地下/暗闇のなかの予兆
文字数 15,968文字
「昼時だ。休憩室に行かないか」
「あ――はい。行きます」
少年は頷き、少し黒ずんだ目元を擦る。
どうもかなり疲れているようだ、と、サジェスはティアを眺めて考えた。サジェスが地底の民に直接語りかけるようになり、ティアに彼らのモニタリングを頼んでから、日々の忙しさは加速した。仕事量が多すぎるだろうか、と胸のうちで反省した。ティアはサジェスの勝手に付き合っているのだから、せめて無理をさせないように気を配らねばならない。今日は早めに作業を切り上げ、彼を居室に帰すべきだろうか。
ただ、サジェス自身には休んでいる暇などなかった。
一言でも、一音節でも多く、地底の民に語りかけたい。何しろ相手は十万人もいる。数十から数百人を一堂に集めて話すことはあるが、それでも十万にはまだまだ届かない。そのうえ、語りかけてみたところで、賛同してくれる相手はごく僅かだった。ほとんどの場合はよく分からない顔をされるか、反発されるか、そもそも耳にさえ通されない。百人に話したとして、好意的な返事をくれるのは一人か二人、どれだけ多くても五人。
あまりに遅々たる歩み。
だが、ゼロではない。自分たちが命令のままに動く理由を考えて欲しい、という頼みに首肯してくれた者が、たしかに存在している。この事実はサジェスを少なからず勇気づけた。一方で、賛同してくれた者がいる以上は迅速に事を運ばねば、という焦りも抱かせた。
――どうすれば良い。
言葉ひとつでは不足なのだ。しかし、サジェスは言葉以上の武器を持たない。総権という大きすぎる武器は持っているが、これを振りかざして言うことを聞かせるのは論外だ。サジェスが地底の民に望むのは、何よりもまず、自分の頭で考えること。そして自身の親しんだ常識を疑うことだ。
ただ、この「考えさせる」までの道筋があまりにも険しい。
狭くて見通しの悪い地底都市で生まれ育った彼らは、与えられた指示に従い続ける生活に慣れきっている。己の「役割」を外れた生き方を知らないという意味では、地上の人間も大差ないのだが、それと比較したって地底の民が見ている世界は狭い。
どうにか彼らの視界を
視界を広げるためには、未知のものと触れることが不可欠だ。しかしサジェスでは、彼らの価値観を根本的に覆すほどの未知とはなり得ない。というより、地上を知らない彼らに対し、自分は地上から来たと言ったところで首を傾げられるだけなのだ。
――あるいは。
サジェスは爪先ほどの期待を持って少年を見下ろした。
ティアは地上よりさらに遠くから来た人間だ。公用語の異なるもう一つのラピス、という、既存の座標体系では捉えられないほどの遠方から。存在そのものが常識破りと言えるこの少年が、地底の民の視野を広げる足掛かりになってはくれないだろうか――
「……いや」
一秒足らずで、サジェスはアイデアを打ち消す。
言語の違う異世界という概念は、その文脈で持ち出すには突飛すぎる。ティアと幾許かの言葉を交わし、ひとまず素性を理解したサジェスですら、少年の身の上を正確に説明できるかと言われれば困難だ。人間の理解を超えたものを持ち出したところで、いたずらに混乱を招くだけだろう。
どこかに落ちてはいないだろうか――とサジェスは見えない天を仰いだ。
理解できないほど遠くはなく、しかして、卑近ではない何か。双眸を覆われて生きてきた地底の民にも分かりやすく、その上で彼らの価値観を変える切欠となるような未知が、どこかにあってはくれないだろうか。
思考を巡らせるあまり側頭部が痛み始めた、その時だった。
ふと。
煌めきにも似た何かが、サジェスの脳裏に差しこんだ。
それは、喩えるなら鈴の音色のように小さく、しかし明瞭に響く。体温がすっと下がる感覚は、一種虚脱感にも似ている。未知の感覚に導かれてサジェスは歩く速度を落とし、進む軌道をゆるやかに曲折させた。
立ち止まった眼前に、一枚の扉がある。
それはつるりとした銀色の、何の変哲もない金属扉だ。湾曲した廊下には同様の扉がいくつも並んでおり、それを他の扉と区別する特質は何一つ存在しない。端から見れば何もない場所で立ち止まったサジェスを、ティアが不審そうに見上げた。
「……サジェスさん?」
「ティア、先に行ってくれ」
そう言って、彼は扉の脇に据えられたパネルへ片手を押し当てた。
「俺は、すこし考えたいことがある」
セキュリティロックが解除され、扉がスライドして開く。ティアは不思議そうに眉をひそめていたが「分かりました」と頷いて、休憩室の方角に駆けていった。遠ざかる背中を一秒だけ見送ってから、サジェスは暗い室内に目を向ける。
厚い扉を半歩だけ跨ぎ、室内に踏み込んだ。
そこには、パイプを組み立てて作られた簡素な寝台があった。寝台の上に載せられたマットレスも、地底の民が眠るよりはずっと良い寝床だが、同じく質素だ。そんなあり合わせの寝台には、一人の女性が眠っている。
扉の側面に身体をもたれさせ、サジェスは彼女を眺めた。
ひどく痩せこけた女性だ。肉の落ちた頬に、骨の浮いた首元。頭蓋にそのまま皮膚が張りついたようだが、顔立ちには穏やかそうな面影がわずかに宿る。シーツの波間に散らばったベージュの髪は、血の気が失せて灰色の肌と同様、油分も水気も感じられない。ドライフラワーのような有様だが、彼女は辛うじて死体ではない。では生者か、と問えばこれも難題だが、特定の処置をすれば目を覚ますようだ。いつでも蘇生できるのだから、つまり生きていると形容しても、ある程度は正しいのだろう。
彼女――エリザは、生と死の狭間に浮かんでいるような存在だった。
同時に彼女は、現在と過去にまたがって存在している人間でもあった。エリザは、外見から年齢を見積もると三十歳前後だが、その生まれは数えること四世紀前に遡るという。彼女がサジェスと同年代であった頃、時空間を超えて物質が転移する異常現象――あるいは時間軸汚染に巻き込まれ、過去から現在に飛んできたのだ。
「――貴女はどう考える?」
旧時代を肌で知っている唯一の相手に、サジェスは尋ねた。
「マダム・エリザ……貴女は、どう考える。地底の民が太陽の光輝など知らず使役されている事実をどう思う。旧時代はどうだったんだ。生まれながらにして割り当てられた『役割』は、四世紀の昔からあったのか。共同体の利益は人の幸せに優先したのか? 一体何を思い、何を祈って、貴女がたは生きたんだ――」
サジェスは頭を垂れる。
声に出して喋っていたのか、心のなかで呟いただけだったのか、サジェス自身にも判然としなかった。ただ、胸中でずっと渦巻いていた暗流を、彼は己の思考が流れるまま言葉に紡いでいった。もの言わぬ聞き手は、驚くほど滑らかにサジェスの言葉を引き出した。
――旧時代。
ラピスが作られる前に存在したという、幻の文明。サジェスの旧時代に対する知識は僅かだが、ハイバネイト・シティの全容を知る過程で、ひとつ確信したことがある。それは、ハイバネイト・シティ、ひいてはラピスは、旧時代に存在した文明をひとところに押し固めた複製である――ということだ。
きっと世界は広かったのだろう、とサジェスは思った。ラピスで生まれ育った者の尺度では捉えられないほどに、果てしない拡がりに満ちていたのだろう。広野にまばらに芽吹いた花のように、街と街は自然な距離を保って隔たれつつ、各々の特性を磨いていたはずだ。そして青空に手を伸ばしていたはずだ。それほど広大な世界なら、役割を鋳型として人間に当てはめずとも、緩やかな調和程度なら保てていたのではないか――
美しい花畑を幻視して、サジェスは額を押さえた。
見えない理想郷に縋ってはならない。しかし、過去を知る術がサジェスにはない。何かが良くなって欲しい――という、あまりにも漠然とした希望があり、地底の民の解放がその一翼を担うはずだと信じている。夢を究めた先にある世界、それは果たして旧時代と同質なのか。仮に同質だとして、ひとたび滅びたものを再建する試みは、果たして妥当なのか。
問えばきりがない。
しかし、旧時代というもう一つの文明は、ラピスと対比させて語るなら、これ以上望めないほど適切な素材だ。サジェスは通路の灯りを背負い、黄金の照りを持つ瞳を細めて、長年眠り続けている女性に語りかける。
「貴女が語ってくれれば、あるいは、事態は動くかもしれないんだがな……」
過去からやってきたエリザが、彼女の生まれ故郷と比較して、今のラピスに異を唱えてくれたなら。時間を二十四時間周期で区切ることのない地下世界にも時流は存在し、地底の民は空腹や疲労の度合いで時間を把握している。つまり彼らは、地上や、あるいはティアの故郷である異世界を知らずとも、
そこまで考えて、サジェスはふと苦笑した。
「……駄目だな、これは」
また現実逃避をしている。エリザはただ眠っているのとは訳が違う、薬剤で生命機能を根本的に抑えられているのだ。そんな彼女が言葉を紡いでくれるなど期待するほうがおかしく、今の一連の思考は、停滞した情勢に鬱屈するあまりの空想に過ぎない。
ため息を投げ捨てて踵を返そうとした――その時。
瞬きの隙間、その一瞬。
サジェスは暗い部屋の片隅に、白い光芒を捉えた気がした。
真白く透き通った、冷たい光輝だった気がした。光はあまりにも早く消えたので、疲労が見せた幻覚かとも疑いつつ、サジェスは立ち去りかけた室内に向き直った。
室内にあるのは、寝台、ただそれだけだ。
生命凍結状態にあるエリザは一切の食事あるいは水を必要としないため、彼女の部屋には本当に何の設備もない。唯一、空気だけは定期的に循環させて酸素濃度を保っているが、ただそれだけだ。光るものなどあるはずがないし、あったら困る。この部屋を含め、ハイバネイト・シティの全領域に対しサジェスは責任を担っている。管轄外のものがあった場合は管理AIの動作不良で、同時に監督義務の不履行だ。
まさか、とは思いつつ、危機感に駆られた。
念のためサジェスは部屋を一通り改めたが、光るようなものは見当たらない。通路の灯りが寝台の金属パイプにでも反射したのだろうと仕方なく結論付けた。光の差しこむ角度は深く、部屋の奥に届くとは思いがたいが、他に解釈のしようがない。
「――あるいは、俺の幻覚だな」
呟き、ならば修練が足りていないな、とサジェスは苦笑した。エリザに言葉を紡いでほしい思いが先走るあまり、ありもしない幻覚を見たのでは。地底の民に目を覚ましてほしいなどと考える前に、自分がまず目を覚ますべきだ。もう少し建設的なことに時間を使おう、と反省しながら、サジェスはエリザの部屋を出て扉をロックした。そして、先に行かせたティアの後を追い、休憩室に向かった。
***
サジェスとティアは、原則としてハイバネイト・シティ最下層のコアルーム周辺に滞在していた。
コアルーム近辺はセキュリティが厳重に設定されており、地底の民は入れない。地底の民は昇降装置で上下に行き来するが、サジェスたちのいる階層まで降りてくるには特別な措置が必要だ。勿論彼らはこれを知らないので、コアルームや最下層の存在は、そもそも地底の民には認識すらされていないだろう。
ハイバネイト・シティは、縦方向に五十ほどの階層がある。
サジェスたちがいる最下層を第一層と呼んだ場合、地底の民が生活しているのは平均して第七層から九層のあいだ。この上、第十から二十層は、ハイバネイト・シティの生活基盤を保つための設備が詰め込まれている。発電棟や貯水槽、自動工場などがある区域で、文書資料では中間層と記されている。基本的には無人の区域だが、作業指示があれば、地底の民は中間層に赴くこともあった。中間層のさらに上は居住区域と呼ばれており、手配すれば平穏無事に暮らせるだけの環境があるが、今は誰も住んでいなかった。
「……なにか、いるな」
ハイバネイト・シティを概観した図を見て、サジェスは無声音で呟く。
スケルトンの図に浮かぶ光点は、地底の民の居場所を記したものだ。大量の光点のなかに、ひとつ、地底の民とは明らかに違う軌跡で動き回るものがある。今まで作業場と休憩室を行き来して暮らしていた地底の民は、作業から解放されても規則的かつ直線的に動く。そのなかにひとつ、明らかに複雑な動きを見せる点がある。喩えるなら惑星が恒星の合間を縫って動くように、秩序を乱す存在があったのだ。
正体を確認せねば、とサジェスは考える。
その日はティアを早めに居室まで帰らせ、コアルームでしばらく作業をしてから、サジェスは隠密に最下層を抜け出した。昇降装置に乗り込み、壁に凭れて
地底の民に混ざり動いている、何者か。
しかも、こうして見つかったとは言え、この何者かはサジェスの目を欺いて地下深層まで到達している。勿論ハイバネイト・シティの全域を常に見張っていた訳ではないが、入り組んだ道を抜けてここまで下りてくるのは並大抵のことではない。そう考えるとますます放置するには危険に思えた。サジェスは昇降装置を目当ての階で下り、足音を殺して暗い通路を行く。
交差路に差し掛かる。
ガチャ、と金属の弾ける音。
あちらか――と唇の形で呟き、サジェスは歩を進める。地底の道にも、多くの者が行き交う広い道と、特定の要件がなければ通らない狭い道とがあるが、音を道標にして歩いて行くと、道はすぐに隘路になった。腰ほどの高さしかない扉を潜り、高所に金属板を渡しただけの不安定な足場を進む。
辿りついたのは、縦に長い円筒形の空間だった。
中央に昇降装置があり、これが円筒を上下に貫いている。動く影があったのは、昇降装置に向けて伸びている通路の辺り。サジェスは物陰に身を隠し、影を観察する。灯りは乏しいが、辛うじて風貌を確認することはできた。大柄な男だ。そして今は、昇降装置を使えないか試しているようだ。
やはり不審な人間だ。捕らえて事情を
しかし、気が付かせずに事を運ぶつもりが、向こうは敏速に振り向いた。翻った外套の隙間に、金属の黒がぎらりと光る――銃身だ。男がそこに手を伸ばすより一瞬早く、サジェスは天井に呼びかけた。
「
拘束を、と呼びかけるより早く、二本のロボットアームが男の背後から迫った。
胴体を捉えようとした一本を、男は身をよじって回避したが、すぐさまもう一本が迫る。蛇のようにくねったロボットアームが、男の胴体を腕ごと縛り上げた。先ほど回避された方のアームが、さらに巻き付いて拘束を補強する。当の男はというと、大して驚いた風でも怯えた風でもなく、ただ金属に取り巻かれた己の胴を見下ろして「なるほどね」と呟いた。
それから彼は面を上げて問う。
「あんたはサジェス・ヴォルシスキーだな」
目深に被ったフードが外れ、灰色に近い灯りのなかに男の顔が浮かび上がる。筋肉質な体躯と同様、角張った顔立ちをしており、年が嵩んで見えるが、よく見れば若い。サジェスと大差ない年齢だろう。無表情の中央に二つ並んだ、色素の薄い双眸がサジェスを見ている。上にも下にも弧を描かない口をゆっくりと開いて、男は問う。
「あんたが――マダム・カシェを殺して、総権を奪ったか?」
「殺してはいない」
「奪ったのは否定しないんだな」
「そうだとも」
サジェスは毅然と答えた。
「俺がマダム・カシェを脅して総権を譲らせた。今は一室に閉じ込めてある。貴方は――彼女の派閥の人間か。主人が失われたと知って報復に来たか?」
「いや。俺は地底の主人が誰だろうと構わない」
「……そうか」
虚を突かれつつ、サジェスは佇まいを正した。
入り組んだ地底をここまで下りてこられたのだから、彼が地底の事情に明るいことは間違いない。しかし、ならば当然カシェの関係者だろうと思ったのだが、この男は彼女には特段の感情を抱いていないようだ。
男の真意を測りかねつつ、サジェスは、
「しかし、貴方は地上の人間だろう」
「……まあね」
機械の腕に拘束されたまま、男は器用に肩をすくめた。その肌は、乏しい光の下でも分かるほど、明らかに太陽に灼かれて色濃くなっている。何より、彼が喋っている言語が、彼と地底の民とを明確に切り分けていた。
「地底の奴らに紛れて動くつもりだったが。言葉も違う、肌の色も違うってんじゃ、いずれ咎め立てがあるとは思っていた」
「それに貴方の行動は他とまるきり違った。行動経路における擾乱が大きすぎる」
「ああ、そう。その深度で観察されていたなら、見抜かれても文句は言えないってもんだ」
「――それでだ」
横道に逸れ始めた議題を、サジェスは無理やり中心に戻す。
「ここは貴方の領分ではない。何をしに来た」
「何をしに来た、ねぇ。その言葉は、そっくりそのまま、あんたに返したいが――」
「俺には目的がある。目的がある者でなければ、ここには来ないだろう」
「仰るとおりで」
男は口元を僅かに吊り上げた。――笑ったのだ。あまりにも淡々とした素振りに、背中をひやりとした違和感が撫でる。拘束されて顔色ひとつ変えないところと言い、どことなく浮世離れした風情のある男だった。男は「そちらから出向いてくれたのだから都合が良い」と呟き、侵入者を警戒するサジェスにまっすぐ視線を寄越した。
「俺は、あんたと話をしに来たんだ」
「――何だと。俺と?」
「そうだ、と言いたいが、正確には少し違う。俺はサジェス・ヴォルシスキーには用はない。俺が会いに来たのは、総権保持者であるところの人間だ。そして、頼みに来た――大きすぎる権利を得たならば、正当に利用しろ、と」
「正当に、と言ったか」
サジェスは小さく眉を動かした。
「命じられるまでもない。この上なく正当に利用しているつもりだが?」
答えると、男は小さくため息を吐いた。
正当に利用しろと言われた瞬間、男が地下を尋ねた真意は分かった。その上で、サジェスはわざと鈍感とも聞こえる返事をした。その塩梅は男にも筒抜けだったようで、彼は「そういうつもりか」と、相変わらずの淡々とした調子で応じる。
そして、
「――なら」
男は目を細めた。
責めるでも追従するでもない、あくまでも中庸のトーンで彼は問う。
「その
「問われるまでもない」
サジェスは即座に切り返した。
「今年の冬は例年と比べても非常に寒く、さらに降雪が多い。反面、秋の収穫量は多かったとは言えない。それだけでも厳しい冬越しと相場は決まったのに、さらに電力の供給が激減し、生活基盤のメンテナンスがされなくなり、物資は不足する。不安定な情勢が続けば、統治機構の絶対性だって揺らぐ。――地上は恐慌状態だろうな」
地上で吹き荒れている吹雪の、暴力的なまでの白を、あるいはそこで生きている人たちのことを、サジェスはつかの間だけ想像した。今更、胸が痛むなどとは言わない。苦しむ者を思って躊躇うのが良心なら、良心はとっくに捨てていた。
淡々と並び立てられるサジェスの弁を、男は黙って聞いていた。
サジェスを見つめた瞳の位置は変わらないが、僅かに一ミリほど瞼が下がり、目が細められて険しい顔になる。暗さと距離に阻まれて、男の表情の変化には気がつかないまま、サジェスは弁を継いだ。
「俺のせいで地上が荒れたことなど重々承知の上だ。一方で――俺が想像できる苦難はたかが知れている。現地で冬を忍ぶ者の血豆に滲む雪の痛みなどは、想像することはできるが、感じることは叶わない。飢えに胃を穿たれる思いも、凍死に怯えて眠る感覚も知らない」
「――そこまで分かっていて、尚、あんたにとっての正義を取るか」
男の声がわずかに低くなる。
サジェスはそこで、ようやく男の雰囲気の変化に気が付いた。無表情には変わりないが、目の周囲に力が込められて、ピントを絞るように細くなる。鋭いが、睨むのとは違う眼差しは、たとえば、そう――暗い夜天に星を探すとき、目を凝らすのに似ていた。双眸の奥にあるものを測りかねて、サジェスはただ彼に視線を返す。
ごう、と音を立てて、円筒の空間を下から上に風が吹く。
押し潰すような闇のなか、かすかな照明が球状に切り取った空間。
その両端に位置する二人は、無言で押し合う。その視線は光の形質を持って直線的に伸び、互いを押し出すように突きつけられていた。距離は隔たっているのに、喉に刃物を近づけられるのに似た威圧感がある。一突きすれば崩れ落ちそうな静寂が、薄氷の殻のように空間を包んで凍てつかせる。
そんな緊張が数十秒か、あるいは数分ほど続いた。
「……分かった」
先に目を逸らしたのは男だった。
「やるならさっさと変えてしまってくれ」
「……なに?」
「聞こえなかったのかい。
男は、洗面台の順番待ちでも急かすような何気ないトーンで言った。サジェスが驚きのあまり息を飲んでしまい、咄嗟の返事ができないでいると、男は「当然分かっているだろうが」と前置きして話し始める。
「過渡期が長いのは双方にとって負担だ。地上は……まだ、どうにか頑張っている奴らもいるが――」
男はちらと天井に目を遣る。そしてサジェスに視線を戻し、
「大元の生産者である地底が沈黙している以上、地上の施政というのは、既存の資源を上手く分配して延命をする、それ以上のものになり得ない。遅かれ早かれ底を突く。だから貴方は、余剰がすべて削られきる前に、さっさとラピスを再生させるべきだ。……手が回らないというのなら、俺を使ってくれて良い」
「――貴方を?」
「どうせ人手は足りていないんじゃないのかい」
「俺と、それから少年が一人だが――」
「足りないどころじゃないね。よくもまあ、その状況で、大胆に反旗を翻したもんだ」
どこか哀れむような笑みを向けられる。
遅まきながら男の言いたいことを理解して、サジェスは浅く息を吐いた。信じられない思いだった。この男は、地上に害を為す行いについて容認したどころか、サジェスに味方してやると言っているのだ。そんな真似をする動機が彼にあるとは思えない。だが、男はあからさまに怪しげな態度を取るにも関わらず、彼が嘘を吐いているのでは――という疑念は、不思議に湧いてこなかった。表に見えているものが真実かといえば疑問だが、かと言って悪い裏もなさそうな、奇妙な素直さを感じさせる男だった。
「――本当に頼って良いというのなら、有り難い話ではあるな」
ゆえに、サジェスはそう答えた。
疑念は拭えないが、ひとまず彼を受け入れてみても良いだろう、という結論に達したのだ。男は「そうかい」と頷き、続いて自分の胴体を見下ろす。そこには相変わらず二本のロボットアームが巻き付いている。
「なら、そろそろこれを解いてくれないかい。銃身が歪みそうだ」
「……ああ、分かった。分かったが」
サジェスは
「悪いが、貴方のことをまだ信頼した訳ではない」
空中に留まったロボットアームを一瞥する男に、サジェスは淡々と告げた。
「貴方が俺に味方するなどと考えるより、味方のふりをして総権を奪取する機会を窺っていると考えた方が自然だからな。当分はコアルームには近づかせない。それと、
「正しい判断だ」
「その上で歓迎しよう。地底にようこそ。――貴方の名は?」
「カノン・スーチェンだ」
「……
ふ、とサジェスは笑った。
「良い名前だ。初めまして、カノン。改めて、サジェスだ」
「ああ、そりゃあどうも、ご丁寧に――」
男は頷こうとして、ふと停止した。ひとつ瞬きをしてから、彼は微かに唸る。
「……ああ、そうだったねぇ。覚えていないのか」
「もしや――初めまして、ではなかったか」
最初から名前を呼ばれた点からして、彼――カノンはサジェスのことを事前に知っていたのかもしれない。
「二年ぶんほど記憶が曖昧になっていてな。貴方が俺と旧知だったのなら、申し訳ないが」
「いや……」
カノンは首を捻って、重ための瞼をさらに伏せる。
「覚えていないなら、その方が良い。どうせろくな縁じゃない」
「……そうか」
何かを隠されるのは好まない。いずれ問い質すことになりそうだ、とは思いつつも、サジェスはひとまず彼の秘匿を受け入れた。
カノンも、以前のサジェスと同様に統一機関の所属であったという。中でも彼は成績優秀だったようで、地下に出入りして秘密裏に業務をこなすことがあったようだ。
「隠密の仕事、とは?」
「マダム・カシェの指揮で動く、と言えば、想像が付くかい」
「……ああ、なるほど」
つまり、地下の労働を地上の益に繋げる役回りということだ。――優秀さを見込んで頼まれたのが、人目を憚って正道を裏切るような仕事だとは、何とも皮肉な話だが。
ともあれ、ハイバネイト・シティの事情に明るいカノンが仲間に加わったことは、サジェスにとって幸運だった。コアルームから見れば地底の全域を見渡すことができるが、実際に歩き回ってみなければ分からないこともある。行き交うのに危険を伴う暗い通路とか、汚水が悪臭を放っているとかの情報はコアルームでは掴みきれないが、現場で生活している地底の民からすれば他人事ではない。カノンの実体験に基づく知識は、サジェスが地底の事情をより深く把握するのに役立った。
また、公的な資料に残っていない情報も、カノンが教えてくれた。具体的には、生命凍結処置をされて眠っている彼女――エリザについてである。
「大まかに言えば、まあ、普通の女性だね」
「そんなことはないだろう」
カノンの言に、サジェスは驚いて問い返した。
「過去の世界から来た。子どもを産んだ。生命凍結を受けて眠っている。これを普通と呼んだなら、普通の人間以外いなくなるだろう」
「それは全部マダム・エリザの外側に付随する情報だ。彼女自身は、おそらく、まったく普通の人間だった。いや――まあ俺も、直接話したことはないけどね。ただ、彼女の伴侶だった男を見るに、さほど常識離れした存在ではないだろう、と思っているだけだ」
「ああ、そういう意味か……」
納得してサジェスが腕を組むと、だが、とカノンは声をひそめる。聞いている者などいるはずがないのに、まるで不可視の何かを警戒するようだった。
「以前……おかしなメモ書きを見たことがある。曰く、未来が見えていた――とか」
「今、何と言った。未来が見えていた?」
「そうだ。彼女が祈ると瞳が白く光り、未来を見通すことができた、とか」
「……光る?」
以前に、エリザの居室で光を見たような気がしたのを思い出し、サジェスは思わずカノンの言葉を繰り返した。カノンは「反応するのがそこなのかい」と呆れたように呟いたが、彼はこれには答えず、通路の闇に己の思索を重ねた。
――神秘的存在。
人知を超えたものに、人間はしばしば心を惹かれる。ラピス七都のひとつ、ハイデラバードが水晶信仰を核にしているのも、これと近い現象だろう。エリザが超自然的能力を持っていたことの真偽は別にして、過去から来て未来を見通すエリザを神秘の象徴とし、これを頂点とすれば、あるいは――地底の民を束ねることが可能なのではないか。
「――どうした」
数歩ぶん前に出たカノンが振り返る。サジェスは彼に「何でもない」と返しながら、今しがた自分の脳裏をかすめたアイデアについて、精査を始めていた。
サジェス・ヴォルシスキーという男は、客観的に述べて、きわめて冷静沈着かつ判断力に長けていた。一方で己の才覚に驕らず、地道な努力に打ち込める謙虚さを備えており、地底の民を導くに足る器を最初から持っていたとも言える。
しかし、サジェスはこの頃、ひとつ勘違いをしていた。
その勘違いは皮肉にも彼の謙虚さから芽吹き、暗い地底で、今、不吉な子葉を広げようとしていた。
***
その日――地下に「日」はないが――も、作業の指示はなかった。
作業場と休憩室を行き来して暮らしていた地底の民は、行き場を失い、狭い通路に溢れた。こうして見ると自分たちはずいぶん数が多いのだ、とリジェラは驚きつつ、座り込んだ人を跨ぎながら歩いた。ひどく歩きづらかった。座っているならまだしも、通路に寝転がっている者までいる。点々と散在した足場を跳ぶように進んでいき、一枚の扉に辿りついた。
扉には「緊急休憩室」と書かれている。
これは普通の休憩室と違い、体調を崩した者が休養を取るための部屋だ。休憩室よりは多少広い寝台が用意されている。代わりに携行食や飲み物の提供がないため、緊急休憩室で休む者は自分で飲食物を持ち込むか、仲間に頼んで運んでもらう必要があった。
「――グライン?」
扉越しに声を掛けてから、リジェラは返事を待たずに扉を開ける。これは彼女が「ノックをする」という文化を知らないためだが、寝台に半裸で蹲っていたグラインもまた「不用意に肌を見られることは恥である」という感覚を持たないため、二人は互いの行動に一切の違和感、あるいは不快感を抱かなかった。休憩室から持ってきた携行食と水筒を差し出すと、グラインは「悪い」と言いながら受け取る。
「体調はどう?」
閉じた扉に凭れつつ、リジェラは問いかけた。
以前からグラインは眩暈を訴えていたのだが、あれが前兆だったのか、いま彼は高熱を出して寝込んでいた。立ち上がるだけでふらついてしまい、休憩室に足を運べないため、代わりにリジェラが食事を運んでやっている。
だが、前に来たときと比べると、顔色が良くなったように思えた。
「すこし落ち着いてきたんじゃない?」
尋ねると、グラインも頷いた。
「だいぶマシになった。実は……アンタが来るちょっと前に、薬をもらってさ」
「あ、そうだったの。ヴィルダから?」
共通の知人の名を出して尋ねる。ヴィルダは細かいことに気が回るので、薬を持ってきたとしたら彼女かと思ったのだが、グラインは「いや」とかぶりを振る。そして彼は、寝転がったまま腕を持ち上げ、壁の片隅を指さした。
「なんかな、そこが開いたんだよ。こう、横にズレて」
「へえ……?」
壁と天井の継ぎ目にリジェラは目を凝らす。薄暗いので見えにくいが、長方形にへこんでいる部分があり、周囲との境目に切れ込みが入っている。たしかにグラインの言うとおり、自動扉を縮小したデザインに見えた。
「開いて、それで、どうしたの?」
「開いた向こうからな、何て言ったら良いんだろ……蛇腹の金属管みたいなのが出てきて。そいつの先端にな、針金を組み合わせたみたいな機構があって、そこに薬が――おい、変な顔すんなよ。ホントにあったんだって」
「……えぇと、まだ熱が下がってないんじゃない?」
「幻覚じゃねぇから」
グラインは腹立たしげに言い、寝台の上で起き上がってあぐらをかく。以前は起き上がることすら苦しげだったので、たしかに体調は良くなっているようだ。それでも、謎めいた機械が薬を持ってきたという話は信じがたく、リジェラは片方の眉をひそめた。
「機械が薬を持ってきたっていうのも変だけど、わざわざ向こうから薬を持ってきてくれるのも、何だか変。今まで、そんなこと無かったじゃない?」
「ああ……」
虚ろ気味な返事を返して、グラインは水筒の中身を呷る。喉仏を大きく動かして飲み込んでから、彼は濡れた唇を指先で横に引っ張った。そしてにやりと笑う。
「俺はな、あの人だと思ってる」
「あの人って、誰?」
「――はぁ!?」
代名詞の指定する先が分からず、純粋にリジェラが問うと、グラインは突然血相を変えて叫んだ。白い頬にさっと血の気が差す。体調不良で火照っているのとはまた違う、内側から押されているような熱気。ありありと醸される非難の空気にリジェラがたじろぐと、グラインは目を見開いて彼女を睨めつけた。
「お前っ――まさか覚えてないのかよ!」
「ち、違っ……聞いただけじゃない。誰のこと言ってるの、って」
「決まってんだろ。俺たちに、働く意味を考えてみろって言った、あの人だよ」
言い切ったグラインの口調には熱があった。
「あの人は俺たちのことを心配してくれてるんだ。考えろってのは、きっとそういう意味なんだ。危ない思い、苦しい思いをしてまでやることじゃないって、楽になれって、そう言いたいんだよ……!」
喋っているうちにグラインの弁はさらに勢いづき、彼は寝台の上で膝立ちになった。その勢いに圧倒されながらも、リジェラが「そうかもね」と同意すると、グラインは紅潮して赤くなった顔で頷く。
はあ、と息を吐いて、彼は寝台にどかりと座り直し、腕を組んだ。
「……あの人だよ」
言って、グラインは満足げに笑う。
「あの人以外、いるわけない。あの人が俺に薬をくれたんだ」
「……なのかな。だとしたら、優しい人ね」
正直なところ半信半疑だったが、またグラインを怒らせるのが怖くて、リジェラは控えめに同意してみせた。
グラインが怒るところを、彼女はこれまでに見たことがなかった。
正確に言えば、これまで地底の民には喜怒哀楽が備わっていなかった、というのが正しいだろうか。リジェラ自身は意識していないが、彼女はこのところよく笑うようになった。また、グラインが体調を崩したことや、プルーネが空腹で涙目になることを悲しむようになった。ヴィルダが苛立たしげに腕を組んでいたら宥めるようになった。もう一度あの金色の目を見てみたいな、と未来を望むようになった。
そう――彼女は、変わりつつあった。
そして、リジェラが知らず知らずのうちに感情を学んだのと同様、いつしか、グラインの中にも、リジェラの知り得ないものが生まれていた。リジェラの知らない攻撃性を垣間見せた彼は、難しそうにしかめた顔で呟いた。
「誰のせいなんだろうな。俺がこうやって、辛い思いをしながら作業をしないといけなかったのって」
「……誰か、のせいなのかな」
リジェラが口を挟むと「何言ってんだ?」とグラインは顔を歪めた。
「お前だって聞いてただろ。俺たちが、たとえば貯水槽を整備するのは、その水を使って生活してる誰かがいるからなんだって話。じゃあソイツらは何なんだよ? 貯水槽の整備って、めちゃくちゃ危ねぇだろ。俺たちにそれをやらせて、呑気に水を使ってる奴らが、どっかにいるんだよ」
「どこかって……どこに?」
「それが分かんねぇから困ってんだよなぁ。あの人なら、教えてくれないかな……」
「グライン――」
掛ける言葉を見つけられず、リジェラは胸もとで手を握った。
グラインが言っている「あの人」とは、あの強い目をした青年のことだ。いま改めて思い出しても、何てまっすぐな眼差しをしていたのだろう、と思う。だけど、あの瞳に灯っていた光輝と、グラインの目に宿るぎらついた光は、似ているようで全く別物の気がした。
「……ねぇ、グライン」
「なに?」
「水を使ってる人が、どこにいるか分かったら、貴方は……どうするの?」
「……はは、そりゃあ――」
グラインは嗤った。
そして両手を緩やかに持ち上げた。フック状に曲げられた五指が、空気中にある何ものかを掴んで、爪を突き立てるように力を込める。指の関節が白く浮き上がったのを見た瞬間、リジェラは耐え難い恐怖に襲われ、反射的に目を逸らして叫んだ。
「……や、っ――やっぱり、良い!」
もう彼を見ていたくない。
心臓が上にせり上がってきたように苦しかった。リジェラは真っ青な顔に脂汗を滲ませ、早くなった呼吸を必死に抑える。後ずさってドアノブを後ろ手に掴み、唇を笑顔の形に引き攣らせて、リジェラはグラインに顔を向けた。
――顔こそ向けているが、目は彼を見ていなかった。
「私っ……帰るわね」
「……え? おい――」
「ま、また、持ってくるから! じゃあね!」
投げ捨てるように叫んで、リジェラは部屋を飛び出した。
ばたん、と音を立てて扉を閉め、非常灯がうっすら照らす通路を駆け戻る。用事もないのに走っているリジェラを、何人かが煩わしそうに見た。ここに来たときと同様、通路には地底の仲間たちが溢れていたが、その人混みも何か恐ろしいものに感じられた。必死に雑踏をかき分け、無人の休憩室に飛び込んで、ようやくリジェラは壁ぎわに座り込んだ。
はあぁ、と震える息を吐く。
どこかに、地底の民の働きを踏み台にして生活する人々がいるという話は、リジェラも何度か聞かされていた。なら、その人たちが我慢してくれれば、自分たちが働く量はゼロとは言わずとも減らせるのでは、などと考えた記憶はリジェラにもある。
だけど。
指をかぎ爪の形に曲げたグラインの表情を思い出して、彼女は胸もとを抑える。
――俺たちに危険なことをやらせて、呑気に生きてる人たちがいるんだ。
「そう……かも、しれないけど……」
あんな険しい顔をして言うなんて、まるで――その人たちが死んで消えれば自由になれるんだ、と言っているようなものではないだろうか。グラインと名付けられるより前から知っていたはずの彼が、はるか遠くに行ってしまったように思えて、リジェラは自分の膝を抱き込む。また訪ねる、などと便宜を言ったが、本当はもう二度と彼の顔を見る勇気が無かった。
***
集団の意志というものは、一から百に等速では遷移しない。十のマイナス何十乗というところから少しずつ一に近づき、あるラインを超えた瞬間に爆発めいて膨れ上がり、百どころか億にも兆にもなるのだ。
サジェスが語りかけた人々は、極めてゆっくりと