chapitre111. 混濁する光
文字数 6,341文字
――ラ・ロシェル語圏ラピス 統一機関中庭
顔を庇ったむき出しの腕に、パラパラと何かの欠片が落ちてくる。永遠に続く気さえした振動がようやく薄れ始めて、シェルはゆっくりと身体を動かした。
崩れ落ちる塔から逃げだそうとして、中腹の窓から中庭の植え込みに飛び込んだのだ。レギンスに包まれた足も、パーカーのずり落ちた肩も傷だらけだが、動けないような怪我はしていないようだ。
枝を掴んで起き上がろうとするが、髪の毛の一部が枝に絡まっていて動けなかった。特に何の未練もなく切り落として、身体を引き起こす。同じく植え込みに沈んでいたリュックサックを持ち上げると、太い枝が布地を貫いていて、顔が引きつった。リュックサックを背負っていなければ自分の背中に刺さっていただろう。“
とりあえず現状に対処してから、土埃の舞っている空を見上げた。
「……どう、しよう」
呆然と呟く。塔の上にある時間転送装置を使って過去に戻る、そのためにここまでやってきたのに、大切な人はいなくなり、目的を達成する手段は失われ、その上なにか、途方もない事態になっている。
シェルは中庭の柵に近づいて、白い靄に包まれたラ・ロシェルの街並みを見下ろした。捨てるつもりだった世界に、たったひとり取り残された。大切なものの何一つ残っていない場所で、これ以上、何をすれば良いのだろう。
見えない、分からない。
だからこそ、もう死んでしまっても良いかなと思って、あの窓際に行ったのだ。なのにどうして自分は足掻いているのだろう。生き残るための対応を、無意識に取ってしまっている。
身体を捻ると、肋骨にひびでも入ったのか、ずきりと痛んだ。どこで痛めたのだろうと考えて、白い光球に飲み込まれた直後のことを思い出す。シェルは額を抑えて、あの時の自分に降りかかった一連の出来事を繋げようと試みた。
結論はひとつしか浮かばなかった。
彼女が、自分の身体を
「守ってくれたんだ――ルナ」
彼女自身がいなくなることと引き換えに。
友人の愛称を呆然と呟くと、まだ地平線に近い太陽が雲のすき間に顔を出した。放射状に広がる光が空を満たしていく。かつての自分と同じ名前を持つ天体、地底の民が全てを差し出してでも求めた恒星が、異様な白に包まれた地上よりもなお明るく、世界を照らし出していた。
眩しさに目を細めながら、シェルは地平線に昇る太陽をじっと見つめた。その光が照らすシェルたちの街は
もう希望なんて残っていない。
なのに誰もが明日を見つめていた。友人と一緒に地底から地上を目指した、十日間ほどの短い旅路で、シェルは嫌と言うほどそれを見せつけられた。出会う人は本当に、一人残らずと言って良いほど、少しでも良い未来を探し求め、そのために行動していた。
それは彼らが過去に戻る技術の存在を知らないから、あるいはラピスの現状を正確に認識していないからかもしれない。けれど、この世界から逃げだそうとしている人は、シェル自身を除いてたった一人もいなかった。
自分は何か間違えたのだろうか。
そう自問自答してみたが、どれだけ考えてみても、理に適った発想をしているのは自分だという感覚は消えなかった。
出生管理施設の技術はもう失われてしまって、今からの復元はおそらく絶望的だろう。新しい生命がほとんど生まれないのだ。人間が寿命という枠に囚われていて、有限の時間しか持たない以上は、ラピスという街だってそれ以上の時間を持ち得ない。
あの白銀の目なんかに頼らずとも、滅びの未来は見えている。抜本的な解決策なんて誰も持っていないはずだ。なのに、誰もが希望を捨てようとしないのは――なぜだろう。
『俺は、ラピスが好きなんだ』
耳の奥で彼の声が響き、シェルははっと目を見開いた。
『好きなんだ。そこに住まう人も、土地も、この星も。この美しい世界の行く先を、できれば自分の目で見ていたい』
記憶の奥底に残されていた力強い声を思い出して、シェルは柵を握りしめた。膝から力が抜けて、泥に覆われたレンガに膝を付く。
みんな彼と同じなのだ。
ラピスという街や、そこに住む人たちが好きだからこそ、どんな事態だって正面から受け止めようとしている。
金色の瞳がこちらを振り返り、シェルの考えを肯定するように微笑んで頷いた。
――シェルは違うのか。
そう問いかける声が聞こえた気がした。
「……ぼくだって好きだったよ」
首を振り、歯を食いしばって呟く。好きだったからこそ、それが奪われていく結末に耐えきれなかった。奪われてしまったからこそ、時間を遡ってでも再び手に入れようとしたのに、そんなものは偽物だと言われて、取り戻す道すら絶たれてしまった。
「でも、もう。ここには何もないのに」
――だが、太陽がある。
彼や、死んでいった“
太陽。
この世界を包み込む希望。
それがまだ存在しているという、絶望的な事実。
「……嫌だよ」
目の奥がじわりと熱くなった。あんなものは、宇宙に無数にある恒星のひとつでしかない。それが希望になるなら、彼らはどうして絶望して死んでしまったのか。
いや、それでも確かに、矛盾するようだけど――彼らにとって太陽は、希望の象徴だった。
『叶うことなら、俺は、太陽が見たい。あの熱が、気高い白が……好きだったんだ』
常闇の地底都市で、まだ生きていた彼はたしかにそう言った。常に上を向いていた金色の視線は、きっと太陽を見据えていた。この手に太陽を――と
「サジェス君――」
彼の名前を呼んだ。
持ち上げた視線に応えるように、太陽の圧倒的な輝きが両目に飛び込んで、眩しさと悔しさで涙がこぼれ落ちた。
「間に合わなくて、ごめん」
あの日から何日も過ぎて、ようやくシェルは地上に辿りついた。死ぬ前に太陽を見たいという彼の願いを叶えるには、時間も力も足りなかった。今さら陽の当たる場所にやってきたって、隣には誰もいない。
でも、辿りついてしまった。
彼が願ったはずの場所に、たったひとりで。
『死んだ奴はお前自身じゃないんだ。他人の願いなんて、そもそも背負えるもんじゃないんだよ』
地下で出会った青年が言ってくれたことが、胸の奥で蘇った。その名前は覚えないようにしたから、思い出せない。けれど、彼の視線に込められていたまっすぐな熱意だけは、どう頑張っても忘れられなかった。
「分かってる。サジェス君はぼくじゃない」
シェルはシェル以外の誰にもなれないから、もう死んだ人の祈りを代わりに叶えることはできない。
他人の願望を自分の宿命だと思い込んで、訳も分からないまま背負うことに意味なんてない。でも、その祈りに共感して受け取ることになら、少しは意味があるかもしれない。
尊敬した人が愛したラピスを。
最愛の友人が愛した世界を。
太陽が照らしているこの場所を、もう一度ちゃんと愛して、そこにあるものや住まう人を守ることが、まだできるだろうか。
「君なら……何ていう? ルナ」
消えてしまった彼女の名前を呟いて、十数年に渡る長い間、太陽を象ったイヤリングがぶら下がっていた右の耳たぶに、指先で触れる。消えてしまった数グラムの重みが、彼女がいなくなってしまった事実を端的に物語っていた。
『このラピスを捨てるなんて、言わないでくれ』
幻像に飲み込まれる直前、彼女はそう言って涙を流した。あの時シェルを窓の外に突き飛ばしたのは、この世界を捨てさせはしない、という彼女の意志なのかもしれない。彼女自身がいなくなることと引き換えに、シェルの後ろ向きな目的を打ち砕いた。
「……分かったよ」
シェルはひとつ溜息をついて、立ち上がる。眼下に広がるラ・ロシェルの街は、未だに異様な白に包まれていたが、少しずつその光が薄れてきたようにも見えた。遷移性の
それでも――ここで生きろと言うのなら、彼らが愛したこの街を、もう一度だけ愛してみようと思った。
今日よりは少しでも良い明日のために、毎日を積み上げよう。いつかまた彼女と出会える日があるとしたら、その時に少しは胸を張れるように。ひとつ息を吸ってリュックサックを背負い直し、シェルは中庭を立ち去った。
*
同時刻、コアルーム。
緊張のあまり息を止めてパネルを見つめていたアルシュは、安堵のあまり長い溜息を吐いた。発生からおよそ30分あまり、地上ラピスのほぼ全域を席巻した
「良かった……」
「とはいえ、問題はここからでしょう」
悠々と椅子に腰掛けていたカノンが立ち上がり、コアルームを出たのでアルシュも彼の後を追いかける。彼は行き先を告げなかったが、カノンが向かう先は分かりきっていた。ひとつフロアを降り、クリーンルームを通過して、ハイバネイト・シティ最下層でも群を抜いて広い円形のホールに入っていく。
中央のベッドに身体を横たえた女性は、薄く目を開いていた。見覚えのある白銀色の両目には、近づいてきたアルシュたちの姿も映っているはずなのだが、彼女は一切の反応を返さない。
アルシュが彼女の手を取ってパネルの一部に押し当てると『認証成功』と表示されて、本来なら総権保持者でなければアクセスできない情報が表示される。成り行きを見守っていたカノンが、さて、と呟いた。
「どこから手を付けるかね」
「ひとまず、地下と地上の行き来を自由にするのが良いと思う。一切の権限がなくても昇降装置が使えるように」
部分的に回復したカメラの映像をアルシュは一瞥する。危惧していた通り、どこを見ても建物の崩壊が酷かった。二次被害を避けるためにも、幻像の影響を受けなかった地下に避難してもらうのが最優先だと判断したのだ。
「そうだな。あんたに賛成だ」
頷いてパネルに視線を戻したカノンが、数秒沈黙したのちに「ちょっと待って」と呟いた。16分割された映像のひとつを指さし、これを見てくれ、と言う。見るからに混乱している群衆が右往左往する、予想通りの様子が映されていた。
「これがどうかしたの」
「こいつはラ・ロシェルの映像だ」
「それが何か――」
眉をひそめて問い返そうとしたアルシュは、はっと息を呑んだ。2万を数えるラ・ロシェルの住人はみな、半月前に地下に避難したはずだった。今となっては無人のはずの街なのに――映像の中では、景色を覆い隠すほど多くの人間がひしめいている。
「どういうこと……」
アルシュが首を傾げると、唐突に軽快な合成音声が鳴って、思わず背筋が冷える。画面の端にポップアップが表示されて、次の瞬間にスピーカーから声が飛び出した。
『2人とも無事?』
「シェル君だ」
カノンが呟いて、マイクを近づけ「どうした」と応じた。
「俺とアルシュはコアルームにいる。無事だよ……あんたらは平気かい」
「ねえ、ロンガもそこにいるの?」
アルシュが割り込むと、少し乱れた音声が一瞬だけ沈黙する。配電系統を通してさえ、シェルが震える声を抑えているのが分かった。
『ルナのことは――ごめん、後で話す』
「後って……」
絶句したカノンからマイクを奪い取り、アルシュは熱くなりそうな頭を抑えて「分かった」と叫び声にも似た勢いで応えた。
「それは後で良い。何かあったの」
『うん。言葉の通じない――というより、異言語を話す人がそこら中にいる』
「異言語?」
アルシュは首を捻る。
「シェル君、
『違う。ぼくらの言葉でも、ティア君の言葉でもない、どっちでもない言葉を話してる、調べてほしい!』
ごめん、また後で、と叫んで通信が途切れた。
アルシュは途方に暮れつつも、ラ・ロシェルを映すカメラをひとつ選択して、録音されている音声を再生した。騒ぎ立てる人々の声はとても心地よいものではなかったが、懸命に耳を澄ます。たしかに、少なくともアルシュの知っている地上公用語ではなかった。
「これが地下の言葉でもないっていうのは、本当の話なの」
地下の言葉を話せるはずのカノンに問いかけるが、返事がない。アルシュは溜息を吐いて、カノン君、と再び呼びかけた。パネルをぼんやりと眺めていたカノンが、はっと気がついたようにこちらを見る。
「気持ちは分かるけど一刻を争う。しっかりして」
「ああ……うん。悪いね」
「これを聞いてちょうだい。地下の言葉ではない、とシェル君は言っていた。それは本当の話?」
「――ああ」
カノンは緩慢な動作であごを持ち上げ、ややあって頷いた。
「間違いない。俺たちの言葉でもティア君の言葉でもない、
彼は立ち上がって操作盤に触れ、録音音声を解析に掛けさせた。数十秒後に言語解析の結果が出て、新しいウィンドウが開く。その結果を一瞥して、冷静な表情と口調に戻ったカノンが呟いた。
「少なくとも3つの異言語が、90パーセント以上の確からしさで検出された。この辺りの、少し精度が低いものまで含めれば……現状、俺たちの言葉を含めて、7つの言語がラピスに存在している」
嘘でしょう、と呟きたかった。
だがカノンの言うことが、限りなく現実に近いと考えられた。地上と地下の、たった2つの言葉ですら、簡単には相容れなかったのに――7つもの言葉があって、一体どうすれば互いに通じ合えるのだろうか。
呆然と立ち尽くしたアルシュたちの背中を、もの言わぬエリザの瞳が見つめていた。