chapitre69. メッセージ
文字数 7,981文字
高い円筒型の部屋は、全体に薄い霞が掛かったように見える。霞んで見えているその実態は空気中に漂う微粒子で、ここに図形や画像を投影することができるらしい。ハイバネイト・シティ内に無数に存在するブレイン・ルームは管理AIの
とは言っても人間の演算能力はELIZAに大きく劣るため、主に求められるのは『意思表示』だ。縦にも横にも広く分布した思考空間で、誰かが「こうしたい」と考えた、そのアイデアをELIZAが分割してより単純な問題に落とし込み、各ブレイン・ルームに対して意思判断を問う。その解答をELIZAが集積させて、大まかに言えば多数決で全体の意向が決定される。
こうして“
カノンが「仲間は多いほど良い」と言ったのは、一般論的な意味以外にもこれが関係していたようだ。地上に過剰な攻撃を加えようとする案にソレイユが反対していけば、それだけ提案の通る確率を下げられる。
簡単な操作方法を口頭で説明してから、“
「ぼくも肌を隠した方が良い?」
昇降装置に乗り込む前にカノンに聞いてみたが、彼はソレイユの顔を一瞥して「まあ大丈夫だろう」と答えた。牢獄グラス・ノワールに2年間滞在していたせいで、それなりに日焼けしていたはずの肌はかなり白くなっていた。加えてハイバネイト・シティ下層の施設は全体的に光量が絞られているために細かい色の違いを判別できるほどではないと言われ、納得して素顔のままブレイン・ルームまでやってきた。
「さて」
呟き、目の前に表示された白い長方形にソレイユが触れると、小さく光ったのちにいくつもの直線がそこから走り、分岐して別の長方形や円形につながる。全体の構造を見ると、それがタスクツリーと呼ばれている理由が一瞬で理解できた。青空に向かって伸びていく樹木によく似ているのだ。
上に手を伸ばし、空気を掴んで引くような動作をすると、その動きに追随してタスクツリーが移動し、お目当ての部分がすぐ目の前にやってきた。小さな図形に指先で触れると大きく拡大されて、そこに文章が表示される。通常は異言語で表記されるらしいが、設定を変えてもらったのでソレイユにも読める文章だ。
さっそく最初の文章に目を通す。
――【カテゴリ:攻撃】サン・パウロからの地上人類撤退が芳しくない。より強硬な手段に出るべきか。補遺:現在サン・パウロに対し実行済みの作戦は以下の通りである。上水道への**散布、**ルートを通じた電子的攻撃、ほか――
覚悟こそしていたが、そこには予想以上の生々しい悪意が示されていて、ソレイユは思わず顔をしかめて「うわ」と呟いた。【反対】に一票を投じてから、即座にそのタスクツリーを背後に投げ捨てる。作業に要した労力としては微々たるもののはずなのに、その場に座り込みたいくらい疲れた。
数十分ほど同様の作業を続けた。
解答の匿名性は保障されていると聞いたので、基本的に地上に対し過度に攻撃的な提案には反対票を投じたが、比較的穏便なものには賛成することもあった。“
適宜【賛成】に票を投じてくれ、というのはカノンやサジェスも言っていたことだった。匿名性が保障されていると言われたとおり、管理AIであるELIZA側で回答者を記録している訳ではない。しかし、上流のブレイン・ルームからはこちらの様子が見えているため、あまりに反対票ばかり投じていると疑われてしまう。
「地上に益する裏切り者ではなく、“
彼らがコアルームと呼ぶ部屋で、椅子をくるりと回してサジェスが言った。ソレイユは苦いものを喉の奥に飲み込み「分かった」と頷く。
一日のスケジュールが終わり、時刻は地上で言うところの午後8時。地上はすっかり闇に落ちる時間帯だろうが、地下世界には昼も夜も関係ない。サジェスがマダム・カシェから総権を奪い取るまで、24時間周期で時間を区切ることすらなかったというのだから驚きだ。
普段なら各々の居室に帰る時間らしいが、今日はサジェスが仲間を呼び集めたらしく、コアルームに十数人の人間が集っていた。カノンとティアもそのなかにいる。“
一通り自己紹介を終えると、「さて」と言ってサジェスがパネルの前に向かい、何か操作をした。大小のウィンドウがいくつか開いて閉じたのち、巨大で緻密な図形がパネル中に表示される。夜空に浮かぶ星をでたらめに繋いだような点と線の集合体にソレイユは目を見開いたが、その端にある文字列を見て合点がいった。
ラピス中の配電系統を模式的に表した図のようだ。ほとんどは水色だが、上の方に部分的に赤い領域がある。あれは何だろう、と思いながら見つめていると、それは一瞬で横方向に広がった。思わず、あっと息を呑む。
「――最近24時間の様子を、30秒に圧縮して再現した。新しく入った者もいるため詳細に説明するが、つまり私たちが制圧した配電系統が部分的に取り返されたということだ。いま点滅している部分を見て欲しい。これが七都のそれぞれに対応している。すなわち、少なくとも七都それぞれの中心部同士においては、光の速度で情報が交換できるようになったのだ」
サジェスのすぐ隣に立ったティアが、異言語で何かを喋る。人々の表情が一様に強ばったのを見るに、おそらくはサジェスが語った内容を訳したのだろう。サジェスは同胞たちの顔をぐるりと見回し、穏やかだがはっきりとした声で「慌てないで欲しい」と言う。
「これは向こうの反撃ではない。少なくともティアが交渉しているMDPには、その意図はない。説明してもらえるか」
「はい」
視線を向けられたティアが、ひとつ瞬きしてから口を開く。
「これは以前もお知らせしたことなのですが、MDP側は地下へ謝罪を申し入れようと動いています。今回の一件は、地上での意思伝達をより高速にするため、MDPが先導して行ったことのようです」
まだ10を少し越えたばかりの年齢とは思えない、落ち着いた声でティアが言う。他ならぬティアが地上との交渉役を努めているのか、とソレイユはひそかに驚いた。先ほどと同様、ティアが異言語で訳し終えてから、サジェスが「ありがとう」と言って頷く。
「ティアが言ったとおりだ。そして、これを見て欲しい――ラピス全域でおよそ数十箇所の爆破が行われたのだが、それぞれの爆破箇所で、回線に分割して乗せられていたシグナルを解析した。この意味が分かるか? こちらに気付かれることを前提とした、MDPからのメッセージだ」
ティアの訳が語られると共に、息を呑む音がコアルームに満ちる。波のように広がったどよめきが収まるのを待ってから、サジェスが何か操作して、パネルに短い文字列を表示した。分割された文章を再構成したためか、ところどころ接続がおかしい。欠けていて読み取れない文章もあるが、全体の意味合いとしては理解することができた。
「互いに許し合いたい。謝罪を申し入れたい――おおよそ、そういった内容だ。さて、どう思う? 我々はこの文面を“
ダメな理由があるのか、と反射で答えそうになったが、周囲の重苦しい雰囲気を察知してソレイユは言葉を飲み込んだ。それから数秒遅れて、沈黙の意味を理解する。
ここまで来てしまって今更、言葉ひとつの謝罪だけで、激昂した“
「――私たちには、真祖に目覚めて頂く、という切り札があります」
沈黙を打ち破って誰かが言った。
「しかし、そこに辿りつくためには出生管理施設を奪い取る必要があり、その遂行には強硬手段が要求される。である以上は、むやみに士気を削いでしまうと、どちらの策も叶わない未来になりかねません」
「ヴィルダと同意見だ」
隣に立っているカノンが言った。
「俺も、少なくとも今言うべきではないと思いますね。総代さん、あんたは今朝まさに、出生管理施設を奪い取ると宣言したばかりだ。立場が悪くなるだけでしょう」
「私の立場について君たちが気にする必要はない」
サジェスが冷淡に言った。
「しかし、その通りだ。他には?」
「ちょっと良いかな。MDPの存在は地下ではどのくらい知られている?」
新入りなのだから多少の質問は許されるだろう、と踏んでソレイユは片手を持ち上げた。
「謝意を示していると言われて、実際、どのくらい反響があるものかな。全く知らない相手と、知っている相手なら謝罪の重みも違うよね」
「その質問には僕から答えます」
ティアが大人びた口調で言った。サジェスが横目に視線を投げ、小さく頷いてみせるのを受けて、ティアが言葉を繋ぐ。
「知名度はほぼ皆無と考えてください。新興の組織であり、また、彼らの特徴である
「ありがとう。ならばぼくも――彼らの謝罪を広めることは無意味、だと思う」
ソレイユが答えると、ティアがそれを訳し、コアルームには同意の表情が広がった。自分の意見が、概ね彼らに受け入れられたことを察知して、ソレイユは小さく息を吸った。声の調子と表情を大きく切り替えて言う。
「でもね!」
先ほどの、ティアの返事は予想通りだった。
本当に言いたいのはここからだ。
「だからこそぼくは、メッセージの内容を公開してもいい、と思う。地上の人間の言うことなど聞きたくでもない人には、この謝罪は響かず、そして、少しでも迷いがある人には暴走の抑止力として働く」
「……へぇ」
横でカノンが声を漏らすのが聞こえたが、呆れたのか感心したのか、どちらとも取れる声だった。
ティアが戸惑った表情になりながらも、ソレイユの発言を“
「しかし、シェル」
ひとり冷静な表情のサジェスが、ソレイユに問いかけた。
「それではヴィルダの、全体として士気が下がることは“
「何としても? そんなことはないよ。“
「――ここでは構わないが、外では真祖あるいは真祖エリザと呼んで欲しい。これはシェル自身のためだ」
サジェスが僅かに顔をしかめる。
「話を戻すが、真祖に目覚めてもらうことは私たちにとって切り札だ。言い方を変えれば保険だ。シェルの提案に沿えば、私たちは自ら、断崖に近づくことになるだろう」
「エリザさえ目覚めれば何とかなると思ってる? ぼくは正直そこまでは思えないよ。誰かの掲げる正義を己の正義だと思ってしまう、他者に依存する“
「試すだけの価値はある」
「本当に? サジェス君の
ソレイユが厳しい口調で言うと、「落ち着け」と後ろからカノンに肩を掴まれた。部屋の隅に立っていたつもりなのに、気がつくとかなり前に出ていた。向こうから見れば異言語で議論を繰り広げるサジェスとソレイユを、“
「シェル君。あんたの言うことも理に
頭一つ分以上高いところから、カノンが冷徹なまなざしで見下ろしている。その口元が動いて、音にならない言葉を紡いだ。その言葉を受け取ったソレイユが黙り込んだので、場の雰囲気を動かしかけた提案は結局流されてしまい、どうにか食らいついてひとつだけ許可を勝ち得たものの、MDPから届いたメッセージは廃棄された。
人々がコアルームから出て行き、用があると言ってサジェスもどこかに向かった。ソレイユは、示し合わせたようにコアルームに残ってくれたカノンとティアに向け、力なく笑ってみせた。
「人の決意に文句を付けるな――か。確かにそうかもね」
「納得してない顔してるよ、あんた」
「そりゃあ、してないよ」
ソレイユは口を尖らせて、目をぱちぱちと瞬いてみせる。わざと気楽な表情をしてみせなければ、自分がばらばらになって崩れてしまうような予感すらした。はあ、と息を吐いてコアルームの壁にもたれかかる。
パネルの電源を落としていたティアが振り返り、暗い目でソレイユを見つめた。
「僕たちだって、サジェスさんが犠牲になって良いと思ってるわけではないです。シェルさんが指摘した通り、成功しない可能性があるとも」
「……そうだよね」
出会った頃に比べて背丈は伸びたもののまだまだ小柄な少年は、寒さにでも耐えるように身体を強ばらせた。ふとソレイユは、2年前に、塔の上の部屋でティアと話したときのことを思い出した。異世界から来た少年がなおも笑ってくれることがたまらなく嬉しくて愛しくて、ついその身体を抱きしめたのだ。そのときのティアは、突然の行動に戸惑いながらも喜んでくれたような気がする。
でも今のティアには、触れることを許す気配すらなかった。琥珀色の瞳に浮かぶのは、全てを胸の内に押し殺そうとする強い意志だ。まだ無邪気な子どもでいていいはずの年齢なのに、真一文字に引かれた唇は、ほんの少し笑みを浮かべることすらない。
割り当てられた居室に帰る前にカノンの部屋に寄り、ティアのことを少しだけ話した。地上と交渉するようになってから、更に表情が硬くなったように思う、とカノンは難しい顔で言った。
「当然だね。自分を
「あぁ――そうか、アルシュちゃんは」
得心してソレイユが頷くと、カノンは何も言わず視線を逸らした。MDPの総責任者であるらしい、旧友アルシュ・ラ・ロシェルの
「――誰のせいでこんなことに」
特定の人間のせいではないと分かりつつも、それでも言わずにはいられなかったソレイユがそう呟くと、カノンは「ほら、誰かに恨みを向けたくなるだろ?」と言って寝台に寝転がり、目を閉じた。
*
コアルームでの会議を終え、自分の居室に戻る前に、サジェスは別の階層に立ち寄った。静脈認証でしか開かない二重の扉を開けると、さらに強化ガラスの壁がある。区切られた向こうの空間には、ただひとりの住人を除いて誰一人立ち入ることができない。酸素と二酸化炭素の濃度を一定に保たれた、最低限の供給と排出だけが成される閉じられた空間だ。その代わりに生活の快適さは保障されているが。
サジェスがガラスの前までやってくると、それを感知した管理AIの
「マダム・カシェ」
サジェスは、かつてハイバネイト・シティの女帝だった人の名前を呼ぶ。
「今日はなぜ俺を呼びつけた?」
「そうね――面白い夢を見たの。聞いてくれるかしら」
金色のウェーブヘアの影に、かつては紅色の塗料に覆われていた唇をのぞかせて、カシェが笑う。サジェスは息を吐いて壁にもたれ、「聞こう」とだけ答えた。こうやって、つまらない要件で彼女に呼び出されることがここ一週間で何度かあった。大概、彼女が見た夢の話を聞かされるのだが、ただでさえ忙しいサジェスは基本的に右から左へ聞き流していた。
「――それでね? エリザったら変なことを言うのよ、すごい雨が降ってラピスを水の底に沈めてしまうんですって」
「困りものだな」
サジェスが適当に相槌を打つと、「本当にね」と彼女は肩をすくめて言ってみせる。その仕草はまるで少女のようで、実年齢相応に艶を失った口元と相まって異様な雰囲気を醸し出した。
これがあのマダム・カシェ・ハイデラバードなのか、とサジェスは憐れみすら覚えて彼女を眺めた。統一機関が機能していた頃は政治部でも有数の権力を誇り、知られざる地下世界であるハイバネイト・シティの頂上に君臨していた彼女が、今では見る影もない。2年前にサジェスがカシェを欺き、ハイバネイト・シティの総権を奪い取ったときは、まだカシェにも体裁を取り繕うだけの余裕はあった。しかし、エリザと隔離して別室に閉じ込めた直後から、急激に精神が衰えたように思える。
やはりカシェにとって、エリザこそ唯一の心の軸だったのだ。眠っていようが言葉を発さなかろうが、旧友の顔を眺めることでどうにか精神を保っていたのだろう。どうにか保っていたというにはあまりにも強靱な精神の持ち主だったが、唯一のよりどころを失った今、彼女の縋るべき場所は何もない。
「ねえ――夢の中なら、いつでも会いに来てくれるって言うのよ」
「それは素敵だ。そろそろ俺は帰りたいんだが、良いか」
サジェスが切り出すと、カシェは不満そうにしつつも、長い髪をかき上げて「分かったわ」と毒気ひとつない笑顔で微笑んだ。サジェスは強化ガラスに背を向けようとして、何かに違和感を覚えて立ち止まる。振り返り、奥の部屋に戻ろうとしていたカシェを呼び止める。
金髪の下に隠れていたカシェの不思議そうな顔を、じっと見つめた。
――そんな色の目をしていたか?