chapitre146. 沈黙に歌う

文字数 5,096文字

 後頭部を壁にぴったりと当てて、身体の揺れを抑える。そうして極力、音を立てないようにしていたのに、足音は直角に曲がってこちらにやってきた。

「ルージュだね?」

 さっさと立ち去っていれば良かった、と後悔する。柱の陰にわざわざ隠れていたのでは、立ち聞きしていたのをごまかしようがない。

 別に好きで聞いていたわけではない。アックスが通路を歩いて行くのに気がついて、水道もトイレもすぐ近くにあるのに、いったいどこに――と不思議になり、こっそり後を追ったのだ。そうしたら、自分とロマンの話をしているのが聞こえてきて、帰ろうにも帰れないまま、話を聞いてしまっただけだ。

 誰に聞かせるわけでもない言い訳を頭の中で展開しつつ、ルージュは降参して通路に顔を出す。

「……バレないと思ったのに」
総譜(スコア)に埋もれたひとつの音を拾うのは、あまり得意じゃないけど。そこで息を潜めているくらい、気づかないわけがない」

 言い方に苛立ったものの、だからといって返す言葉もなく、ルージュはむっと口を尖らせた。彼は、ルージュがここで身を潜めていた理由には触れず、「帰るよ」とだけ言って背を向ける。その声色がいつになく冷たく思えて、ルージュは唇を噛んだ。

「……立ち聞きしてごめんなさい」

 アックスが振り向くのが、俯けた視界の隅に見えた。
 いっそ叱ってくれれば良かったのに、と思う。そちらの方が、こちらから切り出して謝るより、何倍も気楽だ。自分の腕を握った手に、自然と力がこもる。視線を靴の先に向けながら言うが、アックスは平然とした口調で「別に」と語尾を上げて見せた。

「僕は、聞かれて困ることは言っていない。ぜんぶ本当のことだし、命知らずな君たちに、勝手についてきたのは僕だ。むしろ……聞いていたなら都合が良い。どうせ、直接言っても聞かないんだから」
「あの……アックスは、アタシたちが下に行くって言ったから、来たんだね」
「他にどんな理由があると思ったの」

 溜息交じりに聞き返される。

「うちの団員が危ない場所に行くって分かってて、呑気に寝直せるわけないでしょう」
「リジェラたちのことは止めなかったのに」
「彼らは団員じゃないし、荒っぽい事態に慣れている。前提からして別。そもそも、あの人たちは大人だ。行動した結果、悪いことが起きたとしても、それを含めて彼らの責任なんだよ。君たちとは違う」
「――そりゃあ」

 頬を膨らませて口ごもる。

 ルージュは今16歳で、同期でありながら4つも年上のアックスと比べれば、間違いなく子どもだ。むしろ、自分が年下であることを、主張を押し通す道具として利用している節もあった――と自覚している。だが、自分で言うのと、人に言われるのでは全く意味が違う。

「アタシは子どもかもしれないけど……何も考えてなかった、みたいに言わないでよ」
「そうは言ってない。ほら、戻るよ」

 促されて、ルージュは仕方なくアックスの背中を追いかけた。潰した靴のかかとを履き直して、小走りに彼を追い越し、その顔を睨みつける。

「そうは言ってないなら、どういう意味。アタシたちとは違うって」
「真祖って呼んでる人に従うのが、あの人たちにとっては使命なんだよ。興味本位とか、ちょっと仲良くなったから――とか、その程度の覚悟じゃ、一回りも二回りも足りてない」
「真祖……」

 耳慣れない単語を、ぼんやりと呟く。

 “春を待つ者(ハイバネイターズ)”の精神の根幹を成す女性だ――とリジェラから教わってはいたが、なぜ彼らが真祖とやらにそこまで熱を上げるのか、ルージュはあまり理解できていなかった。

「その女性(ひと)ってさ」

 ルージュは組んだ手を上に伸ばして、指先からこぼれる光をじっと見る。

「コラル・ルミエールにとっての音楽と、どっちが大切なの」
「その質問は、生命(いのち)の重さを比べているようなものだと思うよ」
「ふぅん……」

 要するに、同じくらい大切だと言いたいのか。

「でもさぁ……ロマンも言ってたけど、大切なもののためなら何でもするって、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”って、すごく窮屈な考え方してるヒトたちだよね」
「僕たちが言えることじゃないでしょう」
「アックスはどうか知らないけど、アタシは歌うための喉だけ残されたって嬉しくない」
「当然。喉だけじゃ歌えないからね」
「そういう意味じゃない――え? ちょっと待ってよ」

 ルージュは背中に冷たいものを覚えて、アックスの服を掴む。怪訝な表情で振り返った彼の顔を見上げて「ねえ」と問いかけた。

「アックスが音楽と……アタシたち音楽家を大切にしてるのは知ってる。でも、()()だけじゃないよね? 二番目か三番目かもしれないけど、大切なものって他にもあるよね」
「たとえば?」

 感情の乗らない声で問い返されて、ルージュは凍りついた。

 その訊き方は、事実上、他に大切なものなんてないと言っているようなものでは――と思いつつ、嫌な予感を打ち消すように、ルージュは急いで思考を巡らせる。朝起きて夜眠るまでの時間、ただ目が覚めているだけの透明な状態に色を付けてくれる、暖かいもの、美しいもの、愉快なものについて考えた。

「ほら――美味しいご飯とか」
「必要だから摂るものであって、大切とは違う。水を飲むのを楽しまないのと同じ」
「夕焼けの空とか、雨上がりの草むらとか、綺麗だと思わない?」
「そこまでは。美しさを述べた歌詞はよく見るけど」
「カードゲームとか、本とかは?」
「あまり馴染みがない。子どもの頃は選考に通ることばかり考えていたから」
「じゃ、じゃあ本当に――音楽に関係あるもの以外、興味がないってこと」
「最初からそう言ってる」

 無表情に見下ろされて、喉がごくりと揺れた。

「君たちは遊びながら、他の余計なものに気を取られながらでも、選考に通れたんだろうね。だけど残念なことに、僕は、君たちには、何年ぶんも及ばない」
「――え?」

 ルージュは呆気に取られて、気の抜けた声を出してしまった。

 選考というのは、コラル・ルミエールに入団するための選抜試験のことだ。10歳から15歳までの子どもだけが受験資格を持つ。年齢が離れている自分とアックス、それにロマンが同期として扱われるのは、同じ年に合格の判子を貰ったからだ。つまり、年齢が離れている数のぶんだけ、アックスは選考に落ちているわけだけど――彼が()()を気にしているなんて、今まで想定すらしていなかった。

「けっきょく偶然じゃん、選考なんて」
「そう言えるのは、君に才能があるからだよ、ルージュ。偶然が合否を左右できるだけの水準を、意図せずに超えられた」

 一連のアックスの言葉は、卑屈さを感じさせない、平坦な口調で綴られた。否定されることを目的として、わざと自分を低く評価しているのではなく、ただ事実として彼が実力差を認めているのだと、そう感じさせる声音だった。

 眼光がすっと細められる。

「それだけ才能があるのに勿体ない」
「は――なにが?」
「どうでもいいことに気を取られて、余計な危険に身を晒してることが、だよ。ラピス公用語(ラピシア)を作るのだって――まあ、必要性は認めるし、面白い試みではあるけれど、本来は僕たちの仕事じゃないよね」
「ちょっと、待ってよ……」

 足下を支えていたものが崩れ落ちる錯覚に耐えて、ルージュは負けじと視線を持ち上げた。

「アタシたちは、リジェラと仲良くなりたくて、地下から来た人たちと対等になりたくて、助けたくて、それで――」
「そうだね。知ってるよ」
「それが無意味だって、どうでもいいって言ってるように聞こえるんだけど。本当はそこまでは思ってない、でしょ……?」

 彼はわざわざ眠る時間を削って、リジェラに声を掛けに行ったのだ。上の階層で流れた放送が人間の肉声だったということを伝える――それだけのために。その事実にどんな意味があるのか、ルージュには想像もつかないが、彼がリジェラのことを気遣って行動したのは事実のはずだ。

「友達だって思ってるよね?」

 ほとんど祈るような気持ちで問いかけると、アックスは僅かに目を見開いた。

「何を言いたいのかと思えば、そんなことか……僕だって、今はね、来て良かったと思ってるよ。君たちが発作的に後を追いかけなければ、リジェラたちは、まあ――無事では済まなかっただろうから」
「皆が助かって良かった?」
「当然でしょう。僕を何だと思ってるの」
「だ――だって」

 安堵で胸が緩む。いつの間にか止めていた息を、はぁと音を立てて吐き出した。

「リジェラたちのことはどうでもいい、みたいな言い方するから……あの――アタシたちのせいで、怒ってるのは分かってる。ごめんなさい」
「僕が怒ったことにじゃなくて、危ない行動をしたことについて反省してほしい。これは結果的にうまく噛み合っただけだからね。いつでも都合良く行くとは思わないで」
「分かってる」
「……本当かな」

 苦々しい表情で、アックスが額を抑える。

「まあ……ルージュ、きみももう16歳だし、いつまでも半人前扱いするのは違うかもしれない。でもね、意地を張って人前で声を出さないくせに、危険な場所に飛び込むのは、やっぱり僕は、まともな判断だとは思えないよ」
「ホントに必要だったら声、出してた」
「後からなら何とでも言える」

 即座に冷ややかな声で切り返されて、返事の代わりに唇を尖らせる。

「――あ」

 そのとき、今夜の宿に借りているロビーまで、あと数十メートルもないことに気がついて、ルージュは慌てて口元を抑えた。眠っているロマンの後頭部が、ソファの背もたれに乗っている。アックスが不審げにこちらを見遣ってから、ああ、と頷いた。

「まだ、ロマンにさえ言ってないんだっけ?」

 声は出さずに頷く。

 人差し指の先端で、あごの付け根を辿る。細く盛り上がった傷跡が、鏡でもなかなか確認できないほど奥に刻まれている。砕屑を飲み込んで喉を痛めたときに、声帯ごと作り物にすげ替えられてしまった、そのときの手術痕だ。一般人ならいざ知らず、歌声をアイデンティティのよりどころとするルージュにとっては、声帯は心臓や脳と同じくらい大切な器官である。声質が変わってしまったことを、アックスはいつの間にか気づいていたが、本当は彼にだって知られたくなかった。

 アックスが羽織っていた上着を脱いで、ソファに掛けながら「どうかな」と独り言めかして呟く。

「ロマンは……薄々、なにか勘づいてる気がするけどね。最近、ぜんぜんその話をしなくなったし。あえて触れないよう、気を遣ってるように見える」
「――だとしても」

 眠っているロマンを起こさないよう、ギリギリまで絞った声量で言う。

「こんな声、聞かせたくない」
「……言うほど悪くはない」

 流石に気を遣っているのか、アックスはそんなことを言う。だが、彼の表情を見ていれば、ルージュの声の変化に対し、明らかに落胆しているのが透けて見える。奥行きも滑らかさもなく、どこか角張った今の声が、ハーモニーのなかに受け入れられる未来は、とても見えなかった。

「……アックス。もしもさ」

 床に落ちていたブランケットを拾い上げて、ルージュは彼に背を向けたまま問いかけた。

「アタシの声が変わっただけじゃなくて、たとえば……声が出なくなって、ピアノも弾けなくなったら――それでも、アタシのこと、守るべき音楽家だって言ってくれた?」
「いや。それは違うかな」
「うん――そう、だよね」

 ルージュは無理やりに口角を上げて、明るい口調を作る。アックスがそう答えるのは、聞く前から薄々想像できていた。

 リジェラを唱歌団(コラル)で迎え入れたいと言ったあの日も、彼女の後を追いかけたいと言った数時間前も、彼は最終的にルージュの要求を呑んでくれて、そこに理由なんてないと思っていた。

 だけど違ったのだ。

「アックスが大切にしてるのは、アタシじゃなくて、アタシの音楽だもんね」

 わざと軽い口調で言ってみると、それに触発されたように涙がにじんだ。ソファに身体を倒して、頭ごとブランケットで覆って、歪んだ表情を見られないように隠す。

 声が変わっただけで済んで良かった。

 もし音楽を創り出せなくなっていたら、その時こそ、ルージュはコラル・ルミエールでの居場所を失っていたのだろう。

「ルージュ、それも……違うよ」
「違わないよ」

 まだ何か言いたそうな雰囲気を、ブランケットの薄い生地越しに感じたが、ルージュは頭を両腕のなかに埋める。これ以上は、本当に泣いてしまいそうで、話をしていたくなかった。

「おやすみ」

 会話を強引に打ち切って、目蓋を閉じる。普段なら眠っている時間に動いたせいだろうか、こめかみの辺りが押されたように痛んで、なかなか眠りにつけなかった。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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