chapitre154. 前兆
文字数 6,208文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
気絶していた
全員が目を覚まし、ひとまず落ち着いてから、何が起きたのかについて、エリザが改めて説明をしてくれた。腕を組んで話を聞きながら、アルシュは誰かに見られないように溜息を吐く。
人目がなければ舌打ちのひとつでもしたいほど、ひどく腹がむかついていた。
その原因は明らかで、D・フライヤがメル・ラ・ロシェル――ティアの襲撃事件に巻き込まれて亡くなった
とうの昔に――とは言わずとも、ティアがMDPに協力を求めてきた、去年の秋の時点で、自分の中では折り合いを付けたつもりでいた。彼の心臓は止まってしまって二度と動かない。その身体は海の底に沈み、骨になるのを待っている。かつての親友とはいえ、もう、どうしようもなく死んでいる相手だ。そんな人に、今さら心を引きずられるなんて無意味だと思ったし、過去の出来事として、現在とは切り離して考えることができている。
そのつもりだったのだ。
だけど心の奥底では、どうも自分はまだ、二年前の葬送の日から抜け出せずにいるらしい。図らずも、D・フライヤの干渉によって、自分のなかに残っていた未練のようなものを見せつけられた。結局のところ、彼の死を受け入れたというよりは、蓋をして封じ込めただけだったのだろう。
もっと強くなりたい。
悲しみを、あるがまま受け止めて、なお冷静な自己を保てるだけの強さが欲しい。
アルシュは目を閉じて、あまり思い出さないように努めていた友人の姿を、記憶が許す限りの鮮明な像で、脳裏に描いてみた。柔らかい髪の艶、少し上から見下ろす微笑みのかたち、深い青の瞳、背後には統一機関の中庭、こちらに伸ばされる手――
彼はそこにいた。
唇が動く。
『アルシュ』
聞こえるはずのない声が名前を呼ぶ。
「止めてっ……!」
吐き気が胸元を突き上げて、気がつけば悲鳴を上げていた。
はっと目を見開くと、息を切らして上半身を折ったアルシュに、構成員たちの視線が集中していた。彼らに説明をしていたエリザが、話を中断して振り返り、怪訝そうに顔を傾ける。
「ええと……何か、問題があったかしら」
「――いえ」
身体中の熱がさっと引いていく。アルシュは両方の手のひらを広げて、小さく首を振ってみせた。
「何でも、ないです。邪魔してすみません」
胸元を抑えて座り込むアルシュを、何人かの仲間が心配そうに見つめていた。
*
時計の針はあっという間に周り、時刻は午前11時になろうとしていた。
「では、失礼します」
安堵のにじんだ笑顔を隠すように軽く腰を折って、三人の構成員たちがコアルームを出て行く。アルシュは頷いて、昇降装置の方に駆けていく仲間たちを見送った。彼らは、元“
コアルームに残っている構成員は、エリザやカノンを含めて残り九人。他に、各所のブレインルームに散って作業をしているのが、合計三十名ほど。いずれの作業スペースも、破裂した予備貯水槽よりも下に位置している。貯水槽から溢れ出した水は中間層の一部に溜まっており、今のところ封じ込められているものの、水位は依然として上昇中であり、いずれ抑え込めなくなるだろう――と、
今のところは段取り通りに進んでいる。
だが、ひとつ大きな問題が残されていた。
「アルシュ、すこし良い?」
ハイバネイト・シティの立体地図を睨みながら、シミュレーションに変更を加えていると、エリザが立ち上がってこちらに歩いてきた。隣の椅子を引いて座り、彼女はアルシュと視線を合わせる。
「ちょっと聞きたいのだけど……」
そう言って彼女は、アルシュの耳元に口を添え、ほとんど声帯を震わせない声で尋ねた。
「あのね――カシェはどこかしら」
「マダム・カシェですか、ええと……向かいのブレインルームで
「転送……それって、カシェじゃないとできないこと?」
「ええと」
質問の意図が読めず、アルシュは眉を寄せる。
「特段、難しい作業ではないですが。なぜ、そのような質問を?」
「ああ、唐突でごめんなさいね。あのね、もし良かったら――その仕事、代わりに、私に回してくれないかしら」
「貴女にですか?」
「ええ。あのね、彼女は大切なお友達なのよ……できれば先に逃がしたいの」
「それは――」
「そんな贔屓はできない、かしら。MDPのお仲間も、ひとりだけ特別扱いなんて納得しないだろう、と」
アルシュが言い淀んだ原因を、エリザは即座に言い当てて見せた。戸惑いつつもアルシュが頷くと「じゃあ」とエリザは微笑んだ。
「カシェのだけじゃなく、簡単な、私でもできるような仕事なら、全部、私に回して欲しい。それなら平等じゃない?」
「……え?」
一拍遅れて、アルシュは腰を浮かせた。
「な――何を仰るんです」
思わず大きくなった声に、まだコアルームで作業をしていた人々の目が集まるが、エリザは平然と微笑んでいた。
「ダメかしら。できるだけ役割を集約して、ひとりでも多く地上に逃がすべきでは?」
「だって……分かってますよね? 仕事を貴女に集めれば、その分だけ、貴女が逃げるのが遅れる。そんなの自殺行為です。到底、認めるわけには――」
「でも、誰かは残らないといけない」
アルシュの言葉を遮り、エリザが静かに言う。
「と、思っていたけど」
「それは……」
「私の勘違いだったかしら?」
「……いえ」
膝の上で拳を握って、アルシュは顔を上げる。
それこそが、最後に残された最大の問題だった。
「マダム・エリザ、貴女の仰るとおりです」
アルシュははっきりと言い切って、ぐるりと部屋を見回す。ひとりの構成員と目が合って、彼は気まずそうな表情とともに視線を逸らした。その頬が白いのは、おそらく照明のせいだけではない。コアルームに残された人数が十人を切り、最後のひとりとして残される恐怖が、現実的なものとして忍び寄ってきたためなのだろう。
ひとつ咳払いをする。
「誰かひとりを犠牲にすべきではない、それは、私も分かっています。ですが、避難が完了するまで、コアルームを無人にするわけにはいかない」
「そうよね」
エリザが頷く。
「不測の事態に対応できるよう、誰かは残さないといけない。ならば、その役割を担うべきは、総権を持っている私でしょう? その私に仕事を集めるのは、理に適っていると思うのだけど」
「……そうですけど、でも、貴女ひとりをここに残すなんて」
「心配してくれるのは有り難いけれど、他にやりようがないと思うわ」
エリザがふっと表情を緩めて、アルシュの耳元に唇を寄せる。
「私のなかにあの子がいるせいで、貴女、少し冷静を欠いていないかしら。違う?」
筋が通っているだけに、とっさの反論が浮かばなかった。アルシュが唇を引きつらせると「だが」と後ろからカノンが声を掛けてくる。
「いや、仰るとおりだとは思いますよ。しかし、無事に地下から脱出できるだけの身体能力も、最後に残る者に要請されるべき条件でしょう。失礼ですが、マダム・エリザ――時には自身の体重をも引き上げなければならない、それほどの体力が、貴女にあるとは思えない」
「そ――そうですよ」
彼の援護射撃で冷静さを取り戻し、アルシュはエリザの手を握った。
「総権の
「“
「今さら、彼らを恐れている段階では――」
そこまで言って、アルシュは息を呑む。
部屋の四方から突き刺さる視線の冷たさに気がついたのだ。コアルームに残っていたMDP構成員たちが、
「マダム・アルシュ……」
ひとりが立ち上がり、歩み寄ってきて、冷や汗の伝った顔でアルシュを見下ろした。
「せっかく、総権保持者みずから、残ると進言してくれたんだ。素直に、ご厚意に甘えれば良いのではありませんか」
「でも貴方は――自分が残されること恐ろしさに、そう言っているだけですよね?」
「……そうですとも!」
彼は口を横に引いて、蒼白な顔で叫ぶ。
「俺はこんなところで死にたくないんです。せっかく、七つのラピスがひとつになろうというときに、地下で埋もれて死ぬなんてっ……あ、貴女なら――俺を、MDPの仲間を見殺しになんて、しない……ですよね?」
「進んで見殺しにしたい人は、誰ひとりいません。MDPの仲間でも、マダム・エリザでも、それは同じことです」
「……綺麗事が過ぎる」
「ええ、そう思われても仕方がありません。でも――私は」
一瞬、ぎゅっと目を閉じてから、アルシュは意を決して立ち上がる。
「最後に残るなら、私自身だろうと思っていました」
「……そう仰るかなとは、思っていましたが――本気ですか」
「ええ」
苦い表情で俯いた仲間に、アルシュはしっかりと頷いてみせた。MDPとして組織を立ち上げようと決めたときから、アルシュの手伝いをしてくれた彼らは、賢くて察しの良い人間ばかりだ。アルシュがこう言い出すことを、きっと薄々は分かっていただろう。背中を冷たいものが伝うが、口に出してしまった以上は、もう引き返せない。
「だからこれは、物事を先延ばしにするための理想論ではなく、MDP総責任者としての決意です。ですから――」
アルシュはひとつ息を呑んで、エリザの白銀色の瞳を見下ろした。
「マダム・エリザ、私に総権を下さい」
声はしんと響いた。
エリザの瞳に宿る虹色の光がわずかに揺らめいた、そのとき、
「……また後で話しましょう」
ひとつ息を吐き、編んだ髪をひるがえして、エリザがパネルに顔を向ける。話の腰を折られて苦々しく顔を歪めつつ、アルシュも仕方なくパネルに向き直り、包括的管理AIから提示されたメッセージを読む。
緊急性の高さを示す、赤い枠に白い文字のウィンドウが、パネルの中央にポップアップしている。
「中間層にあるシャッターのひとつが、水圧に耐えかねて壊れた……とありますね」
「それが壊れると、どんな問題が?」
アルシュの疑問に応じるように、構成員のひとりが素早く操作盤の上で手を踊らせて、演算結果を表示させる。数秒のラグを挟んで、ハイバネイト・シティの立体地図が投影され、損傷箇所が赤くハイライトされた。
「想定しうる最悪のシナリオとしては……」
手元の端末とパネルに視線を行ったり来たりさせながら、構成員が緊張した指先でウィンドウを指さした。
「水がこの、矢印に沿って流れ……昇降装置の行き来のため設けられた空洞が、ストローのような役目を果たして、上層の居住区域まで濁水が流れ込む恐れがあるようです」
「中間層ということは、避難には利用されていないということですよね。昇降装置までの経路を封鎖すべきでは?」
「
「
仮にほとんどリスクがないならば、自動で実行されるようになっている。リスクとリターンを天秤にかける必要性があるからこそ、
アルシュの問いかけに、端末を操作している彼は頷いてみせて、キーを押し下げる。
「ここ――このハイライトした部屋に水を逃がすことになります。ですが、損傷が激しい区域にあたるので、予期せぬ崩壊が起こるかも知れません」
「床が水の重みに耐えきれないとか?」
「それだけではなく、もっと大規模に」
「ああ、そういや……さっきの緊急集会で言っていましたね」
カノンがパネルに近寄って、地図を示した指先を、下から上へ動かす。
「ラ・ロシェル地下の連鎖的崩壊が起きる危険がある――と。ここが壊れると、上層にあたる居住区域の重みを支えきれず、破壊が上方向に広がる可能性がある……
「はい、その通りです」
「なるほど……」
アルシュが腕を組むと「でも」とエリザが口を挟んだ。
「その危険性は緊急集会の時点で指摘されていて、だからこそラ・ロシェル地下を優先的に避難させる、という話だったわよね」
「はい。二時間前から避難は開始しています……ええと、第33層までは、すでに無人になっていますね」
彼はひとつ頷いてみせて「ですから」とコアルームを見渡した。
「俺は閉鎖して良いと思います」
「そうですね……異論は?」
とくに誰も反論をしなかったため、アルシュたちはシステムに閉鎖を命じて、
ふぅと息を吐いて、アルシュは強ばっていた肩の力を抜く。
「それで、先程の話の続きですが――マダム・エリザ?」
パネルから彼女に視線を戻して、アルシュは、エリザの顔色がひどく悪いことに気がついた。戸惑いながら呼びかけると、彼女ははっと目を見開いて、勢い良く立ち上がる。腕を肘掛けにぶつけて、倒れた椅子が派手な音を立てるが、それに構わずエリザは「ねえ」と切羽詰まった声で尋ねた。
「カシェは隣で仕事をしているんだったかしら?」
「隣というか、向かいの――回廊をぐるりと回った反対側の部屋ですが」
「ありがとう」
そう言うやいなや彼女がコアルームを出て行こうとするので、アルシュは慌ててその細腕を掴んだ。
「待って下さい。なにかありましたか」
「アルシュ、落ち着いて聞いて欲しいの」
逆に手首を掴み返して、エリザが真剣な表情で言う。手首に食い込んだ白い指には、握力こそ弱いのに、絶対に振りほどかせない引力があった。白銀色の双眸からは、常に湛えていた微笑みが抜け落ち、代わりに、いつにない焦りが滲んでいた。
「数秒か、数分後か分からないけど――もうすぐ、中央の部屋の天井が抜ける」
「はい?」
「とにかく部屋を出ないで!」
説明している時間が惜しい、と言わんばかりに早口で叩きつけて、エリザがコアルームを飛び出していく。はるか上の方で、何かがへし折れるような音が聞こえた気がした。