chapitre165. 夕空に飛び立つ
文字数 9,450文字
外套の前を締め直そうとして、そこで思い出してリヤンは
「あたし、ちょっとだけ戻らないと……通路が浸水してたの、コアルームまで連絡してくるよ」
「連絡――ここじゃできねぇのか?」
「うん、えっとね……ハイバネイト・シティの管理AIを借りて通信してるから、ここだと電波が届かないんだよ」
天然の洞窟に手を加えて作られたらしい、ごつごつとした岩壁を指さしながら言う。
「だから、ちょっと戻ってくる。シャルルは先に登ってて」
「おう……平気か?」
「もう、大丈夫だから!」
少し引き返して、連絡をするだけだ。また浸水している区域に戻るわけでもない、ごく安全なミッションだ。それでも心配したがるシャルルの目には、リヤンはまだどこか頼りない子供に見えているのだろう。リヤンは強い口調で「平気だから」と繰り返して、強引に彼の背中を押す。
「良いから先に行って、レゾン君に言い訳しといて。心配させちゃうから」
「――分かったよ」
根負けしたような表情で、シャルルが頷いた。
「気をつけろよ」
「分かってるってば、もう」
心配してくれてありがとう――と素直に言えるほど、まだ彼を許していなかった。シャルルが縄ばしごの方に向かうのを見届けてから、リヤンは逆方向に踵を返して、ELIZAシステムと通信できる場所まで戻る。
「んーと? あ……こうかな」
フルルたちに教えてもらった通りの手法で、少し手間取りながらもコアルームまで連絡をつなぐ。軽快な電子音に続いて人工音声が流れ始め、音声メッセージを残すようアナウンスをした。
「ええっとぉ……」
緊張して、ひとつ咳払いをする。
「MDPの者です。いま、第47層にいるんですけど、あ、区画は――」
近くをきょろきょろと見回して、リヤンは番号の刻字されたプレートを探した。少し離れた壁に埋め込んであるのを見つけて、そちらに駆け出そうとすると、不意に天井のスピーカーからバチッと音がした。
「あれ?」
『……あなたは』
リヤンが驚いて顔を上げると、ノイズ混じりではあるものの、明らかな肉声がスピーカーから流れ出した。どこか堅さのある、落ち着いた女性の声がリヤンを捉えて尋ねる。
『あなたは誰ですか?』
「えっ――あたしですか」
リアルタイムで応答があるとは思っていなかったリヤンは、思わず背筋を伸ばした。慌てて思考を巡らせて、今の自分を形容するべき言葉を頭の中から引っ張り出す。
「リヤン・バレンシアです。MDPスーチェン支部所属の臨時構成員です」
まだ少し馴染みのない肩書きを口にすると、スピーカーの向こうはしばらく沈黙した。
「……あのぅ?」
『あ――申し訳ない。システムを参照していました』
声は、我に返ったような口調で言う。咳払いをしたのか、風音のようなノイズがスピーカーを揺らした。
『要件はなんですか?』
「はい。えっと、
話が本筋に戻り、リヤンはほっとする。
そこから数分、コアルームと情報のやり取りをする。女性の声の誘導に従って、浸水被害の起きている場所や状況、浸水の程度などを伝えた。
『――確認が取れました』
回線の向こうで声が言う。
『
「はい……じゃあ、切りますね」
『ええ』
まだ扱い慣れない
荷物を背負い直しながら、首をひねる。コアルームに詰めていた人員はほとんどが地上に逃れたと聞くので、こちらの伝達にわざわざ応答するほどの余裕があるとは思っていなかった。
それに――どこか、聞き覚えのある口調をしていたような。
違和感は拭い去れないながらも、リヤンは急いで洞窟を引き返し、縄ばしごの元まで向かった。天井の穴から見える空はうっすら白っぽい紫色で、かなり夜に近づいている。リュックサックの紐を締め直して、縄ばしごに片手を掛けると、風音に混じってシャルルの声が聞こえてきた。
「何つぅか――俺はさ」
レゾンと会話しているようだ。
「ちっせぇ子供だと思って見てた時期が長くってよ」
「ずっと一緒に暮らしてたんですよね、皆さんは。バレンシアだと宿舎って言うんでしたっけ」
「そうだな……あんたは、故郷は」
「あ、俺はヴォルシスキーです」
彼らが取り留めもない会話をしているのを聞きながら、リヤンは縄ばしごを登る。最上段に手を掛けて、冬の冷たい空気の中に顔を出すと、シャルルが心なしか静かなトーンで「俺はさ」と切り出した。
「あいつが……MDPで、あんたらと混じって働いてるなんて、ホント嘘みたいな話だなって。リヤンが宿舎にいられなくなった原因を作ったのは俺らだから、心配する資格なんてないけど」
「いえ……そんなことは」
「良いって。事実だよ……お前、その歳でタテマエが言えんの、すげぇな」
噴き出すような笑いが風に乗って聞こえる。いくつか低木の茂みを挟んだ向こうで、二人は会話をしているようだった。
「いや、まぁ。それは良いんだよ。この機会に聞いときたくてさ」
「聞いておきたい、ですか?」
「そう。あいつ……元気でやってるか。MDPで、ちゃんとやれてるのか?」
口調は真剣だった。
リヤンは慌てて、近くの木の幹に身体を隠す。
自分が割って入ってはいけない話だ、と直感で感じ取る。聞いていることを悟られてはならない。音を立てないよう慎重に身を潜めて、白い息を吐き出す口元を抑える。
「そうですね……」
レゾンが数秒考え込む。
心臓が身体中を揺するほどうるさく鳴るのが聞こえた。他者の視線から見た、自分の評価を聞くのが怖くて、だけど気になる。いくつか呼吸を挟んだあとに、レゾンは「俺の一意見ですけど」と前置きして言った。
「MDPには少ない個性だな、と思います」
「少ない? そりゃ、どういう意味だ」
「たとえば、色んな悪い可能性を考えて、結局なにもできないことって……あるじゃないですか。リヤンさんにはそれが無いっていうか――」
口角を上げて微笑んでいるような、明るいトーンでレゾンが言った。
「そういうの俺、格好良いと思うんですよ」
一瞬、リヤンは息を止める。
格好良い――という言葉が頭の中でぐるぐると回って、壁に音が跳ね返るように、何度も繰り返し再生された。
――俺は、格好良いとも思ってます。
地下で言われたときはあまり素直に受け取れなかった、そのフレーズと、今聞いた言葉が重なり合って共鳴する。
はは、とシャルルが笑うのが聞こえた。
「カッコいい、か」
「その……俺の一意見ですけど」
「いや、良いよ。そんだけ良い顔で保証してくれんなら、きっと上手くやれてんだろ」
「顔?」
「おう。なんか、楽しそうに話すっつうか」
「そう……ですかね」
「自分で気付いてねぇのか。てっきり俺は、こっちに気を遣って明るくしてるもんだと――」
そこで彼は少し黙った。
どうしたのかと、リヤンは木の幹からほんの少しだけ顔を出して、彼らのいる方を伺う。オレンジ色に染まる空を背景に、シャルルの背中と、彼と向き合って立っているレゾンが見えた。
「もしかしてお前」
背中に手を回して、シャルルが尋ねる。
「あいつのこと、好きだったりするか?」
「えっ――」
今度こそ、リヤンは完全に息を止めた。
世界が切り離されたような沈黙のなか、目をぎゅっと強く閉じる。足下まで血液が落ちていく感覚を覚えながら、リヤンは内心でシャルルを罵った。年下とは思えないほど賢い彼が、自分を好きになるわけがないのに! そんな頓珍漢な質問をされたら、彼も困るし、たとえ聞いていない体を保つにしたって、リヤンの方も申し訳なく思わずにはいられない。
「そう、ですね……」
困ったような声が言う。
リヤンはおそるおそる薄目を開いて、レゾンの表情を伺う。西日に横から照らされて、オレンジ色の空と同化しかけている頬は――やけに強ばっていた。コップに注ぎすぎた水が、弾ける寸前まで膨らんだときのように張りつめている。ハイデラバードの街に
どくん、と心臓が跳ねた。
どうして――
そんな、真剣な顔をしているのだろう。
夜の気配を連れて、冷たい風が吹き付ける。レゾンの癖のある髪が夕焼けのなかになびいて、彼の表情を隠した。口元がゆっくりと動いて、光と影の境目で、何かを言おうとする。
「あの、俺はっ――」
ダメだ、これ以上聞いたら。
冷たい空気を肺が痛くなるほど吸い込んで、リヤンは思いっきり声を張る。
「……二人とも!」
レゾンとシャルルが同時に振り向く。
薄いガラスのように沈黙が砕けた。今まさに穴から登ってきたところです――という表情を装って、リヤンは草むらを踏み、彼らの方へ駆けていく。
「ごめんね、待たせて」
「げ、お前……来てたのかよ」
「何、その嫌そうな顔!」
自分でも大袈裟すぎると思うくらいのトーンで、リヤンは頬を膨らませてみせた。
「何か話してたの?」
「あ――いや」
レゾンの方に一瞬だけ視線を滑らしてから、シャルルが笑ってみせる。
「大したことじゃねぇよ。な」
「ええ」
笑顔に戻って、レゾンが頷いてみせた。
彼がいつもの雰囲気に戻ってくれたので、リヤンは内心でほっと息を吐く。彼がさっき、いつになく真剣な表情をしていたのは、きっと、どう答えれば角が立たないか考えていたからだ。
――そうに違いない。
そうでないと、どうして良いのか分からない。
バレンシアの街境の近くでシャルルと別れて、リヤンたちはスーチェンへ向かう。空の大半が藍色に落ちて、山道はにわかに冷え込み始める。かすかな夕陽の残滓を頼りに、踏みならされた土の道を降りていく。
一歩先を歩くレゾンの頬を、リヤンはちらりと見る。
シャルルと別れてから、会話は一往復も交わしていない。不自然なほどの沈黙が続いていた。いつもは考えるまでもなく話題が湧いてくるのに、今は、何を話せば良いのか分からない。鳥の羽音と葉擦れの音、それに木立を駆ける風の音だけが、二人の間に流れていた。
「あの……」
小川を飛び越えたところで、レゾンが振り向かないまま言う。
「リヤンさんって、耳がすごく良いですよね」
「……うん」
リヤンは頷く。
幼少の頃から、周囲の人間よりも聴覚が鋭かった。ずっと遠くで発せられた音や、ノイズに紛れた音でも、聞き取ることができた。もしかしたら、出生管理施設にチューニングされていない
どちらかといえば便利な特性だ。
扉の向こうで交わされる会話を聞いたり。
あるいは――内緒話を、聞けてしまったり。
「そ――それがどうしたの?」
「いえ」
レゾンは暗闇に表情を隠した。
「なんでも、ないです」
*
黄昏の空を、
サテリットは窓ガラスに額をくっつけて、空から眺める景色に目を見張った。地上から眺めると、広いと思っていたバレンシアの街は驚くほど小さく、遠いと思っていたラ・ロシェルや他の街はすぐ近くに思える。
「鳥になったみたい」
どきどきと高鳴る胸を抑えて呟くと、そうですね、と運転席から苦笑交じりの声が応じた。リヤンの友人で、統一機関の出身であるらしいフルルという少女が、操縦桿を握ったまま尋ねる。
「乗られるのは初めてですか?」
「ええ。噂には聞いていたけど……まさか、こんな時に乗れるなんて」
「あの、揺れますので……立たないでくださいね」
高揚のあまり、思わず運転席に身を乗り出すと、控えめな口調で咎められた。なるほど、接地していないぶん、重心の移動に脆弱なのだ。サテリットが納得しながら腰を下ろすと、まだ少し顔色の悪いアンクルが「あのさ」とフルルに問いかける。
「航空機の操縦が、君の“役割”なの?」
「私の役割、というか……軍部の訓練の一環で、教わったという感じですね」
レバーを引き戻して、彼女は答える。
「街を越えた移動手段というと、馬車が一般的でしたけど。まだ統一機関があった頃……たとえば要人が急遽、他の街に向かう場合など、迅速な送迎のために使われていました」
「へえ……」
感心したように、アンクルが息を吐いた。
「僕だったら、操縦の方法を覚えるだけで手一杯な気がする。すごいな……統一機関の人って」
「そうでしょうか……」
フルルが曖昧な相槌を打つ。
「大して複雑な操作でもないですよ。自動制御もある程度利きますし、計器が読めれば簡単です」
「そういうもの?」
「そういうものです。馬車を制御する方が、よほど難しいかと……まったくの初心者でも、半年もかかれば習得できると思います。興味がありますか?」
「いやぁ……」
苦笑しながら、アンクルはシートの背にもたれかかった。
「僕は良いかな。さっき、ワイヤーで吊り上げられた時も思ったけど――高い場所は、あまり得意じゃない気がする」
「真っ白な顔されてましたもんね」
「ああ――やっぱり、人から見てもそうだった? いや、あれは、普通は怖いと思うなぁ……サテリットは楽しそうだったけどね」
「え――何の話?」
窓の外に広がる光景に気を取られていたサテリットは、とつぜん自分の名前を呼ばれて振り返る。
「ごめんなさい、何も聞いてなかったわ。高いところから見る景色が綺麗すぎて」
「ほら……楽しめてるんだよね、サテリットは」
アンクルが目を細めて笑う。
「
「操縦……」
サテリットはぼんやりと呟いた。
夕陽で眩んでしまったような頭の中に、その言葉がストンと落ちてくる。ふと、今はフルルに操縦してもらっている機体を、自分の思うままに動かせたら――と想像した。身体を縛る重力にとらわれず、山も谷も越えて、空を自由に行き来できたら。
「私でもできるのかしら」
「できると思いますよ」
「足が悪くても?」
「ああ――そうですね」
座席に立てかけた杖にちらりと視線をよこして、フルルが頷く。
「操作は手元のみですし……そこまで問題ないと思います」
「――じゃあ!」
目の前を覆っていたガラスが消えたように、心が鮮明になった。手のひらをぎゅっと握りしめて、サテリットは顔を上げる。
「やってみたいわ、私。だって、これが操縦できたら、どこにでも行ける……」
夢のような話だった。
「ラピスの外側にだって行けるかも」
「外側……ですか?」
「そう!」
頬が熱くなるのを感じながら、サテリットは何度も頷いた。
「だって、ほら――あの山の向こうは、もう“ラピスの外側”でしょう。私、ずっと昔から、バレンシアでも、ラ・ロシェルでもない……まだ誰も名前を付けていない場所へ、行ってみたかったの」
「……そうだったんですね」
「変かしら」
フルルが一瞬の沈黙を挟んだのが気になって、サテリットが声のトーンを落とすと「いえ」と彼女は首を振った。
「あの……良いと、思います。そういうの。上手く言えないですけど……」
理路整然と話していたフルルの口調が、とたんに途切れ途切れになる。彼女は操縦桿を引きながら、しばらく考え込んでいたが、ハイデラバードを囲う壁が山の向こうに見えてきたころ「そうですね」と呟いた。
「そうやって夢が叶う人がいるなら……新しい時代がやってくるのも、前向きに捉えるべきこと――なんでしょうね」
「フルル……貴女は」
サテリットはひとつ瞬きをした。
「ラピスが変わっていくのが、嫌?」
「――はい」
青に移りかわる空を見つめる少女の横顔が、わずかに強ばった。
「知らないものは怖いです。それに私は……やっぱり統一機関が好きで、誇りを持っていましたから」
「そう……」
同意も反論もせず、サテリットは頷いた。
統一機関。
今は存在しない、かつての権威の名前。サテリットや宿舎の住人たちから多くを奪っていった、憎むべき対象の名前だ。だけどサテリットを助けてくれたフルルたちが、その能力を身につけたのもまた、統一機関の教育の賜物だ。
因果は入れ子になって、善悪の区別などもう付けられない。
それでもサテリットは、やはり、統一機関がなくなって良かった――と、思わずにはいられない。それは決して統一機関を憎んでいるからではなく、むしろ逆の感情だ。
「貴女たちと会えて良かったわ」
サテリットは呟く。
本来なら出会えないはずの彼女たちと、こうして話せる、そんな時代が来てくれて良かった。
「会えなかったら私、ずっと、統一機関のことを誤解したままだったもの」
「誤解……そう、ですか」
フルルは頷いて、それなら良かったです、と微笑んだ。
*
ハイデラバードを囲う壁から少し離れたところで、二人は
「……凄かった」
憧憬に染まった瞳で空を見上げて、サテリットが呟いた。その横顔に思わず視線を吸い寄せられながら、アンクルは木の根元に腰を下ろした。身体が浮遊感に揺れていて、まっすぐ背筋を伸ばしているはずなのに傾きを感じる。
「アン、どうしたの」
サテリットが振り返って、怪訝そうに眉をひそめた。
「平気?」
「いや……結構揺れてたからかな、なんか平衡感覚おかしくて。まだ地面が揺れてる感じがする」
「そうなの?」
「君は平気そうだね」
重たい頭を上げて、サテリットを見る。
杖に体重を預けながらも、彼女は特にふらつくこともなく、まっすぐ立っていた。そうね、と彼女は頷いて、アンクルの隣に膝をつく。
「私、空に適性があるのかも。なんて」
軽い口調で言って、彼女は微笑む。
冗談めかしながらも、表情は真剣だった。彼女が空の上でフルルと話していた、
「……そうだね」
楽しそうに笑っている彼女に、アンクルは頷いた。どこか靄が掛かったような頭を抑えながら、幹に手を付いて立ち上がる。
「あると思うよ、適性」
「……アン?」
彼女は怪訝そうな表情を浮かべる。
「どうしたの。何だか――変」
「……サテリット」
空の端から登ってきた月が、彼女の頬を、結った黒髪を白く照らす。混じりけのない澄んだ白が、網膜に突き刺さって痛む。地球の重力に捕まえられて、周回軌道から逃れられず、自由に宇宙を舞うことの叶わない衛星。
かつての彼女に、よく似ていると思った。
「いつかは言わないとダメかなって思ってたんだけど……今、言わせてほしい」
「……何かしら」
「あのね、僕は多分、一生かかっても君に追いつけないと思う。君は、僕よりもずっと……ずっと遠いところを見ていたから……それを知ったから、もう君の足枷にはなりたくないと思った」
「何?」
サテリットが眉をひそめる。
「何が言いたいの」
「うん……ごめん、はっきり言うね」
アンクルは頷いて、長い息を吐いた。
本当は察してほしかった。
言葉にすれば二度と取り返しが付かないから、今までずっと曖昧に笑ってきた。だけど言わなければ、ここから一歩も進めない。
彼女も。
そして、自分も。
「君と僕は、恋人じゃない方が良いんだと思う」
宵闇の森に、声がしんと響いた。
ついに音になってしまった言葉を、サテリットは無表情で聞いていた。濃色の瞳に一切の感情を浮かべないまま、彼女は静かに唇を開く。
「理由を聞かせて」
「今の君は、すごく楽しそうだ。記憶を失う前より、ずっと楽しそうなんだよ。ラピスの外側に行きたいって夢だって、昔の君は言わなかった。多分、僕との関係性があったから、言い出せなかったんだと思う――」
「だから?」
「僕がいることで、君は自由になれないんじゃないかって、そう思った」
「意味が分からないわ」
彼女は一刀両断に言う。
「私は確かに、遠くに行きたいわ。それに、何ものにも縛られたくない。でも……大切なものを捨てたいわけじゃない!」
木立が揺れそうなほどの叫び。
残響が響くなか、彼女は息を切らしながら、ねえ、と小さく顔を傾けた。
「どうして私が、貴方に夢を言い出せなかったか、分かる?」
「……ううん」
「私だって分からないわ。覚えてないもの。だけど想像はできる。貴方や、宿舎のみんなや、バレンシアでの暮らしが大切だから……壊したくなかったのよ。大切だから手放せないものを捨てれば、万事解決するとでも思った?」
声のトーンがだんだん下がっていき、最後はぞっとするほど低い声で言った。
「馬鹿にしないで」
「……でも君は」
彼女の視線に屈しそうになりながらも、アンクルは口を開いた。
「もしも妊娠していなくて、僕との関係も知らなかったら、今でも僕のことは友達だとしか思っていないよね」
「そうでしょうね」
「だから――君が、僕を好きになろうとしてくれるのって、もしそうじゃなかったら、悩む必要すらなかったんだよ」
「だけど、現実は違うわ。私は、昔の私をもう知っていて、
彼女がひとつ瞬きをする。
両目に反射した月明かりが揺れて、頬に伝って落ちた。
「好きになりたいって思うのは、もう好きだからなのかもしれないって、教えられたばかりなのに」
「……え」
「なんで……そんなこと言われないといけないの」
外套の胸元に、彼女が顔を埋める。涙で不規則になった呼吸を感じ取りながら、アンクルは呆気に取られて彼女のつむじを見下ろした。
――好きになりたい。
彼女が言った、意味を考えるまでもない短い文章が、飲み下せないまま頭の中でぐるぐると渦巻く。ようやく理解したその瞬間、アンクルは全身が強ばるのを感じた。
とんでもない思い違いをしていた気がする。
記憶を失う前の、アンクルの恋人だった彼女ではなく、今の、何も覚えていない彼女が、はっきりと「貴方を好きになりたい」と言ってくれていた。それだけ明確な意志を示してくれていたのに、彼女を待たなければならない側の自分が、勝手に手を離そうとした。
「――ごめん」
かじかんだように上手く動かない口で、アンクルはようやくそれだけ呟いた。昔からずっと好きだった人の、小さい肩に両腕を回して、泣いている体温ごと抱きしめる。それ以上はもう何も言えなくて、夕暮れの名残が夜空に覆い隠されるまで、ただそばにある存在を感じ続けていた。
「……もし」
赤くなった目でこちらを見上げて、サテリットがわずかに掠れた声で言う。
「アンが私のことを嫌いになったなら、まだ分かった。受け入れようがあったわ」
「……違うよ。そんなわけない」
アンクルの感情は、彼女を好きになった16歳の夏から一度も揺らいだことがない。博識で思考のスピードが速いのも、小柄な見た目よりずっと芯が強いのも――彼女が隠していた、好奇心の強い一面だって、全てが彼女の魅力だった。
「好きだよ。だから邪魔したくなかった」
「そんな……貴方にしか分からない理屈で、私たちの今までとこれからを捨てないで」
真円の月を背景に、サテリットが目元を拭いながら言った。