一ユーロの幸福
文字数 6,654文字
夜までにハイバネイト・シティに戻ってこいと命じられていることを思うと、そろそろ時間切れが近かった。白い紙箱のなかにあるパステルカラーのマカロンは、最初六つあったのが、ユーウェンが二つ、エリザが三つ食べたので、残り一つになっていた。もともと手土産のつもりだったので、残りは置いて帰ろうかと思ったのだが、ユーウェンに「食べなよ」と進められたので、欲に負けてもうひとつ食べてしまった。
「美味しい……」
汚れた唇を拭って呟くと、それは良かった、と言ってユーウェンが笑った。一日に四つもマカロンを食べてしまって、何か悪いことでもしたような気分になる。こんな贅沢をして良いのだろうか、とエリザは密かにユーウェンの顔色を窺うが、彼はまったく平然としていた。
「……あの、ユーウェンさん」
思い切って聞いてみる。
「このマカロン、ひとつ一ユーロだったんです」
「うん、そのくらいだろうね」
「一ユーロって、どのくらいですか?」
エリザの質問に、ユーウェンは一瞬だけ怪訝な顔をしてから「ああ」と頷いた。
「そうだね……ほんのちょっとの贅沢、くらいかな」
「ほんのちょっと」
言葉を繰り返すと「そう」と彼は頷く。
まだ舌の上に残っている味を名残惜しみながら、エリザは、はじめてマカロンを食べた日のことを思い出していた。あの日、口の中で弾けた未知の美味しさを、エリザは本能のどこかで拒絶していた。あまりにも美味しすぎるものだから、これは、簡単に手を伸ばしてはいけないものだ――と、自分のなかで勝手に線を引いたのだ。
それを「ほんのちょっとの贅沢」だなんて。
ただ、ちょっと食べたいから買ってみた、その程度の気持ちで手を伸ばして良いものだったなんて。エリザは空になったマカロンの箱を畳みながら、幸せとは、意外と簡単なところに落ちているものなのかもしれない、と思った。
この分枝世界では、手に入らないものの方が多い。
たとえば青い空の下を歩くことは、一生掛かっても叶わないだろう。本当なら、ほかの分枝世界にいるエリザのように、自分にも恋人や友人や、あるいは娘がいたら良いのにと思うけれど、それだっておそらく不可能だ。
この、収束していく世界で生きることが運命なら。
ならば、せめて――ひとつ一ユーロのマカロンくらいは、気軽に口に放り込みたい。
***
ルーカスの目論見が水際で失敗したことにより、ハイバネイト・プロジェクトにはひとつの難題が残された。
身内から犯罪者を出したこと――ではない。エリザの病室をたびたび訪れた警官も言っていたとおり、違法取引の関係者がほとんどオフィスビルの崩落に巻き込まれて亡くなったので、ルーカスの所業は公にならなかった。彼は、ユーウェンが退院した二週間ほど後に、何食わぬ顔でハイバネイト・プロジェクトに復帰した。
問題は、ルーカスがエリザを売り払うことで得られるはずだった膨大な金額が、人工冬眠カプセルの予算として計上されていたことである。ルーカスは、想定していた予算が確保できなかった原因を「折衝の失敗」と、呆れるほど面の皮が厚い表現で説明してみせた。
長引く会議を、エリザは会議室の末席で聞いていた。
「だから――」
眼鏡を押し上げて、ジゼルが苛立った口調で言う。
「失敗の詳細は、もうどうでもいい。ルーカス、サティッシュ、率直に言え。カプセルの予算を用意できる見込みがあるのか、ないのかを、だ」
「……サティ」
「正直に申し上げまして」
ルーカスに小突かれ、サティが重いトーンで口を開く。
「今から新規で予算を募るのは、かなり難しいです。どこの公的機関も、ほとんど助成金を打ち切っていますし……一昔前なら、企業との共同研究という道もありましたが、人工冬眠の案を採用する以上、メンバーを増やすのは不可能でしょう。ですから――」
サティは青ざめた顔で一息はさむ。
全員が、ごくりと唾を飲み込む気配があった。
「……八人全員で未来に行くのは、その……不可能、かと」
「どうにかならないのか」
ニコライが重々しい口調で言った。
「人工冬眠の技術そのものは確立されているわけだろう。カプセルを数基追加で作るくらいのことは、不可能ではないように思うのだが。すでにハイバネイト・シティ内にある資産を流用して、代替品を作ることは?」
「冷却剤のコストが全体の四割ほどを占めているんですが、こちら化学系のメーカーが特許を持っていまして、そちらから直接購入するしかなく……」
「一般的な冷却剤で代用することは?」
「難しいかと思います」
こちらはルーカスが答えた。
「人工冬眠に入る際、もっとも重要なのは冷却の迅速さです。熱拡散係数がほんの少し規定値に満たないだけでも、神経機能や内蔵に甚大な損傷を与えると言われています。最終的な目的が未来における都市再建である以上、人体に対するリスクは排除するべきかと」
「……そう、なのか」
ニコライが眉間にしわを寄せてうつむく。会議室に重苦しい雰囲気が広がるなか、エリザは欠伸をかみ殺した。話が専門的すぎて理解できないのは、いつものことだった。どうせ意見を求められるわけでもないのだから、居室に戻らせてくれないだろうか――などと考えながら、ぼんやりと椅子に腰を下ろしていた。
会議は長引き、エリザは眠気を堪えて目をこする。
カチッと音を立てて、分針が何回目かの頂上に辿りついたときだった。
「――エリザ」
腕を組んで唸っていたニコライが、不意にエリザの方に振り向いた。エリザが返事の代わりに首を傾けると、彼は険しい顔で口を開いた。
「ルーカス君から聞いたのだが……交渉が上手く行かなかったのは、君が、彼の言うことを聞かなかったからだそうだね。つまり、この失敗は君の責任だ。もしもカプセルが規定数用意できなかった場合、まず、君から責任を被ってもらう」
「は……!?」
血相を変えてユーウェンが立ち上がる。
蹴り飛ばされた椅子が、ガタンと硬い音を立てた。
「警察の方から聞いてないんですか。他の皆さんだって聞いたでしょう!? プロジェクトの予算を犯罪行為でまかなうなんて、そんなもの、到底あってはならないはずです! そこから逃げ出したことを、当然の正当防衛を、言うに事欠いて、彼女の責任なんて――」
「ユーウェン君」
冷めた表情でニコライが遮った。
「まさか君は、ルーカス君が人身売買に関与していたなんて、本気で信じているのかね」
「なっ――」
正面から叩かれたような調子で、ユーウェンが絶句する。
エリザは黙ったまま、会議室に集まっている面々の表情を見回した。全体として、面倒くさそうな、あるいは何かを抑え込むような表情をしている。表立って意見を主張するまでではないものの、内心に抱えているものは誰もみな大差ないようだ。
「サティッシュ君」
信じられない、と言わんばかりの表情で立ち尽くしているユーウェンから目を逸らし、ニコライが、会議室前方にいるサティに問いかける。
「八つではなく、七つなら、予算は足りているのかね」
「えぇと……そうですね」
ノートパソコンのキーをいくつか叩いて、サティが頷く。
「やっぱり、いくつか組み込みの基板が不足するんで、マリアの協力を仰ぐことになりそうですけど。あと、デザインの修正をアマンダに頼むことになりますが、冷却剤を優先して購入すれば、七人分ならなんとか」
「なら決定だ」
ニコライが冷淡に言った。
「正規のプロジェクトメンバーの分のみ、人工冬眠カプセルを用意しよう。エリザ、君はハイバネイト・シティ内に滞在し、我々が眠りに就いているあいだ、カプセルおよび居住区域の保全を担ってもらう」
「そんな馬鹿な――」
「ユーウェン。本プロジェクトにおけるエリザの役目は終了している」
ジゼルが氷点下のトーンで言った。
「長期気候変動の予測が完成した以上、新世界において、エリザは不要だ。もともとハイバネイト・プロジェクトは、ありとあらゆる人間を救済する試みではない。選ばれた優秀な人間のみを未来に送り込み、世界を再生させるプロジェクトだ。選ばれるべきでない人間に過剰な労力を割くのは、このプロジェクトの理念に反している」
「仕方なく諦めるのと、そうして積極的に切り捨てるのは、別の話でしょう!」
「これはコスト配分の問題だ。ルーカスやサティッシュに過剰な負担を強いて、予算を補充するように走り回らせたところで、それに見合うだけの価値が彼女にあるか、という話だ」
「価値って。そんな、人をものみたいに――」
「ユーウェンさん」
椅子に座ったまま顔を上げて、エリザは言った。
必死に食い下がってくれていた彼に向けて、エリザは緩やかに首を振ってみせる。
「もう、結構です」
「え、ちょっと――」
「ニコライさん、皆さん」
ユーウェンの言葉を遮って、エリザは立ち上がった。
唇をぎゅっと横に引いて、会議室に集まったハイバネイト・プロジェクトの主要メンバーたちをぐるりと見回す。まだ左腕を吊っているルーカス、彼に怯えている様子のサティ。面倒ごとは嫌いだと言うふうに足を組んでいるジゼル、眉間に深いしわを刻んでいるニコライ。話の成り行きを眺めているだけのマリアとアマンダ、そして、彼らに抗弁しようと腰を浮かせているユーウェン。
そんな彼らを見渡して、エリザは口元を持ち上げた。
「私のぶんの人工冬眠カプセルは、用意して頂かなくて結構です。どうぞ、七人分で準備を進めて下さい」
それから、ひとつ言葉を付け足す。
「……未来になんて、私、行きたくはありませんから」
***
「――エリザ!」
会議が閉会になったあと、エリザが会議室を出て居室に戻ろうとすると、後ろからユーウェンが追いかけてきた。
「ニコライ先生のところに行こう」
「どうしてですか?」
「どうして、って――だって、このままじゃ、本当に、君だけ置いて行かれるよ。それに――ルーカスのことだって。ちゃんと認めさせないと、また同じことが起きる」
「あの人たちに何を言っても、貴方の立場が悪くなるだけですよ」
エリザは左右に首を一往復させる。
「良いです、私はもう。ルーカスさんもこれ以上、滅多なことはしてこないでしょう。いちど大事になりかけましたし、予算を確保する必要もなくなったんですから」
「でも……! このままじゃあ、君のカプセルが」
「要りません。本当に、要らないんです」
エリザははっきりと言った。
未来になんて行きたくない――と言ったのは、負け惜しみではない。
それは、紛れもないエリザの本心だった。より正確には、この分枝世界のプロジェクトメンバーたちと一緒には行きたくない、というところだが。彼らとともに未来に行ったところで、今と同じような抑圧された日々が続くだけだ。ならいっそ、生きる時間を分けることで彼らと生き別れる方が、エリザの人生は解放されるだろう。
「良いじゃないですか」
にっこりと微笑んで、エリザは言った。
「ハイバネイト・シティに居させてもらえるなら、飢えることも凍えることもない。寒冷化が終わったあとの世界を歩くことは叶わないですけど、でも、それだけです。カプセルの番人をするだけで、苦しまず一生を終えられる。こんな時代にしては、ずいぶん、贅沢な人生じゃないですか?」
エリザが笑顔でそう言うと、ユーウェンは長い沈黙のあとに、ぽつりと「そんなことを言わせて、ごめん」と呟いた。こちらを見下ろしている額には冷や汗が伝っており、血の気が失せて真っ白だった。
ハイバネイト・プロジェクト主要メンバーのなかで、ユーウェンは最後にプロジェクトに参加した人間だ。七人のメンバーのうち、リーダーのニコライを除く六人は、便宜上では同等の立ち位置ということになっている。だが、年齢や加入順による序列が、可視化されないながらも存在しており、ユーウェンの立ち位置はおそらく最下層だ。だからこそ、ユーウェンがいくら正論を主張したところで、ルーカスの白々しい建前を覆すことができない。
ユーウェン自身も、たぶんそれを理解している。
だからこその「ごめん」なのだろう。
だけど、後から参入したユーウェンがハイバネイト・プロジェクトにおいて発言力が低いおかげで、彼はD・フライヤに歪められずに済んだ。この分枝世界という物語において、いてもいなくても大筋に影響を及ぼせない脇役だからこそ、ユーウェンはエリザの物語におけるヒーローになってくれたのだ。
そちらの方が、何万倍何億倍も、エリザにとっては重要だった。
「それより、ユーウェンさん」
髪の毛を背後に流して、エリザは彼を見上げる。
「この間お願いした、資料室を案内して欲しいって話なんですけど……覚えてます?」
「あ……ああ。うん、覚えてるよ」
「今日って、時間ありますか?」
「夕食の後なら」
「じゃあ、今日、行きませんか」
エリザの提案に、まだ申し訳なさそうな顔をしていたユーウェンだったが、何かを飲み込むように頷いて「分かった」と口元を持ち上げた。
その夜。
何年も前から居室にあるノートとペンを持って、エリザは資料室に向かった。スライド式の扉をおそるおそる開けると、書架の隙間からユーウェンが顔を出して「やあ」と片手を振ってくれる。その両手には、すでに何冊かの専門書が抱えられていた。
「何の本ですか?」
「制御工学……ええと、ロボットの動かし方とか、そういう学問の本だよ」
「難しいですか?」
「そりゃあね」
くすりと彼は笑った。
「そうじゃなきゃ、楽しくないから」
「……そうですか」
ユーウェンの言葉を聞いて、エリザはなぜか胸が暖かくなった気がした。どうしてなのか、自分でも分からない。ただ、記憶のはるか遠い場所で引っかかって痛みを発していた、小さなトゲのような出っ張りが、均されて消えていった気がした。
せまい書架の間を歩きながら、ユーウェンが資料室の案内をしてくれた。見通しが悪いので広さが分かりづらかったが、かなり奥に長い空間のようだった。五分くらい歩いて、ようやく突き当たりの壁に行き当たる。病院からの帰りに歩いたコンコースと同じか、それ以上に奥行きがあるのではないだろうか。
広い空間に整然と並べられた書架には、さまざまな装丁の書籍が、内容ごとに分類されて収められていた。ユーウェンが抱えているような分厚い専門書が多いが、なかには平易な言葉で書かれている薄めの本もあった。
「昔は……図書館、なんて場所があってね」
ふと立ち止まってユーウェンが呟く。
「これよりも、もっとずっと広い。大きなビルひとつが、まるまる本を収めた建物だったりしたんだよ。ただ……本は、やっぱり場所を取るから。保管しているには、あまりにもコストが掛かりすぎるっていう風潮でね……ハイバネイト・シティにおいても、大半の資料は電子化されて、デジタルのライブラリになってしまった」
ハードカバーの背表紙が並ぶ書架を眺めて、彼は目を伏せる。
「いつか、こういう空間も失われるんだろうな」
「いえ。未来にも、きっとありますよ」
いつか見た夢を思い出して、エリザは言った。
「ユーウェンさんが作りますから」
「ああ、そうか……」
目尻にしわを寄せて、ユーウェンが「そうだね」と笑った。
***
プロジェクトメンバーが人工冬眠の準備を忙しく進めるなか、ひとり暇を持て余したエリザは、資料室に入り浸って本を読んだ。最初は、ユーウェンが読んでいたような専門書を読んでみようとしたのだが、数式も表現も難解すぎてまったく分からない。最初の一ページから前に進めないまま、何日も唸っていたところ、ユーウェンが「まずはこっちを読むと良いよ」と言って、文字が大きくカラフルな本を紹介してくれた。
「あの……」
エリザはむっと唇を横に引いた。
「私、これが読みたいわけじゃないんですけど」
「学習はね、積み重ねるものなんだ」
テーブルの向かいに座ったユーウェンが、そう言って苦笑する。
「読んだ本の厚みの分だけ、次に何かを読むのが簡単になる。それからね、読むのはどんな本でも良いんだけど、難しすぎて読めないなぁと思ったら、その本はまだ早いってことだと思うんだ」
頬を膨らませているエリザに、彼は諭すように言った。
「いつか必ず、その本を読むのに適したタイミングが来るから。それまで、色々な本を読んで準備するのが良いと思うよ」
「必ず、ですか?」
「うん。君は賢いから、きっと、すぐだよ」