アウローラ
文字数 12,135文字
夕食後、居室に戻ったアックスは、ひどい自己嫌悪とともに寝台に倒れ込んだ。しばらくそのまま、うつ伏せになっていたが、溜息とともに寝返りを打って仰向けになる。鞄から手探りで「フィアト・ルクス」の楽譜を取り出す。寝転がった姿勢のまま、書き込みで真っ黒になったページを開いた。
「……はぁ」
溜息を吐いてしまう。
まだまだ練習不足だ――と思った。
フラムに助言をもらった「アレル・ヤ」の解釈にしてもそうだし、何より、あの天才的な才能たちと、一体どうやって声を合わせていけば良いのか。音楽理論だの発声練習だの、誰かがすでに確立したセオリーをいくら学んだって、目の前にいる才能には食らいつけない。つねに革新され続けている、存在そのものが音楽でできているような子どもたちに、黴の生えた理屈が通用するわけもない。
ルージュのような、天衣無縫の表現力か。
ロマンのような、当意即妙の理解力か。
そのどちらかでも自分にあれば、彼らに追いつけたのだろうか。才能という、どう足掻いても今さら手に入らないものを、もしもあったら――と仮定して考えることに意味などないのだが、それでも、都合の良い「もしも」をどこまでも考えてしまう。
反実仮想に浸れば浸るほど。
与えられた声と才能でしか勝負できない、自分の限界が憎くなり。ひとつの身体しか持ち得ない人間の限界が憎くなり。その枠組みを乗り越えて、自由自在に表現を描いてみせる音楽家たちが、憎いほど羨ましくなるのだった。
渦巻く暗い感情のなかで、アックスは気がつけば眠っていた。
真っ黒な夜、まぶたの裏側。
その向こうに、かすかなざわめきが聞こえる。
そのとき、意識の大部分は機能を停止していた。脳の、待機電力とでも形容すべき部分、わずかに覚醒していた片隅に捉えられた雑音が、やけに気に掛かった。はるか遠い場所から引っ張られるように、アックスはゆっくりと覚醒の岸に漕ぎつけた。
目を開ける。
楽譜を眺めながら眠ってしまったことに気がつき、一晩を無駄にしてしまったことを悟ったアックスは、舌打ちしながら起き上がる。本当なら資料室なり練習室に行って、足りない才能を補うべく、少しでも練習をすべきだったのに。
「……何をやっているんだ、僕は」
昨日から何度となく繰り返した呟きを、また舌に乗せた時だった。
ふたたび、遠くで音が聞こえた。
アックスたち音楽家は、生まれながらにして、一般のラピス市民よりはるかに優れた聴覚を持たされている。すこし集中すれば、百メートル向こうの足音だろうが、街路樹のてっぺんから飛び立つ鳥の羽ばたきだろうが、聞き取ることができる。そして、アックスのそんな優れた聴覚は、教堂の玄関方向から聞こえる不審な音を聞きつけた。
カタンという、何か軽いものがぶつかるような音。ぱたぱたという、何かを断続的にはたくような音。バサッという、何かがしなりながら擦れあうような音。パキッという、細いものが折れたような音。
そして――幼い子ども特有の、高い声。
二つの声紋には、いずれも聞き覚えがあった。
「あの子たち……か?」
自問しながら、アックスは棚の上にある置き時計を見る。
午前三時半。
日が早くなる初夏と言えども、まだ外は真っ暗だ。コラル・ルミエールの本拠地は、ラ・ロシェルの中心部からは少し外れており、街灯も乏しい。ランタンかペンライトを持たなければまともに歩くことも叶わないような暗さだが――
また、声が聞こえる。
今度ははっきりと、ルージュとロマンの声だと分かった。そこでアックスは、昨日の昼間にルージュが言っていたことを思い出す。夜中に丘まで遊びに行きたい――だとか、言っていなかっただろうか。
「……まさか、ね」
呟きとは裏腹に、確信めいた感覚があった。
アックスは寝台から立ち上がり、窓に駆け寄る。窓枠についたロックを指で起こして、ガラス窓をスライドさせると、涼しい風が吹き込むのとともに、深い闇に沈んだラ・ロシェルの街並みが見えた。
その、建物と建物のはざま。
淡い月光に照らされて、二つの小さいシルエットが動く。遠目に見えたその人影が、間違いなく、アックスの胸くらいまでしか身長がない同期ふたりだと分かった瞬間、アックスは窓を閉めるのも忘れて部屋を飛び出した。
照明が落とされている廊下を走って、玄関に向かう。
大人たちに声を掛けて助けを求めるか逡巡するも、その数秒のロスによって二人を見失ってしまったら――という危惧が先行して、結局アックスは一人で外に飛び出した。両開きの扉を押し開け、レンガ敷きの道に飛び出して、そこで灯りを持っていないことに気がつく。慌てて引き返し、玄関に置かれているペンライトを引っ掴んでふたたび駆け出す。
暗いラ・ロシェルの街を必死に走りながら、脳内では後悔が渦巻いていた。
――なんで気がついた。
どうして、起きてしまったんだ。あんな子どもたち、放っておけば良いのに。見なかったことにして寝直すか、あるいは練習でもすれば良いのに、夜間外出の禁を破ってまで、どうして彼らを追いかけている。
その理由は、だけど本当は分かっていた。
なにか万が一のことがあって、あの才能が失われたら。愚かで非力な子どもの身体に閉じ込められている、あの才能が失われることだけは、絶対に避けないといけないのだ。二人を追いかけることで生じるさまざまなリスク――たとえば、アックス自身の睡眠が削られることや、闇のなかを手探りで走る危険性や、夜間外出を咎められること――を勘案しても、圧倒的に音楽家たちの価値が勝つのだ。どちらを取るべきか、天秤に掛けるまでもない。勝負にすらならないと言っていい。
だから、前にひたすら走る以外の選択肢は、アックスにはなかった。
寝静まった街を、彼らが消えていった方角めがけて走る。ペンライトの光はあまりにも心許なく、入り組んだラ・ロシェルの街はいつにも増して複雑に見える。三叉路に行き当たってしまい、アックスは荒れた息を整えながら、周囲に耳を澄ます。遠くで聞こえた、空気の淀みにも似た音を捉えて、そちらに駆け出す。
また、分かれ道があった。
左は月明かりで少し明るく、右は真っ暗な路地。
右前方にかすかな音を聞きつけるやいなや、アックスは迷わず暗い道に飛び込んだ。踏み出した先に地面があるかどうかすら定かでない暗闇の、ぼんやりとした輪郭だけが、ペンライトの光に浮かび上がる。地面に転がっていた木箱の存在に、蹴っ飛ばして転ぶ寸前に気がつく。あわてて全身に急停止を掛けると、腿の裏側がいやな痛み方をした。勢いを逃し損ね、たたらを踏みながら、アックスは斜め前に大きく踏み出した。
暗闇のなか、何かが顔に迫った――
次の瞬間。
目の裏側で火花が弾けて、大きく後ろにのけぞる。
頭が衝撃に揺さぶられた。楽器の振動にも似たビリビリという感覚が、次第に痛みに変わっていく。呻いて膝を突きながら、アックスはようやく、柱か何かに頭から突っ込んだことに気がついた。
くっそ、と悪態が口からこぼれる。
こんな場所で立ち止まっている場合ではない。そう分かっていながらも、揺さぶられた脳はアックスの身体を操作することを拒否して、意識がふらりと遠ざかる。バランスを崩して地面に腰を落とすと、冷えたレンガの感触が手のひらに触れた。
ふと。
夜の中にいる自分を、アックスは客観的に見た。
それは静かな夜だった。空は晴れていて、風は凪いでいる。星は見えるが、眩しいと言うほどではなく、月は出ているが、やや欠けている。ラ・ロシェルの人々はみな眠りに就き、通りは静まりかえっていた。
静謐な夜のなかに、ただひとり佇んでいる。
どこまでも凪いだ夜は、楽曲「フィアト・ルクス」第一楽章で語られた、鳥たちがじっと羽を休めるあの夜に、どこか似ている。ぶつけた頭の痛みに悶えながら、ほんの数秒だけ、アックスはそんな夜を見つめた。
その時だった。
にゃあ――と隣で声が聞こえた。
反射的にペンライトを向けると、例の、茶色い毛玉に似た猫がいた。真っ暗闇のなかでもよく光る目を、猫はアックスに向ける。ペンライトのなかに浮き上がった黄緑色の瞳は、どこか月光の彩りに似ていた。縦長の瞳孔がきゅっと細くなったかと思うと、猫はそのまま、ひゅうと風のように駆け出した。
「あっ――」
息を呑む。
一瞬だけ迷って、それからアックスはふらつく足で立ち上がる。
この猫を見失ってはダメだ、と直感した。この猫は、ルージュとロマンに懐いていたのだ。もしかしたら、彼らの居場所を知っているかもしれない。あまりにも頼りない希望だが、もはや、可能性の高低を検討している段階ではなかった。
猫が、塀に駆けのぼる。
「待って……!」
よろめきつつも、猫を追いかける。
わずかな月明かりの下、黄緑色をした猫の瞳はやけに明るく見えた。ぶつけた頭の痛みやら寝不足の倦怠感やらを押しのけて、すばしっこく走る猫を必死に追いかけた。
やがて居住区域の端に近づき、正面に壁が現れた。
猫は、後ろ足に大きく力を溜めたかと思うと、軽やかに跳び上がり、二メートルほどの壁を飛び越える。アックスはペンライトをポケットにしまって両手を空けてから、壁のへりを両手で掴んで身体を持ち上げ、どうにか乗り越えた。
壁の向こうは森だった。
向こう側に飛び降りると、足下に落ち葉が溜まっていたらしく、ガサッという音がした。深く沈み込んだ落ち葉に足を取られながらも、どうにか姿勢を立て直す。まるでアックスを待つように佇んでいた猫は、森のさらに奥のほうへ進んでいった。
猫を追いかけて、アックスは森に入る。
夜の森は、街中とは打って変わって賑やかだった。綺麗に剪定された街路樹とは違う、思い思いに枝を伸ばした木々が、風に揺らめいて木の葉をざわめかせる。せまい隙間を縫うように駆ける、笛の音色にも似た風音。どこか遠くで鳴いている、一定間隔で聞こえる鳥の声。ガサガサという、小動物が歩いている音。茂った草むらに一歩踏み込むと、ぶぅんと音を立てて虫たちが飛び立ち、アックスは思わず「うわ」と顔を引き攣らせた。
苔むした倒木、朽ちた葉の積層、腐り落ちた木の洞。
自然の青い匂いがする。
決して清潔とは言えない
その、それぞれに夜があり。
思い思いに生きる生きものたちの、賑やかな夜。
背筋を凍らせる生々しい恐ろしさと、瑞々しい美しさが共存している。
それは「フィアト・ルクス」の第二楽章で歌われた、断片的な物語を織りなして描かれた夜の景色に似ていた。二羽の鳥が踊りながら空を舞うように、一方のフレーズが主張すれば他方が引き、時には競り合うように主張して、一瞬の沈黙を挟み、また掛け合って歌い出す。森という場所で共生するものたちは、共鳴する音楽にどこか似ているのだ。
にゃあ、と猫がまた鳴いた。
音に満ちた森のなかに、猫は分け入っていく。
アックスは一瞬だけ躊躇ってから、意を決して猫の後を追いかけた。気を抜けば吸い込まれそうなほどの漆黒が、ざわめきに揺れながら、じっとアックスを見ていた。どこか現実味を欠いた景色のなか、猫の黄緑色の瞳だけを目印に、ゆっくりと進んでいく。
そのとき、ふっと周囲が暗くなる。
ペンライトの光が、勝手に消えたのだ。
カチカチとスイッチを切り替えてみるが、一向に光らない。電池が切れたか、あるいは電球のフィラメントが焼き切れたのか。ひとつ息を吐いて、アックスはペンライトを後ろポケットに戻した。もともと、人間が付け焼き刃で作り出した光などは、圧倒的な暗さのなかでは、ほとんど役に立たない。
上下左右も分からないような暗闇。
猫の瞳が光っているのは辛うじて見えるが、それがどの程度遠くなのか分からない。すぐ目の前にいるようにも、はるか遠方にいるようにも見える。ゆっくりと足を持ち上げると、倒木か何かが足下に転がっていたようで、つんのめって転びそうになった。足首に嫌な痛みを覚えながらも、草むらに膝を突いて立ち上がる。
地面は上り坂になっていた。
最初は緩やかだった傾斜が徐々に険しくなっていき、手を使わなければ登るのが難しくなっていった。湿った倒木やら、トゲトゲした枝を手掛かりにして、アックスは猫を追いかけていく。光る瞳を持つ猫は、重力の束縛など及んでいないないかのように、軽やかな足取りでどんどんと前に進んでいった。
「待って――」
また、そう口に出してしまう。
しかし猫は、アックスを待ってはくれない。ひょいと障害物を飛び越えて、どんどんと遠ざかっていく。猫が人の言葉を解するわけがないので、当然の成り行きではあるのだが。こちらを見ているようで見ていない、すぐ近くにいるようで触れられない、自由きままな足取りは、どこか幼い音楽家たちに似ていた。
引き離されるばかりの距離に、気が急いていく。
「あ……!」
焦りのあまり、不用心に踏み出した足が、ずるりと滑った。
泥のなかに踏み込んでしまった――と気がついた瞬間にはもう遅く、アックスはバランスを崩して後ろに倒れる。腰をしたたかに打ち付けてしまい、広がる痛みに思わず顔をしかめた。逆さまの姿勢で急斜面に放り出されてしまい、即座には起き上がれない。手探りで見つけた枝を掴み、どうにか起き上がると、もう猫の姿は見えなかった。
背筋を冷や汗が伝う。
腹の奥に、ずんと重たいものが落ちるような感触。
ついに、完全な暗闇のなかに囚われた。
上下左右が分からない――どころの話ではない。目の前に指を引き寄せても、それすら見えない。この身体を外界と区切っている皮膚が、どんな形をして存在しているのか、それが曖昧になっていく。
「……そうか」
アックスは呟く。
これが、夜というものなのだ。
楽曲「フィアト・ルクス」が語ろうとした、美しくも恐ろしい夜。抑圧的で、沈鬱で、変幻自在で、不定形の夜。何ヶ月もかけて「フィアト・ルクス」の歌詞を読み込んだつもりで、どこか掴み切れていなかった本物の夜を、アックスは初めて体感した。本当の姿を見せた夜の前に、脆弱なひとりの人間でしかないアックスはあまりにも無力だった。次にどちらに踏み出せば良いか分からず、かといって、引き返す方向も分からない。
手の打ちようがない状況に対する逃避行動なのか、コラル・ルミエールの大人に怒られるのではないか――とか、開けたまま出てきてしまった窓から虫が入るのではないか――とか、そんな世俗的なことばかりが思い浮かんだ。
「……本当に」
はあ、と肩を落とす。
「何を……やっているんだろうな、僕は……」
どうしようもない惨めさと孤独で、膝が震えた。
込み上がってきた何かが、目の縁からこぼれそうになったとき。
夜の向こうに、アックスは少女の歌声を聞いた。
はっと息を呑み、あわてて耳を澄ます。
すると、森に満ちているざわめきのなかに、たしかに、あの透き通るような歌声があった。バケツで掬った星を夜空にぶちまけるように、自由気ままな美しさで、あのソプラノが「フィアト・ルクス」を歌っていた。
練習番号、二十三。
音が飽和した逆説的な静寂のなかで、何よりも高く澄んだ歌声。
導かれるように、アックスはそちらに足を向ける。
何も見えない真っ暗闇のなかに、少女の声だけが輝いて、道しるべを描いていた。絡まる草や落ち葉の積層に、時折足を取られながら、アックスは声の方角に向かう。最初は慎重だった足取りが、やがて早足になり、ついには走り始めた。
すると。
黒かった世界が、少しずつ濃紺に染まっていった。一度は見失った木々の輪郭が、ふたたびアックスの前に現れる。上っていく急斜面の向こうに、丘の頂上と、濃い青色に染まった空が見え始めた。
練習番号、三十九。
少女の歌声と手を取るように、少年が歌い出す。
最初は藍一色だった世界に、少しずつ違う色が混ざり始める。枯れ草の褪せた翠色、若葉の鮮やかな黄緑色、花々の薄いオレンジ色。色相も彩度も明度もさまざまな色たちが、収まるべき場所に収まることで、統一感のある森の景色を創り出す。
呼吸を乱しながらも、アックスは走る。
歌声の導く先に、光が差してくる方角に、一小節でも早く辿りつきたい。ぬかるんだ地面を飛び越え、低木の隙間を突っ切って、ひたすら上っていく。酷使しすぎた肺が痛くなり、靴のなかに小石が入ってきても、熱に浮かされたようにアックスは走り続けた。
そして――
ついに、光が差して。
頂上にある木の枝に腰掛けている、二つのシルエットが見えた。
オレンジ色の空の手前で、存在そのものを振り絞るように、しかしながらこの上なく楽しげに歌っている少女。彼女の隣で、自身も歌いながら、指先で拍を刻み、音楽を前へ前へと導いている少年。
二人の姿は、アックスの網膜に鮮明に焼き付いた。
練習番号、五十五。
駆け引きのような輪唱。
練習番号、五十六。
下から上へ駆け上がるフレーズ。
練習番号、五十七。
一瞬の余白、そして、前兆を告げるハイトーン。
少女の歌声に、糸を付けて引っ張るように、少年が指先を持ち上げる。その指先に導かれるように、少女の歌声はさらに高く澄み、美しい倍音を伴って世界中に響いていく。拍を刻んで大きく腕を振り上げた少年が、こちらに振り返る。
視線がぶつかる。
少年が、大きく目を見開いた。
とつぜん現れたアックスに、少年は一瞬だけ驚いた表情を浮かべてから、すぐに満面の笑みになった。音楽を紡ぐ指先で、四、三、二――と拍を刻んで、手を差し伸べるように、アックスにまっすぐ指先を向けた。
指揮者に、指を向けられたら。
歌い手としてできることは、たったひとつだった。
青い匂いの満ちた、湿っぽい空気を、アックスは胸いっぱいに吸い込む。
そして、空気に音を乗せて、まっすぐに放つ。
練習番号、五十八。
――
三声が、ぴたりと重なり合って響いた。
世界と自分が、音で繋がってひとつになる感覚。
同時にアックスは、彼らが腰掛けている木の根元まで辿りついた。
美しい和音に導かれるように、地平線に光が現れる。それは真っ白に光ったかと思うと、弾けるように周囲に広がって、あっという間に世界を満たした。暗い森を、眠るラ・ロシェルの街を、少年と少女の滑らかな髪を――すべてを照らし出す。
淡く白いひかりが、新しい一日を描いていく。
ロングトーンを伸ばしながら、アックスは目が眩むような景色を見つめていた。
やがて、永遠に続くようだった全音符が終わる。
練習番号、五十九。
拍を取るために、少年が大きく腕を振り上げる。
しかし、そこで彼は「うわ」と、そこまでの端正な歌声とはまったく違う、完全にコントロールを欠いた声を発した。不安定な枝の上で大きく動きすぎて、バランスを崩したようだ。彼を助けようとしたのか、少女がその腕を掴むが、子どもの細い腕では体重を支えきれず、少年もろともバランスを崩した。
ほとんど反射で、アックスは一歩前に出る。
両手を伸ばして落ちてきた少年少女を受け止めるが、疲れ切った身体は子ども二人の重みに耐えきれず、丘の向こう側に転げ落ちた。柔らかな朝陽が照らす、緩やかな傾斜の草むらを、二、三回転がる。落ち葉を巻き込み、枝に腕を引っかかれ、木の幹に背中をぶつけて、ようやく止まった。
目が飛び出そうな衝撃が、上半身を突き抜けた。
「
思いっきり打ち付けた背骨が、ずんと響くように痛い。その痛みに続くように、ここに来る道中でぶつけた額やら、つまずいて捻った足首やら、必死に走った足の裏やらが共鳴するように痛み始めて、逃げ場のない痛みが、今さらのように襲ってきた。
「ああぁ、もう、最っ悪……!」
思わず舌打ちが出る。
アックスが悪態を吐く隣で、ルージュとロマンは声を上げて楽しそうに笑っている。何が楽しいんだ――と癪に障り、アックスはもうひとつ舌打ちをした。草むらを転がったのが、そんなに楽しかったのだろうか。
「あっはは……なんだよ」
楽しげに笑って、ロマンが寝っ転がったままこちらを向いた。
「けっきょくお前も来たんじゃん」
「……勘違いするな」
同じく寝転がったまま、アックスは彼を睨みつける。
「僕は君たちを連れ戻しに来たんだ」
「あっそ。何でも良いよ、一緒に歌えたし」
柔らかそうな金色の髪を落ち葉まみれにして、ロマンが笑う。
その反対側で、ふわぁ、とルージュが欠伸をした。汚れた手で目元を拭うので、顔が泥で汚れてしまっている。その無邪気な様子を呆れて眺めながら、アックスは「そういえば」と二人に問いかけた。
「あんな時間に部屋を抜け出して……君たち、ちゃんと寝たの。昨日」
「えぇとぉ……」
ルージュがくるりと目を回しながら、指を折って何かを数える。
「ちゃんと寝ましたよ。夕食から二時間くらい」
「それは寝たとは言わない」
「えぇ~……」
「ぜったい昼間に眠くなるでしょう。今日の練習、どうするつもりなの」
「さぁ……」
ルージュは不満げに眉をひそめながらも「そういえば」とこちらに瞳を動かした。
「お兄さん、よくココ見つけましたね。教堂からずいぶん遠いのに」
「あぁ、まあ……声が聞こえたし」
「へぇ……?」
猫に導かれた、と言うのも面倒で、アックスは適当に言葉を濁した。ルージュが疑わしげに目をぱちぱちと瞬く。それから「ふぅん」と、納得しているのかしていないのか分からない相槌を打った。
「まあ。来てくれて良かったです」
「はいはい……ああ、あとねぇ……前から思ってたけど、そんな丁寧な言葉遣いしなくて良いし、アックスで良いから」
「え。でもぉ……」
ルージュが口元を歪めて反論する。
「現に、お兄さんですし――」
「良いから」
「ふーん……何でも良いですけどぉ」
本当にどうでも良さそうな口ぶりで言って、ふう、とルージュは息を吐いた。そのまま目を閉じて黙り込んだかと思うと、いくらもしないうちに息の調子が変わった。呼吸のインターバルが長くなり、ひとつひとつの息が深くなった。
彼女は眠ってしまったのである。
「えぇ……」
信じられない成り行きにアックスが口をぽかんと開けると、ルージュと反対側、ロマンが寝転がっている方からも寝息が聞こえてきた。昨晩二時間しか眠っていないのなら、睡魔が襲ってくるのは当然の道理だが、それにしたって限度がある。こんな草むらで、泥やら落ち葉やらでぐちゃぐちゃになった状況で、よくもまあ、のんきに眠れたものだ。
「まあ――でも」
仰向けの姿勢のまま、アックスは藍色の空に溜息を吐き出した。
「それだけ、全身全霊で歌ってるんだな……」
左右から穏やかな寝息が聞こえる。
歌っているあいだ、あるいは指揮を執っているあいだは、集中力を保ってあれほど高いパフォーマンスを見せていた音楽家たちが、歌うのを止めてただの少年少女に戻った瞬間、糸が切れたように眠ってしまう。
その様子は、不完全さの現れよりも、むしろ才能の証左に思えた。
「……アレル・ヤ」
歌われなかった詩の続きを、アックスは呟いた。
アレル――ありったけの賛美を、捧げる。
楽曲「フィアト・ルクス」の作詞家が「ヤ」と呼んだ、何者かに。
それが誰であるのかは、アックスには分からない。歴代のコラル・ルミエール団員たちにも分からなかった「ヤ」の正体は、おそらく、今後も分からないままなのだろう。
――それでも。
隣で寝息を立てている、二人の幼い子ども。
何かに最上の賛美を捧げよというのなら――それは、この音楽家たちだ。アックスには想像もつかない高次元で音楽を生み出してみせる、
この二人には、絶対、一生掛けても追いつけない。
手は届かないし、届いてはいけない。
アックスでも手が届くような低次元に、彼らはいないのだから。
だからこそ「アレル・ヤ」を捧げるに相応しいのは、きっと、彼らなのだ。
「あぁぁ……」
喉から唸り声がこぼれた。
朝陽に目がくらんで、目尻に涙が浮き上がる。濡れた目元を拭いながら、奥歯が欠けそうなほど歯を食いしばり、アックスは明るくなっていく空を睨みつけた。不遜なほど明るく街を照らす、太陽を睨みつけた。
強すぎる光が、眼球の内側で炸裂する。
白よりもさらに明るい白は、視神経を通じてアックスの脳に流れ込み、蓄積した疲労や痛みと相まって、思考の芯をじわじわと浸食していった。美しいハーモニーのなかにいるときのように、一種の虚脱感めいたものに包まれる。ふわふわとして覚束ない感覚のなかで、アックスの胸中に、ひとつ、たしかな決意が実を結んだ。
自分はこの音楽家たちに敵わない。
同じステージには、立てない。
それでも、同期という立場になってしまったのなら、せめて彼らの役に立とう。彼らの音楽が、いつまでも損なわれることなく、常に上向きであり続けるように、できる限りのことをしよう。
そのために歌うのだ。
そのために、生きるのだ。
勝手に流れ落ちる涙を拭わないまま、アックスは白い光にそう誓う。
***
うす暗きとばりが消えて
すべて明らめる朝の丘に
ほの白くあわ色の、夜明け
さいはての空をめざして
ひかり、新しい街を駆ける
***
とある夏の朝、食堂にて。
「最近、よく笑うようになったね」
そう言って、コラル・ルミエール団長のディニテがアックスに話しかけた。
「すこし心配だったんだ。君は、あまりにも根を詰めすぎているから。練習も、ずいぶん遅い時間までやっていたようだし――その、励むのは、良いことなんだけどね。ある程度余裕を持たないと、いつか潰れてしまうから」
「ええ……そうですね」
アックスは頷く。
少し前までアックスは、就寝時間の寸前まで楽譜と向き合っていた。だが最近は、同期であるルージュやロマンと他愛もない話をしてみたり、あるいは数十分早めに寝る支度をしてみたりしていた。生活に余白を持たせたことで肩から力が抜けて、同期たちに追いつかなければならない――という強迫観念に近い感覚は、最近はあまり持たなくなっていた。
「気が楽になったというか――思い詰めなくなりましたね」
「そうか。なにか、転機があったのかい?」
「ええ。分かったんですよ」
そう言って、アックスはにっこりと笑った。
食堂の窓ガラスの向こうで、少年と少女が駆け回っている。いつぞやの猫はとっくにどこかに行ってしまったらしいが、子どもは幾らでも新しい遊びを発明できる。ひらひらと舞う蝶を手で掴もうとしている様子を一瞥して、アックスは目を伏せた。
「僕は、あの子たちに絶対に勝てない」
きわめて穏やかなトーンで、アックスは言う。
「音楽の才能で敵わない。そう、身に染みて理解できたので、変に気負っていたのが楽になったんです」
「……え?」
穏やかに話を聞く姿勢だったディニテが、ぎょっと目を見開いた。彼は手に持っていたトレイを机に置いて、アックスの方に大股で歩いてきた。肩を右手で掴んで「アックス君」と動揺したトーンで言う。
「待て、待ちなさい。どうして、そんな風に言う」
「だってそうでしょう。貴方だって、僕が六年間挑み続けたから、その褒美として、こうして団に迎え入れてくれたんだ。以前『君を採れて良かった』と言ったのは、そういう意味だったのでは?」
「あ、あぁぁ……そんな、そんな風に聞こえてしまっていたのか」
ディニテは額を押さえて、苦いものを食べたときのように、眉間に深いしわを刻む。アックスは不思議に思って首を傾げた。どうして彼がそんなに深刻そうな顔をしているのか、まったく理解できなかったのだ。
「逆の意味……だよ」
ややあって、ディニテはそう言った。
目の前の、どうしようもなく自信を欠いてしまったらしい青年は、穏やかなのにどこか空虚な微笑みを浮かべている。控えめだが揺るぎない才能があり、磨けばその分だけ光ると見込んだ音楽家に、コラル・ルミエール団長であるディニテはどうにか言葉を届けたかった。
「アックス君――」
「はい」
「たしかに、君のように……ひたむきに頑張って頑張り続けて、どうにか食らいつこうとするタイプの才能には、私たちも同情してしまう。ましてや、今年が最後の機会とあれば……少し足りないところがあっても、審査員として公正でなければならない我々が、我々自身を誤魔化してしまうのではないか――とね」
ごほん、と咳払いをして「だから」と続ける。
「だからこそ、我々は、自分を律して君に挑んだんだ。君のようなタイプが選抜を通過するのはね、実は、とても難しいことなんだ。どうしてもね、我々は、派手な光り物に目を惹かれがちだ。目の前で光っている超新星に、目が眩みがちで。しかしね……! 君はちゃんと、我々が求めるラインを越えてくれたんだ」
ディニテは顔を上げた。
「君は、正式なコラル・ルミエールの団員だよ」
ダメ押しの殺し文句のつもりで、告げる。
しかし、少し高いところからディニテを見下ろしているアックスの表情は、まったく揺らがなかった。青年は少し眉を下げて、声帯を震わせない笑いを吐き出すと、困ったような笑顔を浮かべた。
「……ムシュ・ディニテ」
穏やかなままの声が言う。
「すみません。気を遣ってもらって」
「違う。違うよ、私は、本当に――」
「大丈夫です。分かっていますから」
アックスは朝食のトレイをテーブルに置いて、ガラス窓を開ける。外で遊んでいる子どもたちに、そろそろ時間だから戻ってきなさい――と声を掛ける。自分ではない誰かの才能を引き立てるために生きようと、そう決めてしまったアックスの胸に、ディニテの説得が響くことはなかった。
ひかり、新しい街を駆ける 了