chapitre70. 言葉の向こうに
文字数 7,839文字
昇降装置を使って指定された階層に行き、その一角に設けられた休憩室で“
面倒なシステムだが、ソレイユにとっては都合の良いことこの上なかった。見慣れない顔だと気付かれる可能性が低いだけでなく、昨日コアルームで唯一許可を勝ち得た作戦を実行に移すのが容易になる。
ソレイユは通路の片隅に寄り、通り過ぎる“
「今日は何日?」
『はい。本日は稼働より149266日です』
「違う、地上の暦で」
『はい。
ありがとう、と呟いて合成携行食をかじる。
明確な区切りがあった方が士気を高めやすいのか、サジェスは12月24日の聖夜を当座の目標と定め、その日に出生管理施設を手に入れようと同胞に呼びかけているようだ。裏を返せば、どうにかサジェスが犠牲にならない方法を模索するなら、聖夜までは時間の猶予があるということになる。
とはいえ、手をこまねいているほど余裕はないのだが、今のソレイユでは思い付いた計画を実行に移すのは困難だった。その日は諦めて“
用意ができると、ひとつ息を吐いてから天井に話しかけた。
「
『はい。セクション8-12から開始します。ここでは時制について――』
こうして、空き時間は全て異言語の勉強に費やした。
ELIZAの膨大なライブラリのなかに、異言語を学習するためのコンテンツがあったので助けられた。音声で読み上げられる例文を口頭で繰り返し、知らない単語は発音を確認しながらノートに書き付ける。
“
勉強を始めてから10日ほど経ち、かなり自信を持って話せるようになったので、カノンの居室を訪れて練習の成果を見てもらった。
何往復か異言語で会話のやりとりをすると、カノンは「短期間でずいぶん上達したじゃないの」と褒め言葉を口にしてから、ノートの1ページでは書き留めきれないほどの指摘点をつらつらと挙げはじめた。ようやく書き終えたソレイユがげっそりとした顔を上げると、「まあ、でも」と笑った。
「そんだけ話せれば及第点だろ。“
「――良かった。ありがとう」
「で、実行に移すのか? 本当に」
ソレイユが口の端を持ち上げてみせると、カノンは足を組んで真面目な顔になった。ノートを畳んで立ち上がり、「うん」と頷いてみせる。
MDPから“
理解はしたが、納得はしていない。
ゆえに、公式には声明を出せないサジェスに変わって、ソレイユは“
心なしか不安そうな表情でこちらを伺うカノンに、「勝算はあると思うよ」とソレイユは笑ってみせた。
「休憩室で出会う面々は毎日入れ替わるから、多少不自然に思われても問題ない。それに、上手く行けば話した人がまた別の人に話してくれる。そうなれば情報の広まる速度はさらに上がる」
「……はは」
カノンが喉の奥を鳴らして笑った。
「地上ラピス市民に
「ぼくは自分が特殊だとは思ってないよ。正しいと思うから、たった一人だってやる」
「そう――やっぱり変わりないな、あんたは。死んだふりをしてラ・ロシェルから出たときからずっと同じだ。正しいと思うことに真っ直ぐだ」
「カノン君だってそうでしょ?」
振り返って問いかけるが、カノンは返事をしなかったので、「すぐ黙るんだから」とソレイユは唇を尖らせて通路に出た。別の階層にある居室に戻り、すっかり完治した左肩をぐるりと回して伸びをする。もう少し勉強をしてから寝て、明日から本番だ、と気を引き締めた。
*
暦の上で月が変わった。
その日からソレイユは、休憩室や通路や昇降装置で、偶然に出会った“
「――で、よーく読んだら謝罪文だったんだって!」
「いや、嘘だろ」
昇降装置の壁にもたれて笑いながら言う、イルドと名乗った青年に「いや分からないよ?」と少し顔を近づけて笑ってみせる。
「ようやくさ、地上の人間にも分かったのかも。自分たちのやってきた悪行が」
「だったら俺たちの言ってるとおり地下に来るべきだろ? そのMDPとかいう奴らが言葉だけで解決しようとしてるのが本当なら、地下には来たくないが攻撃もされたくない、って随分と都合の良い話じゃないか」
「おぉ、確かにね」
早口だったので全ては聞き取れなかったが、言葉の調子から反論していることは分かったので、彼の言葉にわざと同意してみせる。そうだろ、と言ってイルドが苦笑するが、ソレイユは「あ、でもさ」と言って、あたかも今思い付いたかのように顔を上げて見せた。
「謝るくらいはできるんだ、ってちょっと
「……まぁね。それが本当ならな」
イルドは僅かに顔をしかめた。飄々として掴みどころのなかった彼の表情に、少しだけ痛みのような色が混じる。単なる攻撃すべき対象にしか見えていなかった地上の人間が、ものを考えて何かを感じることのできる、自分たちと同じ「人間」なのだと、心の片隅で少しでも思ってくれればいい。一見無機質に見える言葉の群れの向こうに、彼らの体温を感じ取ってくれれば、第一段階としてはそれで十分だ。
電子音と共に昇降装置が止まり、扉が開いたのでソレイユは外に飛び出して、中に残ったイルドを振り返る。笑顔を浮かべて、顔の横で広げた手を振ってみせた。
「またね、イルド」
「あ、おい、お前。名前は――」
扉がスライドして閉まり、一瞬つながった二人の視線を切り分けた。イルドの顔と名前と声を頭の中で反復しながら、ソレイユは割り当てられたブレイン・ルームに向かう。その途中で、通路にもたれて水を飲んでいる同年代と思わしき女性を見つけたので声をかけた。焦燥した表情と声音を作り、偶然を装って目を合わせる。
「ね、ねぇ――変な噂聞いたんだけどさ、知ってる?」
*
数日後の夜。
サジェスにELIZAを通じて呼び出されたのでコアルームに行くと、まだカノンしか来ていなかった。床に座っていた彼は部屋に入ったソレイユの姿を捉えて立ち上がり、小さく笑った。
「なかなか上手いことやってるじゃないの。俺も今朝、噂を耳にした」
「思ったより上手く行った」
ソレイユが少しばかり
総代サジェスの口から公式に語ることはできなかった、MDPから届いた謝罪のメッセージを、ソレイユが
ソレイユの話を受け入れる者もいれば、嘘だろうと切り捨てる者や不機嫌な顔になる者もいたが、とにかく数が大切だと割り切って、できるだけ多くの人に話しかけた。おそらく、話をしたうちの何人かが、また別の場所で二次的に噂を広めてくれている。ハイバネイト・シティ下層では人の入れ替わりが激しいことが幸いして、想像以上の速度で情報が広まっているようだ。配電系統を模式図で可視化するように、情報の広がりも図にできたら分かりやすいのにと感じるが、情報が巡り巡ってカノンの元まで届いたのだから、かなり範囲が広がっていると見て間違いないだろう。
「ただね――情報が広がるだけじゃ意味がないんだ。それで地上への攻撃を思い留まってもらわないと」
「それは評価が難しいところだね」
カノンが言って、パネルの前に移動して何か操作する。ずらりと並んだ文字列が、読む暇もないほどの速度で上から下に流れていく。ブレイン・ルーム全体で可決あるいは否決された提案を、最近のものから順に表示しているようだ。
「まあ長い目で見れば、シェル君が噂を広め始めた頃を転機に可決率が下がってるかもしれないが――今はまだ何とも言えない。集団の意思なんて、本来は、簡単に数字で表せるようなもんじゃないしね」
「そうだね……」
ソレイユはパネルに近づき、表示されたなかの一項目を選択して詳細を表示させた。バレンシア・ハイデラバード街境への攻撃提案がひとつ可決されている。眉をひそめながら全文に目を通していると、カノンが近づいてきて「気になるのかい」と言った。
「あんたの故郷だから?」
「……それだけじゃないよ。カノン君が手引きしたんだから分かってるでしょ」
自分がラ・ロシェルを脱出したのと同じタイミングで、バレンシアに転住したはずの友人を指してソレイユが言うと、カノンは一拍おいてから「ああ」と言った。まるで、たった今思い出したかのようにとぼけた声音だった。
「無事かな」
「どうだろうねぇ」
「いっそ、ハイバネイト・シティに来てくれてたほうが安心するんだけどな」
ひとたび気になると、心配が胸の中で際限なく膨らんでいく。すでに“
分かっていて、それでも考えないようにしていたことだった。
「――シェル君ならどう思う。あの子は地下に逃げてくるような性格かい?」
「分からない。色々と悩むわりに時々思い切りが良いけど……
「へえ。長い付き合いでも分からないものか」
「そりゃそうでしょ」
あくまで他人なんだから、とソレイユが肩をすくめると、カノンは少し意外そうな表情を浮かべて「そう」と呟いた。何か含むところのあるような態度に、
「全員揃っているな」
サジェスが呟いた後ろで、ティアが扉の横にあるパネルで何か操作した。カチリと硬質な音がして、部屋に内鍵が掛けられたようだ。
現在コアルームに来ているのは、もとは地上の人間である4人だけだ。以前ここで会議をしたときのように、他にも“
「えっ。他の人は?」
「今日は君たちしか呼んでいない」
「どうして?」
「今から話す。シェル、貴方が
「そりゃ覚えてるけど」
部屋の隅に立つティアにちらりと視線をやって、ソレイユは頷く。異世界からティアがやってきたのも、元はと言えば
ソレイユが顔に疑問符を浮かべると、今度はティアが語りかけてきた。
「シェルさん。僕が昔、塔の上で話したことを覚えていますか? 水晶に神懸かり的なものを見出す集団がいた、という話です」
「うん。
「そうです。そして、真祖エリザの伝承にも、名前は違いますが同じような概念が登場するんです」
「エリザにまつわる伝承って――サジェス君の作り話じゃないの?」
「それは違う。元々あった話を、俺が膨らませたんだ。四世紀の昔、少女だった真祖が人知を超えた何者かの力を得たのはどうやら本当らしい。そして、彼女はとある能力を得た。何だと思う?」
「いや、分からない」
「未来視だ」
はっきりとした口調でサジェスは断言した。
「ティアのいた世界ではビヨンドと、ハイバネイト・シティの伝承ではD・フライヤと呼ばれている
「白銀……?」
頭の奥がちりちりと痛んだ。遠い記憶になった10年前の冬、図書館で微笑んでいるエリザの顔を思い出そうとするが、瞳の色だけはどうしても思い出せなかった。記憶の一部だけ鍵をかけられたような感覚に戸惑いつつも、ソレイユは一旦考えるのを止めて「分かった。それで?」と話を前に進めた。
「エリザが超自然的能力を持っていたことはとりあえず受け入れるよ。色々説明して欲しい点はあるけど」
「ありがたい。今の俺の話で重要なのは、未来視の能力と白銀色の瞳が関係づけられる点だ。それで本題に入るが――マダム・カシェの左の瞳の色が変わっていたんだ。昔は青い目をしていたはずなのに、先日、白銀色に変わっているのに気がついた」
「……どういうこと?」
話題と話題を頭の中で結びつけるのに苦労しながら、ソレイユが問うと、「つまりだ」とサジェスは低い声で言った。
「彼女にも真祖エリザと同様、未来視の能力が宿ったのではないか、と思う。今のマダム・カシェは精神的にかなり退行しているんだが――彼女が語ったことには、夢の中にエリザの形を取った何者かが現れ、ラピスが水の底に沈むと預言したらしい」
「なるほどね――覚えのない話でもないね」
しばらく黙っていたカノンが呟く。
「葬送のときに
「その通りだ。あれが決して遠い未来ではないことを、D・フライヤあるいはビヨンドは俺たちに警告しようとしている。ラピスが恒久的に水面下に沈むということは、海面水位そのものが上がるということだ。真祖エリザの生まれた旧時代と比較して現在は非常に温暖なようだから、どこかの氷床が溶けているのかもしれない。地下水の水圧が異常に高いのもその関連と考えられる」
「どのくらい確かな話なんだい」
「ELIZAの観測システムを参照して、俺が立てた仮説が正しい可能性を検証した。おそらく9割以上の確率で、来春にもラピスは水底に沈む」
「――じゃあ! こんな風に
いてもたってもいられずにソレイユが声を上げると「そうだ」と険しい顔でサジェスが頷く。彼がパネルの前に移動して何か操作すると、見覚えのある文字列が浮かび上がった。半月ほど前にMDPから送られてきた、謝意を伝えるメッセージだ。
更に、サジェスが何かのコマンドを呼び出すと、メッセージのうち崩れていて読めなかった部分が置き換わった。まだ文章として成立していないが、水、沈む、などのいくつかの単語が読み取れた。
「――これは?」
「暗号解読の方法を変えた結果、こんな文字列が浮かび上がった。おそらく、地上の人間の中にも気付いている者がいる」
「……なるほどね」
ソレイユが混乱するなか、カノンはひとり得心した顔になって頷いた。「彼女だ」という言葉を乗せてその口元が動いた。彼女って誰、とソレイユが問う前にカノンは別の疑問を発した。
「しかし、重要な情報のわりに復元が困難だったな。何故かな」
「多分ですが、MDPのなかにも情報を知っている人と知らない人がいるんでしょう」
ティアが言う。
「ビヨンドあるいはD・フライヤの存在は地上ではほとんど知られていません。未来視ができるなどと言ったところで、誰にも信用されずに終わります。だからこそ、こうして隠すようにメッセージを送るしかなかったのでしょう」
「そうだ。そして俺たちはおそらく、地上の人間以上に、彼らの発したメッセージの意味が分かっている。これはとても幸いなことだ。だから俺たちは――地上に、返事をしなければいけない。協力を仰がねばならない」
「なるほどね。だから地上の言葉を理解できるぼくたちだけを呼んだんだ」
ようやく理解できたソレイユが言うと、「そうだ」と頷いてサジェスが振り返った。パネルの青白い光を背後にして、鋭く引き締まった頬の輪郭が浮かび上がる。
「地上にメッセージを送る方法はあるの?」
「方法自体はずっと前からあります。そうでなければ地上に、僕たちの攻撃先を伝えることができません」
「あ、そりゃあそうか」
「配電系統の一部を利用して、協力者の
カノンが説明しながら、片手間で何かを打ち込む。数字と文字と記号を組み合わせた、複雑な文字列を読み込ませると、別の画面が立ち上がった。点滅する矢印の先に、文章を紡いでいく。
『マダム・ロンガ・バレンシア、及びMDPへ告ぐ』
その文章から始めて、4人はパネルの前で顔をつきあわせ、MDPに送るべき文章の内容を考えていった。