chapitre174. 孤独な思考体
文字数 11,024文字
――ハイバネイト・シティ
地上で会いましょう。
《Arche》
《Address NaN / Date 345-0129-0253》
アルシュから届いたメッセージが、
「分かっているでしょう。私が、貴女を惑わせてしまっているのは謝るわ。それでも
「そうですが……」
ロンガは目を閉じて、黙り込んだ。
エリザの身体を借りているロンガが、地上を目指す理由はいくらでもある。逆に、ほぼ全ての観点において、ハイバネイト・シティに残る選択の妥当性はきわめて低い。崩れ落ちていく地下施設に残ると言うことは、まず例外なく死を意味する。
地上に向かうか、地下に残るか。
本来なら、議論の
だが、エリザの胸の内を覗いてしまったロンガは、どうにも後ろ髪を引かれてならなかった。愛する人が眠る地下に残りたい――という意志は、共感こそできないが、理解はできるものだったからだ。
「……エリザ、聞かせてください」
ロンガは振り返って、意識の海にたゆたうエリザの心に問いかける。
「もし、貴女の身体のなかに私がいなくて、しかも貴女が、ハイバネイト・シティの総権を持っていなかったとしても――貴女は、地上に行きましたか?」
「ええ」
彼女ははっきりと頷いた。
「行くわ」
「……そう、なのですね」
「そうよ。だってそれが、ラムやカシェが望んだことだから」
エリザは蜂蜜色の髪を払いながら、当然よ――と言わんばかりのはっきりとした口調で言う。それから彼女はふっと眉を下げて、憂いの表情を浮かべた。
「……そもそも」
白銀色の瞳を細めると、虹色が四方に飛び散る。彼女の逸脱性を象徴する色が、水面から落ちてくる光と混ざり合った。
「私の身体が死ねば、その瞬間にD・フライヤがやってきて、私の心を喰らっていく。死を甘んじて受け入れるのは、あの化け物に屈するのと同じこと……せっかく手にした猶予を自ら捨てること」
超越的存在から歪んだ愛を向けられている女性は、忌々しそうに息を吐く。
「そんなのお断りだわ。だから、リュンヌ……これは貴女のためだけじゃない。私のためにも、シェルと一緒に地上を目指して」
「――分かりました」
まだ迷いは残っているが、エリザがそこまで言うのなら、彼女の意志を疑っていても始まらない。ロンガが彼女の手を握って頷こうとすると、エリザはとたんに慌てた表情になって、指先同士がふれあった手を払った。
「――あれ?」
「それはダメよ」
呆気に取られつつ、小さな痛みが残響のように残っている指先を見つめると、エリザは小刻みに首を振る。
「混ざってしまうもの」
「ああ――そうですね。ついうっかり」
ロンガが小さく肩をすくめると、もう、と困ったように唸って彼女は目を閉じた。エリザはそのまま意識の深層へ潜っていき、ロンガは反対に意識の表層へ浮上して、目蓋を押し開ける。
真っ暗闇の向こうから、足音がこちらにやってくるのが聞こえた。程なくしてペンライトを持ったシェルが曲がり角から現れ、ソファで待っていたロンガの元まで小走りで戻ってくる。
「登れそうなとこ、見つけたよ」
「ありがとう。見てきてもらって、悪いな」
二人がいるのは、推定第40層。
夜を徹して登った結果、かなり地上近くまで辿りついた。エリザの虚弱な身体でここまで登れたのは、身軽なシェルが周囲を探索して、無理なく登れる箇所を探してくれたのが大きい。とはいえ体力の消耗は激しく、立ち上がろうとすると、頭の片隅に嫌な痛みが走った。
「大丈夫?」
思わず額を抑えると、シェルが不安そうに顔をのぞき込む。それから彼はソファを回り込んできて、ロンガの隣に腰を下ろした。
「少し休もうよ。だいぶ上まで登ってきたし……この辺りは浸水もしてないから、ちょっと休むくらいなら平気だと思う」
「うん……そうしようかな」
持ち上げかけた腰を下ろして、ソファの柔らかいクッションに体重を預ける。疲労のせいだろうか、どうにも頭がずきずきと痛かった。考えてみれば、エリザの肉体そのものは、ずいぶん長い間休憩していない。意識が相互に入れ替わり、自分が表に出ていないときは眠っているような感覚になるので、あまり気に掛けていなかったが。
「それにしても……この辺りは寒いな」
近くのソファに放置されていたブランケットを引き寄せて、外套の上からさらに巻き付ける。ふぅ、と吐いた息が結露して、ペンライトの光のなかで白い霞になった。そうだね――とシェルが呟いて、真っ暗な通路の向こうに目をやった。
「どこかから外気が入ってるのかも」
「あ、そうかもな……ソル、あまり着込んでいるように見えないけど、寒くないか?」
「うん、ぼくは平気だけど……えっと」
外套の襟を直しながら、シェルが言葉尻を淀ませる。ロンガが続く言葉を待っていると「あのさ」と言いづらそうに切り出した。
「もう少し離れない?」
「え、ああ――ごめん。狭かったか」
「いや……そうじゃなくて」
「そうじゃない?」
不可解さに目を瞬くと、シェルは頬を引っかいて視線を横に滑らせた。
「えっとね……ルナなのは、ちゃんと分かってるつもりだけど。エリザの顔で、そんなに近くに来られると、ちょっと気恥ずかしいというか」
「あ――そうか」
ロンガははっと背筋を正す。エリザとして彼と相対したときは、ちゃんと距離を空けていたのに、いつの間にかすっかり無頓着になっていた。
「ごめん。そうしよう」
ロンガが頷くと、彼は申し訳なさそうに眉根を寄せつつも、ソファに座り直して三十センチほどの隙間を空ける。エリザの身体を借りている以上は仕方ないのだが、他人と適切に距離を空けることを学ぶ前からの友人であるシェルに、距離を空けられるのは少し寂しかった。手を伸ばせば届く距離なのに、やけに遠く感じてしまう。
「残念ね」
後ろでエリザが呟く。
言葉とは裏腹に、声は笑っているようだった。
「本当ならもっと近づきたいでしょうに」
「良いんですよ。それにエリザだって、良い気分はしないでしょう?」
「え? あぁ、まあ……確かに夫と娘がいる身分で、若い男の子とあまり近づくのも、どうかとは思うわねぇ……ラピスの風紀が、その辺りどうなってるかは知らないけど」
「はぁ……」
ロンガは真面目に聞いているのに、エリザの返事はどこか真剣味を欠いている。それから彼女は急に畏まった顔を作って「まあ、でも」とこちらに振り向いた。
「……キスくらいなら許すわよ?」
「しませんってば」
「本当?」
エリザが悪戯っぽく微笑んでみせる。かっと頬が熱くなるのを感じながら「もう」とロンガは呻いた。
「だからっ――何度も言ってますよね! 違うんです、私と彼は」
「はいはい、分かってますよ」
くすくすと笑いながら、エリザが再び意識の深層に消えていく。必死で抗弁したのに、手応えはまるでない。溜息を吐いて目を開けると、シェルが戸惑いの表情でこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「エリザと話してた?」
「何も話してない」
やり取りの内容をシェルに教える気にはならなくて、ロンガは頑なに首を振った。ふぅん、と不思議そうな息を吐いた彼が、不意に目を見開いた。
「あれ?」
シェルはこちらに身を乗り出して「ちょっとごめんね」と断ってから、ロンガの目にペンライトの光を向ける。突然の眩しさに思わず目を細めると、彼は口元に手を当てながら難しそうに眉を寄せた。
「瞳の虹色が、濃くなってる気がして」
「え――虹色が?」
その意味合いを思い出して、背筋がぞっと冷たくなる。
「それは……あまり、良くない気がする」
「え、そうなの?」
シェルが不思議そうに首を傾げた。
D・フライヤの干渉を示す白銀色の瞳は、一言では言い表せない複雑な見た目をしている。通常の人間の虹彩とは異なり、瞳孔が存在しない。ガラス玉のように透明感があるが、一方で金属のようによく光を跳ね返す。他のどんな物質ともなぞらえがたい質感だ。
そして、最大の特徴は色にある。
あえて何色かを定めるならば灰色だ。だが、その灰色のなかに、虹色の光の欠片が無数に散っている。瞳そのものは無彩色に近くありながら、まるでステンドグラスを敷き詰めたような彩りを放っているのである。
以前ロンガは、創都前の分枝世界にて、もうひとりのエリザと出会った。彼女は、ロンガの母であるエリザと瓜二つでありながら、瞳の虹色はほとんど失われていた。その理由について彼女は、D・フライヤが分枝世界の彼女に興味をなくしつつあるから――と推測していた。だからこそD・フライヤが彼女に干渉しなくなり、ゆえに瞳の虹色が薄れたのだと。
「――つまり」
そこまでの説明を総括して、ロンガは言う。
「白銀色の瞳に宿る虹色は、D・フライヤの干渉度合いに比例する可能性がある。瞳の虹色が濃くなっている……ということは、干渉が強くなっているのかもしれない」
「干渉……何のために、だろう」
不安そうに眉根を寄せる、シェルの赤茶色の瞳にまで虹色の反射が届いている。鏡がないので確認しようがないが、たしかに虹色が強くなっている気がした。
――そういえば。
以前にも、彼の瞳が揺らめく虹色に染まったことがある。その日のことを思い出して、ロンガは胸が軋むのを感じた。D・フライヤは人間の悲痛な祈りに引き寄せられる存在だ。あのとき、いくつもの葛藤がシェルの胸中で折り重なった結果として、彼はD・フライヤを呼び寄せてしまった。
その原因はひとつではない。
お互いの意志の行き違いによる出生管理施設の焼失。それに伴う、MDPと
彼を追い詰めてしまったこと。
ロンガ自身の声が、記憶の中でこだまする。
『私たちの偽物がいる世界に行って、それで何が楽しい。新しく
あの朝のことは、今でも鮮明に思い出せる。
ロンガは今でも、間違っていることを言ったつもりはない。すでに出生管理施設の代替となる技術は開発され始めているし、地上と地下の対立は収束しつつある。シェルがこのラピスを捨てなくたって、まだ希望の道はあったのだ。
きっと正論だっただろう。
だけど――言葉を突きつけられたシェルは、止めて、と泣き叫んだ。正しいはずの理屈が彼を追い詰めた。ただでさえ深い傷にナイフを突き立てて、ついには奥底を抉ってしまい――彼の瞳を、絶望の白に染めてしまった。
それは、悔やんでも悔やみきれない、ロンガの過ちだった。たとえ何が起きても、彼の味方でいるつもりだったのに。
「……ねえ、ルナ」
シェルが隣で言う。
「分枝世界のこととか、初めて聞いたけど……そっか、ルナの身体は今、過去にあるんだね。あの
「そういうことになるな」
「……えっと、あのさ」
彼は居心地が悪そうに膝を引き寄せて、それから意を決したようにロンガをまっすぐ見た。
「ルナが
「怒るわけないだろう。いや、ラピスを捨てようとしたのは、許せなかったけど――結果としてソルは、まだ
「……そうだけど」
「謝りたいのは、私の方だ。何も分かってなかった。ソルがこの世界を捨てるほど苦しんでいたのも……全然気がつかなくて、呑気に笑ってた。どうして気がつけなったんだろうって、あれから何度も考えた」
シェルがじっとこちらを見ている。
彼は何度も瞬きをして、えっと――と何か切りだそうとしては、言葉が思いつかないようで黙り込む。彼の脳の中を、思考がぐるぐると渦巻いているのは分かるが、それ以上は何も分からない。
知りたい、と思った。
心と心が意識の海で混ざり合うように、シェルの考えていることが全部、頭の中に直接届いてくれれば良いのに。
そうだ、とひとつ思いつく。
ロンガはソファ脇のテーブルに手を伸ばして、そこに転がっているペンライトを消した。唯一の光源が消えて、視界は完全な闇に閉ざされる。暗闇の中でシェルの頬に手を伸ばすと、彼はびくりと肩を跳ねさせた。
「わっ――何?」
頬を抑えたまま、彼の前髪を指で払う。
そして顔を近づけ、熱を確かめるときのようにぐっと額を押し付けた。
彼の体温と息遣い、そして頭蓋骨の固い感触だけが伝わる。数センチにも満たない厚みの向こうに、思考しているシェルという存在の本質があるのに、考えていることは何一つ伝わらなかった。
ふふ、と額を合わせたままロンガは苦笑を吐き出す。
「……そりゃそうだよな」
「ルナ?」
思考は読み取れないが、熱や触覚は肌の境目をすり抜けてこちらにやってくる。シェルの体温は、平時より少し高い気がした。
「何がしたいの」
「頭をくっつければ、電流が流れるみたいに、考えてることが伝わってくれないかなって。伝わらなかったけど」
「ええぇ……?」
シェルは呆れているようだ。
全くもって真っ当な反応だな、とロンガは胸中で呟く。
もちろん、その独白が彼には届かないことを分かっていながら。
「そんなの、試さなくても分かるでしょう……あのさ、エリザの顔で近づかれるの、恥ずかしいって言ったよね」
「だからライトを消したんだけど」
「そういう問題じゃない……」
そこで彼は少し黙り込んだ。
「……って思ったけど」
緊張で固く張りつめていた雰囲気が、少し緩む。シェルは心なしか涙声になって、彼の頬を抑えているロンガの手を上から包み込んだ。大きくはないがしっかりと厚みのある手のひらが、確かめるように手を握る。
「何だか、本当に……ルナがそこにいるような気がして……ごめん、ちょっとだけ、このままで……夢を見ても良いかな」
「夢じゃない。私は、ここにいる」
「――っ……うん」
不規則に乱れる息を飲み込んで、シェルが頷く。重ね合った指先が、小さく震えている。胸のなかで暖かい何かが湧き上がってくるのを感じながら、ロンガは目を閉じた。
「……分かってるよ、ソル」
触れあった指が、シェルの体温で暖められる。
仄かな熱が、肌と肌との境目を越えて、二人の間を通じ合う。
「こんなことしても、考えてることは何も伝わらない」
だけど思考は電気でも熱でもないから、何もせずに通じ合ったりすることはない。多分、脳と脳を直接くっつけたって、考えていることは分からないままだろう。統一機関での教育を思い出すまでもなく、そんなことは身に染みて分かっている。
「でも私、知りたかったんだ。ソルが何を考えて、どうやって世界を見てるのか……あのときは、分かってる気になって、確かめようともしなかったから」
数センチの、越えられない壁の向こう。そこにあるであろうシェルの意志に向けて、ロンガは届けたくて言葉を紡ぐ。言葉の枠からはみ出した感情が涙になって、きつく閉じたまぶたの隙間から溢れ出した。
「それだけは、分かって……」
祈るように呟くと、彼が頷く気配が、暗闇の中で伝わってきた。重ね合った指先に、頬を伝った涙が染みていく。
ルナ、と涙声が呼んだ。
「あのとき……相談できなくて、ごめん」
「……うん」
小さく頷く。
そう、相談してほしかったのだ。このラピスを捨てる――などという自殺まがいの行動をする前に。たった一人で塔の上に向かう前に、何をしたいのか、どうしてそう思ったのか、どれだけ深い傷を背負っていたのか……それを、教えてほしかった。言葉にして通じ合えたなら、彼の苦しみの一端くらいは、一緒に背負ってやれたかもしれないのに。
***
「でも……あのさ」
点け直したペンライトの光のなかで、シェルが少し紅潮した頬を引っかきながら切り出した。見開かれた目はうっすらと充血して、下まぶたの縁はまだ潤んでいる。
「ぼくらは結局、違う脳で考えてる、別々の人間だから……どれだけ素直になろうとしても、全部を分かり合うってできないと思うんだよね」
「それは……そうだな。私とエリザみたいなことは、普通は叶わないから」
「うん……」
彼が唇を噛んで頷く。
「皆、そうだよね」
「だけど、希望や正しさや夢みたいな、具体性のない概念を共有できる。不思議だよな」
「ルナは、何でだと思う?」
「そうだな……」
ロンガは腕を組んで考える。
例えば、地下でシェルと出会った後に、地上を目指しながらハイバネイト・シティ内で知人たちと再会したとき。新しい生命を身体のなかに宿していた宿舎の仲間や、新しい言葉を作って生まれの差を乗り越えようとしていた
同じ言葉を聞いていて、自分と彼で感じ方が違った理由。
それは、多分。
「信頼してるから――だと思う」
彼らの言動からにじみ出る希望を、本当のものとして信じられるだけの信頼があったかどうか。ロンガとシェルに違いがあるとすれば、多分その一点だけだ。シェルにとって彼らは、ロンガの友人という関わりはあれど、結局のところ初対面の他人だった。
「交わせる言葉には限りがあっても、向こう側にある人柄を信頼してるから。だから、希望があると言われれば、信じてみようと思える……んじゃないかな」
「……信頼、か」
どこか落胆したような口調でシェルが反復する。彼は口元をぎゅっと横に引いて、斜め下に視線を落とした。
「うん……それが、いちばん大事だよね」
「私は、ソルのことだって信じてるよ」
シェルの表情が陰った原因は
「まだ、信じてくれるの?」
「疑ったことなんてないよ」
「ぼくは……あれだけ嘘を吐いたのに」
「それを言うなら私だって、ここにいることをずっと黙ってた」
彼の方に身を乗り出して、ロンガははっきりと言った。
「一度や二度騙されたくらいで、今更揺らぐわけないだろ。あのな、信じてるっていうのは、ソルが何を言っても文字通りに受け取る、絶対に疑わないって意味じゃなくて……人柄を信頼してるってことだ」
「人柄?」
「たとえば――誰かのために行動できるところとか、意志が強いところとか、そういうのを知ってるってことで……」
例を挙げて言いながら、あまりにも陳腐な形容しかできないのがもどかしくなった。案の定シェルは首を傾げていて、今ひとつ伝わっていないな――とロンガは直感する。ちゃんと具体的に説明しようとしたせいで、かえって難解になってしまった。
「違う……」
額を抑えて、言葉を探す。
「私は――そんな、難しいことを言いたいわけじゃなくて」
伝えたいことは、もっと単純だった。目の前にいるシェルが、どうしようもなく寂しそうに見えたから、ひとりじゃないよ――と言いたいのだ。だけど、その言葉をそのまま口にしたところで、本当に言いたいことは多分伝わらない。
どうしたら良いのだろう。
ロンガが途方に暮れた、そのとき。
ふと、背後にエリザの存在を感じた。
意識の海の底から見上げている彼女は、何も言わない。ロンガの行動に干渉することもない。ただ、真珠のような気泡を吐きながら、こちらをじっと見ている。そういうことは珍しくて、思わず深層を見つめ返したとき、ロンガは不意に、以前エリザに言われたことを思い出した。
『関係性に名前が付いているというのは、何かと便利なのよ』
エリザは、ロンガとシェルの関係性が恋愛に近しいと思っているらしい。ロンガ側の認識としては、二人は幼馴染であり
だけど。
「ソル」
指先が触れていた手を握って、ロンガは彼をまっすぐ見つめた。後れ毛が何本も垂れた滑らかな髪から、彼を象徴するぱっちりと開いた目に、男性にしては小柄な体躯まで、どれも見慣れた彼の姿。ハイバネイト・シティ第40層で、自分自身を除いていちばん大切な存在に対して思う、この感情は、きっと恋じゃない。
でも、どうしようもなく愛おしい。叶うなら抱きしめて、全ての重みを受け入れてしまいたい。彼という存在の全てが、もうどこにも落ちていかないように繋ぎとめたい。そんな感情を表現するなら、もう、この言葉しかない気がした。
「あのさ……好きなんだ」
それ以外にあるだろうか。
「――え?」
シェルがぽかんと口を開ける。
それと同時に、円形の瞳が全て見えるほど、大きく目を見開いた。握りしめた手がじわりと熱くなり、頬にどんどん血色が差していく。それを見ているとロンガの方まで鼓動が速くなり始めて、気まずさから逃げるように笑顔を浮かべてみせる。
「あはは……思ったより恥ずかしいな、これ」
「え――え、ちょっと待って」
耳まで真っ赤になった顔を隠すように、シェルが俯く。
「どういう意味……
「指示語で聞かれてもな」
ロンガは肩をすくめる。
「好きだから、好きだって言った。こうでもしないと伝わらないかと思って」
「伝わらない……って、なにが」
「私がソルを信頼してて、大切な存在だと思ってること」
「あ――な、なんだ、そういうことね……」
はあぁ、と長い息を吐いて、シェルはソファの背もたれにうなだれた。組んだ両腕の中に伏せた顔から、恨めしそうな視線がこちらを見る。
「心臓に悪いよ」
「うん。その点に関しては、ごめん」
「違う意味だったらどうしよう……って、いま一瞬で色々考えた。それなら最初から、そうだと言ってくれれば――」
そこで彼は言い淀む。
「あ……」
目が覚めたような表情で、ゆっくりとソファから身体を起こすシェルに、ロンガは苦笑してみせた。
「そうだ。何度も言ったよ」
「……言ってた、ね」
「そう――でも、伝わってない気がして。だから大事なとこだけ言ったんだ。私はソルが好きで、いちばん大切で特別だから、いつまでだって信じてる。ちょっと嘘を吐かれたくらいで、切り離せるような他人じゃないんだ」
「……うん」
シェルが頷く。
眉根にしわを寄せて口を横に引き、頬どころか髪の生え際まで紅色に染まっている。どこか不機嫌にも見える顔は、おそらく初めて目にしたシェルの表情で、なのに嬉しそうだと分かるのはどうしてだろう。
「あの……ありがとう」
ぽつりと彼が言った。
「上手く言えない。でも――嬉しい」
「伝わったか?」
「多分……」
上気した頬を手で仰いで、でも、とシェルが呟いた。
「ルナが言いたかった通りのことを、ぼくがちゃんと理解したかどうかも……分からないんだよね」
「そうだな」
「せっかく……伝えようとしてくれたのに」
「じゃあ、ソル……こうしよう」
ロンガは右手の指を二本立ててみせた。
「今から二つ、私と約束してくれたら、それで伝わったってことにする」
「……約束?」
シェルは驚いたようにいくつか瞬きをしてから「分かった」と頷いてみせた。
「どんな約束?」
「ひとつは、これから地上の、皆がいる場所を目指すこと」
「うん……それは、勿論そうするけど」
「もうひとつは……」
エリザに借りた心臓に手を当てて、ロンガは視線を持ち上げる。
「私――きっとソルがいるこの世界まで、今度は私自身の身体で帰ってくるから。絶対、とは言い切れないけど……それまで、待ってて欲しい」
「――そんな」
「難しいか?」
「違う、逆!」
彼は勢いよく首を振った。
「そんなのは当然だよ。何の保証にもならない」
「でも……それ以外、何も要らないからさ。ソルが無事に生きてて、私のことを待っててくれたら十分だよ」
「ルナ……」
彼はしばらく戸惑ったように視線を惑わせていたが、やがて濡れた目元を拭って頷いた。
「分かった。約束する」
「うん、ありがとう」
ロンガの笑顔に、彼は頷きで応じた。
それから数十秒の間、真っ赤に火照った頬を抑えていたシェルが、不意に「あのね」と言ってロンガに視線を向ける。ブランケットの暖かさに気を緩めていたロンガが、彼の言葉に振り返ると、シェルは真剣そのものの表情でこちらを見ていた。
「ぼくにも言わせて欲しい。ルナのこと、好きだよ」
「――えっと」
不意を突かれて、ロンガは魚が空気を求めるようにぱくぱくと口を動かした。
「わ、私と同じ意味で……だよな」
「まあ、多分。友達として」
彼はあっさりと答えてから「でも」と悪戯っぽく微笑んだ。
「本当に同じかどうかは、心のなかを透かしてみないと分からないよね。何となくだけどね、ぼくの『好き』の方が、大きさで言ったら勝ってる気がする」
「――大きさって……」
それ以上、言葉が出てこない。
頬が焼け付くように熱くなった。おそらくはシェルに負けないほど、顔が真っ赤になっている。ロンガ自身ではなくエリザの姿とはいえ、
その手首をシェルが捕まえる。
「……消しちゃ嫌だよ」
「な――なんで」
「顔が見たいから。それに、ルナだけ暗闇に隠れるのは、ずるい」
「顔って」
火照った頬に、ロンガはむっと力を込めた。エリザの姿だから近づけないと言ってみたり、エリザの顔にも関わらず見たいと言って来たり、なんだか主張が一貫していない気がする。シェルのまっすぐな視線から逃れるように、ロンガは通路の向こうに目を逸らした。
「……あれ?」
その方角が、ぼんやりと青く光っていた。
「ソル」
ロンガはそちらを見つめたまま言う。
「ライトを消してもらって良いか?」
「ぼくの話聞いてた?」
「違う、あれ……見て」
通路の奥を指さすと、不満げにそちらを見たシェルが、次の瞬間はっとした表情になって立ち上がった。ロンガがペンライトの光を消すと、通路の向こうの青は、よりはっきりと明るく浮かび上がった。
行こう、とどちらからともなく言って立ち上がる。
光のほうに近づけば近づくほど、空気は冷たく澄んでいった。通路の角を曲がった先に、二人はぼんやりと青く光る世界を見た。折れ曲がった鉄筋や、積み重なっている瓦礫、露出した無数の配管が、どれも深い青に染まっている。
あ、とシェルが息を呑む。
「ここ……昨日の夜、来たとこだ」
崩れた通路の端まで歩いて行き、二人は同時に上を見た。
抉られて崩れ落ちた居住区域の断面。
途中で切断された配管から落ちている水。
そして、その向こうに。
「……朝だ」
ロンガは呟く。
夜の終わりを示す深い青色の空が、二人の頭上に広がっていた。