第三十七話

文字数 4,583文字

「ああああああ!!」
「ゼラ!」

 ゼラに駆け寄り声をかけても、ゼラは叫ぶばかりで俺を見ない。我を失ったゼラに俺の声が聞こえないのか。両の瞳をこぼれ落ちそうに見開くゼラの赤紫の瞳。その白目の部分が、赤紫に染まる。
 ゼラの声の質が変わる。

「シャアアアアアア!」
「棄人化? やめなさい! ゼラ!」

 アシェンドネイルが叫ぶ。棄人化? なんだそれは? 俺の目の前でゼラが手を大きく開く。ゼラの下半身、黒い蜘蛛の身体の体毛が逆立ち、パキパキと音を立てて硬化する。ゼラの黒い髪が風も無いのに踊るようにうねる。
 対メイモントのアンデッド戦、ゼラが怒りに任せて暴れたときとは比べものにならない怒気が、ゼラの全身から溢れる。

「シャアアアアアア!」

 ゼラの口から出る声は獣の唸り声か、吹き抜ける風の音のような声に変わる。ゼラの指が長く伸び、色を黒く変え、手の指がまるで蜘蛛の脚のようになり爪が長く伸びる。腕に背中、首筋と、赤い胸当ての無いところから黒い体毛が伸び、全身を覆う。
 ゼラの口が裂けるように大きく開き、下顎が左右に割れ、顔の下半分が蜘蛛のような(あぎと)へと変化する。見開いた瞳は白目が無くなり赤紫一色に、巨大な虫のような目に変わる。
 ゼラが、人の形を失っていく。これは、なんだ? ゼラ?

「シャアアッ!」
「ゼラッ!」

 ゼラを止めようと手を伸ばすが、跳躍するゼラに弾き飛ばされて地面に転がってしまう。
 ゼラが飛びかかる先は、ドラゴン擬きレグジート。

「形態を変化させるか。それが戦闘用か? 変身とは興味深い」
「シャアア!」

 ゼラが長く伸びた爪を振り下ろす。ドラゴン擬きは黒く太い腕で、そのゼラの腕を逆に掴まえようと手を伸ばす。
 ゼラの爪がドラゴン擬きの腕に触れたとき、ドラゴン擬きの腕が一本、肘から先が破裂して無くなった。

「なああ!? なんだこの力は?」
「シャアア!」

 ドラゴン擬きの黒い鱗が膨らみ逆立つ。しかし、ゼラの両手はドラゴン擬き鱗をものともせず、腕も身体も紙のように引き裂いていく。その身を守ろうとしたドラゴン擬きの腕が、また一本弾け飛ぶ。

「ば、馬鹿な? 古代魔術文明の、クガセナ生合因流の失敗作の生き残りに、こんな力があるはずが無い! なんだ貴様は?」

 レグジートが悲鳴を上げる。我を失ったゼラはドラゴン擬きをズタズタに爪で引き裂いていく。レグジートは巨腕で身を守ろうとしても、その腕がゼラの爪で切られ、抉られ、弾けて失せていく。六本あった腕がもう二本しか無い。

「や、やめろ、やめろこの失敗作が! 我が、我がこんなところで、まだ古代文明の叡知は、ぬおお、その全容はいまだ、叡知の探求はまだ途上、ぐあ! は、離せえ!」

 逃げようとしたドラゴン擬きの尻尾をゼラは掴み、そのまま上に振り上げれば、ドラゴン擬きの巨体が宙に浮く。

「やめろやめろやめろやめろおあ!」
「シャアアアアア!!」

 ゼラは家屋程もあるレグジートの、歪な血塗れの黒龍の巨体を振り上げ、振り下ろし地面に叩きつける。轟音、大地が揺れ地面が凹む。あまりの衝撃に地面が波打ち、倒れそうになる。
 叩きつけられた衝撃で気を失ったのか静かになったレグジート。だが、暴走するゼラは止まらない。その口から空気が抜けるような音を立て、長く伸びた指と爪を振るい、レグジートの巨体を八つ裂きにしていく。
 ドラゴン擬きの鱗が跳ね、腕が飛び、脚がもげる。尻尾が引きちぎられ、血飛沫が飛び、辺りに血霧が漂う。ピクリともしないドラゴン擬きの肉体がバラバラに、まるでこの世に存在することを許さないとばかりに、ゼラは細切れにしていく。

「ゼラ! 止まりなさい!」

 アシェンドネイルが叫ぶ。ウェアウルフの生き残りを蛇体で撥ね飛ばし、ゼラに向かう。

「アシェンドネイル! これはなんだ!? ゼラはどうなった!?」
「……棄人化、心の痛みに耐えられなくなった進化する魔獣の暴走よ」
「ゼラは、もとに戻るのか?」
「暴れるだけ暴れて、時が過ぎれば戻ることもあるけれど……」

 アシェンドネイルが言い淀む。目隠しの呪布で解りにくいが、アシェンドネイルも動揺しているようだ。

「戻ることもある、ということは戻らないこともあるということか?」
「人である部分を、全て捨ててしまえば、もう……」
 
 ゼラが人を棄てる? あれほど人になりたがっていたゼラが?
 ゼラはまだドラゴン擬きの肉体を爪で切り刻んでいる。それ以外、目に入らないようだ。もはやレグジートに息は無い。黒龍の因子を得たという身体も、ここまで刻まれ細切れにされて、生きているとは思えない。ゼラの手はドラゴン擬きの胴体の中から白い骨を引き抜き、蜘蛛の脚のような指で握り砕く。

「ジャアアアア!」

 いまだに暴れ続けるゼラを見たままアシェンドネイルが言う。

「あなた達、逃げなさい。私がゼラを押さえる間に」
「ゼラをこのままほおっておけるか!」
「今のゼラは正気じゃ無い、赤毛の英雄のことも解らないでしょう。あなた達が逃げる時間ぐらいは稼いであげるから」

 逃げるだと? 戦場を見れば混沌としている。暴走するウェアウルフは数を減らし、中には同士討ちを始めるもの、限界を越えて膨らんだ筋肉が破裂し倒れるものもいる。隊員は負傷しながらも、残ったウェアウルフと闘っている。
 母上は眉を顰め、火槍の魔術をウェアウルフの生き残りに放つ。

「全員、一度退くわ! 隊を立て直し、」
「いいや! 全員でゼラを止める! 失ってたまるか! 皆、頼む!」

 母上の指示を大声で遮る。ここで泣いて暴れるゼラを独りにすれば、取り返しのつかないことになる。
 今のゼラを独りにしてはダメだ。泣き悲しむゼラを独り置き去りにすれば、二度と帰って来ない気がする。それだけは解る。
 心の痛みに耐えられなかった、とアシェンドネイルは言った。だが、心が痛いからと、ゼラに心を捨てさせては、忘れさせてはダメだ。
 エクアドと視線を合わせればエクアドが頷く。それだけで俺の意図を理解してくれる。長いつきあいの親友にして背中を預けられる戦友。

「全員でゼラの捕獲準備! 暴走対策だ!」

 隊員がエクアドの指示に応え、先端に重りのついたロープに鎖を用意する。
 アルケニー監視部隊はゼラが暴走したときに止める為の部隊だ。既に対外的な意味しか持たない部隊名だが、ゼラが暴走したときの準備も、そのための訓練もしている。
 俺は左肩の肩当てを引き剥がし、自分の左肩にナイフを突き立てる。
 やることは単純、対メイモント戦でゼラが暴走したときと同じことをする。
 なんとかゼラの動きを止めて、俺の血を飲ませる。

 母上とルブセィラ女史がウェアウルフを攻撃魔術で押さえる中、隊員達はロープと鎖を手にゼラを囲む位置に。アシェンドネイルが慌てた声を出す。

「あ、あなた達バカなの? 棄人化したゼラに殺されるわよ!」
「やかましい! 賢しい真似ができるなら、俺はゼラと出会っていない!」

 俺の左肩から出る血を右手で広げ、ゼラへと近づく。人の畑を荒らす魔獣、タラテクトだと知っていても、つい助けてしまった。害となる魔獣を助けるなど、人から見れば愚かしいこと。
 だが、それが俺とゼラの出会いで、俺は子供心にバカなことをしたと思っても、ゼラを助けたことを後悔などしないし、助けて良かったと毎日、実感している。
 だから、

「俺のバカをそこで見ていろ! アシェンドネイル!」

 狂乱するゼラへと走る。エクアドが号令を。

「やるぞ! 投擲!」
「戻ってゼラちゃん!」
「頼むぜ副隊長!」

 アルケニー監視部隊が、先端に重りをつけたロープに鎖を一斉にゼラに投げる。

「裏アーレスト流捕縄術! 山落し!」
「無覚流鎖縛術! 秋火!」

 護衛メイドのサレンが縄を投げ、フクロウのクチバが鎖を投げる。この二人の訓練を受けた隊員達も手にするロープと鎖を投げる。サレンの捕縄術にクチバの鎖縛術。訓練のときはゼラは鬼ごっこだと笑っていた。半分遊びのような訓練で身につけた技が、まさかここで必要になるとは。
 先端に重りをつけたロープと鎖はゼラの手足に巻きつく。

「シャアアアア!」

 腕を振り回し拘束から逃れようと暴れるゼラ。腕力ではゼラには勝てない。隊員達は引きずられる前に手を離し、続けて次の鎖を投げる。

「腕を開かせろ! 腕を狙い左右に開け!」

 エクアドの指揮に応えた隊員達が次々とロープと鎖を投げる。数人がかりで引き、ゼラの腕がロープと鎖でぐるぐる巻きに。
 ゼラの腕が左右に開いた隙に、俺はゼラへと走る。

「シャアア!」

 正面から見たゼラの顔は、上半分はまだもとの人の顔の形を残している。だが、鼻から下は巨大な蜘蛛のような顔に。目も白目は無くなり赤紫の虫のような目に。ゼラの顔が蜘蛛の頭と融合したような見た目に。
 これが棄人化か?
 ゼラを止める、こちらに引き戻す!

「ゼラ! 今行くぞ!」

 ゼラに呼び掛けながらゼラへと跳ぶ。暴れる蜘蛛の脚に右足をかけ、登り、ゼラの首に抱きつく。ゼラの頭を右手で抱えて、後頭部を押して抱き締めるように。ゼラの牙を俺の左肩に刺させる。肩から血が、ゼラの下顎は左右に割れ二本の大きな牙が前に突き出している。その牙を俺の肩に、俺の血をゼラの口に。

「シャアアアア!」
「おおお! ゼラ! 俺の血を! 憶えているか!?」

 左肩に鈍い痛み。ゼラの後頭部を押して牙がより深く肩に刺さるように押す。対アンデッド戦のときは、これでゼラは止まった。今はどうかと見ると、

「ジャアアアア!」

 呻くゼラは止まる気は無く、まだ暴れる。隊員達が必死にロープと鎖を握り、ゼラの動きを止めようと力の限り引く。

「ゼラ!」

 正面からゼラにしがみつき、肩の血をゼラの口へ。その牙の突き出た口に俺の血が入った筈だが、もっとちゃんと飲ませないとダメか? それとも、俺の血の味を忘れたのか? 何度も呼びかけ、振り落とされないようにゼラにしがみつく。胴体に足を回して、木登りのようにゼラに抱きつく。

「ゼラ! 止まってくれ!」
「ジャアアアア!」

 ゼラが腕を引き寄せ、鎖を握る隊員達が引っ張られて倒れる。ぐう、ダメか? ゼラの顔に俺の血がつく。口にも入っている。それなのにゼラは止まらない。もがくゼラから振り落とされないように必死にしがみつく。離すものか、今、ゼラを離せば二度とゼラは戻ってこない。それだけは、何故か解る。抱き締めているはずのゼラが、遠く感じる。

「赤毛の英雄!」

 アシェンドネイルが俺を呼ぶ。俺に向かって何か投げる。

「使いなさい!」

 アシェンドネイルが投げたものは、見覚えのある赤い宝石。拳大の暗い赤色の多面体、闇の母神の瞳。いや、使えと言われてもどうすれば? 右手でゼラの頭を抱えたまま、左手を伸ばす。飛んでくる闇の母神の瞳を左手で受け止める。
 俺の手が宝石を掴まえたとき、赤い光が闇の母神の瞳から(ほとばし)る。
 世界が赤の光に包まれる。

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登場人物紹介

ゼラ

もとは蜘蛛の魔獣タラテクト。助けてくれた騎士カダールへの想いが高まり、進化を重ねて半人半獣の魔獣アルケニーへと進化した。上半身は褐色の肌の人間の少女、下半身は漆黒の体毛の大蜘蛛。お茶で酔い、服が嫌い。妥協案として裸エプロンに。ポムンがプルン。しゅぴっ。

カダール=ウィラーイン

ウィラーイン伯爵家の一人息子。剣のカダール、ドラゴンスレイヤー、どんな窮地からでも生還する不死身の騎士、と渾名は多い。八歳のときに助けた蜘蛛の子と再会したことで運命が変わる。後に黒蜘蛛の騎士、赤毛の英雄と呼ばれる。ブランデーを好む、ムッツリ騎士。伝説のおっぱいいっぱい男。

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