chapitre36. 与えられた空白
文字数 4,905文字
「……えっと、今のウソ! やっぱ聞いてないよ」
「うん、聞いたんだね」
アンクルが溜息を吐く。
ロンガの頭の中は真っ白になった。血液が凍りついて足元に落ちていく。自分が引き金を引いた結果、リヤンに聞かせてはいけない話を聞かせてしまった。彼らが5年間ずっと隠し通してきた、秘密中の秘密を。
ロンガが呆然として動けずにいると、シャルルがすっと立ち上がってリヤンの背後に回った。リヤンが何か反応する前に、いつの間にか手に持っていた指先ほどの小さな物体をリヤンの首に押しつける。「痛っ」と、リヤンがほとんど反射のような声を上げる。
「な、何? シャルル……」
「リヤン、
アンクルは言葉の上では自主的に顔を向けるよう促しながら、実際には頬に手を添えて無理やり顔を向けさせる。その眼前20センチまで顔を近づけ、「よく聞いて」と低いトーンで語りかける。
ふと違和感に気づく。
リヤンの様子がおかしかった。
完全にアンクルのされるがままになっている。さっきまで笑顔の奥に必死に隠そうとしていた、動揺や焦りや困惑といった感情がすっかり抜け失せている。異様に据わった瞳をアンクルにまっすぐ向けるリヤンが、ふと無機物の人形に見えて、背筋がぞっと冷たくなった。
静かな声でアンクルが語りかける。
「眠っていた君はふと、話し声で目覚めた。僕たちは壁の補修について話し合っていただけ。君はホットミルクを一杯飲んで眠りにつく。……眠っていた君はふと、話し声で目覚めた。僕たちは休暇の使い方について相談していただけ。君はココアを一杯飲んで眠りにつく。……眠っていた君はふと、話し声で目覚めた。僕たちは冬越しの保存食について考えていただけ。君はレモングラスティーを一杯飲んで――」
アンクルは抑揚のない声で、「ロンガたちが話し合っていた内容」だけを様々な嘘に変えていくつも話し連ねた。数分にも渡る長い言葉を終えると、ぽん、とリヤンの肩を叩いて、表情を笑顔に変えた。
「さあ、
「ありがとう、アン。ミントティーが飲みたいな」
リヤンはいつも通りにこやかに笑った。
ここまでの数分間に起きた一連のことなど初めからなかったとでも言うような、曇り一つない笑顔だ。キッチンに引っ込んでいたシャルルがミントティーを持ってくる。適度に冷ましてあったらしい中身を美味しそうに飲んで、手を振ってリビングを出て行った。階段を上るぱたぱたという足音が遠くなっていく。
ロンガは呆然として彼女を見送った。
頭のてっぺんから指の先までいつものリヤンだった。常日頃からリヤンに接しているからこそ分かるが、今の様子は演技でも何でもない。天真爛漫に見える一方、気遣いのできる彼女だが、今のは本当に「彼らの話し声で目覚めて他愛ない会話を聞いた」だけだと本人が信じていなければできない態度だ。
なぜそんなことが可能なのか、答えは一つしかなかった。
「今の、記憶操作だよな?」
かつての自分や友人を苦しめた、統一機関の生み出した忌むべき技術。
まさかこんなラピスの辺境で、こんな形で見るとは思わなかった。
昔話をしていた時とはまた違う、重たい空気が4人にのしかかる中、サテリットは「知ってたのね」と苦い笑いを浮かべた。アンクルがああ、と溜息とも呻き声とも取れるものをこぼして、固く組んだ両手に額を押しつける。険しい表情を浮かべていた。
キッチンでカップを洗っていたシャルルが戻ってきて、ドカッと椅子に座り、黒ずんだ目元をロンガに向けた。
「どうやって知られないようにしたかって? こういうことだよ。他にどうしろって言うんだ」
彼の口調は投げやりだったが、3人がひどく苦悩していることはよく伝わってきた。ロンガが何も言い返さずにじっと見ているのを、言葉に出さない反論と捉えたのか、シャルルは眉の角度をさらにきつくして「あのなぁ」と低い声で言った。
「酷い、とか可哀想とか、そういうのは受け付けないからな。リヤンがソヴァージュだと知ってるやつがいなくなれば、あいつは本当に
「……それは、理解した」
ロンガは彼の気迫に気圧されつつも頷く。
「だが、なぜ本人に言わない? リヤンが自分の出自を知り、納得した上で隠し通す選択肢もあるはずだ」
「そんな必要はない。リヤンの負担を増やすだけだ」
「子供扱いが過ぎるんじゃないか」
「まだあいつは17だ」
「
「シャルル、ロンガ、ちょっといいかな」
2人の口論に、黙っていたアンクルが割って入った。彼の表情は、第43宿舎のリーダーと呼ぶに相応しい落ち着いた笑顔に戻っている。そこに隠しきれない苦しみが滲んではいるが。
「僕たちが本当に隠したいのは、リヤンがソヴァージュなこと自体ではないんだ。あまりいい話ではないけど、話そうか?」
「……ここまで来たら最後まで教えてもらうよ。どういう意味だ」
「さっきの続きだけど、
「言いづらいだろうから代わりに言うけど、私の脚が悪いのはそれよ」
言い淀んだアンクルをちらりと見て、サテリットが静かな声で言った。落ち着いたまなざしの奥に、押し殺したさまざまな感情を感じさせる。
「同情しないでね、ロンガ。こんなの2人に比べたら何でもないから」
「……うん、ありがとう、サテリット。そう、2人を痛めつけようとする人はいっぱいいた。ソヴァージュを内心で嫌悪することはあっても、直接攻撃することは稀、だったはずなんだけどね。どうしてかな、まるで糸が切れたかのようだった」
アンクルはそこで言葉を切ったが、理由は何となく想像できた。
収穫祭に向かい一丸となっていた空気。その収穫祭の最高潮とも言えるパーティーの雰囲気を叩き潰したリゼ。正装した集団と傷ついた少年の対比はまるで、正義が悪を追い詰める構図。固唾を飲んで見守る群衆に、最高の――リゼにとっては最悪のタイミングで言い渡される真実。
舞台の一幕のように演出された状況が人々を熱狂させたのだろう。
リゼ・リヤンの兄妹は
同調の声で意思が増幅する。
初めは無関心や単なる好奇心だったはずが恐怖に変わり、憎しみに変わる。集団の一部が「何かおかしいぞ」と思っても多数に押し潰される。そもそも何がおかしいのか、なぜおかしくなったのか理解できない。どこまでが事実で、どこからが想像や類推なのか分からない。口伝てに発展した議論が、どこで論理を逸したのか分からない。
だから止められない。
無限大を目指してひたすら増幅する。
ある点で臨界を越え、「奴らを排除すべきだ」という集団意思ができあがる。
そして一部が攻撃的な行動を試みる。それを見て真似をする。模倣するなかにはより凶悪さを付け足す者もいる。それを見てもっと過激になる……
途方もなく嫌な気分になって、ロンガは溜息をついた。
バレンシアの住民は決して攻撃的ではない。
穏健で、平和的で、故郷バレンシアを愛し、隣人を愛する。
それは間違えないことの保証ではないのだ。ソヴァージュだろうが何だろうが、人である以上間違えるのだが、そこで歯止めをかけられず暴走した。
だけどそれでも彼らの良心が死んだわけではない。今の第43宿舎が、そうとは知らないロンガが知覚できない程度に平和だったのは、バレンシアの住民が良心を取り戻して自分たちの間違いに気づいたからだろう。
何か大きな契機があったのだ。
契機とは何か?
それがこの話の終着点、すなわちロンガの初めの疑問『なぜこの宿舎は一人欠けているのか?』の答えでもあることは、もはや容易に想像できた。
「もう分かっちゃうよね、ロンガ」
リゼから宿長の役職を継いだのだろうアンクルが、視線を逸らして言った。
「行き過ぎた奴らが2人を襲った。リゼはリヤンを守ったけれど、自分自身のことは守り切れなかったんだね。ごめん……そこの詳しい話は控えさせてほしい」
「それで十分だ」
ロンガは首を振った。彼らがひた隠しにしていた過去に触れると決めた時点で、相応の覚悟はしていたつもりだった。だが第43宿舎が抱え込んでいた、たったひとつの死が、こんなにも苦しい。空気の密度が高い。身体がずしりと重く感じられた。透明な巨人の手が肩を抑えているかのようだ。アンクル、サテリット、シャルルの3人は皆、当時を思い出したのか沈んだ顔で俯いていた。会話を切り出せる雰囲気ではないので、ロンガは代わりに頭の中で情報を整理した。
つまりリヤンは、リゼと共に襲われた本当の理由を知らないのだ。
逆に自分が
確かにリヤンにとって苦しいことではあるだろう。
だが、だからといって、こんな形で真相に蓋をし続けることが正しいとは思えなかった。思いたくなかった。ロンガは10年の間にも渡り、友人の手で記憶を封じられていた当人でもある。記憶を封じられる苦しみも、近しい人の記憶を封じる苦しみもよく知っていた。今やロンガの中でとても大切な存在になったリヤンが、そしてこの3人が、自分たちと同じ苦しみを繰り返しているのは耐えがたかった。
何かないのだろうか。
もっとみんなが苦しまずに済む方法は。前提にリゼの死と、
ロンガは考えた末に口を開いた。
「記憶操作を受けたら、ひと続きの記憶に空白の区間ができる。それは本人にとってどう感じられると思う?」
「……何もなかったことになるんじゃないの?」
サテリットが戸惑いながら答えた。
「あるいはアンがやったように、偽の記憶で上書きされるんじゃあ」
「うん、リヤンは何事もなかったと思い込むだろう。でも空白は消えない。強く感情が揺り動かされたこと、それ自体は変わりえないからだ。真実と偽の記憶との間に、理由の分からない喪失感が残る。――記憶操作を繰り返しているなら尚更、それは間違いなくリヤンを苛む。人格が歪んだっておかしくない」
ロンガがそう言い放ったときの表情は三者三様だった。
顔色を変えて立ち上がったシャルルが、「そんなの! ……嘘だろう」と尻すぼみの声で呟いた。はは、と乾いた笑いが響く。
「この期に及んで冗談を言うなよ。なあ――冗談なんだろ? だってさ、何で見てきたように言えるんだよ」
「私自身が記憶操作を経験したからだ」
ロンガが小さい声で、だがはっきり言い切ると、シャルルは力が抜けたように椅子にへたり込んだ。