第三十九話
文字数 6,342文字
「本当にゼラの具合が悪いんだ……」
クインが驚いた声で言う。
ゼラの寝室、ゼラは今はベッドに仰向けに横たわり、上半身を少し起こしてクッションで支えている。クインを見て弱々しい笑みを見せるゼラ。目を見開き驚いた顔のクインとアシェンドネイル。
いきなり手を掴んだ俺に文句を言うクインとアシェンドネイルを引っ張って、ゼラの寝室に連れてきた。この二人ならゼラの不調について解るかもしれない。
ゼラの寝室の中、クインもアシェンドネイルも今は正体を現して、クインは上半身は胸当てを外して、上半身とグリフォン体の境目は黒い腰巻きスカートで隠している。
アシェンドネイルも腰から下の黒い大蛇体を現して、ゼラの寝室の床にその大蛇がとぐろを巻く。服を嫌うアシェンドネイルは青いドレスの幻影を解き、護衛メイドのサレンが持ってきた白いエプロンを身に纏う。
「うわ、なんだこの光景……」
初めてアシェンドネイルを見たエクアドの兄ロンビアが、寝室の扉近くで呆然としている。アルケニーとラミアとカーラヴィンカがひとつの部屋にいる光景は珍しいかも知れない。だが悪いが今はロンビアに構っている暇は無い。
ルブセィラ女史にゼラの容態を説明してもらう。クインとアシェンドネイルは不審な顔でルブセィラ女史の話を聞いている。
俺はベッドに座りゼラの手を握る。服を嫌うゼラは裸のまま褐色の双丘を晒しているが、お腹を冷やさない方がいいだろうと腹掛けをかけて、お腹は隠している。
ゼラよりも長く生きている、ゼラの姉を名乗る二人の深都の住人。この二人ならゼラを治せるかもしれない。ゼラは久々に会ったアシェンドネイルとクインを見て、話でもしたい様子。ルブセィラ女史の説明が終わるまで静かに待っている。
「ゼラさんの魔力隠蔽に気配隠蔽に遮られて、私達の魔術で調べることが難しく、触診に聴診くらいでしか診ることができません。私は妊娠を疑っていますが、ゼラさんのお腹が膨らむことも無く」
「業の者が子を孕んだことなんて、これまで一度も無いわ。私達は魔獣の軛から外れた存在、子孫を残すことはできないのよ」
「そうなのですか? むむ、ゼラさんはもとタラテクト、クインはもとハイイーグル、進化する魔獣は子孫を作る生物では無いと?」
「個体で完結してしまっているのよね」
クインが苛立って口を挟む。
「アシェも眼鏡も今はゼラのことだろ。あたいらが病気になるなんてことも無いのに、ゼラはずっと力が出ないって?」
「私達の肉体が病むことも無いわね。高濃度の呪詛を浴びれば身体の調子も悪くなるけど、それは呪いで病気では無いし」
「人間との生活で何かあったか?」
「赤毛の英雄とハッスルし過ぎたんじゃ無い?」
ルブセィラ女史がアシェンドネイルにメモを渡す。
「こちらがゼラさんの体温の変化を記録したものです。それとこの二ヶ月のゼラさんの食事。食材の種類と量が書かれています」
「細かいわね。ゼラの魔力量の変化は解る?」
「私達の技術では、ゼラさんの魔力量は計測できません」
「それもそうね。ゼラじゃなくても、私もクインも人には簡単には見抜け無いでしょうね」
「そして人の治癒術も何も効果がありません。ゼラさんの身体に弾かれるように」
「病気でなければ、呪詛、かしら?」
俺はゼラの手を握ったままクインとアシェンドネイルに尋ねる。
「ゼラは治るのか?」
「ゼラの身体に何が起きたのか、調べてみるわ」
アシェンドネイルが応えアシェンドネイルとクインがゼラを挟む位置へと。ゼラ専用に特注したベッドは大きく、アシェンドネイルはベッドに乗る。黒蛇体がベッドの上に進み、裸エプロンのアシェンドネイルが間近に迫る。
クインもまた下半身のグリフォン体の前足をベッドに乗せ、ゼラに近づく。二人がそれぞれ右手を仰向けに横たわるゼラに近づける。
アシェンドネイルが何処から出したのか、左手に赤い石を握る。あれは、母神の瞳。
「ゼラを調べるわ。お姉様達、手伝って」
アシェンドネイルが母神の瞳に囁く。赤い石に何も変化は見られない。赤い光を放つことも無い。しかし、クインもアシェンドネイルも赤い石に何か尋ねるように声をかけ、頷いたり返事をしたりする。俺には聞こえないが、二人には赤い石から何か聞こえて、その声と話しているように見える。
アシェンドネイルとクインの手がゼラ身体のあちこちに触れ、その手がゼラの黒い蜘蛛体、今は仰向けになり脚を畳んでいるゼラの下半身に触れる。
「はあ? なんだって?」
「お姉様、それはどういうこと?」
クインとアシェンドネイルが驚いた声を上げ、赤い石を見つめる。俺には聞こえない声に耳を傾けているような。
クインの眉がつり上がる。
「こ、このバカゼラ! 何を考えてる!?」
「あにゅ?」
いきなりクインに怒鳴られたゼラが肩をすくめて小さくなる。なんだ? アシェンドネイルの赤い瞳が俺を睨む。
「これも、お前のせいか? 底無しのエロ赤毛!」
アシェンドネイルの赤い瞳が危険な光を灯し、その右手が俺の首に迫る。アシェンドネイルが我を忘れて、気取らない呼び方で単純な罵倒をして激昂するのを、初めて見た。
アシェンドネイルの手が俺の首に届く前に、クインがアシェンドネイルの手を掴み止める。
「落ち着けアシェ、ゼラの前でそれはやめろ。あたいもこのスケベ人間は一発殴りたいけど」
クインに遅れてゼラの手がアシェンドネイルの手に触れる。
「アシェ、カダールは、悪くないから」
アシェンドネイルは俺を睨み、首を振って視線を外す。クインに掴まれた手を振りほどく。二人が何に怒りだしたか解らんが。
「ゼラの容態が解ったのか? 治るのか? 俺のことなら後で何発でも殴らせてやる。解ったことがあるなら教えてくれ、頼む」
アシェンドネイルは気を鎮めようとしているのか、顔を背けて深呼吸。寝室の全員が注目する中で、クインが口を開く。
「ゼラが、妊娠している」
ゼラが妊娠? 病気でなければ妊娠ではないかと疑い、それは何度も調べた筈だが。その検査をしたルブセィラ女史がクインに尋ねる。
「ですが、ゼラさんのお腹は細いまま膨らんでもいませんし、胎児が育つならその心音も聞こえませんが?」
ゼラのお腹、褐色の肌に小さなおへそ、くびれのあるお腹は細いままだ。逆に前より少し痩せたように見える。
「人間体の方を見ても解らないだろうよ。ゼラの赤ちゃんがいるのはこっち」
クインか指で指し示すのは、
「この蜘蛛体の中だ。それもいつ産まれてもおかしくないぐらいに大きくなってる」
「私は蜘蛛体も調べましたが、」
「もともと大きいってのもあるんだろうけど、人の魔術じゃゼラの身体の中は見えねえから解んねえのか?」
ゼラが妊娠、上半身の人のお腹では無くて、下半身の蜘蛛の身体の中に。妊娠だから病気では無い? それで治癒の魔術が効かなかったのか? だがいつ産まれてもおかしくないだと? ゼラが調子を崩してから二ヶ月で、いや、ゼラに子供ができたのはその前からか? 人間の妊娠期間と比べるのが間違っているのか? 解らないことだらけだが、
「ゼラの体調不良は妊娠で、病気では無く問題は無い、ということか?」
「問題有るわよ、この、魔獣孕ませ男」
苦い口調で言うのはアシェンドネイル。魔獣孕ませ男、い、いやそれで間違って無いかもしれないが。振り向いたアシェンドネイルが再び俺を睨む。
「深都の住人が子を孕んだことなど一度も無い。進化する魔獣と呼ばれる私達に、子を孕む機能は無いのよ」
子を孕む機能は無い。それならばゼラはどうやって妊娠を? アシェンドネイルの目が怒りのためか、赤く光る。
「それなのにゼラは妊娠した。ゼラは子を作る為だけに、自分の身体の中を改造したのよ。まるで一度、内臓をぐちゃぐちゃに溶かして作り直したみたいに」
「内臓を溶かして、作り直す?」
「今のゼラは、持ち前の魔力で強引に生命維持を続けている状態。その上で蜘蛛体の中で胎児を育てて、これじゃ満足に歩くこともできなくなるわ。ゼラ、なんでこんな無茶なことをするの? どうしてできたの?」
「あにゅ……」
ゼラを見れば怒られると思ったのか、自分の肩を抱いて縮こまっている。蜘蛛の脚も蜘蛛の身体にぴったりとくっつけて、小さくなろうとしているような。
「まさか?」
ルブセィラ女史が震える声で話す。
「ゼラさんはお茶に酔うなど、蜘蛛の特性を身体に残しています。そして蜘蛛の中には、自分の子を育てる為に母蜘蛛が己の内臓を溶かし、自分の子に与える種類があります」
「そんなことをすれば、その母蜘蛛は?」
「子に己の身を餌として与えて、死にます……」
それではゼラが子を作る為に死ぬというのか? ゼラが死ぬ?
「ゼラ、なんでそんなことを、」
ゼラの肩を掴み俯くゼラの顔を覗く。
「死んでしまうのか? ゼラ?」
「ンー? ゼラは死なないよ?」
上目使いでキョトンと返すゼラ。赤ちゃん欲しいと言ってはいたが、その為に身体の中を作り変えて力を失うとは。
「ゼラもフェディみたいに赤ちゃん抱きたいし、おっぱいあげたいから、死なないようにした、つもりなんだけど……」
「なんでこんな危ないことを?」
「えっとね、フェディが赤ちゃんできたって聞いてから、フェディのお腹を見てたの。フェディのお腹の中で赤ちゃんがどんな風になってるか。産まれるところまで見て、フェディの真似したら、ゼラにも赤ちゃんできるかな? って」
思い返しながら、ゼラが言葉を紡ぐ。
「なんだかできそうって解ったから、ちょっと、やってみたくなって」
「どうして、それを教えてくれなかったんだ?」
「ンー、初めてのことで、ちゃんとできるかわかんなかったし。失敗したら、みんながっかりするかなって。上手くいったら話すつもり、だったんだけど。ね、アシェ、ゼラの赤ちゃん、ちゃんとできてる?」
「こ、この、無計画の、考え無し……」
「ゼラ、ちゃんと考えたよ? どうしたらゼラとカダールの赤ちゃんできるかなって」
アシェンドネイルは片手で額を抑えて天井を仰ぐ。その気持ちは少し解る。ゼラは怒られると思っているのか眉が下がり赤紫の瞳が潤む。
「ゼラ、ゼラが赤ちゃん欲しいってのは知っているが、その為に心配させるようなことをするのは、やめて欲しい」
「あにゅ、カダール、ごめんなさい。でも他にいいやり方が、見つからなくて。できそうってなったら、その」
「俺もゼラに赤ちゃんができたら嬉しいが、その為にゼラがいなくなったら、俺はどうしていいか解らない」
ゼラを胸にそっと抱く。ゼラのお腹に、いや蜘蛛体の中に俺とゼラの子が。何か不思議な熱のようなものが、ゼラに触れるところから伝わってくる気がする。
クインがアシェンドネイルに言う。
「アシェ、これはどーする?」
「どうするもこうするも、ゼラが胎児を身体から出すまでは安静にして、胎児が蜘蛛体から産まれたらゼラの身体の中を元通りに再生させないと」
「あたいとアシェは他人の治癒は苦手だろ?」
「今から深都の誰かを連れて来るのも間に合わないし、私とクインしかいないじゃない」
「こんの、バカゼラが……」
「私とクインの魔力をゼラに送って、これで少しはゼラが楽になるでしょう。ほんとになんなのこのウィラーイン家は。来る度にいつもおかしなことばっかり……」
来る度にって、まだ二回目じゃないか?
「クインとアシェはどうしてローグシーに来たんだ?」
「外交官役をよこせって言ったのは、お前らだろ」
そういう話もあったか。
アシェンドネイルが疲れた声で言う。
「私がウィラーイン家と会ったことがあるからって、私が一人目にされてしまったのよ」
「誰が行くかで揉めるし、ケンカになるし、建物が壊れるし」
「私はお姉様に羨ましがられたり、質問責めにあったりするし」
ぐったりとするクインにアシェンドネイル。ルブセィラ女史が眼鏡をキラリと光らせて、アシェンドネイルに詰め寄る。
「ではアシェンドネイルとクインが、ゼラさんを出産まで手伝ってくれるのですか?」
「他にいないじゃない」
「お二人にはゼラさんは大事な妹、ですか? 子供が生めないとなれば、ゼラさんは妊娠した希少な同族ということでしょうか?」
「何が言いたいの? 眼鏡賢者は?」
「私ではゼラさんのお役に立てず、体調不良の原因も解らないままでした。お二人がゼラさんの側にいてくれるのは心強いです。微力ながら私もお手伝いしますので、ゼラさんの出産までどうかよろしくお願いします」
母上が護衛メイドのサレンと執事グラフトに、クインとアシェンドネイルがこの館に滞在する用意を指示する。
「ゼラのことは、これで一安心ね」
「何が一安心なのかしら? 英雄の母? こんな前例の無いこと、これから何が起きるか解らないわ」
「原因が解り、対処法もこれで見えて来たのでしょう? どうすればいいか解れば、あとはそれをするだけよ。それとゼラ、もうこんな心配させること、黙ってしちゃダメよ」
「ゴメンナサイ、ハハウエ……」
ションボリするゼラを慰めるように母上がゼラの頭を撫でる。
アシェンドネイルが疲れた声で俺達に言う。
「仕方無いから私とクインがゼラの面倒をみるわ。ゼラは絶対安静よ」
「ふむ、ならばゼラの為に小煩い輩はワシが排除してやろう」
父上が笑ってやる気を見せる。このままではウィラーイン家が建国してしまう。
「アシェンドネイル、ひとつ訊ねたい」
「何かしら? アルケニー孕ませ男?」
「中央の魔獣災害は、アシェンドネイルが起こしたのか?」
「私では無いけれどね」
「何故、中央に魔獣が現れた?」
「……そうね、教えてあげてもいいわ。ここにも危なっかしい博物学者がいるから」
アシェンドネイルの目が母上をチラリと見る。
「人類領域の中央では、平穏なこともあって新たな技術開発をしてるところもある。そこが禁則に触れる物を発明したのよ。光の神教会はやめろと言ってる筈のものだけど」
「一角獣の御言葉で禁止されているものか?」
「魔力蓄石、と呼ばれていたわね。魔力を蓄えてそれを動力とする装置は、内燃機関に発展する可能性がある。この技術が実用化し蔓延すれば、人は弱体するわ。故にその存在は消す、跡形も無く」
魔術国家ジェムジェンはそんな魔術具を開発していたのか。禁則に触れる便利な技術、それを知らずに研究し、魔術国家ジェムジェンは魔獣に消されることに。
「これで中央で増えた人は魔獣と戦わなければならなくなり、人間を間引きしながらその強化を促すことができる」
「では、中央に現れたという新たな魔獣深森は、焼き払えばどうなる?」
「試してみたら? パラポワネットの地下の巣は大陸中に広がってるわよ」
「おいアシェ、喋り過ぎだ」
「クイン、ウィラーイン領がつまらない発明品で滅ぶのは、お姉様達が悲しむわ。さあ、これを知ってどうするの? 赤毛の英雄?」
「人と魔獣は、戦い続けるしか無いのか?」
「魔獣のいない世界がお望み? だったら深都を相手に戦ってみる? 深都の住人を滅ぼし、我らが母を葬れば、魔獣のいない世界になるわ。そうなれば人類は古代魔術文明と同じ道を辿り、滅日を迎えるでしょうね」