第三十九話◇記録抹消の研究施設、前編

文字数 5,134文字

 巨木聳える魔獣深森の中を、深緑色の蟹に似た甲殻生物が走る。大きな草葉の中を一目散に。

(まさか、このようなことに、)

 深緑色の甲殻生物は大きさは犬か猫といったところ。奥地に進むほどに草も花も大きくなる魔獣深森の中では、小さな虫のようにも見える。
 蟹と蠍を合わせたような姿。八本の足を忙しなく蠢かし、一本の尻尾を振り、必死に逃げるように森の中を走る。

(黒龍体の中に緊急避難用の肉体を仕込んでおいて正解だった)

 森の中を疾走する深緑の甲殻生物、その正体は古代魔術文明の研究者、レグジート。
 棄人化したゼラの力で黒龍の因子を取り込んだ肉体をバラバラに破壊され、飛び散る肉片の中に紛れ遺跡から逃走した。

(脳と脊髄と因定珠があれば、我は不死身。しかしこの小さな避難用の肉体では心許ない。急いで次の肉体を造らねば。黒龍の因子では足りん。より強き魔獣の因子を、しかし、あの施設には黒龍以上の因子の標本は無い)

 深緑の甲殻生物は森の中を疾走する。危機を脱したものの、この小さな肉体では魔獣深森の深部の魔獣に勝てはしない。
 見つかる前にと必死に走る。

(しかし、なんだあのアルケニーは? あの力、クガセナ生合因流の、ただの失敗作では無かったのか? あのアルケニーも、ラミアのアシェンドネイルも、クガセナ生合因流とは違う研究の産物なのか? 解明するためにも我がこんなところで死ぬ訳にはいかん)

 レグジートは己の知識で判断した。なまじ人体改造という古代の知識を持つがゆえの過ち。半人半獣という不自然な魔獣は、古代魔術文明の実験体の生き残りだと思い込んでいた。
 
(盾の国の野蛮人の戦闘力も異常だ。人間が少し鍛えたぐらいで魔獣に勝てる筈が無い。だがあの力、中央の人類とは違うのか? あの野蛮人どもは、もしかして、造られた次代の人類の研究成果なのか? いまだに謎は多い、過去の人類の叡知を解き明かし未来に伝える為にも、もっと研究を)

 人は己の知ることで世界を見る。レグジートは己の知識を通して世界を見る。世界の謎を解明しようと身につけた、古代魔術文明の知識を通して見た為に、目にしたものを誤解した。
 その結果、黒龍の因子を持つ肉体を失い、小さな蟹のような身体で必死に逃げ続けている。
 深緑の甲殻生物は走り続け、ようやく目的地に到着し、安堵したように脚を止める。

「ノースウェスサースウェス! 館の主の帰還だ! 隠蔽を解除せよ!」

 深緑の甲殻生物からレグジートのくぐもった声が森に響き渡る。何処にも口は見えないが、殻の中に詠唱用の発声器官がある。
 レグジートの声に森の一部が陽炎のように揺らめき消える。森の一角に木の無い広場が現れる。
 中央に六角柱の形をした建物がある。白いのっぺりとした建物は、搭と呼ぶには高さは無い。今も稼働する古代魔術文明の、隠された研究施設。建物は無機質な白い六角柱がひとつだけ。
 レグジートは脚をシャカシャカと蠢かし、その施設の中に入っていく。

 レグジートは古代の研究施設の中を進む。館の主と登録したレグジートが中に入れば、迎えるように明かりが灯る。深緑の甲殻生物は、蟹のような、蜘蛛のような脚で奥へと進む。

(この施設で造れる魔獣兵は、人狼と人熊と人猫が限界。これでは護衛として心許ない)

 レグジートが入った広い部屋は、壁に沿うように円筒型の水槽がいくつも並ぶ。その中には様々な生物の肉片が浮かぶ。
 解剖されたウェアウルフ、ウェアベアに魔獣が内臓を晒し、青白く光る水の中にたゆたっている。生物の因子を研究した古代魔術文明の遺産は、幾つもの死体を抱えてコポ、コポ、と小さな泡の音を立てる。
 レグジートは白い机の上に飛び乗り、蟹に似た脚で机の角を操作する。館の主を認証し、机に穴が開きその穴の中から金属の箱が現れる。

 レグジートが蟹の脚でそっと箱を開くと、中には人の爪のサイズの黒い板状の物体が並ぶ。
 レグジートは蟹の脚で大切なものを扱うように、黒く小さな長方形の板を摘まみ上げる。

(記憶片、古代の叡知の集積。ここから情報を得て、より強い魔獣兵を造れるように施設を改造して。いや、あのアルケニーが敵となるならば、黒龍以上の因子を保管している施設を探すか。どちらにしても先ずは我の新たな肉体を造らねば。魔獣深森の中で他の遺跡を探すには、)

「ここが記録抹消(ログレス)の研究施設ね。ようやく見つかったわ」

 聞こえた女の声にレグジートは慌てて振り向く。そこには白い長い髪に黒い目隠しをした女。上半身は人の乙女、下半身は黒蛇の半人半蛇。ラミアの、

「アシェンドネイル……、尾けていたのか……」
「案内ご苦労様、レグジート」

 レグジートは記憶片の入った箱を己の身で守るように覆い被さる。
 アシェンドネイルは部屋の中をゆっくり進む。部屋の中を見回しながら。

「あなたのお仲間は人体改造に失敗したようね」

 アシェンドネイルの見る先、いくつも並ぶ円筒型の青い水槽の中には人間もいる。胸が切り開かれ白い肋骨が見える男。頭蓋骨を開かれ灰色の脳が見える女。どれも生命活動は終えている。丁寧に保管されたことで腐敗してはいない。

「因定珠の模倣に失敗した、というところかしら?」
「……古代の魔術具、因定珠は今の技術では再現不可能だと解った。彼らは古代魔術文明の解明に身を捧げた、探究の勇士だ」

 レグジートは探るように言葉を紡ぐ。

「アシェンドネイル、この施設を見つけてどうするつもりだ?」
「処分するわ、跡形も無く。今の人類に必要の無い危険な遺産を消すのが、私達の役目だもの」
「人の! 人の叡知は未来に残さねばならない!」
「何の為に?」
「人の文明の発展の為に、魔獣に怯えぬ平和な世界を作り、更なる技術の発展を。病も寿命も克服し、安堵して人が暮らす世界の為に。人類の未来の為に」
「個体がひとつ長生きしても、種として弱くなれば人は滅ぶ。それは古代魔術文明が証明しているわ」
「知識を正しく理解し、知恵を正しく働かせれば、人の文明は飛躍する。我が古代の叡知を解明し、人に、未来に伝えねばならん。志半ばで亡くなった、我の仲間の為にも」

 アシェンドネイルはレグジートに近づき見下ろす。

「それで魔獣の因子を取り込む人体改造ね。寿命を克服して長生きはできるようになるけれど。黒龍の因子なんてよく手に入れたものね」
「その黒龍の因子でも勝てない、あのアルケニーはなんだ?」
「勝てなかったのは黒龍の因子ではなくて、あなたよ、レグジート」
「どういう意味だ?」
「獣は四本脚が多いわね。だけど人間は二本脚よね」
「そのために人間は他の生物より安定性が悪い」
「その不安定さを逆に利用することで、武術という身体操作技術が産まれたのよ。人体を理解し解剖学的に効率良く、最大最速を自在に産み出す人体動作。あなたはその動き方を知らないだけ」
「だが、黒龍体の性能ではあのアルケニーに手も足も出なかった」
「性能だけを見れば、黒龍の因子を持ったあの巨体はかなりのものの筈なのだけど。レグジート、持って産まれた二本の腕も二本の足も、満足に扱えなかったあなたが、六本腕、八本脚と数を増やしたところで、使いこなせると思ったの?」
「戦闘動作の為の情報が足りなかったか……」

 アシェンドネイルが白い机を見る。レグジートが深緑色の蟹の身体で隠そうとする箱を見る。

「その記憶片を頭に入れて、古代魔術文明の知識を得たのね」
「そうだ。術式を解明すれば記憶片は知識の宝庫だ。脳に直結し短時間での学習も可能。この記憶片だけでも人類の技術は飛躍する」
「情報の保存の為の記憶片。外付けの記憶槽、ね」
(なんとしても、記憶片だけでも無事に持ち出さねば、だが、アシェンドネイル相手にどうすればいい?)

 話をして時間を稼ぎ、ここからの脱出を考えるレグジート。会話を続けながら隙を伺い、逃げ出す手段を模索する。
 アシェンドネイルは穏やかで優しげな声で、レグジートを諭すように語る。

「ねぇ、レグジート。あなた、いつから自分のことを『我』と言うようになったの?」
「何?」
「私と出会った頃は、あなた、自分のことを『俺』と呼んでいたのよ。いつから『我』と言うようになったのかしら?」
「我が? 我……、俺? 俺は、我は……」
「記憶片を使って過去の知識を頭に入れた。だけど情報とは、文章に書いて残せば、それを書いた者の意図も情報に残るもの」
「我が、我のことを、俺? いや、我は、俺は、我は……」
「そして、片寄った知識、片寄った情報を頭に入れて、思想と人格を歪めることを、洗脳と呼ぶのよ」
「洗脳、だと? バカな、我は、いや、俺は? 我は、俺は?」

 俺、と、我、を繰り返し混乱するレグジートを見て、アシェンドネイルは右手の人差し指で自分のこめかみをトントンと叩く。

「レグジート、あなたが自分の頭に入れた記憶片は、いったい誰の記憶なのかしらね?」
「あ、あ、アシェンドネイル、お前、お前はあ!」

 レグジートは叫びアシェンドネイルに飛びかかる。アシェンドネイルは片手で深緑色の甲殻生物を掴まえる。

「過去の亡霊に踊らされたわね、レグジート」
「おおお! アシェンドネイル! 俺を遺跡に案内したのはこれが目的か!?」
「私が案内したのはここじゃ無いでしょう。どうしてあの遺跡で満足できなかったのかしら」

 深緑色の蟹に似た脚がアシェンドネイルの腕を引っ掻く。アシェンドネイルの白い腕に、爪で裂かれた傷ができる。血が溢れる。だが、アシェンドネイルは怪我を気にせず言葉を続ける。

「この蟹みたいな身体の中にも因定珠があるわね。そして人体改造が成功したのは、レグジート、あなた一人だけ。ハウルルを実験台にした研究が役に立ったのね」
「う、おおお、離せ、アシェンドネイル!」
「もう少しお話ししましょう、レグジート。どうしてハウルルにあんな改造をしたの?」
「こ、古代の叡知の探究の為に、人体改造のデータを、」
「そのデータが役に立って人体改造が成功したのは、あなた一人。それもそうよね。自分の血を分けた息子だもの。親子だから因子に共通点も多いから」
「血を分けた、息子? セ号が?」
「憶えてない? 心臓が弱い息子を腕に抱えて、息子を助けたいと、あなた、私に頭を下げたのよ?」

 もがいていた深緑色の甲殻生物の動きが止まる。暴れていた八本の脚がピタリと止まる。

(セ号が、息子? 息子だと? 俺がアシェンドネイルに頭を下げて、古代の技術を教えてくれと頼んだのは、何の為に? 俺は何の為に古代魔術文明の研究を?)

「白い肌の男の子を毛布に包んで、大切に抱き抱えて、あなたは私の後について来たわ。慣れない森の中を汗を垂らして」

(そうだ、未だ荒らされて無い遺跡があると、古代の叡知が残るところがあると、俺はこのラミアと森を歩いた。そのとき、俺が抱えていたもの、息子? 俺の息子?)

 レグジートは思い出す。水の底から引き上げるように。『俺』の思い出を。叡知の継承を囁く『我』の声から目を背けて。
 アシェンドネイルは触れる手を通して、そっと魔法をかける。『我』の声を抑える為に。

(我に、俺には息子が。そうだ、妻と同じ、心臓が弱い息子。妻、妻が、ああ、妻が死ぬ前に俺に言った。俺に、息子を頼むと。身体が弱くて、他の子のように外で遊べなくて、日に焼けないから、肌は妻よりも白くて、妻に、ミレイルに頼まれた。妻と同じ、薄い赤い髪の毛の、セ号、違う、セ、セ、セ)

「……セデュール」
「やっと思い出したわね。そう、セデュールよ」
「お、俺は? 俺は何をした? セデュールの身体を治して、それから、なんで俺は? セデュールを実験台に、俺の息子に、セデュールの身体に因定珠を、古代の文明の探究が! 我が叡知を未来に残すために! 違う! 俺はそんなことは望んでなんかいない! セデュールを、ミレイルの残した息子を、俺は、俺は、あああ! セデュール! ミレイル! ゆ、許してくれ! 許されるかこんなこと! 俺は、なんてことを俺はあああ!!」

 レグジート、深緑色の甲殻生物は殻を震わせて絶叫する。アシェンドネイルは血を流す腕でレグジートを掴んだまま離さない。
 アシェンドネイルが憐れむ声音で、優しく教えるように囁く。

「正しく知識を理解して、正しく知恵を使う。人に、そんなことができるとでも?」

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登場人物紹介

ゼラ

もとは蜘蛛の魔獣タラテクト。助けてくれた騎士カダールへの想いが高まり、進化を重ねて半人半獣の魔獣アルケニーへと進化した。上半身は褐色の肌の人間の少女、下半身は漆黒の体毛の大蜘蛛。お茶で酔い、服が嫌い。妥協案として裸エプロンに。ポムンがプルン。しゅぴっ。

カダール=ウィラーイン

ウィラーイン伯爵家の一人息子。剣のカダール、ドラゴンスレイヤー、どんな窮地からでも生還する不死身の騎士、と渾名は多い。八歳のときに助けた蜘蛛の子と再会したことで運命が変わる。後に黒蜘蛛の騎士、赤毛の英雄と呼ばれる。ブランデーを好む、ムッツリ騎士。伝説のおっぱいいっぱい男。

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