chapitre151. あるべき場所
文字数 6,143文字
「あ――」
驚きと戸惑いが混ざり合った声が喉からこぼれる。壁に背中を預けていたアルシュが、ゆっくりと身体を起こして、ロンガの――正確に言えばエリザに借りた目をじっと見つめた。
「――アルシュ」
「ねえ、もしかして……ロンガだったり、する?」
暗闇を探るような言葉とは裏腹に、確信めいた声と表情だった。久しぶりに友人として相対する彼女に、どう答えれば良いのか分からず逡巡すると、アルシュは張りつめていた頬を緩めて「やっぱり」と微笑む。
「ロンガだ」
アルシュの手が首のうしろを引き寄せて、そのまま抱きしめられる。エリザの身体が小柄なので、少しあごが持ち上がって息苦しくなるが、それ以上に懐かしさが勝った。包み込む体温が溶けそうなほど暖かくて、平静を保とうとしても、どうしても鼻が詰まったような声になる。
「まだ……何も言ってないのに」
「分かるよ。その、何て言おうかなって迷う感じ……ロンガだもん」
答えるアルシュの声も、ロンガと同じくらい鼻声だった。少し震えている彼女の腕に手を置いて、ロンガは目を閉じる。
「……黙ってて、ごめん」
「ホントだよ。いつから居たの?」
「いつから……えっと、マダム・カシェにアルシュが銃を向けてくれたとき、中身は私だった。あの時は、助けてくれてありがと――」
「え? ちょっと待ってよ」
心なしか温度の低い口調が、ロンガの礼を遮った。抱きしめていた身体がゆっくりと離されて、「ねえ」と至近距離で視線をぶつけられる。背筋がぞくりと冷える鋭い視線は、彼女の白目が充血しているせいだけではない気がする。
「つまり、ほとんど最初からってこと……?」
「というよりは、最初の数日は私で、その後エリザになった、というか――」
「――なん、で」
小刻みに震える手のひらが、肩を強く掴む。
「なんで、そういうの、黙ってるわけ……!」
「ご、ごめんっ――」
身体を揺すられて、エリザの細い首では頭の重みを支えきれず、ぐらぐらと目が回る。前後に視界がぶれるなか、どうにかアルシュの手首をつかんで身体を支えると、はっとした声で「ごめん」と謝られた。
「どこか痛めてない?」
「何とか平気……悪い、その、アルシュが怒るのは当然だけど――気を遣ってほしい。また傷が開いてしまう」
「うん、ごめんね。身体がマダム・エリザなの、頭では分かってるつもりなのに、忘れかけてた」
「……忘れられるようなものか?」
「だって、なんか」
アルシュが涙ぐんだ目を細めて、力の抜けた笑顔を浮かべると、ひとつぶの涙が落ちて頬に伝った。
「本当に、薄皮一枚だけマダム・エリザでさ、あとは全部ロンガに見える。なのに私、騙されてたなんて、しかもロンガにって、あはは……いっそ悔しいなぁ」
「……なんか、一言多い」
「ずっと話したかったんだよ。少しくらい、恨み言のひとつくらい、聞いてよね」
「今は時間がないけど、無事に事態が収まったら、一晩中でも聞くよ」
「うん」
目元を指先で拭って、彼女は真正面から、晴れやかに笑ってみせた。
「おかえり」
「うん……ただいま。今の状態を、帰ってきたって呼んで良いのか、分からないけど……」
「これから、ずっと、何て言うのかな――半分ロンガで、半分マダム・エリザみたいな状況が続くの?」
「いや――いつまでも、エリザの身体に居座る気はない。今、こうして私が身体を借りていることで、エリザにはかなり負担を掛けてるんだ。でもラピスが、せめてもう少し危機を脱するまでは、私もアルシュたちと一緒に頑張りたくて……それまでは、エリザに嫌われても、ここに居ようと思ってるよ」
「そう……」
アルシュはひとつ頷いて、そのまま視線を下に落とす。暖かい手のひらが両手を包むように握りしめて、掠れた声がぽつりと呟いた。
「……その後はどこにいくの?」
「え?」
「ううん……やっぱ、今は聞かなくて良いや」
握っていた手を離して、行こうか、とアルシュが通路のほうを指さして見せた。湾曲した廊下の向こうから、コアルームの喧噪がわずかに響いている。ロンガは頷いて、彼女の背中を追いかけた。
「わざわざ迎えに来てくれたのか」
「半分、そう」
こちらを振り返って、アルシュが指を二本立てる。
「もう一つは……みんなの前で泣いたら、気を遣わせちゃうと思って」
「ああ、弱ってるところを見せたくない――みたいなこと、前に言ってたよな」
ラ・ロシェルの病棟で、アルシュを見舞いに行ったときのことを思いだして話すと、彼女は「なんで覚えてるかなぁ」と眉を下げて笑った。
「その言い方だと格好付かないじゃん。まあ、そうだけどさ……私はさ、弱ってるとこを
「じゃあ、さっき泣いてたのは、見ないフリしたほうが良いのか?」
冗談めかして言うと、アルシュは特に堪えた様子もなく、肩をすくめる。
「ん……今更かなって思って。もう取り繕えないくらい、弱いとこ、見せたでしょ」
「どうだろうな」
「あれ、違う?」
「アルシュは、たしかに昔から気弱なとこがあったけど、弱いとは思ってないから」
ロンガが率直に答えると、アルシュは小さく肩を跳ねさせて、それから半信半疑の様子で笑った。
「ホントかなぁ」
「本当だよ。人前では泣かない自分でいたいのも、気を許した相手に涙を見せられるのも、どちらも強さだと思うけど」
「ふふ、何それ。意味わかんないよ」
まるで跳ねるように一歩、高い靴音を立てて踏み出す。嘆息のようなものを天井に吐いてから、くるりと振り返って、照れたような笑顔がこちらを見た。
「どうせなら、あと二年早く聞きたかったなぁ。それなら、こんな、大層なお役目に付かなくたって、私さぁ……もうちょっと簡単に生きられた気がする」
「大層なお役目って、MDPのことか? MDPがなかったら、多分、さっきの会議も開かれなかったと思うけど――」
「うん、分かってる。もしもの話だよ」
アルシュが静脈認証のパネルに手を押し当てると、コアルームの扉が開く。ハイバネイト・シティの中枢と呼ぶべき部屋で、MDP構成員たちが三々五々に散って仕事をしていた。いちばん人数が多いのはパネルの前に集まっているグループで、表示されているウィンドウを見るに、どうやらハイデラバードと通信をしているようだった。さらに詳細な情報を見ようと目を凝らしたが、そこで構成員のひとりがロンガたちに気がつき、立ち上がって声を掛けてきた。
「マダム・アルシュ、こちらの処理をお願いします。リストアップしておいたので」
「ああ……ありがとうございます」
構成員から
「えぇと――マダム・エリザ、すみませんが、細かい処理が溜まってまして。色々ご説明する前に、こちらをお願いします」
「ああ、勿論です」
事情を知らないMDP構成員たちの前では、内側を支配している人格に関わらずエリザとして振る舞う必要があるので、必然的にアルシュの態度も切り替わった――ということらしい。彼女から
何番目かの処理を最後まで終え、ひとつ息を吐くと、顔の横から別の
「こちら、先にやってもらって良いですか」
「先に……ですか」
未解決プロセスのリストを一瞥して、ロンガは眉をひそめる。
「一応、こちらを先に片付けるよう、頼まれているんですが……そんなに大切な用事ですか?」
「こいつは、ハイデラバードが、俺たちに城門を開いてくれるための条件です」
「条件? そういえば……先の会議でも、その話はしていませんでしたね。ただ、向こうの協力が得られた、とだけ」
「ええ」
「いったい何をちらつかせたんですか」
「まぁ、それは見てもらえば分かります。とにかく、早急に頼みたい」
彼がそう言って譲らないので、とにもかくにも受け取った
「……なるほど」
その文書は、MDPヴォルシスキー支部の名義で記されている。
データをハイデラバードに転送する処理を進めながら、ロンガは研究員たちの辿りついた結論に目を通した。見慣れない専門用語も多いなか、ひとつの単語が文中で頻出していることに気がつく。
「体内で分泌される……抗体?」
「ええ」
別の場所で指示を出していたアルシュが戻ってきて、後ろで頷いてみせる。
「出生管理施設で生まれた人間と、それ以外――いわゆる
「あくまで、生まれてくる子どもの総数に対して極端に少ない……というだけでね」
カノンが相槌を打つ。
「つまり、妊娠の成立を確率的に下げるようなメカニズムが仕込まれていると、そう想定していたわけだ」
「そう。だから、その前提で調査を進めた結果、ほら……ここの欄、全然数値が違うでしょう。他者の遺伝子を拒む抗体を生成するような機構になっていたんです。
「――凄い」
エリザのふりをする演技すら一瞬忘れて、ロンガは背筋を正す。一般のラピス市民が妊娠しづらいと言われている、その原因を突き止めたことよりも、原因を突き止めようと動いた人間がいること、それ自体が驚きだった。ヴォルシスキー出生管理施設が燃えて灰になったと聞いたとき、程度の差こそあれ、ほとんどの人間は絶望したはずだ。
でも、希望を捨てなかった人たちがいた。
焼けてしまった叡知の代わりになるものを求めて、地道な研究に身を投じた人々に尊敬の念を抱きつつも、ロンガはシステムに命じて、ハイデラバードへのデータ転送を開始する。一瞬だけラグを挟み、別のウィンドウが開いて、転送の進行具合を示すバーがゆっくり伸びていった。
「原因がこの抗体ならば、対策は可能です」
アルシュが目を細めて呟く。
「どちらかというと、意識改革のほうに苦労するかもしれませんが――ともかく、理論の上では、次世代への持続が可能になった。壁は、取り払われたんです」
「次世代か……」
かつてのロンガのように、本来は排斥される立場にあった
「どんな世界になるんでしょうね」
背後を振り返って尋ねると、友人たちはそれぞれに曖昧な笑みを浮かべて、さあ、と首を捻ってみせた。
「あんたの、その目で見えないんだったら、俺たちにも分かりませんよ……ところで」
役目を終えた
「今は、どっちのあんたなんだい」
「……もう分かってて聞いてるだろ、それは」
身体年齢で言っても10歳以上、生命凍結されていた時間を含めればひと世代も年上であるエリザに対して、カノンたちは丁寧な言葉を使って話す。エリザを相手に話している可能性があると思っているなら、そもそも、こんなフランクな訊き方はしないはずだ。
「私だ。カノンの友人の方だよ」
周囲の構成員たちに聞かせないよう小声で答えると、どういうわけかカノンではなく、話を横で聞いていたアルシュの方が肩をすくめて苦笑した。
「友人だってさ」
「それで落ち込むような時期は、とっくに通り過ぎたね」
やや早口に応酬を交わしてから、あ、と呟いてカノンが顔を上げる。パネルに表示されたデータ転送の進捗状況が、あと少しで百パーセントに達しようとしていた。転送が完遂される瞬間を見届けようと、ロンガが目を凝らしたとき、不意に頭の中心がぐらりと揺れる感覚に襲われた。
「……ん?」
目眩のような揺れに額を抑える。
「あれ、平気?」
心配そうに顔をのぞきこんだアルシュが、目を見開く。え、と空気の塊を吐き出すように呟くのが、やけに遠い場所で聞こえた。
「え、なんか、目が――」
視界がおかしい。
薄暗かったはずのコアルームが、虹色に光って見える。白いパネルが分光されて、鮮やかな色の群れに変わり、多すぎる情報を処理できずに思考がぼやけていく。
違う。
おかしいのはロンガの目だけではない。
驚いた表情でこちらを見ていたアルシュが、目の前で膝をつく。立って見下ろしていたカノンが、椅子を巻き込んで倒れるのが見えた。パネルの前で、操作盤で、作業をしていたMDP構成員たちが、ぷつりと糸が切れたように崩れ落ちていく。それを呆然と眺めていたロンガの――あるいはエリザの身体も、重力に引き寄せられるまま傾いて、冷たい場所へ落ちていった。
激しい色彩がオーバーフローして白に収束する。強すぎる光が目を灼いて、暗闇にすら思えるほどの光のなかで、はるか遠くに声が聞こえた。
「いやぁ――すごいね君たちって」
「だ……誰、だ」
ロンガがどうにか声を絞り出すと、冷たいものが頬に触れた。人の手の形をしているのに、体温を全く感じない、その感触には覚えがあった。
「――ビヨンド……?」
「あれ、D・フライヤじゃなかったっけ?」
エリザたちに白銀色の瞳を与え、滅亡の危機に瀕した人類を観察していた超越的存在は、不思議そうな声音を作って呟いた。
「まあ、どっちでも良いか。すごいね、君たち人類は……わざわざ、僕が予備を用意してあげるまでもなかったらしい。こうして、生命を作り出す手段を、再び手に入れつつあるんだから」
「予備……何のことだ」
「何のことか、って?」
嘲笑うような声が耳元で囁く。
「
冷たい手が首元に巻き付いて、ぐっと力を込めた。揺るがない強い力で喉が締め上げられて、思わず嗚咽をこぼす。唐突に与えられる苦痛に、手足をばたつかせて抵抗しようとするが、そもそも身体がどこにあるのか分からない。
「やっ――止めろ」
「そもそも、君は死を選んだはずだ」
締め上げる力はどんどん強くなる。
「君は自分の心臓を抉った。なのに、そうやって自我が存続していること自体、不条理だと思わない?」
首の骨がきしむような音が響いたのは、現実か、あるいは幻覚なのか。手足の末端が痺れて、力が抜けていく。超越的存在が何を言っているのかすら、もうあまり理解できないまま、意識は苦痛に支配されて暗闇に落ちていった。
「じゃあ――あるべき場所に、帰ろうか」