chapitre142. 激震
文字数 6,891文字
原因はひとつには絞れない。いくつもの事象が重なり合い、また長い時間が積み上がり、その結果として生じた。
新都ラピスと呼ばれている地域は標高が低く、河川に沿って辺境の森を抜ければ海につながる。
したがってラピス、およびその地下に存在するハイバネイト・シティは、ゆっくりではあるが着実に進行しつつある、海面上昇の影響を受けやすい環境にあった。
ところで、地下居住施設であるハイバネイト・シティは、基本的にその内部であらゆる物質の循環が完結することを目指して設計されている。利用された後の物質は回収され、中間層のシステムにおいて再生される。とはいえ、数十年、あるいは数百年を耐え忍ぶなかで、もはや廃棄するしかないほど汚染された資源を、ハイバネイト・シティ内部に溜め込んでおくのは効率的とは言えない。
従って、再生不可能となった物質を外部に廃棄して、必要かつ可能であれば、新しい物質をハイバネイト・シティ内部に取り込むことが求められる。
水は、言わずもがな、重要性の高い資源のひとつである。日々膨大な量が消費されるこの物質を、常に必要量確保しておくことは重要な命題であり、ハイバネイト・シティでは、地下水の一部を取り込んで貯蓄することで枯渇を逃れている。
しかし、それは同時に、ハイバネイト・シティの水の循環系統は、完全に閉じていないということを示す。創都344年秋頃から“
この広大な地下空間を見張っている管理AI、
しかし、年が明けた頃から大量の居住者が雪崩れ込んできたため、ELIZAの演算能力はそちらに多く振り割かれた。また、冬場は地下水の水圧変動が比較的緩やかであることもあり、排水設備の修理に対する優先順位は、やや低く見積もられていた。
ハイバネイト・シティの配水系統は、つまるところ、非常に危うい均衡の上で、どうにか成り立っていたのである。
ここ数日というもの、地上では晴天が続き、一部では雪解け水によって氾濫が起こっていた。地上で水が溢れかえれば、砂の隙間や岩の割れ目を縫って、水は地下にゆっくりと浸食してくる。ハイバネイト・シティの随所に取り付けられた計器は、上下に振動する水圧が、数日間で確実に上向きになっていることを示していた。
さらに、ハイバネイト・シティ第36層と第37層の間において、原因は不明であるが、配水管の一部が大きく破損した。これによって、床と天井の間に設けられたスペースに水が大量に流出し、部分的に急激な水圧降下が生じた。
微細な傷の蓄積は、水と配水管とを通じて、ハイバネイト・シティ内部を三次元的に伝播し、時に振動を伴いながら同心球状に広がり、そして、中間層に埋め込まれた貯水槽に及ぶ。
第12層から第17層までを占有する予備貯水槽のひとつが、やや上昇傾向にあった水圧の急激な降下と、大小無数の振動に耐えきれず、ほとんど裂けるように決壊し、巨大な揺れを引き起こす。
時間にして、午前3時15分。
中間層を縦に貫いて存在する共同墓地と、今まさに最下層へ向かおうとしていた昇降装置は、その振動をもっとも強く受けた場所のひとつであった。
*
振動が和らいできたのを、衝撃音の頻度が落ちつつあることから感じ取る。数十秒にわたって揺すられ続けたためだろう、平衡感覚が狂ったようだ。床についた肘に体重を掛けようとすると、頭がぐらりと揺れる。
それでもシェルはどうにか起き上がり、場所によっては腿の高さほどまで積み上がっている円筒形のケースをかき分けて、半ば埋もれるように倒れていたアルシュの腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「……うん、無事」
籠もった声が応える。
壁から降り注いだ円筒形のケース――その中身のことは、できるだけ考えないように自分を律して、アルシュが抜け出せるように山を崩す。背後にケースを転がすと、落ちた衝撃で蓋が外れた。白い粉末が床に広がり、すでに零れていたものと混ざり合う。罪悪感がちくちくと胸を刺すが、今はアルシュを助ける方が優先だ、と口元を横に引いた。
せーの、と声を合わせて、彼女が立ち上がるのを手伝う。ジャケットの生地に付着した遺灰を見て、アルシュは少し眉をひそめたが、思考をそぎ落とすように小さく首を振って見せる。服を手で払いながら、彼女は高い天井を見上げた。
「今のは地震かな」
「分からない。だとしたら、たぶん、
シェルが言い終わるのを待っていたかのように、ぱっと非常灯が点灯する。非常時を示す赤い光が空間を満たして、同時に、女性に似せた合成音声が降ってきた。
『生存者の皆――ま、非常事――です』
異言語だ。
より正確には、フィラデルフィア語圏で公用語となっている言語だ。アルシュが小さく肩をすくめ、任せた――とでも言うようにシェルを見る。
『第12層から――層、第3予備貯水槽において』
時折、耳障りなノイズが挟まり、聞き取りづらい。シェルは耳の後ろに手のひらを立てて、目を細め、ELIZAの放送を聞き逃さないように耳を澄ます。
『――が発生しました』
「え……」
割れた音のなかに浮かんだ言葉を、頭の中で再構成して、シェルは思わず口をぽかんと開けた。後ろからアルシュがその肩をつかみ、「ねえ」と切羽詰まった声で問いかける。
「ぼぅっとしないで。今、なんて言ったの」
「ええと――」
頭の中で情報が氾濫を起こす。それらの情報を必死に整理しながら、何から伝えるべきか、これからどうするべきか、つい考え込んでしまう。雰囲気を察したのだろう、アルシュはシェルのタイを掴んで無理やり彼女の方を向かせ、顔を正面からのぞき込んだ。
「まずは、何が聞こえたのか、そのまま教えて。分かりやすく、とかは要らないから」
「……あぁ、そうだよね」
彼女は一緒に考えてくれる
つい自分ひとりで考えを巡らせそうになったことを反省しながら、シェルはアナウンスの内容をアルシュと共有した。遺骨を収めたケースで床が埋まっており、どうにも気が滅入るので、話しながら螺旋の回廊まで引き返す。聞き取れた内容を全て伝え終わると「まずいな」とアルシュが目を伏せる。
「浸水の可能性があるから、一刻も早く地上にみんなを逃がさないと。地下で水に追われたら、逃げようがない」
「そうだね――でも、今は深夜だ」
心臓がひとつ、激しく打った。
「ほとんどの居住者は寝ていると思うし、数十万人で同時に地上に逃げるなんて、絶対どこかでパニックが起きる」
「うん……それに、上下方向に移動する手段は極めて限られている。だから、選択肢はひとつだ」
アルシュが人差し指を立ててみせる。
「情報を制限する。より危険性の大きい下層から、先に状況を伝えて、順次、地上に逃がすしかない」
「うん――この際、それは仕方ないと思うけど」
数十万の居住者が同時に昇降装置に押しかければ、逃げられるものも逃げられない。この際、綺麗事は言っていられないが、そのアイデアにはひとつ難点があった。
「今のELIZAの放送、生存者の皆さま――って呼びかけてた。だから、たぶん居住区域にも流れてる。その案はもう手遅れだ」
「ううん、まだ一言語しか流れていない」
アルシュはきっぱりと首を振って、その勢いで天井を見上げる。まだ放送を続けている合成音声に、なかば叫ぶような声で呼びかけた。
「
『――はい、アルシュ』
「緊急放送を止めて欲しい。ハイバネイト・シティ全域で、今すぐに!」
『いいえ。できません』
「なぜ!」
「権限が足りないんだ」
シェルは眉をひそめて、同様の命令をELIZAに投げかける。シェルの場合、一般の入居者よりは多少強い権限を持っているのだが、結果は同じだった。
『いいえ。できません』
無機質な合成音声が応じる。
同等の入力を複数回に渡って受けたためだろう、合成音声はその応答の後に、ひとつのフレーズを付け足した。
『緊急放送の中断には総権が必要です。総権保持者にお問い合わせください』
そして、ブツッという音とともにチャンネルが切り替わり、スピーカーの向こうからノイズ混じりの声が聞こえてきた。
*
身体の輪郭を歪め、押し砕き、すり潰す。
容赦のない力がようやく緩み始め、エリザ――の姿を借りたロンガは、そうとも気づかないままに閉じていた目を開けた。天井のパネルが、いくつかは落ち、いくつかは不安定に揺れている。壁に嵌められていた磨りガラスが落ちて、向こう側の蛍光灯が剥き出しになっていた。
ゆっくり息を吐きながら、自分の状況を確認する。頬は床に押し付けられ、身体の表側を庇うような体勢で、まだ少し揺れている昇降装置の床面にうずくまっていた。
斜め上から声が掛けられる。
「――無事か」
「ああ……ありがとう」
首をくるりと回して見上げると、至近距離で目が合って、カノンは少し驚いたような表情のあとに目を逸らした。そのまま彼が身体を起こすと、砕けた天井のパネルがその背中から落ちる。彼が落下物から庇ってくれていたのだ――と、そこで初めて気がついた。
「また助けられたな」
ロンガの呟きに、カノンが片目を細めて唇を曲げてみせる。それはどういう感情だ、とロンガが内心で首を捻ったのと前後して、天井のスピーカーからELIZAの緊急放送が流れる。ロンガにとって、実際に耳にするのは久しぶりな異言語だが、意外にも、その聞き取りに苦労はしなかった。
カノンと話し合って、状況を確認していると、ブツッという音とともに突然音声が途切れた。一瞬の静寂を置いて、ひどく割れた声が降ってくる。
『マダム・エリザ、ご無事ですか?』
「アルシュの声だ」
カノンが小声で呟いて、スピーカーに答えを返す。
「無事だよ。俺といる」
『ああ……良かった』
『なら良いんだけど、エリザに頼みたいことがあって』
アルシュの安堵の溜息に被さるように、配電系統の向こうで、違う声が話し始める。その音が鼓膜を揺らした瞬間、胸の中がじわりと暖かくなるのが分かった。いったん電気信号に変換されていても、彼の声はすぐに分かる。
ソル、と呼びかけたい気持ちをぐっと抑えつけて、ロンガは上を向いた。
「何でしょうか――シェル」
『はい。えっと、さっきの緊急放送、聞きましたか。あれを、今すぐ、止めて欲しいんです』
「止める? なぜ」
横から問いかけたカノンの腕を、ロンガは無言で掴む。彼に首を振って見せながら、声の調子は変えないまま「わかりました」と、丁寧な口調で応じる。そのままELIZAシステムに命じて、シェルに要請された通り、緊急放送を中断させた。
通信が途切れる。
静まりかえったスピーカーを一瞥して「それで」とカノンが気のない口調で言う。
「いったいどんな算段があって、緊急放送を止めさせたんだい、アルシュたちは」
「えっと……そうだな」
あごに手を当てながら、視線をぐるりと回す。その一回転の間に、それらしいアイデアに思い至り、あ、とロンガは声を上げた。
「パニックを防ぐためか」
「まあ、俺もそう思うけど……今、思いついたって顔だね」
「そうだな、今思いついた」
「あぁ、そう――加えて言うなら、いま流れたのは地下の公用語だ。“
「ああ……! なるほど」
感心して頷いたロンガに、カノンが呆れた表情を向けてみせる。
「そんな甘い認識で、良くもまぁ、総権を使えたもんだ」
彼は立ち上がり、
「あんた……
「分かってる、つもりだけど……カノン、どういう意味だ」
「さっきのは軽率が過ぎるだろう」
「た……たしかに私は、アルシュやソルが何を考えて、あの提案をしたのか、分かってて従ったわけじゃない」
ぐっと拳を握って「けど」と言葉を続ける。
「あの二人が言ったことだから信頼したんだ。急ぎの要件だって思ったから、私の納得より、彼らに従う方が先だと思って……カノン、これじゃ、答えにならないか?」
振り返ったカノンは、ロンガの問いかけに応えなかった。彼は
その背後で軽いモータ音がして、ロンガははっと顔を上げた。
昇降装置の扉が、左右に吸い込まれるように開く。先ほどまで壁だった、その向こう側には、吸い込まれそうなほどの暗闇が広がっている。
「なんで開いたんだ」
「俺が開けたんだよ」
カノンはあっさりとした口調で言って、床に膝をつき、外の様子を伺った。
「昇降装置ってのは、要は、宙吊りの箱だろう。また揺れたら、落ちるかもしれない……だから、揺れが収まっているうちに、外に出た方が良い」
「ああ――それもそうだな」
ロンガも慎重な足取りでそちらに向かい、手すりを握りしめながら顔だけを外に出す。ケーブルや支柱の向こう、一メートルほど下に、直方体の箱が壁から突き出していた。その下にも似たような構造が繰り返し現れているあたり、おそらくは、昇降装置への乗り組み口だろう。
「あんたが先に行きな」
カノンがそう言って、昇降装置を揺らさないためだろうか、床にゆっくり膝をつく。ロンガは壁のへりを掴んで、乗り組み口の上面をめがけ、慎重に爪先を降ろしていった。体重を支える腕が、だんだんと震え始めたころ、空中をふらふらと
安堵で溜息を吐くと、昇降装置がぐらりと揺れて、思わず目を剥く。身体が斜め方向に強く引っ張られ、背筋にびりびりとした衝撃が走ったものの、どうにか、平衡を崩さずに済む。乗り組み口の上面で、ロンガは身体をくるりと反転させ、金属板を敷き詰めた床まで、無事に降り立った。
「――痛っ」
しかし、息を整えようと、乗り組み口の隣に腰を下ろすと、脇腹に嫌な痛みが走った。見れば、キャミソールの生地に血が滲んでいる。裾をまくってみると、まだ生新しい手術痕のひとつが、開きかけていた。
「……間が悪い」
思わず舌打ち交じりに呟くと、ロンガと同じ要領で降りてきたらしいカノンがこちらを見て、ああ、と眉をひそめた。
「傷が開いたか。動けるかい」
「どうにか――」
痛みに引きつる唇を押し上げて、壁にすがって立ち上がろうとする。しかし、上半身に力を掛けた瞬間に、一層激しい痛みが押し寄せて、そのまま壁に身体を預けた。
「ごめん、少し休みたい。すぐ動くのは無理だ」
傷を上から抑えつけて、少しでも止血できないか試みる。傷口は脇腹なのに、痛みは背中側まで広がって、時間が経てば経つほど強くなっていった。痛みに顔を歪めるロンガを、隣に膝をついたカノンが、じっと見下ろしていた。
「カノン、悪い――ここに置いて行ってくれても、良い」
返事はない。
ロンガは視線を持ち上げて、壁にはめ込まれた金属プレートを読んだ。薄暗いなかで、第18層と刻字してあるのがどうにか読み取れる。破損したという、貯水タンクがあるよりは高い階層だ。
「しばらくは、ここは平気だと思うから。カノンはこれからコアルームに行くのか? 私を連れて行くよりは、ひとりで行った方が安全だろう」
「……あんたは」
長い沈黙の後に、押し殺した声が言う。
「どうしてそういうことばかり、頭が回るのか」
「え? 何の話――」
言いかけた喉元が、突然、グローブに覆われた厚い手のひらで掴まれる。そのまま身体を斜めに引き降ろされて、ロンガが借りているエリザの身体は、昇降装置が上下する空洞に突き出された。
背筋を冷たい感触が伝う。
首の裏を支えているカノンの片手と、かろうじて床に接している腿から下以外は、身体を支えるものが何もない。ごうっという音を立てて、上から下へ風が吹き抜け、エリザの髪の毛をめちゃくちゃに散らした。今にも落ちていきそうな奈落に恐怖心を煽られながら、それでもどうにか視線を持ち上げて、無表情にこちらを見ているカノンを睨みつける。
「何のつもりだ?」
「悪いことは言わない」
片手で壁のへりを掴んだカノンが、身体をこちらに寄せる。エリザの身体はさらに下に傾いて、視界の片隅に真下の暗闇が見える。ロンガは喉から悲鳴がこぼれるのを必死に堪えて、もう一度同じ質問を繰り返した。
「なぜ……こんなことをする、カノン」
「――ロンガ」
地の底から響いてくるかと錯覚する、低く抑えた声が名前を呼ぶ。
「俺に総権を譲渡すると、言え。今すぐに」