chapitre145. 金色の信条

文字数 8,152文字

 これは、新都ラピスの地底で使役されていた名を持たぬ民が、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”として名前を得る日より、ずっと前の話。黒ずんだ金属と機械油に覆われた地底都市に、その人は、ある日突然やってきた。

 かすれた、低い声が問う。

「この世界をあまねく照らす金色の希望、太陽を知っているか?」
「太陽」
「そうだ」
「……わからない」

 爪と指の間に溜まった汚れを布で拭いながら、『彼女』は首を振る。

 その日の作業は下水道の掃除だった。作業の内容は日によって違うが、数日に一回、これを命じられる。泥まみれのプラスチックや、錆びて朽ち果てた金属や、小動物の死骸――そんな多種多様のゴミが、配水管の柵に引っかかる。放っておくと水が詰まるので、定期的に取り外して掃除をするのだ。

 柵の目詰まりを警告する赤いランプ。
 ゴミが取り除かれたことを示す白いランプ。

 知っている色といえば、その二つだけだった。そう答えると、突然の来訪者は、少し驚いたように目を見開いた。

「貴女自身が色を持っているだろう。鏡を見たことは?」
「鏡は……えっと」
「自分の顔が映る、磨かれた板のことだ」
「あ、鏡……」

 手洗いの壁に掛かっている、あれのことだ、と気がついた。

「うん、鏡、知ってる。見たことある」
「では、色を知らないのではなく、それを形容する言葉を知らないだけだ。貴女の髪は飴色だ。刈り入れ時の麦畑に似ている。瞳はエメラルドグリーンの彩りがある、そうだな、初夏の泉のようだとでも言えばいいか」
「麦畑? 泉……?」

 困惑して首を傾げる。

「あの、よく分からない」

 もうすぐ次の作業に向かうのに、よく分からないお喋りに付き合っていては、携行食を食べる時間がなくなってしまう。無視して部屋を出ようか――と思いつつも、見るからに異質なその人に興味が沸いてしまい、葛藤の末、床に腰を下ろしてしまった。

「麦畑というのは、ラピスの外縁都市バレンシアにある、植物を育む土地のことだ。秋――ちょうど今くらいの時期になると、青々とした緑から、日に焼けた褐色に染まる」
「ふぅん……」

 説明された結果、かえって分からないことが増えた。ほとんどの固有名詞を聞き流しながら、彼女は適当に相槌を打つ。

「じゃあ、えっと……泉は、なに?」
「雨や河川の水が流れ込んだ、大きな水溜まりだ。その水面はとても平らで、鏡に似ていて、空を映してさまざまに色づくんだが――」

 彼はそこで言葉を切って、苦笑した。

「見たことがないと、想像するのは難しいだろうな」
「うん、分かんないな」

 彼女は頷く。
 彼が楽しそうに話しているのは分かるが、内容のほうは全く頭に入ってこなかった。

「もう、行っていい? ゴハン、食べないと」
「携行食なら持っているが、食べるか」
「え?」
「ほら。食べながら話そう」

 彼は荷物入れに片手を入れて、金属のホイルに包まれた、見慣れた塊を取り出した。この、携行食と呼ばれる甘い塊を、彼女は朝昼夜の三回食べる。

「えっと、ありがとう」

 礼を言って受け取る。

「でも、難しい話は、もういい」
「そうか、残念だな」

 彼は口元に苦笑を浮かべてみせた。

「だって、聞いても分かんないから」
「それは悪かった。でも俺は、難しいことを話しに来たわけではないんだ。ただ……貴女は、見てみたいとは思わないか。今、俺が語ったような、貴女が知らない景色の数々を。金色の光が包み込む、地上――と呼ばれている世界を」
「地上……か」

 受け取った携行食のホイルを剥き、口に押し込む。歯に染みるほどの甘さが、どういうわけか、その日は少しだけ違う味に感じられた。

「もうちょっと、話しても良いよ」

 彼女が唇を尖らせて答えると、彼は「それは良かった」と言って笑ってみせた。

「俺は、あなたたちが地上(そこ)で生きるための方法を模索している者だ。もし気が乗れば、話を聞いて欲しい」

 金色。
 太陽の色であり、閉じ込められても外を指向する、ひたむきな光の色。
 
 ***

「なぁ――リジェラ!」
 
 肩をつかんで揺すられ、リジェラは我に返った。非常灯の毒々しい赤色が網膜を突き刺して、頭の奥が痺れるように痛む。滲んだ視界の中央で、こちらを見ているシルエットを、数秒のあいだ無言で見つめ返した。

「起きてる――よな?」

 人の形をした影が、顔をのぞき込む。ペンライトの光を顔に向けられて、反射的に目を細めると、その人の顔にようやくピントが合った。

「……ロマン?」
「他の誰に見えんだよ」

 まだ少年らしさを残した高めの声が、軽い口調で応じる。聞き慣れたその声が、夢うつつの狭間で彷徨(さまよ)っていたリジェラの意識を、一気に現実に引き戻した。ここはハイバネイト・シティ居住区域の第36層で、今はフィラデルフィア語圏という敵から逃げている最中だ。あの金色の瞳をした青年はもうどこにもいなくて、代わりに目の前にいる少年は、地上からやってきた友人のひとりだ。

「あ、あれ――」

 目の前の光景が信じられなくて、リジェラは口をぽかんと開けた。

「どうしてここに貴方が」
「あんな風に出て行って、追っかけないワケないだろ」

 夢から覚めたような心地で、リジェラは周囲を見渡す。ついさっきまで周囲にいたはずの、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”の仲間たちが、忽然といなくなっていた。

「みんなは、どこ」
「もう逃げた。ルージュが案内してる」
「逃げ――え、どこに」
「付いて来りゃ分かるから、早く行こう。立てないわけじゃないよな?」

 埒が明かない――とでも言いたげにロマンが眉をひそめて、リジェラの手首を掴んだ。彼に引き上げられるままに立ち上がり、ふらつく身体を二本の足でどうにか立て直した。踵のずれていた靴を履き直して、リュックサックの紐を締める。少し離れた場所に落ちていた銃を拾うと、武器を見慣れていないのだろう、ロマンが肩を小さく強ばらせた。取り繕うように首を振って「行こう」と歩き出す。

 通路の照明は部分的に消えて、代わりに非常灯の赤い色に置き換わっている。見慣れない色彩に包まれた通路は、どこか現実味が欠けていて、ぼんやりとした思考のままロマンの背中を追いかけた。

 交差路の向こうに、小さな人影が見える。

 小柄な少女、ルージュが向こうから手を振って、両腕を交差させてバツを作って見せた。ロマンに導かれるまま柱の死角に身体を隠すと、それが合図になったかのように足音が近づいてくる。敵の残党と思われる足音が、向かいの通路を横切り、こちらには気がつかないまま遠ざかっていった。

「あっぶねぇな」

 ロマンが唾を飲み込んで呟く。

 あたかも未来が見えているような行動だったが、ロマンたち唱歌団(コーラス)の面々は普通よりも遙かに優れた聴覚を持っている。だから、リジェラよりも早く、遠くの足音を聞きつけることができるというわけだ。そう――未来が予知できているように見せかけること、それ自体は、きっと難しいことではないのだ。

 まだ霞んでいる頭で考える。
 自分たちは騙されていたのだろうか。

 遠い未来を見通す白銀色の瞳を持ち、リジェラたち子孫の幸福を祈って、四世紀もの昔から眠り続けている女性、真祖エリザ。今まで信じていた()()は、人工知能の見せた虚像だったとでも言うのだろうか。

 向かいの壁からルージュが顔を覗かせて、今度は指先でマルを作ってみせる。交差路を無事に抜けてから彼女と合流し、しばらく案内されるままに進むと、見覚えのある区画に辿りつく。

 天井が崩れている。

 侵入する際に爆破した地点まで戻ってきたようだ。結び目の幾つも作られたロープが、爆破で崩れた天井から垂らされており、その向こうに仲間たちの姿が見えた。念のために銃を構えて警戒しながら、子どもたちを先に登らせる。登るのに慣れていないようで、少し時間がかかったが、どうにかふたりが上のフロアによじ登ったのを見て、リジェラもロープの結び目を掴んだ。左脇に銃を挟んだまま、距離にして三メートルほど身体を引き上げる。

 最後の結び目に手をかけると、視界の端で誰かが立ち上がった。

「慣れてますね、リジェラ」

 床に身体を乗せてから、隣で待機していた人に気がつく。目に掛かった髪を払いながらそちらに顔を向けると、彼は真剣な表情を保ったまま、口元だけを僅かに持ち上げて見せた。

「……アックス」
「あの子たちは、最後に身体を引き上げるのがいちばん難しそうだったんですけど……貴女は軽々と登りますね」

 見慣れた友人の顔を見て、助けられたのだ――という安堵が全身を弛緩させた。ふらふらと歩いて、煤のついた壁に寄りかかり、そのまま座り込む。鼓動が早い。身体の外側は熱いのに内側は冷え切っていて、嫌な汗が吹き出した。

「リジェラ、何があったんですか。もし、聞いても良ければ、ですが……」

 背を向けたアックスが、ロープを回収しながら問いかけてくるが、色々なことが頭の中で絡まり合っていて、とても全てを説明できる気はしなかった。だが、疲労でぼやけた思考のなかでも、ひとつだけ、明白に浮かび上がっている言葉があった。

「――違ったの」
「違った……?」

 視界の端で、彼が不思議そうに振り返る。リジェラは頷いて、引き寄せた膝に顔を埋めた。

「私たちが聞いたのは、真祖の声じゃなかった。音を()いで()いだだけの、偽物の声だった。真祖は、私たちを助けてくれなかった」
 
 ***

 ソファが並べられた食堂で、リジェラは“春を待つ者(ハイバネイターズ)”の仲間たちと合流した。
 停電はひとまず復旧したものの、依然として通信の不調は続いており、事態が分かるまで動かずに待とう――という運びになったらしい。仲間がソファやカーペットで横になるなか、リジェラは眠る気になれず、ぼんやりとテーブルに肘をついていた。視界を目蓋で閉ざせば、その瞬間に恐ろしい暗闇に囚われてしまうような気がした。

 どこから嘘だったのだろう。
 どこまで本当だったのだろう?

 もしかして、最初から最後まで、余すところなく全て、虚構だったのだろうか。真祖、冬眠(ハイバネーション)、寒冷化で滅びた旧世界――信じていたはずの言葉たちが、突然、針の上に乗った球体のように、頼りなく思えてくる。胸の中が空っぽになって、ぎゅうと締め付けられるように痛んだ。

 上半身を丸めてテーブルに伏せていると、誰かが近づいてくる気配があった。足音はすぐ隣で立ち止まり、こちらを見下ろしている視線を感じ取る。

「リジェラ、話をしても良いですか?」

 眠っている仲間たちを起こさないためか、アックスが小声で問いかける。

「ひとつ、伝えておきたいことがあって」
「……ええ、大丈夫」

 伏せていた顔を上げて、頷いてみせる。

 アックスは小さく頭を下げてから、対面の椅子を引き、腰を下ろす。しばらく言葉を選ぶ様子を見せていたが、何かに頷いてから「言うか迷ったんですが」と決意の宿る表情で切り出す。

「少なくとも、上にいたときに流れた放送。あれは、間違いなく人間の肉声でした」
「……そうなの?」
「はい」

 彼ははっきりと頷いて、こちらの反応を伺うように、しばらく沈黙を挟んだ。

 リジェラはゆっくりと身体を起こし、彼が言ったことの意味について考える。耳に優れる彼が言うのだから、その情報はまず間違いないのだろう。だが、リジェラたちに呼びかけたのが肉声だったからといって、それが真祖の声であるかどうかは別の問題だ。

「どんな人の声、とか……分かるかしら?」
「そうですね、30代くらいの、身体を鍛えていない女性の声ですね」

 ほとんど間を置かずに返事が返ってくる。

「呼吸が浅い、ほとんど腹筋を使っていない話し方です。発音は丁寧でしたが、話すこと自体に慣れていない、身体がついて行けていない印象――というか」
「そう……ありがとう」
「貴女が思う人の特徴とは、合いますか」
「えっと、そうね、どうかしら……」

 アックスが質問の意図を汲んでくれたことに驚きながら、リジェラは目をくるりと回して、真祖エリザにまつわる伝承の内容について思い出そうとした。

「真祖は長い間眠っていたそうだから、たしかに身体は弱いと思う。年代もそのくらいに思える……けど」

 逆接のあとに続く言葉を、リジェラはしばらく考える。長い沈黙のあいだ、アックスは静かに待ってくれていた。

「――だけどね」

 整理し切れていない思考を、掬い上げるように言葉にしていく。

「そんな、断片的な情報が合うからって……それが全部じゃないわよね。年代と体格が真祖と似ているだけの、別人かもしれない」
「そうですね」

 平坦な相槌。

「僕もそう思います。判断材料としては不十分ですね」
「そうよね……ごめんなさい、励ましてくれようとしたのに」
「いえ。僕は知っていることを伝えに来ただけです。貴女がどう判断するかは、僕の触れるべき点ではないので」
「ありがとう。そういう人だよね、貴方は」

 地上で教育を受けたアックスは、リジェラや他の“春を待つ者(ハイバネイターズ)”と違って、七人の祖がラピスを築き上げたという、リジェラに言わせれば旧式の歴史観を持っている。だが、総代に教えられた伝承について教えても、その真偽には疑いを向けつつ、それでいてリジェラを否定することもなかった。

「私……なんで今まで、何ひとつ疑わずにいられたのか」

 深い溜息を吐いて、きつく目を閉じる。

「本当かどうか、確かめてもいない話に踊らされて、心の芯まで信じ切った挙げ句、放り出されるなんて……馬鹿みたい。何のために私たちは、この二年間、地上に酷いことをして――っ」

 途中からは言葉にできなかった。

 肺が潰れてしまったかと思うほど、声が出ない。吐き出したい感情は山ほどあるのに、喉元に詰まってしまったようだ。皮膚に爪が食い込むほどに拳を握ると、どことなく悲しげな声が名前を呼んだ。

「リジェラ――貴女が、貴女自身よりも大切な存在に出会えたのは、その物語の真偽とは関係なく、とても素敵なことだと思います。でも、その……貴女が生命(いのち)を預けるに足るものかどうか、少し、考え直してみても良いのかもしれません。例えばですが、もしその歴史に、一厘の嘘があっても――その大切なものの価値は、貴女のなかで不変ですか?」

 即答はできなかった。

 頷きも首を振りもせず、テーブルに反射した彼の影を見つめる。

「もしも、()()が真実であることに意味があると思うなら、もう少し……危険に身を晒すことを控えてもらえると、僕としても助かります。あの子たちが真似をしますから」
「――あの子たち」
「ええ」

 真剣だったアックスの口調が、少し和らいだ声音に変化する。つられて顔を上げると、彼はリジェラに視線を合わせて微笑んで見せた。

「ふたりが言ったんです。後を追いかけたいと」
「そうか……アックス、貴方の大切なものは、音楽であり、ロマンやルージュ、若い音楽家たちなんだよね」
「そう言えるでしょうね」
「貴方は、揺らいだりはしないの」
「そうですね……」

 もちろん揺らぎませんよ――と即答してくれるだろう、というリジェラの期待とは違って、彼は少し答えを迷う素振りを見せた。

「……思うところはありますよ。こんな、生きているだけで精一杯みたいな状況で、さらに負担を抱え込むような子たちです。僕は音楽が好きで、音楽をするために生きていますけど――そもそも、色々なものが満たされていないまま、何かにのめり込めば、いずれ破綻するものでしょう? あの子たちは、それが分かっていない」

 言葉とは裏腹に、彼は口角を持ち上げた。

「それどころか、こんな……一歩間違えれば死ぬような場所に、無策にも突っ込もうとするんですから」
「それは、本当に――ごめんなさい」
「いえ、貴女は貴女の信条を貫いただけです。それを追いかけるのが如何ほどの危険を伴うか、あの子たちが露程も理解していないのが、問題なんですよ」

 心底から嫌気が差したという表情で、アックスが腕を組む。一切容赦するところのない批評に、叱られているわけではないリジェラの方が気まずくなってしまい、思わず身を竦めた。

「私が言うのもなんだけど……だいぶ怒っているのね」
「だいぶ――ではありません。非常に、です」

 苦々しい声で切り返して、彼はしばらく黙り込んだ。それから、ふと強ばった表情を緩めて、眩しいものでも見るように目を細める。

「ですが、やっぱり……あの子たちの作る音楽が素晴らしいなと思うのは、絶対に揺らがない真実なんですよ。だから守りたい。悔しいですけど、そう認めてしまった僕の負けです」
「そう――」

 リジェラの返事と被さるように、うるさいなぁ――と寝ぼけた声が言って、ふたりは同時に口元を抑えた。近くのソファで眠っていた仲間が、なにごとか呟いて寝返りを打つ。

「すみません。深夜に話しすぎましたね」

 アックスが苦笑いして席を立つ。

 壁に掛けられた時計を見ると、午前四時半過ぎを指している。もう深夜を通り越して、早朝と呼べる時間になりつつあった。

「ひとまず、僕たちはあちらの区画で寝ますから、何かあれば訪ねてください」
「あ――ええ。分かったわ」

 流されるままに頷いてから、大切なことを伝えていなかったと気がつく。

「あの、アックス――ありがとう。本当に。貴方たちがいなかったら、逃げられなかったわ」
「いえ、それはあの子たちに言ってあげてください。僕は彼らについてきただけですから」
「そうかもしれないけど……」

 結果的に助けられたことは本当なのだが。アックスが一礼して歩き去ったので、それ以上引き止めることもできず、遠ざかっていく足音を聞きながら、リジェラはソファに身を倒した。薄暗い天井を見上げて、アックスの語った言葉を反芻する。

 彼にとって、若い音楽家たちの作り出す音楽は絶対的な価値であり、そこに疑う余地はない――アックスはそう言った。では、リジェラたち“春を待つ者(ハイバネイターズ)”にとって、本当に大切にすべき信条とは何だろう。もし真祖の物語が嘘だったとしたら、地上を目指そうとした足並みから全て、否定されてしまうことになるのだろうか。

「……違う」

 問いかけて、そうではない――と思った。
 だって。

『俺は貴方たちを地上に連れて行きたい』

 そう語った、あの瞳の輝きには、あの黄金色には、絶対に嘘なんてなかった。その言葉に揺すられた心が、生まれて初めて、暖かい光で満たされたと感じたのも本当だ。

 彼の語った物語は虚構かもしれない。

 だけど――虚構を振りかざしてでも地上を目指した、彼自身を信じるなら、話は別だ。自分の名前も語らないまま死んでしまった彼が、あのとき隣で語った正義は、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”を束ねる軸として、まだ存続しうるかもしれない。

 常闇の地底都市だからこそ輝いて見えた、彼の瞳を思い出すために、リジェラは静かに目を閉じた。

***
 
 彼は長く考えた末に、そうだ、と呟いて目を開けた。彼の瞳に差しこんだ光が金色に彩られて、こちらに向けられる。

「リジェラ、というのはどうだろうか」
「……リジェラ?」

 携行食のホイルを丸めながら『彼女』は首を傾げる。

「それは、どういう意味」
「俺が、心地よいと思う語感を選んで繋げただけの、何の意味もない音だ」

 彼はひとつ息を挟んで、どこか抑え気味な微笑みを浮かべてから言い直した。

「いや――()()()()、意味のない音だ。しかし、意味がないことに、意味があるんだ」
「また、難しいこと言ってる」

 休憩時間いっぱい話に付き合ったけれど、彼の言葉は未だに難解だ。

「でも、リジェラ……という音は、綺麗かな」

 そう答えると、彼は「それは良かった」と言って頷いた。褐色の頬が持ち上がり、笑顔の形になる。彼はそれから立ち上がって、ガウンの裾を払いつつ彼女に振り向く。

「もし良かったら貰ってくれないか」
「もらうって?」
「貴女を表す言葉として、この音の組み合わせを使うのはどうだろう、という提案だ」
「私を?」

 彼女が小さく目を見開くと、そうだ、と彼は微笑んだ。

 その時から「私」は「リジェラ」になり、「リジェラ」は「私」になった。金色の瞳の青年は、やがて総代と名乗り、真祖の隣で群衆に語りかけるようになる。いつの間にか彼は遠い場所に行き、十万の同胞のひとりでしかないリジェラの隣に、もう一度彼がやってきて話しかけることは、二度となかった。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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