chapitre86. 空

文字数 3,669文字

 何があったんだ?

 懐かしい存在を隣に感じながらも、その暖かさにうっかり気を緩めないよう、ロンガは注意深く周囲に目を配った。
 通路に転がっていた死体に、床に広がっている血痕、何より感情を出し切って空になったような友人の顔。その顔立ちはほとんど2年前と変わっていないのに、表情はまったく異質な、見たことのないものだった。大きく見開いた目は充血して、嗚咽すらせず、ひたすらに涙をこぼし続けている。

 血だまりに落ちて汚れてしまった、太陽のイヤリングを指先で拭う。ロンガのイヤリングと対になっている、彼がいつも着けていたはずのものだ。誰のものかも分からない血で手が汚れたが、そんな些細なことを構う気にはなれなかった。自分の膝を抱えて小さく震えている友人の肩に腕を回す。

「ソル。安全な場所まで移動しよう……立てるか?」

 その身体を抱えるように持ち上げると、彼はふらついてはいるものの、どうにか立ち上がった。レギンスの破れた片足には、細く抉れたような傷があって血が流れている。しかし、服が血塗れになっているにも関わらず、足の怪我以外はどうやら無傷のようだった。

 ロンガは彼の体重を支えたまま、銃を構えて通路に半身を出し、周囲を窺う。濃い血のにおいが混ざった空気は、重く静まり返っている。

 全てが終わった後といった雰囲気だった。

 ひどく頼りない友人の身体を支えながら、ひとまず身を隠せる場所を求めて通路を歩くと、開いている扉の向こうに寝台が見えた。人間ひとりが生活できる居室と言った雰囲気で、菓子の包み紙のようなものが転がっているが、床には薄く埃が積もっている。本来の住人はどこに行ったのか、それを考えると恐ろしかったが、それでも今は安全な場所が必要だった。
 ロンガはもつれる足でどうにか部屋に入る。扉を内側から施錠して、寝台に友人を座らせると、彼はそのまま横に倒れ込んだ。呆然と壁を眺めている、その視界に無理やり割り込んで、ロンガは彼の顔をじっと見つめた。

 長い睫毛に縁取られた、赤みのかった瞳。いつも何か素敵なものを見つけては、明るく煌めいていたはずの目は、冗談だと思いたいほど真っ暗だ。真っ赤に腫れた目元が痛々しいが、そんな身体的な痛みよりずっと、心の中に抱えているものが大きいように思われた。

 寝台の隣に腰を下ろし、空虚な視線を受け止めようと試みる。

「ソル――」
「ごめんね、ルナ」

 口元が動く。彼はだらりと垂れていた右手を緩慢に動かして、ロンガの手に重ねた。

「今は、少し……休ませて」
「ああ、ごめん。もちろん」

 ロンガが微笑み返すと、彼は小さく頷いて目を閉じた。あのね、と囁くような声が言う。

「ぼく――色んなことを、ぜんぶ、受け止めないといけないって思って、ずっと、そうしてたんだ」
「……うん」

 抽象的な言い回しに内心で首を捻りつつ、ロンガが頷くと、彼は「でもね」と上ずった声で呟いた。固く閉じたまぶたの間から、じわりと涙がにじむ。

「ちょっと、無理かもしれない。今は、このまま、二度と目が醒めなかったら良いのにって、思ってる」
「えっ――」
「でも、ルナがいるから……また、起きるよ。大丈夫、そこにいてね」

 掠れた声で言ったきり、失神したように唇から力が抜ける。眠ってしまった彼が手のひらを掴んで離そうとしないので、そこから動くこともできない。

 手持ち無沙汰になり、ロンガは彼の顔をじっと眺めてみた。
 少し痩せた気はするが、紛れもなく彼だ。

 物心ついてからずっと隣にいた彼は、かつて自分の一部のような存在だった。この2年前別れていたほうが異質だったのに、なぜだろう、今はもう一歩引いた場所で彼を見ているような気がした。失った自分の半身ではなくて、ひとりの友人として彼と再会したように思えたのだ。

 その理由も何となく分かっていた。

「ソル……」

 聞こえていないと分かりつつも、その寝顔に語りかける。

「あのな、私、友達ができたんだ。アルシュやカノンだけじゃなくて、色んな人と知り合って、話をした。リヤン、宿舎のみんな、フルル、リジェラ、コラル・ルミエールの人たち――」

 出会った人たちの顔をひとつひとつ思い浮かべながら、ロンガは目を細めた。

 大切にしたいと思うものを、この2年間で数え切れないほど見つけられたのだ。ロンガにとって、かつて唯一の相方にして理解者だった彼は、今もひときわ特別な相手には違いないが、いくつもある大切なもののひとつになった。

「――でも」

 それでもロンガにとって、世界の始まりは彼だった。彼が最初に手を引いて、あの狭い塔から連れ出してくれたからこそ、その外側にあったものに出会えた。今までだって、彼がどこかで生きていると信じていたから、彼の記憶が胸の中にあったから、ロンガは気力を振り絞って2年間生きてきたのだ。
 彼がいなくなったら、今まで積み上げた出会いや時間まで、根幹から揺らいでしまう気がした。力の抜けた手を握りしめて、眠っている顔に祈りを捧ぐ。

「帰ってきて……ソル。まだ、君がいなくなる心の準備はできてない」

 お願いだ、と呟いてロンガは寝台に顔を伏せた。友人の手を両手で包むように握りしめて、その体温を感じながら、溶ける暗闇のなかに身を横たえる。

 鼓動が時を刻んでいた。

 耳に響く音は自分の心臓か、それとも彼の心臓か。まぶたの裏側で脈打って、前へ前へと進む生命を運んでいく。息を吸う。そして吐く。手のひらには暖かい体温が宿っている。

 彼が生きている。
 何も分からないけど、それだけが確かだった。

 *

 山並みの遥か彼方まで広がる、青空の下に立っていた。

 シェルは周囲を見回した。

 塗りつぶしたように青い空には雲ひとつなく、天頂には白い太陽が輝いている。眩しさに目を細めながらも空を眺めていると、遠くから灰色に濁った雲がやってきた。それは青空の一部を覆い隠して雨を降らせたが、太陽がまだ見えているので空の明るさは変わりない。いくらもしないうちに雨雲は去って、空は一面の青に戻った。

 それから、また違う雲がやってきた。同じように空の一角で雨を降らせるが、太陽を覆い隠すには至らない。厚い雲もすぐに薄れて、消えていく。

 何度も何度も、同じ景色が現れた。
 雲がやってきては、ほんの少し空の一角を埋めて、雨を降らしてから消えていく。

 同じことの繰り返しに少し飽きながらも、シェルがぼんやり空を眺めていると、ふと、様子が変わったことに気がついた。今までよりずっと分厚くて暗い雲が、いくつもいくつも、四方から押し寄せる。

 あんなに広かった空は、どんどん雲に覆われて、ついに太陽すら覆い隠した。世界を照らしていた真っ白い光は消えてしまって、シェルは慌てて周りを見渡した。

 ぼんやりと霞んだ灰色。
 何も見えない。

 ただ、右手の向こう側に誰かの体温がある。

「ルナ?」

 その単語の意味が思い出せない。でも、心のどこかが覚えていた暖かい響きを、導かれるまま口に出す。どくん、と心臓が鳴った。身体中にエネルギーを送り出す、その動きを、身体の真ん中辺りに感じる。

 まだ生きている。

 でも、空が見えない。どうしてこんなに世界は暗いんだろう。ああ、雲が空を覆ってしまったからだ。じゃあ、永遠に続くような灰色の霧から、どうすれば抜け出せる?

「消してしまおう」

 そう呟くと、とたんに風が強く吹いて、シェルはよろめいた。山並みの彼方に雲は流れて、消えていった。もやもやと空を覆っていた、あの重苦しい雲が消えれば、青空と光を取り戻せるはず。

 そのはずだったのに、雲が消えた空には、あの暖かくて明るい太陽もなかった。永遠の暗闇がそこには満ちていて、まっさかさまに落ちてくる。身体は漆黒に飲み込まれて、どこでもない場所へ飛んでいく。

 どうして。

 ただ雲を払いたかっただけなのに、世界は夜に閉じ込められて、大切なものまで失ってしまった。ここでは何も見えないから、身体があってもなくても関係ない。声が響かないから、生きていても死んでいても変わらない。

 それでも、誰かが手を握っている。
 まだ、そこで待っている。

 その温度だけを頼りに、シェルは足を引きずるように歩き、光を失った悪夢の中から抜け出した。

 薄暗い、ハイバネイト・シティ最下層の一室。
 横たえた身体は死体のように冷たくて、右の手のひらだけが暖かい。色あせた視界をゆっくりと動かして、自分の手を握っている人の存在に気がついた。耳を覆うように伸びた二房だけが長い、少し跳ねた髪が、寝台に付くか付かないかのところで静かに揺れている。眠っているらしい、彼女の頭を抱き寄せて、また目を閉じる。

 今度はもう少し、素敵な夢を見られるようにと祈りながら、シェルは眠りに落ちていった。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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