螺旋の仰角
文字数 10,909文字
それは、ありふれたモチーフだ。
ある点を出発した主体が、長く複雑に曲がりくねった旅路を行くうち、いつの間にか球体の裏側に回り込んで、また同じ地点に戻ってくる。
朝夕のめぐりであるとか、四季の移り変わり、あるいは繰り返される音楽とか、人の祈り、そして生まれては死ぬ生命――ありとあらゆる「有限」は、自身が果てた続きの世界を描くため、かならずどこかの地点で回帰する。そこまで続いたものに区切りを付けて、また新しい一巡りを再生する。
回帰と再生――それは「有限」が「無限」に手を伸ばすための、唯一の鍵。
だけど。
誰かは、ふと疑問に首を傾げた。
出発する点と帰着する点が同じならば、その道のりが円形に閉じているのならば。膨大なエネルギーを費やした回帰と再生の結果、同じ位相を永遠にめぐり続けるのであれば、その繰り返しには、一体何の意味があるのだろうか?
***
創都三四九年十二月末日、午後六時半。
あと数時間すれば年が明けて、ラピスが創都されてから三世紀と半分の、節目の年が始まる。記念すべき節目の瞬間を祝おうと、多くのラピス市民が中央都市オルドニアに訪れていた。オルドニアの中央に位置する統合議事庁や、その周囲の街路樹にはイルミネーションが設置され、特別な夜を演出すべく、街を色とりどりに彩っていた。
記念日に街が華やぐ一方で、不穏な噂もあった。
この夏からオルドニアで、試験的に貨幣制度が導入されていた。統合前から一部の語圏で存在していた制度だが、七語圏が混ざり合って統合議会が成立してからは、基本的に衣食住の保証が労働の対価として支給されるようになった。だが、提供される衣食住の質が雇用主によって全く異なり、一部では劣悪な住環境が問題になっていた。
そういった情勢を鑑みて、労働の対価をより客観的に評価すべく、貨幣制度の導入が検討されているのである。
しかし、人間の価値を数字で値踏みされるといった印象から、この施策に抵抗を持つ者も多かった。特に貨幣制度が導入されていなかった語圏出身者からの反発が強く、秋以降、オルドニアでは貨幣制度の撤回を求めたデモ活動が頻発していた。また、これは未遂に終わったものの、制度の導入を強く推進していた議員、ヴォルシスキー語圏出身のユーク氏が夜道で襲われる事件もあった。
こうした時勢もあり、多くのラピス市民が集まると予測される新年前日、オルドニア中心部では厳戒態勢が敷かれていた。新年前後の一週間のためにおよそ三百名の警備員が雇われ、時間制で交代しながら、統合議事庁を中心にラピス市街を警備するのである。
街路に市民のざわめきが溢れかえる一方。
統合議事庁の最上階ホールでも、要人を招いた立食パーティーが催されていた。そのグランドフロアの片隅にて、パーティー会場に向かうため、緋色のカーペットが敷かれた階段を登っている二人組がいた。
「あの……先生」
肩幅の少し合っていないスーツを着た少年が、踊り場で振り返る。
「大丈夫ですか?」
「うん……ごめんね、カルム君。踵が高い靴って、やっぱ慣れなくて」
垂れてきた後れ毛を背後に流しながら、アルシュは膝を付いて靴を脱ぐ。
節目の日を祝うパーティーなのだから、せめて盛装しようと思ったのが運の尽きだった。化粧のせいで頬の皮膚が妙に重たいことや、イヤリングが耳元でカチャカチャとうるさいことや、ドレスの袖口が狭くてまともに腕が上げられないことは、百歩譲って我慢できるが、ハイヒールの痛みだけは本当に耐え難かった。一歩歩くごとに爪先が押し潰されて痛み、かかとの皮膚が擦れて剥がれ、膝裏の筋肉がみしみしと痛む。
アルシュは階段の手すりにうなだれて、溜息を吐いた。
「部屋に帰って革靴に履き替えようかなぁ」
「その装いに革靴は合わないと思いますが……」
カルムが真顔で言う。
彼は去年オルドニアの学舎を出て、この秋から統合議会で見習いをしているラ・ロシェル語圏出身の少年だ。同じ語圏の出身という縁もあり、今はアルシュのもとで議会運営に関わるあれこれを学んでいる。今日は後学のため、要人が集まるパーティーに同席させている――のだが、案内すべき立場のアルシュがこれではどうしようもない。
「カルム君、先に会場行っとく?」
「いやぁ――僕ひとりは、勘弁してください」
少年は慌てたように両手を振る。
議会で見習いをしている他の少年少女に漏れず、カルムも頭脳明晰で冷静だが、一方で年相応に物怖じしがちな面があった。ラピスの明日を左右するような重鎮たちの集まるパーティーにひとりで入っていく度胸は、流石にないだろう。
「そうだよねぇ……うーん、でもやっぱり、一旦戻ろうかな」
紅を引いた唇を曲げて、アルシュは窓の外をちらりと見る。パーティーに招待された面々は、すぐ隣の建物に宿を用意されているので、戻るのにそこまで時間を要さない。カルム少年の言うとおり、ドレスに革靴は不格好だが、一歩踏み出すたびに足の裏に激痛が走るような惨状でパーティーに参加するわけにもいかない。
やっぱり履き替えてくるよ――と、言いながらアルシュが立ち上がろうとした、そのときだった。
パチンと、何かが弾けるような音。
それと同時に、階段の上で灯りがふっと消える。
「あれ?」
違和感に両眉を上げた次の瞬間、きゃあ――という女性の高い悲鳴が聞こえた。
それと同時に、いくつもの物々しい音が重なった。ガラスや陶器が割れる鋭い音、ドタドタと踏みならされる足音。意味を成さない悲鳴やわめき声に混ざって、切羽詰まったようなかすれ声が叫んだ。
「――爆発だ!」
ラピシア語の叫びを、アルシュは耳の片隅で聞きつける。その瞬間、身体の中心にずしんと重たいものが落ちたように冷静になる。明らかな異常事態であると、ひりついた空気がそう伝えていた。
アルシュは階段を駆け上がり、立ち尽くした少年の腕を掴む。
「行くよ!」
事態が察せていないらしく、彼は口をぽかんと開けている。少年を半ば引きずるようにして、アルシュは階段を駆け下りた。
突然の爆発。
要人が集まるパーティーを狙って、暴動を引き起こそうとしている可能性が高い。警備は強化されていたと聞くが、その目をかいくぐって、何者かが議事庁内部に潜入していたのだろうか。
「……考えるのは、後だ」
考えたところで、できることは少ない。
ともかく、彼を連れて逃げなければ。
行動を妨げるハイヒールはその場に脱ぎ捨てて、絨毯の上を裸足で走る。毛足の長い絨毯に足を取られ、何度か滑って転びそうになりながらも、アルシュはどうにか議事庁の正面入り口まで辿りついた。
厚い扉を押し開けて、雪がちらつく屋外に出る。
タイルを裸足で踏むと、氷のような冷たさで、足の裏が刺すように痛んだ。陽の落ちた外庭を見渡すと、紺のコートを着込んだ警備員と目が合った。屋外の警備に当たっていたらしい彼らは、血相を変えて飛び出してきたアルシュたちを見つけて、慌てて駆け寄ってくる。
「何かありましたか!」
警備隊のチーフらしき男が問いかける。
「さ、三階で――多分、爆発が」
乾いて上手く動かない口で、どうにか言うと、集まった警備員たちがざわめいた。チーフらしき男が振り返って、後ろにいた大柄な男に問いかける。
「上から連絡はあるか?」
「いや」
無線機を持った男が小さく首を振りながら、一歩前に出てくる。建物の影にいた彼の顔が、正面玄関から漏れる光で照らされて、その風貌が明らかになる。
「今、上の警備隊に確認し、て――」
「……え」
目が合う。
重たいまぶたの下の、色素が薄い瞳。
それは、アルシュがよく知る人のものだった。
彼の顔を正面から見た瞬間、足下がぐらりと揺れて、アルシュは自分の居場所を見失う。落下に似たような感覚とともに、アルシュの意識は華やいだ新都市オルドニアから、濁流が渦巻く水路のなかに巻き取られていった。
あの暗闇。
濁った水の匂いと、激流に揺れる床。
五感が誤作動を起こして、有るはずもないものの存在を感じ取る。このラピスに、まだ秩序と呼べるものが存在しなかった頃のこと、崩れゆく地下から死に物狂いで地上を目指したあの日に、記憶が巻き戻っていく。
アルシュは彼を見つめて、あたかも水中で空気を求めるように口を動かした。何か言いたいのに、何も言葉が出てこない。彼も同様に目を見開いて、無線機を握ったまま立ち尽くしていた。
「どうした?」
そんな彼を振り返って、警備隊のチーフが怪訝そうに問う。
「……いや」
暗い海の向こう側で、波音に揺らいだ声が言う。彼は小さく首を振り、アルシュから視線を逸らして「間違いないようです」と答えた。
「行きましょう」
「よし」
警備員たちが頷き合って、議事庁のなかに駆け込んでいくさまを、アルシュは背筋を強ばらせたまま呆然と見つめていた。
「先生?」
動こうとしないアルシュに、怪訝そうにカルム少年が呼びかける。それでようやく、凍りついていた意識が解凍されて、アルシュは真冬の海からオルドニアに戻ってきた。心配そうに顔を覗きこんでいる少年に「何でもないよ」と首を振ってみせる。
心臓がうるさく鳴っていた。
彼が以前にMDPを突然出て行ってからというもの、五年近くアルシュは彼の所在すら知らなかった。もう二度と会えないかもしれないと思っていた友人を、まさかこんな切迫した場面で見つけるとは。
ただ、今は逃げるのが先決だ。
「とりあえず、敷地を出よう」
裸足なので歩きにくいが、どうにか走って統合議事庁の敷地外に出る。騒動を避けるためにも、ひとまず宿に戻ろう――と考えた。
だが、そこでおかしな集団を見つけた。
「――ん?」
パーティーの招待客が宿として利用している建物の裏側に、人影がある。黒っぽい装いに身を包んだ三人組が、外階段を素早く駆け上っていった。カルム少年もその集団を見つけたらしく「あれ」と不思議そうに声を上げる。
「あの人たち……招待客じゃ、ないですよね」
「――そうだね」
アルシュは頷く。
明らかに盛装ではない身なりからして、パーティーの参加者とは思えない。それに招待客であるなら、一階のフロントで招待状を見せて身分を証明し、それから建物に入るはずだ。宿の利用者が外階段を通るようなことは、非常事態でもない限りあり得ない。
宿の管理者だろうか。
いや、それにしては見覚えがない。外階段を使わなければいけないような荷物を運んでいるわけでもない上に、やけに人目を忍ぶような装いと行動。明らかに不審だが、宿の周辺を警備している者は彼らを止めなかったのだろうか。
「……まさか」
そこまで考えて、アルシュははっと口元に手を当てる。
「先生?」
「ごめん、先に逃げて! あ……でも、宿には戻らないで!」
言うだけ言って、アルシュは議事庁の正面玄関に駆け戻る。小石が足の裏に食い込んで痛むが、構っていられない。息を切らしながら階段を飛び上がり、扉を押し開けて中に入ると、どこかと通信をしていた彼と目が合った。
彼はぎょっと目を見開いて、無線機のマイクを押し上げる。
「あんた、なんで逃げてない――」
「宿の裏階段に、不審な人がいた」
彼の言葉を遮って言う。
「そちらが本当の狙いで、こちらが陽動かもしれない。宿――パーティーの招待客が使ってる宿の警備って、どうなってる?」
「いや――分からない。管轄が違う」
困惑を内側に押し込めた表情で、彼は素早く首を振った。
「俺たちは場所を聞かされてない。どこだ?」
「じゃあ来て!」
アルシュの言葉に、彼は一瞬だけためらう素振りを見せたが、すぐに「分かった」と頷いて駆け出した。敷地の端まで戻り、宿に使われている建物を指さして教えると、彼はそのまま、振り返りもせずに雑踏のなかに駆け出していった。
あっという間に背中が見えなくなる。
数十秒後、正面玄関からどっと警備員たちが飛び出す。大波が押し寄せるように彼らがこちらに走ってきて、アルシュは慌てて脇に飛び退き、道を空けた。彼らはそのまま敷地を出て、宿の方角に走っていく。異常事態を察したらしい一部の群衆がざわつき始めるなか、アルシュは人垣を避けて走り、道の片隅で待っていたカルム少年を見つけて合流した。
「先生!」
彼の無事を確認した途端、身体から力が抜ける。アルシュがその場にへたり込むと、カルムは途端におろおろとした様子になった。
「い――痛ったぁ……」
「だ、大丈夫ですかっ。怪我!?」
「いや……足がね。うん、平気平気」
ストッキングしか履いていないまま走り回ったせいで、足の裏に擦り傷ができたが、それだけだ。アルシュが力なく微笑んでみせると、カルム少年はほっとした表情で壁にへたり込んだ。
その一時間後、事態が明らかになった。
ラピシア統合議会が危惧していたとおり、貨幣制度反対派による事件だった。パーティー会場付近を警備していたなかに内通者がいたのである。内通者は会場の近くに小規模な爆弾を設置し、まずそこで騒ぎを起こした。そうすれば警備が議事庁に集中することを見越しての行動であり、目的は最初から招待客が利用している宿のほうだった。推進派の重鎮議員であるユーク氏は、以前に襲撃未遂に遭ったことを警戒しており、招待されたもののパーティーには参加せず宿に残っていた。
一連の計画は、宿に残っているユーク氏を襲撃するために仕組まれたのだ。
幸いなことに警備員たちが駆けつけたため、ユーク氏は無事であり、実行犯たちはその場で取り押さえられた。また、パーティー会場での目撃証言から、警備隊内における内通者も特定された。
このように大事には至らず収束したものの、パーティーは当然のように中止となった。駆けつけたオルドニア防衛隊が間を空けずに現場検証に入り、新年を祝う――などという雰囲気は雲散霧消した。パーティーの招待客は多かれ少なかれ、興を削がれて落胆した。市民たちが何も知らず盛り上がっていることが、せめてもの救いであろうか。
***
警備隊に内通者がいたせいで、巻き添えで取り調べを受ける羽目になり、カノンが職務を終えたのは午後十一時過ぎだった。
もう年明けまで一時間もない。本来なら九時で交代のはずだったのに――と、行き場のない不満を抱えたまま、警備員のために用意された仮眠室に入る。パーティーの招待客に用意された豪奢な部屋とは違って、寝台と小さな机だけがある手狭な部屋だが、まあ個室であるだけ良いと言うべきだろう。荷物を降ろし、照明をつけないまま寝台に寝転がる。
靴を脱ごうとした、そのときだった。
コツン、とノックの音。
疲れた身体をどうにか起こして扉を開けると、向こうに立っていた人が小さく含むように笑った。
「見つけた」
「……アルシュ」
懐かしい人がそこにいた。
その顔立ちはいくらか大人びて、頬が少し細くなったようだが、雰囲気はむしろ和らいだように感じられた。パーティー会場で見かけたときのドレスに加えて、厚手のストールを羽織っている。髪型と服と化粧はフォーマルなのに、足下が黒の革靴というちぐはぐな格好の彼女が「久しぶり」と言って笑った。
「どうせ、カノン君からは来てくれないと思って。来ちゃった」
「まあ――あんたの居場所は、どのみち一介の警備員には知りようがないけどね」
「……ずるい言い方」
彼女は唇を尖らせる。
「仮に知ってても来ないでしょ。そういう人だ」
「いや、まあ……どうだろうね」
カノンは曖昧に言葉を濁らせた。
アルシュが自分に対して思っているほど、自分は冷淡ではない――とも思う。とはいえ五年前の春にスーチェンを出たときは、これが彼女と会う最後になるかもしれないと思いつつ別れを告げたので、いざ再会してみると、どう振る舞えば良いのか分からない。
「話をするなら、部屋に入るかい」
とりあえずそう提案してみると「それでもいいけど」と彼女は人差し指をあごに当てた。
「隣の建物のラウンジでさ、お酒出してるみたい。話に付き合ってくれる気があるならさ、ね、飲みに行かない?」
「ああ、まあ……」
カノンは時計をちらりと見る。
明日の九時には警備を交代しなければならないが、仮眠を取ることを差し引いても、まだ時間の余裕はあった。
「少しなら、付き合える」
「本当?」
ぱっとアルシュが笑顔を浮かべた。
「じゃあ、行こう」
「そうだね」
床に投げ出していた荷物を拾って、通路に出る。アルシュが先に立って、アルコールを提供しているというラウンジまで案内してくれる。突き当たりの通用口を開けて外階段を降り、年明けを待っている市民たちの脇を抜けて、隣の建物に向かう。
「こっち」
アルシュはそう言って、イルミネーションに彩られたオープンテラスを指さした。そこから屋内に入って、雰囲気を醸すためにわざと薄暗くしているらしい階段を登る。
足音が階段室に響く。
先を歩くドレスの背中を見て、カノンはどこか見慣れない感覚を覚えた。しかし、違和感の正体を自分でも掴めないまま、二人は最上階のラウンジまで辿りついた。カウンターで、日給の数十分の一にあたるコイン数枚と引き換えにウィスキーを受け取り、それを持ってバルコニーに出る。
窓を開けた瞬間、粉雪混じりの風が吹き付けた。
「……寒いね」
そう呟いて、アルシュがストールを羽織り直す。その様子を視界の片隅に眺めていて、カノンはそこで初めて、違和感の正体に気がついた。
以前なら従者やMDP構成員たちと一緒に行動していたはずのアルシュが、ひとりで訪ねて来ていることに、違和感があったのだ。
「あんた……ひとりで出歩いてて良いのか。しかも、こんな時間に」
「ん、ダメなことある?」
「さっきの――従者の子はどうした」
正面玄関で彼女を見つけたとき、隣にスーツ姿の少年がいた。てっきり、アルシュの身辺を警護しているのだと思ったが「従者?」とアルシュは不思議そうに眉をひそめる。それから彼女は、ああ――と呟いて小さく首を振った。
「カルム君のことね。ううん、あの子はそういうんじゃないよ」
「じゃあパートナー?」
「違うよ」
今度はどこか呆れたような声で言って、彼女はカクテルグラスの中身を半分近く一気に飲み干した。ほのかに青いそれが何のカクテルかは知らないが、それなりに度数があるだろうに、アルシュは顔色ひとつ変えずにグラスをテーブルに戻した。
「……っていうか」
ふぅ、と彼女は濁った息を吐き出す。
「あの子、十歳近く年下だからね? 敢えて言うなら……教え子かなぁ。統合議会に入ってきたばかりだから、私が面倒見てるの」
「あぁ、そう……そりゃ、悪かったけど。それにしたって、護衛も付けず夜中に出歩くのは、あんたの身分で許されるのかい」
「昔とは肩書きが違うからね」
「違う、というと」
「え?」
カノンが片方の眉を上げると、アルシュが不思議そうに肩をすくめてから「そっか」と呟いた。
「知らないか。MDPはね、統合議会に併合されたんだ。何年か前から段階的に進めてて、今年の春くらいに全部のプロジェクトを移動させた。だから私は、まあ――議会運営には関わってるけど、それだけの身軽な身分なの、今はね」
「なるほどね……」
だから護衛を付ける必要もない――ということらしい。以前に比べてどこか穏やかになった表情も、背負うものの軽さゆえなのかもしれない。
「……それにしても」
ストールをきつく巻き直して、アルシュがバルコニーの柵にもたれかかる。
「本当、すごい人の数……」
彼女の視線を追って、カノンも下を見た。四階の高さから見下ろすと、街路に集まった群衆がひとつの塊のように見える。新しい年が始まる瞬間、オルドニア中央の広場で花火が上がる予定になっており、彼らはそれを今か今かと待っているのだ。
「すっかり栄えたもんだ」
「本当にね。地下にいた頃は、想像もできなかった」
アルシュが頷いて、ここにはないものを見つめるように目を細める。
何もかも、あっという間に変わった。太陽や月は変わらず東から出て西に沈むし、似たような暑さと寒さが繰り返すのに、その下を生きている人々は、数年前とはもう、比べる気にもならないほど変わったのだ。
賑わう街から目を逸らして、空を見る。
暗い夜空に月が昇っていた。
真円に近いその光を見て、カノンはふと、彼女に謝らなければならないことを思い出す。
「……あんたに黙っていたことがあってね」
何もかも、変わった。
彼女の立場も、自分の立場も変わった――そんな今ならば、ひとつ打ち明けてみても良いかと思った。アルシュが瞳だけをこちらに滑らせて「何?」と唇を尖らせる。
「カノン君がそんなこと言うなんて珍しい」
「四年前の春……MDPで保護されていたシェル君が、忽然といなくなっただろう」
あの日も満月だった――と思い返しながら、カノンは月の光に目を細める。
「あれは、俺が手引きしたんだ」
「――え? どういうこと」
「俺がスーチェンの街を案内してやって、シェル君を逃がした。当時、彼はMDPの保護下にあったから、俺があんたに迷惑を掛けたことになる」
悪かった――と素直に頭を下げると、アルシュは困ったように眉を寄せた。ほとんど空になったカクテルグラスをテーブルに戻して「そっか」と肩をすくめる。
「いや……今更、怒るような気にもならないけどね。でも、一応聞かせてよ……どうして、そんなことをしたの。だって、あの頃……シェル君に対して、結構、怒ってたでしょ?」
「たしかに、そうだね」
彼女の言うとおりだ。
シェルが記憶を失ってしまったことに対しては、悲しく思いこそすれど、怒ってはいなかった。ただ、彼の幼馴染であるロンガのこと――彼にとって誰よりも大切なはずの人の記憶さえ抜け落ちてしまったことを知り、カノンはそれに失望したのだ。
あの二人の間にある執着にも似た親愛は、記憶阻害剤などでは奪えないはずだ――とどこかで思っていたからこそ、そして、その神秘めいた絆に屈して、実らない恋から身を引いたからこその失望だった。
「それが、どういう心変わり?」
アルシュが柵に肘をついて、こちらを見る。その続きを話すのには多少勇気が要って、カノンは思わず手にしていたウィスキーのグラスに口を付けた。アルコールの熱が、喉を駆け下りていく。
「たしかにシェル君は全て忘れていた。ただ――」
凍てつくような空を見上げて、呟く。
「
何もかも忘れたわけではなかった。
本当に核になる部分だけは、彼の心の中央に刺さったまま抜けないでいたのだ。
「勿論――
「それでスーチェンから逃がした?」
「そう」
カノンは頷く。
「悪かった」
「いや……うん。カノン君がやったことの可否を断じる気はないし、私も、もしかしたら似たような結論に至ったかもしれない……」
カクテルグラスの波面をくるくると揺らして、アルシュは「でもさぁ」と目を細めた。
「やる前に相談して欲しかったし、せめて逃がした後に教えて欲しかったなぁ……MDP総責任者としてとか、管理責任がどうこうとか以前に、友達がいなくなったら、そりゃあ心配するじゃん」
彼女は小さく鼻を啜る。
街を見下ろす目が、僅かに充血していた。
「それどころか、カノン君までどっか行っちゃうしさあ……別にさ、私に嘘を吐いてても良いから、消えないで欲しかったよ」
「俺がか」
「そうだよ?」
アルシュが眉を下げて笑う。
抜け落ちた主語が自分を指していたと知って、カノンはほのかな罪悪感を覚えた。どうにも自分は、物事をややこしく考えすぎる節があるのかもしれない。問題が複雑に見えるからこそ、それを解決するために強硬な手段を取ってしまう。
もしかしたら、あの春。
シェルを逃がす前にアルシュや他の人に相談していれば、また違う未来があったかもしれない。だけど、その後悔はすべて「もしかしたら」の範疇であって、どれだけ考えたところで過去は変えられない。
ならば、せめて次は、もう少しだけ誠実なことができるように、覚えておこう――と思った。
「あ――もうすぐだね」
そう言って、アルシュが柵から身を乗り出す。
ついに年が明けるようだ。
創都三五〇年が、すぐそこまで来ている。
オルドニアに集まった市民たちが声を合わせて、カウントダウンをしていた。
十、九。
――誰もが期待に満ちた表情で、斜め上の空を見つめている。
八、七。
――季節が一巡りを終えて、また新しく始まる日だ。
六、五。
――明日からまた、今までと似たような朝夕が、春夏秋冬が始まる。
四、三。
――だけどそれは、今までのどこにもない、新しい歴史だ。
二。
あ――と隣でアルシュが声を上げた。
アルシュはカノンの袖を引き、興奮した表情で群衆の一点を指さした。カノンはその指先を見て、そこに佇む人の、月光のように澄んだ輝きを見つける。
一。
彼女がこちらを見上げた。
そして、懐かしい顔ぶれを見つけた彼女は、新年を目前にして湧き上がった人垣から離れる。建物の外に据えられた階段を見つけて、その螺旋を駆け上がる。めぐる軌道を昇って、空の方角へ。懐かしい人たちが待つ場所へ、手を伸ばす。
『地上で会いましょう』
いつか送り合った言葉を、胸の中央に抱いて。
ゼロ。
花火が上がる。
人垣が歓声を上げる。
彼女は、ひとつの約束を果たす。
そして――長い旅が、ひとまずの終わりを告げる。
***
太陽は空をめぐる。
月は地球をめぐり、地球は太陽をめぐる。
二十四時間に一度訪れる朝や、三十日に一度訪れる満月や、一年に一回訪れる春は、どれも全て、天体同士が同じような位置関係に戻るからこそ生じる繰り返しの事象だ。だが正確には、太陽系や銀河そのものも宇宙空間を移動している。だから地球という星が、今ある場所にふたたび戻ってくることは、未来永劫決してない。
繰り返しのようで、実は前に進んでいる。
回帰と再生。
その隙間に、僅かな仰角がある。
ひとつとして同じ歌がないように。
祈るたびに深みを増す想いのように。
無限に流れる時間のなかで、幾度となく回帰と再生を繰り返す。その一巡りのたび、積み上げてきたものが、足下に積層していく。だから、その先に踏み出す足が、同じ足跡を踏むことは二度とない。
めぐる軌道は、決して閉じた円形ではない。
螺旋、なのだ。
位相は限りなく繰り返し、似た景色を何度もめぐり、だけど確実に上を目指す。有限の果てに辿りつく回帰と、無限を目指して立ち上がる再生との狭間に、人は、街は、世界は生きて、そして続いていく。
螺旋の塔の、その先へ向かう。
また、新しく開くもののために。
Ⅹ 蒼天をめぐる軌道 了