chapitre145. 金色の信条
文字数 8,152文字
かすれた、低い声が問う。
「この世界をあまねく照らす金色の希望、太陽を知っているか?」
「太陽」
「そうだ」
「……わからない」
爪と指の間に溜まった汚れを布で拭いながら、『彼女』は首を振る。
その日の作業は下水道の掃除だった。作業の内容は日によって違うが、数日に一回、これを命じられる。泥まみれのプラスチックや、錆びて朽ち果てた金属や、小動物の死骸――そんな多種多様のゴミが、配水管の柵に引っかかる。放っておくと水が詰まるので、定期的に取り外して掃除をするのだ。
柵の目詰まりを警告する赤いランプ。
ゴミが取り除かれたことを示す白いランプ。
知っている色といえば、その二つだけだった。そう答えると、突然の来訪者は、少し驚いたように目を見開いた。
「貴女自身が色を持っているだろう。鏡を見たことは?」
「鏡は……えっと」
「自分の顔が映る、磨かれた板のことだ」
「あ、鏡……」
手洗いの壁に掛かっている、あれのことだ、と気がついた。
「うん、鏡、知ってる。見たことある」
「では、色を知らないのではなく、それを形容する言葉を知らないだけだ。貴女の髪は飴色だ。刈り入れ時の麦畑に似ている。瞳はエメラルドグリーンの彩りがある、そうだな、初夏の泉のようだとでも言えばいいか」
「麦畑? 泉……?」
困惑して首を傾げる。
「あの、よく分からない」
もうすぐ次の作業に向かうのに、よく分からないお喋りに付き合っていては、携行食を食べる時間がなくなってしまう。無視して部屋を出ようか――と思いつつも、見るからに異質なその人に興味が沸いてしまい、葛藤の末、床に腰を下ろしてしまった。
「麦畑というのは、ラピスの外縁都市バレンシアにある、植物を育む土地のことだ。秋――ちょうど今くらいの時期になると、青々とした緑から、日に焼けた褐色に染まる」
「ふぅん……」
説明された結果、かえって分からないことが増えた。ほとんどの固有名詞を聞き流しながら、彼女は適当に相槌を打つ。
「じゃあ、えっと……泉は、なに?」
「雨や河川の水が流れ込んだ、大きな水溜まりだ。その水面はとても平らで、鏡に似ていて、空を映してさまざまに色づくんだが――」
彼はそこで言葉を切って、苦笑した。
「見たことがないと、想像するのは難しいだろうな」
「うん、分かんないな」
彼女は頷く。
彼が楽しそうに話しているのは分かるが、内容のほうは全く頭に入ってこなかった。
「もう、行っていい? ゴハン、食べないと」
「携行食なら持っているが、食べるか」
「え?」
「ほら。食べながら話そう」
彼は荷物入れに片手を入れて、金属のホイルに包まれた、見慣れた塊を取り出した。この、携行食と呼ばれる甘い塊を、彼女は朝昼夜の三回食べる。
「えっと、ありがとう」
礼を言って受け取る。
「でも、難しい話は、もういい」
「そうか、残念だな」
彼は口元に苦笑を浮かべてみせた。
「だって、聞いても分かんないから」
「それは悪かった。でも俺は、難しいことを話しに来たわけではないんだ。ただ……貴女は、見てみたいとは思わないか。今、俺が語ったような、貴女が知らない景色の数々を。金色の光が包み込む、地上――と呼ばれている世界を」
「地上……か」
受け取った携行食のホイルを剥き、口に押し込む。歯に染みるほどの甘さが、どういうわけか、その日は少しだけ違う味に感じられた。
「もうちょっと、話しても良いよ」
彼女が唇を尖らせて答えると、彼は「それは良かった」と言って笑ってみせた。
「俺は、あなたたちが
金色。
太陽の色であり、閉じ込められても外を指向する、ひたむきな光の色。
***
「なぁ――リジェラ!」
肩をつかんで揺すられ、リジェラは我に返った。非常灯の毒々しい赤色が網膜を突き刺して、頭の奥が痺れるように痛む。滲んだ視界の中央で、こちらを見ているシルエットを、数秒のあいだ無言で見つめ返した。
「起きてる――よな?」
人の形をした影が、顔をのぞき込む。ペンライトの光を顔に向けられて、反射的に目を細めると、その人の顔にようやくピントが合った。
「……ロマン?」
「他の誰に見えんだよ」
まだ少年らしさを残した高めの声が、軽い口調で応じる。聞き慣れたその声が、夢うつつの狭間で
「あ、あれ――」
目の前の光景が信じられなくて、リジェラは口をぽかんと開けた。
「どうしてここに貴方が」
「あんな風に出て行って、追っかけないワケないだろ」
夢から覚めたような心地で、リジェラは周囲を見渡す。ついさっきまで周囲にいたはずの、“
「みんなは、どこ」
「もう逃げた。ルージュが案内してる」
「逃げ――え、どこに」
「付いて来りゃ分かるから、早く行こう。立てないわけじゃないよな?」
埒が明かない――とでも言いたげにロマンが眉をひそめて、リジェラの手首を掴んだ。彼に引き上げられるままに立ち上がり、ふらつく身体を二本の足でどうにか立て直した。踵のずれていた靴を履き直して、リュックサックの紐を締める。少し離れた場所に落ちていた銃を拾うと、武器を見慣れていないのだろう、ロマンが肩を小さく強ばらせた。取り繕うように首を振って「行こう」と歩き出す。
通路の照明は部分的に消えて、代わりに非常灯の赤い色に置き換わっている。見慣れない色彩に包まれた通路は、どこか現実味が欠けていて、ぼんやりとした思考のままロマンの背中を追いかけた。
交差路の向こうに、小さな人影が見える。
小柄な少女、ルージュが向こうから手を振って、両腕を交差させてバツを作って見せた。ロマンに導かれるまま柱の死角に身体を隠すと、それが合図になったかのように足音が近づいてくる。敵の残党と思われる足音が、向かいの通路を横切り、こちらには気がつかないまま遠ざかっていった。
「あっぶねぇな」
ロマンが唾を飲み込んで呟く。
あたかも未来が見えているような行動だったが、ロマンたち
まだ霞んでいる頭で考える。
自分たちは騙されていたのだろうか。
遠い未来を見通す白銀色の瞳を持ち、リジェラたち子孫の幸福を祈って、四世紀もの昔から眠り続けている女性、真祖エリザ。今まで信じていた
向かいの壁からルージュが顔を覗かせて、今度は指先でマルを作ってみせる。交差路を無事に抜けてから彼女と合流し、しばらく案内されるままに進むと、見覚えのある区画に辿りつく。
天井が崩れている。
侵入する際に爆破した地点まで戻ってきたようだ。結び目の幾つも作られたロープが、爆破で崩れた天井から垂らされており、その向こうに仲間たちの姿が見えた。念のために銃を構えて警戒しながら、子どもたちを先に登らせる。登るのに慣れていないようで、少し時間がかかったが、どうにかふたりが上のフロアによじ登ったのを見て、リジェラもロープの結び目を掴んだ。左脇に銃を挟んだまま、距離にして三メートルほど身体を引き上げる。
最後の結び目に手をかけると、視界の端で誰かが立ち上がった。
「慣れてますね、リジェラ」
床に身体を乗せてから、隣で待機していた人に気がつく。目に掛かった髪を払いながらそちらに顔を向けると、彼は真剣な表情を保ったまま、口元だけを僅かに持ち上げて見せた。
「……アックス」
「あの子たちは、最後に身体を引き上げるのがいちばん難しそうだったんですけど……貴女は軽々と登りますね」
見慣れた友人の顔を見て、助けられたのだ――という安堵が全身を弛緩させた。ふらふらと歩いて、煤のついた壁に寄りかかり、そのまま座り込む。鼓動が早い。身体の外側は熱いのに内側は冷え切っていて、嫌な汗が吹き出した。
「リジェラ、何があったんですか。もし、聞いても良ければ、ですが……」
背を向けたアックスが、ロープを回収しながら問いかけてくるが、色々なことが頭の中で絡まり合っていて、とても全てを説明できる気はしなかった。だが、疲労でぼやけた思考のなかでも、ひとつだけ、明白に浮かび上がっている言葉があった。
「――違ったの」
「違った……?」
視界の端で、彼が不思議そうに振り返る。リジェラは頷いて、引き寄せた膝に顔を埋めた。
「私たちが聞いたのは、真祖の声じゃなかった。音を
***
ソファが並べられた食堂で、リジェラは“
停電はひとまず復旧したものの、依然として通信の不調は続いており、事態が分かるまで動かずに待とう――という運びになったらしい。仲間がソファやカーペットで横になるなか、リジェラは眠る気になれず、ぼんやりとテーブルに肘をついていた。視界を目蓋で閉ざせば、その瞬間に恐ろしい暗闇に囚われてしまうような気がした。
どこから嘘だったのだろう。
どこまで本当だったのだろう?
もしかして、最初から最後まで、余すところなく全て、虚構だったのだろうか。真祖、
上半身を丸めてテーブルに伏せていると、誰かが近づいてくる気配があった。足音はすぐ隣で立ち止まり、こちらを見下ろしている視線を感じ取る。
「リジェラ、話をしても良いですか?」
眠っている仲間たちを起こさないためか、アックスが小声で問いかける。
「ひとつ、伝えておきたいことがあって」
「……ええ、大丈夫」
伏せていた顔を上げて、頷いてみせる。
アックスは小さく頭を下げてから、対面の椅子を引き、腰を下ろす。しばらく言葉を選ぶ様子を見せていたが、何かに頷いてから「言うか迷ったんですが」と決意の宿る表情で切り出す。
「少なくとも、上にいたときに流れた放送。あれは、間違いなく人間の肉声でした」
「……そうなの?」
「はい」
彼ははっきりと頷いて、こちらの反応を伺うように、しばらく沈黙を挟んだ。
リジェラはゆっくりと身体を起こし、彼が言ったことの意味について考える。耳に優れる彼が言うのだから、その情報はまず間違いないのだろう。だが、リジェラたちに呼びかけたのが肉声だったからといって、それが真祖の声であるかどうかは別の問題だ。
「どんな人の声、とか……分かるかしら?」
「そうですね、30代くらいの、身体を鍛えていない女性の声ですね」
ほとんど間を置かずに返事が返ってくる。
「呼吸が浅い、ほとんど腹筋を使っていない話し方です。発音は丁寧でしたが、話すこと自体に慣れていない、身体がついて行けていない印象――というか」
「そう……ありがとう」
「貴女が思う人の特徴とは、合いますか」
「えっと、そうね、どうかしら……」
アックスが質問の意図を汲んでくれたことに驚きながら、リジェラは目をくるりと回して、真祖エリザにまつわる伝承の内容について思い出そうとした。
「真祖は長い間眠っていたそうだから、たしかに身体は弱いと思う。年代もそのくらいに思える……けど」
逆接のあとに続く言葉を、リジェラはしばらく考える。長い沈黙のあいだ、アックスは静かに待ってくれていた。
「――だけどね」
整理し切れていない思考を、掬い上げるように言葉にしていく。
「そんな、断片的な情報が合うからって……それが全部じゃないわよね。年代と体格が真祖と似ているだけの、別人かもしれない」
「そうですね」
平坦な相槌。
「僕もそう思います。判断材料としては不十分ですね」
「そうよね……ごめんなさい、励ましてくれようとしたのに」
「いえ。僕は知っていることを伝えに来ただけです。貴女がどう判断するかは、僕の触れるべき点ではないので」
「ありがとう。そういう人だよね、貴方は」
地上で教育を受けたアックスは、リジェラや他の“
「私……なんで今まで、何ひとつ疑わずにいられたのか」
深い溜息を吐いて、きつく目を閉じる。
「本当かどうか、確かめてもいない話に踊らされて、心の芯まで信じ切った挙げ句、放り出されるなんて……馬鹿みたい。何のために私たちは、この二年間、地上に酷いことをして――っ」
途中からは言葉にできなかった。
肺が潰れてしまったかと思うほど、声が出ない。吐き出したい感情は山ほどあるのに、喉元に詰まってしまったようだ。皮膚に爪が食い込むほどに拳を握ると、どことなく悲しげな声が名前を呼んだ。
「リジェラ――貴女が、貴女自身よりも大切な存在に出会えたのは、その物語の真偽とは関係なく、とても素敵なことだと思います。でも、その……貴女が
即答はできなかった。
頷きも首を振りもせず、テーブルに反射した彼の影を見つめる。
「もしも、
「――あの子たち」
「ええ」
真剣だったアックスの口調が、少し和らいだ声音に変化する。つられて顔を上げると、彼はリジェラに視線を合わせて微笑んで見せた。
「ふたりが言ったんです。後を追いかけたいと」
「そうか……アックス、貴方の大切なものは、音楽であり、ロマンやルージュ、若い音楽家たちなんだよね」
「そう言えるでしょうね」
「貴方は、揺らいだりはしないの」
「そうですね……」
もちろん揺らぎませんよ――と即答してくれるだろう、というリジェラの期待とは違って、彼は少し答えを迷う素振りを見せた。
「……思うところはありますよ。こんな、生きているだけで精一杯みたいな状況で、さらに負担を抱え込むような子たちです。僕は音楽が好きで、音楽をするために生きていますけど――そもそも、色々なものが満たされていないまま、何かにのめり込めば、いずれ破綻するものでしょう? あの子たちは、それが分かっていない」
言葉とは裏腹に、彼は口角を持ち上げた。
「それどころか、こんな……一歩間違えれば死ぬような場所に、無策にも突っ込もうとするんですから」
「それは、本当に――ごめんなさい」
「いえ、貴女は貴女の信条を貫いただけです。それを追いかけるのが如何ほどの危険を伴うか、あの子たちが露程も理解していないのが、問題なんですよ」
心底から嫌気が差したという表情で、アックスが腕を組む。一切容赦するところのない批評に、叱られているわけではないリジェラの方が気まずくなってしまい、思わず身を竦めた。
「私が言うのもなんだけど……だいぶ怒っているのね」
「だいぶ――ではありません。非常に、です」
苦々しい声で切り返して、彼はしばらく黙り込んだ。それから、ふと強ばった表情を緩めて、眩しいものでも見るように目を細める。
「ですが、やっぱり……あの子たちの作る音楽が素晴らしいなと思うのは、絶対に揺らがない真実なんですよ。だから守りたい。悔しいですけど、そう認めてしまった僕の負けです」
「そう――」
リジェラの返事と被さるように、うるさいなぁ――と寝ぼけた声が言って、ふたりは同時に口元を抑えた。近くのソファで眠っていた仲間が、なにごとか呟いて寝返りを打つ。
「すみません。深夜に話しすぎましたね」
アックスが苦笑いして席を立つ。
壁に掛けられた時計を見ると、午前四時半過ぎを指している。もう深夜を通り越して、早朝と呼べる時間になりつつあった。
「ひとまず、僕たちはあちらの区画で寝ますから、何かあれば訪ねてください」
「あ――ええ。分かったわ」
流されるままに頷いてから、大切なことを伝えていなかったと気がつく。
「あの、アックス――ありがとう。本当に。貴方たちがいなかったら、逃げられなかったわ」
「いえ、それはあの子たちに言ってあげてください。僕は彼らについてきただけですから」
「そうかもしれないけど……」
結果的に助けられたことは本当なのだが。アックスが一礼して歩き去ったので、それ以上引き止めることもできず、遠ざかっていく足音を聞きながら、リジェラはソファに身を倒した。薄暗い天井を見上げて、アックスの語った言葉を反芻する。
彼にとって、若い音楽家たちの作り出す音楽は絶対的な価値であり、そこに疑う余地はない――アックスはそう言った。では、リジェラたち“
「……違う」
問いかけて、そうではない――と思った。
だって。
『俺は貴方たちを地上に連れて行きたい』
そう語った、あの瞳の輝きには、あの黄金色には、絶対に嘘なんてなかった。その言葉に揺すられた心が、生まれて初めて、暖かい光で満たされたと感じたのも本当だ。
彼の語った物語は虚構かもしれない。
だけど――虚構を振りかざしてでも地上を目指した、彼自身を信じるなら、話は別だ。自分の名前も語らないまま死んでしまった彼が、あのとき隣で語った正義は、“
常闇の地底都市だからこそ輝いて見えた、彼の瞳を思い出すために、リジェラは静かに目を閉じた。
***
彼は長く考えた末に、そうだ、と呟いて目を開けた。彼の瞳に差しこんだ光が金色に彩られて、こちらに向けられる。
「リジェラ、というのはどうだろうか」
「……リジェラ?」
携行食のホイルを丸めながら『彼女』は首を傾げる。
「それは、どういう意味」
「俺が、心地よいと思う語感を選んで繋げただけの、何の意味もない音だ」
彼はひとつ息を挟んで、どこか抑え気味な微笑みを浮かべてから言い直した。
「いや――
「また、難しいこと言ってる」
休憩時間いっぱい話に付き合ったけれど、彼の言葉は未だに難解だ。
「でも、リジェラ……という音は、綺麗かな」
そう答えると、彼は「それは良かった」と言って頷いた。褐色の頬が持ち上がり、笑顔の形になる。彼はそれから立ち上がって、ガウンの裾を払いつつ彼女に振り向く。
「もし良かったら貰ってくれないか」
「もらうって?」
「貴女を表す言葉として、この音の組み合わせを使うのはどうだろう、という提案だ」
「私を?」
彼女が小さく目を見開くと、そうだ、と彼は微笑んだ。
その時から「私」は「リジェラ」になり、「リジェラ」は「私」になった。金色の瞳の青年は、やがて総代と名乗り、真祖の隣で群衆に語りかけるようになる。いつの間にか彼は遠い場所に行き、十万の同胞のひとりでしかないリジェラの隣に、もう一度彼がやってきて話しかけることは、二度となかった。