chapitre25. 再会
文字数 7,215文字
激しく振動する床に身体を揺られ続けて、ただでさえ万全とは言えない調子がさらに悪くなりそうだった。
気が遠くなるような降下を経て、ようやく装置は停止した。リュンヌが壁を支えにして立ち上がると、同時に装置の扉が開く。開いた扉の向こうにゼロのシルエットがあった。彼は背中に弓と物入れを背負っている。陶器のように鈍く光る目がリュンヌを捉えていた。
言葉は一言も発さず、動作で外に出るように促す。
昇降装置から出ると、首の後ろの切り傷が風に触れて痛んだ。
「ここは何処だ?」
答えは期待せずに問いかけたが、ゼロは意外にも返事を寄越した。
「ラピスの一番下だ」
「一番下。地下ということか?」
そう考えればあの部屋の異様な暑さも理解できる。熱交換システムがどうとか言っていたのは、地熱を遮断するための機構が正常に作動していなかったという意味か。
ゼロは肯定も否定も寄越さず、正面にある扉を開けた。
その視線が「通れ」と言っている。リュンヌは素早く部屋に視線を巡らせたが、昇降装置以外にはゼロが指し示した一枚の扉しかなく、つまり、逃げ道がないことは明確だった。
仕方なく、リュンヌはゼロに促されるまま扉をくぐった。
扉の先には人がすれ違えないほど細い道が伸びている。
「まっすぐ進め」
ゼロの言葉に従って歩を進める。自分の靴も見えないほど暗い道だが、壁に灯りが埋め込まれているようで、床と平行に細い光の筋が走っているので進むべき方向は分かった。道はひたすらまっすぐに伸びており、突き当たりに小窓のついた扉がある。
リュンヌが近づくと扉はひとりでに開き、中の空間に二人を迎え入れた。
その先にある巨大な部屋を目にしてリュンヌは言葉を失った。
いや、部屋と呼ぶには広すぎる空間だった。上下方向にも横方向にも、リュンヌが今まで見たどの部屋よりも大きい。床は円形をしているようだが、近くの壁を見ても歪曲が感じられないほどだった。
空間の中央に、巨大な水晶の柱が吊るされていた。
実際に歩くことは想定されていなそうな飾り通路や、壁の装飾、天井から円錐形に広がる光は全てその柱に向けて捧げられているようだ。
水晶柱の真下に、周囲よりも数メートル高くなっている部分があった。それに沿うようにぐるりと階段が設けられているところや、落下防止の柵があるところを見ると、上に登ることを想定して作られた場所のようだ。舞台や、あるいはステージという呼び名が相応しく思えた。
リュンヌはステージの上に視線を動かして、息を呑んだ。
柵の向こうにカシェがいた。
降り注ぐ光に煌めく金色の豊かな髪や白い肌には、ところどころ血の赤が見える。服装は乱れて引っかき傷が走り、上着のベルトは引きつっておかしな皺を作っていた。
だが、その表情はあまりにも穏やかだった。
細い眉に浮かぶのは憂いと慈しみだ。どちらも、さっきまでのカシェからは全く読み取れなかった繊細な感情で、その欠落こそが彼女を恐ろしい存在に見せていた。
しかし、今はどうだろう。
カシェの血に染まった半面と、そこに浮かぶ穏やかな表情を見て、リュンヌは突然罪悪感に囚われた。
破砕されたガラスで切りつけられた傷は当分――もしかしたら一生消えないだろう。流れ出す血、走る痛み、残る傷跡をまるで自分のもののように想像してしまう。もっと暴力的でない方法はなかったのか、とリュンヌは自問した。
今さら考えてもどうしようもないことだ。
だが、その罪悪感はリュンヌの中で暗闇となって渦巻いた。
カシェが長い髪を払って振り向き、リュンヌと目を合わせた。リュンヌは身構えたが、彼女の青い瞳に先程までの気迫はなく、どこか気の抜けたような表情にすら見えた。
「ようこそ、リュンヌ。来てくれて嬉しいわ」
「……なぜ、ここに? ここは何の場所ですか」
来てくれて嬉しいも何も、貴女が連れてきたのだろう、と内心思いながらリュンヌは尋ねた。
「ここは私たちのための場所。私がただ一人のために祈る場所よ」
リュンヌはその意図を掴みかねた。今までと違って変に回りくどい言い方をするのは、リュンヌを惑わせるためだろうか。
しっかりしないと、と自分に喝を入れる。
ここにリュンヌが導かれたのは取引のためだ。「塔から解放する代わりにムシュ・ラムを殺す」という取引に彼女が応じなかったために、別の取引材料を見せようとしているのだ。
それを忘れてはならない。
「リュンヌ、上に来なさい」
「お断りします」
「貴女にこれを見せたいのよ。心配しなくても、銃は持っていないわ」
「見え透いた嘘を……」
「私、嘘はさっきから一つも吐いていないわ。違うかしら?」
カシェの主張は確かに正しい。
――もちろんそれは、今の彼女が嘘をついているか否かとは全く関係しないのだが。まだ彼女を信じる気にならず、リュンヌはカシェを試すかのように問いかけた。
「……じゃあ、私に銃を返せますか」
「良いわよ」
あっさりとカシェは頷いた。
背後に控えているゼロにカシェが呼びかけると、彼はホルダーと銃を取り出してリュンヌに渡した。簡単に渡されたので、何かの罠ではないかとかえって警戒心を抱きつつもリュンヌは銃を確認する。確かに、いつもリュンヌが携帯している銃だった。中の弾も抜かれていない。
カシェに向けて受け取った銃を構えたが、彼女は鷹揚な笑みのまま眉一つ動かさなかった。
「さあリュンヌ、こちらへ」
「……分かりました」
警戒しつつリュンヌは一歩一歩ステージに近づいていった。広い部屋を横切り、階段を一段一段踏みしめるように登る。
そしてステージの反対側にいるカシェと対峙する――
――そのつもりだった。
視線の先にあったものを見て、呼吸が止まる。
弾道が逸れかけた銃を慌てて持ち直し、リュンヌは眩暈がするのを堪えた。
「……どうして?」
動揺を堪え、やっとの思いでそれだけ絞り出す。
カシェは心臓を抑えるように、胸に手をやった。垂れ下がる長い前髪が影を作り、カシェの表情を分かりづらいものにする。彼女の口元は小さく震えていて、言葉を紡ごうとしては止めているようだった。
やがて、小さな声が言う。
「私たちは」
その視線はたった一人に向けられていた。
自分に向けて銃口を向けているリュンヌなどには見向きもせず、その人の閉じられた目蓋と組まれた指をただ慈しむように見つめていた。
「――きっと、友達だったわ」
ステージの中央。
多種多様な花に囲まれ、眠っている女性がいた。
その片方の袖はまくられ、露出した白い腕からは細い管が伸びている。胸の上で指を祈るように組んでいる。髪は乾いて方々に散らばり、頬の肉は落ち、目蓋は眼球に貼り付いたように落ちくぼんでいた。力なく緩んだ口元は、それでも優しげな笑顔の形を僅かに残していた。
骸骨のように痩せこけた彼女を、その名前で呼ぶのが恐ろしかった。
「ここにいたのか。ここで……」
奥歯が震えて音を立てるのを感じた。全身から力が抜け、銃を構えた右手がだらりと垂れる。
怖かった。
信じがたかった。
どうしてこんなことになっているんだ、と叫びたかった。
だが同時に、組んだ指の下で胸が確かに上下しているのを見て、涙がにじむのを堪えられなかった。あの冬の彼女とはずいぶん変わってしまったけれど、それでも確かに生きている。
「エリザ、ここで生きてたのか」
リュンヌの視界が、溢れ出す涙で歪む。今すぐ何もかも放り投げて彼女にすがりつきたい感情と、カシェへの警戒に挟まれ、今にも身体が震えだしそうだった。静かに呼吸をしているエリザの身体は、リュンヌの記憶の中にいる彼女よりもずいぶん小柄だった。女性にしても平均以下の体躯だろう。それだけリュンヌが成長したということだろうか。
静かに目を伏せているカシェに、リュンヌは問いかけた。
「……彼女は眠っているんですか?」
「ええ」
カシェは首肯した。
「10年、ずっとよ」
「何故そんなことに?」
「それは――」
カシェの顔にさっと怒りの色がさした。
「あの男のせいよ。全て。彼女の全ての災厄はあいつのせい」
カシェの口調が刺々しいものに変わる。その気迫におののきつつ、リュンヌは断片的な情報が繋がっていくのを感じていた。
あの男、とはおそらくムシュ・ラムのことだろう。故意か偶然かは別にしても、エリザが長い眠りにつく原因を作ったのがムシュ・ラムだとすれば、エリザの友人だったというカシェが彼に恨みを抱くのも理解できる。
とすれば、この取引の真なる目的は。
「つまり、復讐したいのですか」
「ああ、そうなるのね……」
カシェは悲しげな笑みを浮かべた。溜め息が広い空間に反響する。
「私の20年待ち続けた機会は、そんなあっけない一言になってしまうのね。いえ、いいの。リュンヌ、貴女の言う通りよ。私がしたいのは復讐に過ぎないわ。ただ、大切な友人を二重三重に渡って苦しめた、あの男を殺したい」
「一体、何をしたのですか。ムシュ・ラムは」
「そうね。エリザが、本来ラピスの人間でないのは貴女も知っているわね?」
ステージの柵にもたれ、カシェは吐息のように掠れた声で話し始めた。
20年前、今のリュンヌたちとそう変わらない年齢のカシェとムシュ・ラム、そしてエリザは友人だったという。統一機関の研修生である以外は大した共通項がなかったカシェとラム少年を出会わせたのが、ラピスにおいては誰よりも異質な存在であるエリザだった。
「あの娘に対してラムはいつも卑屈だったわ。……無理もないわね、彼女を生まれ育った『時代』から引き剥がしたのはあいつだもの」
やはりエリザは別の時代から来たのだ。
そうであれば幾つか辻褄が合うと思っていたが、今、確信に変わった。
「エリザはなぜ、別の時代から連れて来られたのですか?」
「時間移動の技術が開発されていることは良く知っているでしょう。20年前、実験の失敗によって、空間局所的な『時間軸汚染』が発生した」
「汚染……それは何ですか?」
「時間軸の連続性や指向性が失われることね。元々、時間転送は時間軸汚染を作為的に引き起こす技術なのだけど。ともかく、その汚染は外部時間で15分に及び、統一機関の一部で過去や未来のさまざまなタイミングにおけるラピスが繋がってしまうという事態になったわ」
時間軸上のさまざまな点が繋がる。
それは時間転送装置の仕様と同じだ、とリュンヌは聞きながら考えた。
「元はと言えばラムのせいで起きた事故だけど、制御が難しいのは関係者なら知るところだったから責任は問われなかった。ただし、一つだけ問題が残ったのよ」
それが、時間軸汚染に巻き込まれた結果、遙か遠い過去からラピスにやってきたエリザだった。彼女の身元を引き受けられる者は当然誰もおらず、対処に困ったのだという。
「彼女の存在は特例的だった。他にも当然、時間軸汚染に巻き込まれた人たちがいたのだけど、不思議なことに彼等はみんな消えてしまったわ」
「消えた……」
リュンヌは不思議な言い回しに首をひねる。
「亡くなったのですか?」
「ええ。自殺したのが3人、発作的な病気で2人、他に不審死が6人。どれも事故から24時間以内に発生した不自然な死だったから、時間軸を監視している存在がいて、彼等が間違った時間に迷い込んだ人々を殺している、なんて与太話も出たわね」
「エリザひとりが生き残ったのですか……」
今ひとつ現実味を覚えられないまま、リュンヌは呟いた。一方で、カシェが「消えた」という言葉を使うわけが理解できた。ただ偶然の死が重なったと考えるにはやや不自然な状況だったというわけだ。
「そうね。……それでね?」
カシェはそこで表情を変えて、面白そうにくすっと笑った。
「あの男、エリザを1人で匿おうとしたの。馬鹿よね、見つかるに決まってるのに」
当時、幹部候補生だったムシュ・ラムは、幹部に与えられている自分の居室をエリザに与えようとしたらしい。もちろんそれは1日と持たずに暴かれ、事情聴取に駆り出されたのが政治部の若手幹部だったカシェだった。なぜこんな真似をする、と詰問されたムシュ・ラムは唇を噛んでこう答えたそうだ。
『あなた方は彼女を尋問にかけるでしょう。それが気の毒だった』
真面目くさった顔で言う彼の前で、カシェは遠慮せずに大笑いしたそうだ。エリザは一連の事故における重要人物なので、尋問は当然されるだろうが、それを気の毒だと思うのはリュンヌの立場から見ても少し常識外れだった。
「政治部が手酷い捜査をするとでも考えていたのか、あるいは尋問と拷問を取り違えでもしていたのかしら? ふふ、あの頃のラムは、恐ろしいほど世間を知らない子供だったわ」
カシェの言葉は当時を懐かしむようだった。
その顛末の後、エリザの身元は統一機関に引き受けられ、彼女はラ・ロシェルの街で生活を営むことが許された。カシェやムシュ・ラムにとって幸いなことに、エリザはあまり派手な生活ぶりではなく、図書館で穏やかに日々を過ごすことを好んだ。はじめに彼女を庇おうとしたムシュ・ラムと、彼女のラピスにおける生活を確立させるために尽力したカシェは、年齢が近かったこともあり、自然にエリザと親しくなった。
「突然今までの生活を奪われても、彼女は文句ひとつ言わなかった。それどころかラピスに興味を示し、ここでの生活を楽しんですらくれたの。私たちは彼女のためにできる限りを尽くしたし、エリザもそれに応えてくれた」
3人で過ごした時間が、カシェにとって大切な記憶であることは彼女の表情から読み取れた。紆余曲折こそあれ、本来交わるべくもない3人が同じ時間を共有したのは、ほとんど奇跡のようなものだろう。
そんな日々の延長線上に、エリザとラムの間に特殊な感情が生じた。
人と人との関係性からなる複雑な系を理解するのは政治部における必須技能のひとつだ。政治部の幹部であり、若手ながらその才能を注目されていたカシェにとって、たった2人の間に発生した関係性を察知することなど何も難しくなかった。
「でも2人を引き離そうとは思わなかったわ。――寧ろ応援していたのよ?」
カシェは小さく肩を竦めてそう言った。
ラピスにおいては公に理解されることのないものとはいえ、2人の間に生じた感情が穏やかに発展し、お互いの生活に彩りを添えるなら、それは良いことだろう。お互いがお互いの誰よりも大切な存在だと思えるのは、決して悪い話ではないはずだ。
そう軽く考えたのが、今から思えば最大のミスだった。
苦い顔でカシェは言った。
「――エリザが身ごもったの。彼女と、ラムの子を」
ムシュ・ラムは、それが生来の性格なのかカシェに隠し通そうとしたが、当然のように彼女はそれを見抜いた。カシェは自分より小柄な彼を張り倒したが、どれだけ暴力的な仕打ちをしたところで起きてしまったことが覆る訳でもなかった。
彼はカシェの、行き所のない怒りの発散にひたすら耐え、罵倒に疲れて肩で息をしているカシェの前で膝をついて、止まらない鼻血を拭うこともせず頭を下げた。
『カシェ――隠していて済まなかった。どうか、エリザとまだ見ぬ子供を助けてくれ』
もっと早く頼め、と叫んでカシェはもう一発頬に拳を叩き込んだ。
ともあれカシェは、妊娠しているエリザとその子供の保護のために奔走し、またムシュ・ラムを奔走させた。どうにか2人の子供が無事に生まれ、その子供は同年に生まれた多くの子供たちに混ざり、慣例に従って10歳まではラピスの7つの街に送られて育てられる運びになった。
「それで、ちょうど……統一機関の研修生の枠がひとつ、開いていたの。胎児の時点で亡くなってしまってね。方々に頭を下げてその娘を空き枠に入れたのよ」
「え?」
急に卑近になった話の展開に、リュンヌは驚く。
「研修生、ですか? 事故は20年前ですよね。ということは私たちの周りに――」
「周り、じゃないわ」
カシェは、ベッドの周りに置かれた花を一本引き抜き、リュンヌにまっすぐ向けた。眩いほどの赤い花弁に重なるように、血に濡れたカシェの唇が動く。
「貴女自身よ、リュンヌ」
「――私が?」
足元の地面がふらっと揺れた。
リュンヌは縋るものを求めて、背後の柵に片手をかけた。
驚きが質量をもって殴りかかってきたような衝撃を受け、そうでなければ立っていられないような気がした。頭の中でカシェの言葉が渦巻き、心がどろどろと崩れていくのを感じた。
自然な妊娠によって産まれている子供がいない訳ではない。
ソヴァージュと名付けられ、そういう一群として認識されている程度には知られた存在だ。等しくラピスに生を受けた存在として、多少厄介者として扱われつつも他の市民と同じ存在であると、ずっとリュンヌはそう思っていた。差別意識などなかったはずだ。
それでも。
それでも、自分自身がソヴァージュだと言われることとは、全く別のことなのだ。
口元が引きつって痙攣する。こみ上げた吐き気を慌てて堪えた。どんな顔をして立っていればいいのか分からず、カシェからも、眠るエリザからも視線を逸らしてその場にへたり込んだ。