chapitre76. 贖罪
文字数 7,085文字
ラムがそう言って深く頭を下げた意味が、アンクルはすぐには理解できなかった。ええと、と意味を成さない音をいくつか発しながら、額をトントンと叩いてラムの言葉の意味を考える。
「貴方が……ロンガの父親、なんですか?」
「そうだ」
ラムは静かに頷いた。
ロンガというのは、アンクルが地上ラピスのバレンシアで生活していた頃に、同じ宿舎で生活していた同い年の女性だ。19歳の秋というやや風変わりなタイミングでやってきた彼女は、どこか訳ありな雰囲気はあったが、ちょうどひとつ空き部屋があったことも関係し、アンクルが宿長を務めていた第43宿舎で受け入れる運びになった。
最初は、あまり共同生活に向いている性格には見えなくて、正直なところ不安だった。しかし、打ち解けようと努力している様子が見られ、これなら平気かな、と内心胸をなで下ろしたのを覚えている。半年も経った頃には、まるで前から同居人だったようにすら感じられた。
このまま5人で穏やかな暮らしが続けられれば良いな、と思っていた矢先だった。
様々なことが立て続けに起こり、同じく同居人だったリヤンは抱えきれない怒りと共に宿舎を出て行き、ロンガも彼女と共にラ・ロシェルに旅立った。
その少し後になって、恋人の妊娠が発覚した。安全に出産できる環境があると聞いて地下の居住区域に向かい、目の前にいる男性、ラムに出会うに至る。
平穏を愛していたアンクルにとっては目眩がするような日々だったが、ここに来て、地上にいた頃の仲間を知る相手に出会うとは。
宿舎の暖かい
「たしかに彼女は、自分が
「立場もあって隠していたが……知られた。ラ・ロシェルを出て行く直前に」
「そう、ですか」
どうもおかしな話だ、と感じた。
ラムがロンガのことを知っているのは本当のようだ。言葉に嘘っぽさも感じない。しかし、何かを隠されているような気がした。捉えられない暗部に誰かが潜んでいて、その影だけが浮き上がっているような違和感。
アンクルが首を捻っていると、ラムが「説明が足りなかったな」と呟く。
「この期に及んで隠しごとをするつもりはないんだ。ただ、その――君たちは、俺のようにならないで欲しいという意味で話す。ここから話すことはあまり楽しいものではない」
「……分かりました」
「聞いてくれるか」
ラムは言葉を噛みしめるように、ありがとうと呟いた。首を小さく振ってから、前髪を払ってこちらをまっすぐに見すえる。
「アンクル。俺はあの子を、一度、本気で殺そうとした」
瞳は暗闇に閉ざされていた。
非常灯のオレンジ色と相まって、ラムの表情は一層険しく見えた。アンクルは目を瞬きながら、意外にも静かな気持ちで彼の告白を聞いていた。いや、感情の応答が追いつかなかったというほうが正しいだろう。静かな夜に似合わない、殺す、という物々しい単語がやけに異物感を伴って響いていた。
殺そうとした?
この人が、自分の娘を。
抑制された低い声で、ラムは淡々と言葉をつなげていく。
「結果から言えば――未然に防がれ、彼女は俺たちのもとから無事に逃げていったが、俺は彼女にナイフを向けた。その首を切り裂いてしまって構わないと思った。その事実は一生消えない。消せないんだ」
「――そうせざるを得ない、理由があったんですか?」
「当時の俺にとっては、あった。俺が死ぬか、あの子を殺すかの二者択一に見えていたんだ。今でこそ、ああすれば良かったこうすれば良かったと考えることもあるが、その道は当時の俺には見えていなかった」
アンクルは身体を後ろに倒して、ソファの背もたれに寄りかかった。熱を出したときのように頭がぼうっとして、何もかも現実味がなく感じられた。どうにか話をかみ砕こうとアンクルが難しい顔をしていると、すまない、と呟いてラムが小さく頭を下げた。
「突然、おかしな話をして悪かった」
「いいえ……多分、これは僕らへの警告として話してくれたんですよね」
アンクルが言うと、ラムは細めていた目を少し見開いた。
自分たちとラムたちは、ラピスにおいて許されない存在の
そしてラムは自分の娘を統一機関の研修生として育て、少なくとも19歳までは、娘であるロンガ自身にすら、彼女が
アンクルは身を乗り出して、ラムの目をまっすぐ見つめた。
「この新都で、子供を持つというのは、守りたかったはずの相手が憎く見えてしまうほどに大変なことなんだ、という警告に聞こえました……違いますか?」
「そんな大層なものではない」
ラムは目元を抑えて、小さく首を振った。
「君たちは俺のようにならないで欲しいと、ただそれだけだ」
「……そうですか」
アンクルは言葉を選ぶために黙り込んだ。
「これから何があるか分かりませんし、僕は心が弱いから……いつか自分たちの子を憎む日もあるかもしれません。でも、ええ、貴方がそう願ってくれたことは忘れないようにします」
「ありがとう」
ラムの張りつめた口元が、ほんの少しだけ上向きに弧を描いたように見えた。その表情を見たとき、アンクルはふと不思議な感覚に襲われた。20歳以上も年上の人間に向けて思うようなことではないのだが、ああ、この人は本来とても純朴な性格なのだろうな、と感じたのだ。ねじ曲がった環境で生きて、いつの間にか自分を見失ったけれど、心の核となる部分だけは侵されないまま、少年のように純粋な色のまま保たれている。
とんでもない罪を告白されたのに、アンクルの心は妙に凪いでいた。ハイバネイト・シティに完全な暗闇は存在しないが、夜の薄暗さと静けさが2人を包み込んでいて、何もかも受け止めてくれるような気がした。
ふと。
今なら言える、と思った。
「ラム、僕たちにも、かつて酷いことをしてしまった相手がいるんです。その人は地上で、多分、ロンガと一緒にいます」
「――ほう?」
「もしも、彼女が僕たちに会ってくれたら、謝りたいと思っています。ラム、貴方はどうですか? ロンガに謝ってくれますか」
「……そうだな。俺は」
彼が何か言いかけた瞬間、背後で小さい音がした。
ラムの顔つきが一瞬にして引き締まり、姿勢を下げろ、と口の動きだけで告げる。アンクルがソファの影に身を隠すと、ガシャン、という硬質な音がまた聞こえた。
昼間だったら気にも留めない小さな音だが、静まりかえった夜だとまた話が違う。誰もが寝静まったはずの深夜に、行動している人間がいるということになる。数日前にも、銃を持った集団に襲われてラムに助けられたばかりだ。嫌でも悪い想像をしてしまう。
こちらに来ないでくれ、と祈るような気持ちで耳を澄ましたが、次第に音は大きくなっていった。誰かがこちらに近づいている。
隣でラムが小さく舌打ちをした。
アンクルはテーブルの影からそっと外を窺う。ラムは立てかけてあったケースから銃を出して、物陰に腰を落としていた。酔っているのか、不規則な足音がひとつ、こちらに近づいてくる。通路と食堂の間には壁がなく、向こうが何かの気の迷いでこちらをのぞき込んだら、その瞬間に見つかるような位置関係だった。
「銃を持っているな」
ラムが小声で呟いた。
「だが1人だ。アンクル、あちら側に出るぞ」
「――はい」
高鳴る心臓を抑えながら、アンクルは姿勢を低くして物影を移動した。ソファのすぐ向こうで、誰かが歩いているのが分かる。物陰を回り込むように移動して、入ってきたのとは逆側の出口から通路に出た。足音を立てないように通路の角を曲がり、死角に入り込んでようやく一息ついた。
「無事か」
「はい。でも……」
アンクルは廊下の向こうをちらりと伺った。銃を持った男は、アンクルの居室の方角に歩いて行った。別の道を使って回り道をしても、部屋の近くで出くわしてしまうのはかえって困る。
「その、僕の居室はあっちなんです」
小声で言いながら廊下の向こうを指さすと、なるほどな、とラムは頷いた。
「ひとまず今日は帰った方が良い。君の部屋まで、送っていこう」
「……すみません。ありがとうございます」
せっかく、普段はなかなか話せないような話ができていたのに、突然の闖入者のせいで台無しになってしまった。アンクルは不完全燃焼な気分のまま、先ほどの男に出くわさないよう、天に祈りながら部屋に戻った。
居室の前で、ここまでありがとうございます、と送ってくれたラムに頭を下げると、右手の廊下で不吉な音がした。
先ほどと同一人物だろうか、大柄な銃を持った男が曲がり角からフラフラと出てきて、アンクルとラムをじっと眺めた。それから口元に楽しげな笑みを浮かべ、おもむろに銃をこちらに向けた。
驚愕による思考停止から一瞬早くラムが抜け出して、アンクルを部屋の中に突き飛ばして扉を閉める。ベッドの角に腰を強かにぶつける。痛みをこらえて立ち上がり、扉を開けようとするが、向こうから抑えられていた。
「ラム!」
「――中にいろ」
押し殺した声と共に、二、三回の銃声が響く。それきり外は静かになったので、恐る恐る扉を開けると、ラムの冷たい瞳と目が合った。男は太腿を押さえてうずくまっており、彼が持っていた銃はすでにラムが奪っていた。しかしまだ意志は失っていないようで、こちらに這って、ほとんど腕の力だけで這ってきていた。
「ラム、危ないです。中に入ってください」
アンクルはラムの腕を掴み、部屋の中に入れようとしたが「いや」とラムは首を振る。
「
「そこまでしなくても――」
「このまま朝になって、何も知らない君の友人たちが出てきたとき、奴がまだ生きていたらどうする」
男から奪った銃をアンクルに預けて、ラムは銃のマガジンを交換した。何も反論できなかった自分が悔しくて、アンクルは奥歯を噛みしめた。
ラムの言っていることは正しい。
この場所、ハイバネイト・シティ居住区域は管理AIによって監視されてはいるものの、認可銃と呼ばれている、システムに登録済みの銃であれば発砲しても問題視されないようだ。である以上、危険を避けるためには、銃を撃つ側の人間を処分してしまうしかない。
分かってはいるけれど。
「でも、ラム! 貴方に不要な人殺しをして欲しくないんです」
「ずいぶんとお人好しだな、君は」
ラムは溜息をついた。
「殺さずに危険を避けられるだけの力があるなら、そうすれば良い。申し訳ないが、俺には奴を殺す以外の選択肢が思いつかない」
「そんな……ロンガに刃物を向けたときと、同じこと言ってるじゃないですか」
アンクルが言うと、ラムは少し嫌そうな顔をしたが「それでも、だ」と硬い口調で言った。
「後で、もっと良い方法があったと後悔するまでが俺の役目だ」
「今はまた事情が違うじゃないですか。明日の朝までまだ時間はあります、ひとまず部屋に入ってください」
「そんな悠長なことを――」
言いかけたラムの身体が、がくりと傾いた。
片膝をついたまま、苦々しい顔で「やはりな」とラムが呟いて、銃を構え直す。発砲したが外したようで、ラムが短く舌打ちする。
アンクルが外を伺うと、どこに隠していたのか、男は倒れたまま拳銃をこちらに向けていた。銃口から白い煙が細く立ち上る。次の瞬間にはまた引き金が引かれ、居室の扉に銃弾がめり込む。
猶予はなかった。
アンクルは短く息を吸って居室を飛び出し、ラムから預かった銃を振りかぶって、勢いのまま男の頭に叩きつけた。硬いものにめり込んだような感触が伝わる。男は小さく呻いて、顔を地面にうつむけた。手から力が抜けたのだろう、拳銃が音を立てて床に転がる。
衝撃で指先がしびれる。
全身の血液が足下に抜けていくような感触があった。異常に呼吸が速くなって、喉が締め付けられるように苦しい。
ラムが片足を引きずったままこちらに歩いてくる。大丈夫か、とその口が動いたが、ほとんど聞こえなかった。アンクルはその場に膝をついて、男の陥没した頭蓋を呆然と見つめた。床に力なく投げ出された指先は、ぴくりとも動かない。
「おい、大丈夫か」
ラムが両肩を掴んで揺り動かした。アンクルは焦点の合わない目を、ぼうっと上に向けた。目の前で叫んでいる人を、それが人だと認識しないまま眺める。そんな自分を、やけに冷静に観察している自分もどこかにいた。
背後から何かに身体を掴まれて、ようやく我に返った。
気がつくと金属の腕が自分の胴に巻き付いていて、なすすべもないまま宙に持ち上げられる。別の腕が、銃を持っていた男の身体を軽々と持ち上げて、壁に開いた隙間にその身体を放り込んだ。アンクルを支えているロボットアームもその隙間のほうに近づいていく。そこでようやく事態に気がつき、抜け出そうともがいたが、頑丈な金属の腕はびくともしない。
「待て、ELIZA」
ラムが天井のスピーカーに話しかけるが、事態は一向に変化しない。アンクルは壁に足を張って、どうにかロボットアームに抗おうとした。ラムが険しい顔で天井に叫び続けている。
「おい! 止めてくれ、彼は反撃しただけだ。どうした?」
『――失礼しました』
天井のスピーカーから声がしたと同時に、アンクルを支えていたロボットアームから突然力が抜けた。受け身を取り損ねて、身体の側面から床に叩きつけられる。
「喧嘩をしたと思われて『撤去』されかけたようだが、やけに
「……はい、平気です」
アンクルは立ち上がって、その場で軽く腕を振ってみた。おかしな向きでぶつけた手首が痛んだが、他は無事だった。まだ鳴り止まない心臓を押さえながら、廊下に戻る。自分が殴りつけたはずの男はロボットアームに連れられて消えてしまい、黒ずんだ血の染みだけが残っていた。それでも、頭に叩きつけた銃の感触は、薄れるどころかますます鮮明な記憶になっていった。
うつむくアンクルの肩に、ラムが励ますように手を置いた。
「気にするな。あの程度の傷ならおそらく、下層に行けば治る。どうやら下層の医療は、かなり発展しているようだからな」
「……そう、ですか」
「認可銃同士の撃ち合いでは『撤去』されないから、君が奴を殴ってくれて良かった。君のおかげで奴を殺さずに済んだ。ありがとう」
ラムはそれだけ言って床に腰を下ろす。どこからか包帯を取り出して、撃たれた自分の足を手当てし始めた。銃弾が掠っただけだと彼は言ったが、歩くたびに顔をしかめるので、今日はアンクルの部屋に泊まってもらうことになった。ブランケットを貸そうかと提案したがラムは断り、部屋の壁にもたれてぼんやりと宙を眺めていた。
アンクルは寝台に寝転がり、天井を眺めたまま小声で会話を切り出した。
「ラム、さっきの話の続きですけど」
「……ああ。娘に謝るか、という話か?」
「はい」
「そうだな……」
しばらく彼は黙り込んだ。
ややあって「もちろんそうしたいが」と前置きして話し始める。
「彼女の前に出て行って謝るには、俺は手を汚しすぎたとも思う。こんな男が父親だなんて、信じないままでいたほうが幸せなんじゃないか、とな」
「……そう感じるんですね。僕には血縁上の親はいないから、よく分かりませんが」
「俺だって分からない。あぁ……だからきっと、これは言い訳なんだろうな。俺は、彼女の前に姿を現すのが怖いだけだ」
「その気持ちなら僕も分かります」
かつての同居人、リヤンの顔を思い出しながら、アンクルは答えた。最後に見た彼女は、眉をつり上げて真っ赤な顔で怒っていた。言い慣れていない罵倒の言葉を叩きつけるように叫んで、泣きながら
謝りたいとは思う。
だが、二度とその視界の中に入ってはいけない気もするのだ。自分たちの姿は、彼女にとっての嫌な記憶と紐付いているだろう。謝って楽になりたいという、アンクルたちの勝手で、彼女に嫌なことを思い出させてしまっていいのだろうか。
「贖罪って、ままならないものですね」
アンクルの呟きに、ラムは眠ってしまったのか、あるいは答えるまでもないと思ったのか、返事をしなかった。