
「ぼくは――ルナを待ってるんだよ」
壁を伝う声は無機質に、そう告げる。
「ルナがどこにいるのか、分からないけど――まだ彼女が、ぼくたちに愛想を尽かしてなければ、
「……うん」
「そのときに、少しでも良いラピスで出迎えたい。ぼくが生きてるうちに、その日が来なくても――最後まで待つのが、ぼくの責任だと思ってる」
「そう……分かった」
動悸を抑えながら、頷く。
やはり――彼には言うべきではない。
決意を固く結び直して、アルシュは目を閉じた。エリザの身体の中に同居するふたつの心は、やがて混ざり合ってしまうだろうと告げられた。エリザとロンガの心が混ざり合った複合体は、ふたりのどちらでもないだろう。
つまり――アルシュの友人だった彼女の人格は、もうすぐ消えてしまうのだ。
「きっと、ロンガは帰ってくるよ」
アルシュは本音を鏡に映して、声の響きだけでも笑っているように見せかけてみた。