第五十二話
文字数 5,538文字
今のは、なんだ? 灰色の都市、灰色の道、灰色の建物。今とは違う簡素な服を着た人々。
誰もが虚ろな目をしていた。
虚ろな目のまま、忙しなく動いていた。
まるで巨大な真新しい墓石が立ち並ぶようなところで、意志無く歩くアンデッドのような人々。
〈すまない、カダール。少し記憶が漏れた〉
記憶? ルボゥサスラァの?
〈カダールの意識は……、どうやら正常のようだ。精神が頑健なのか、それとも鈍いのか〉
ルボゥサスラァの記憶……、では、ルゥ、と呼ばれていたのは、ルボゥサスラァなのか?
〈遠い昔、その愛称で呼ばれた時代がある〉
ルゥ、闇の母神が随分と可愛らしい呼ばれ方をされていたのか。マスターと呼ばれた男も、優しく呼びかけていたような。
では、あの男が古代魔術文明の人間か?
〈人の滅日、人の滅びに抗い、人を未来に残そうとした、私を造りし者の最後の一人〉
あれが古代魔術文明の滅日の光景か。ルボゥサスラァの知るかつての人類の滅日の記憶。それでは、人の滅日は、災害でも無く、病でも無いのか? 自らの作り出した道具に頼り、技術に溺れて、生きられぬ程に弱くなったとは、いまいち信じられん。
〈滅日を回避する方法を探り、予測演算を繰り返し、人の滅日の原因を探った。その結果に解ったことが、ひとつだけある。人が求めるものが滅日を招くということ〉
人が、自ら滅ぶことを望むというのか? 人が自滅するために生きる生物だと? 俺には理解できん。
〈人は群れを作り、互いに助け合うことで生きる社会生物。群れを成り立たせる為に人の本能には、人の役に立つことに喜びを感じる本能が刻まれている。
人の群れに役立つ事に、生き甲斐を、労働の喜びを感じる。
人の群れに役立つ個体を賞賛する感情が崇拝となり、
人の群れに役立ち賞賛を受けたいという感情が行動の動機となる。
その感情が人の知恵を工夫を発達させる。
人の生活を便利に、快適に、
農耕を発達させ食料を増やし、
医療を発達させ病を克服する。
技術が発展した先、人は生きる為の苦難の少ない社会を作り上げる〉
それでは、人の善意が、人の優しさが、誰かの為にと手を差し出す行為の先が、人の自滅だと言うのか?
〈人の善意が、誰もが安楽に暮らせる社会を理想とし、その実現への渇望に繋がる。
しかし、人が目指した社会の完成に近づけば、人の作り出した技術の産物が、人の役目を肩代わりするようになる。
人のすべきことを代わりに、人より効率良く、人より優れたやり方で。
その社会の中で、人は己の本能を持て余す。
人は欲求を満たす行為の結果に満足を得る。
人は種族の存続に繋がる行為に満足を得る。
人の欲求とは、人という種族が生き続ける為の原動力。
しかし、発達した技術が人の行為を肩代わりする社会では、人の種の存続の為に、人が作業する場が少なくなる。
人はもて余す欲求を満たすべく、代替行為に邁進する〉
代替行為……、八つ当たりとか、か?
〈欲求を満たすことが実現不可能であるが故に、別の行動で満足を得ようとする行為。
技術の発展と共に、種族の存続の為の行動に参加できない個体が増える。
やがて人は、人の種の存続と無関係な行為に価値を設定し、その価値を得る行為に満足を得るようになる。
人が人の種の存続と無関係な事柄に価値を設定し、その価値が高まり、人々はその価値を求める行為に邁進する。
よりその価値を手に入れる方法を模索し、効率良く利益を得ようとする個体が増える。
利益の出る分野は発達し、利益の出ない分野は衰退する。
その結果、出産、育児、教育、知識の継承、技術の継承、人の種の存続に関わる分野が、利益率が低いと価値を落とす。
人の種の存続と無関係な分野が、利益率が高いと価値を高める。
人の社会は人の理想により形作られる。
設定した価値を求めることを理想とすれば、
その価値を得ること、守ることを優先する社会となる。
人は、人の種の存続よりも個体の利益を求めていく。
人の種の存続と無関係な行為の繰り返しに、多くの人が満足を得るようになっていく。
その人の群れの中で、人の種の存続の欲求が強い個体は、人の群れの中で異端となる。
出生率が減少し、自殺者が増える。
知識と技術の継承を疎かにしながら、技術の産物に頼り人は弱体化していく。
人口が減少し、技術の産物が老朽化する頃には、祖先の作った道具を作ることも修理することもできなくなり、
過去の人類のように自給自足できる逞しさすら失ってしまった。
これが古代魔術文明の滅日だ〉
そんなことで、人が滅ぶのか。
子を産むことが、人を育てることが、価値が低い、だと? どうしてそんな考え方ができる?
〈その時代の、その人の群れの中でなければ、理解できないことだろう。事実、かつての文明は滅びた。
人間の可能性を人間が否定する。
誰もが人間らしく生きられる社会、その理想の裏側にあるものだ。
故に人を生かし、人の種の存続の為には、人の理想の社会の完成を阻まなければならない。
そして人の可能性を引き出し強化するために、
人の天敵が必要となる。
人の技術の発展を留め、天敵の魔獣を管理する為に、このルボゥサスラァは造られた〉
……ルボゥサスラァよ、これが俺に話したかったことか?
今の俺達は魔獣と戦いながら、この地に生きている。その起源が、かつて滅びた古代魔術文明にあったと知ったときは驚いたが。
だからどうした。
知ったところで変わりはしない。
俺はこの時代に産まれ、この地で生きる。
人類の存続とか、人を未来に生かす為とか、話が大きすぎて俺に何かができるとは思えない。
だが、ルボゥサスラァを作った者の言葉は聞いた。
人が愚かで空しい生き物だと認めたくない、と。人が強く賢く逞しく生きる可能性があると信じたい。そうなるようにと、今の世に魔獣を遺した。
迷惑なことだとも思うが、俺は魔獣がいる世界も悪くないとも思う。
その為に魔獣被害という不幸はあるが、俺は俺が生きるこの世界しか知らない。魔獣のいない世界は平和だろうと想像はできるが、既に俺達は、魔獣がいるのが当たり前の世界で生きている。
それに魔獣がいなくとも、いずれ人は死ぬ。
それが病か歳か戦いか事故か、原因は何でもいい。
俺が死ぬときに、俺の知る大切な者の未来が明るいと信じられなければ、振り返って俺の人生は虚しいとなってしまう。
平和の中で未来を信じられず虚しく死ぬよりは、俺の大切な者の未来を信じて、魔獣と戦って死ぬ方がマシだ。
〈……恨み言のひとつでも言うかと思えば、笑ってそのような事を言う。これが天敵に適応した、人なのか〉
俺が心配に感じたのは、ルボゥサスラァ、
……古代語は言い難いな、ルゥと呼ばせてもらう。
ルゥ、お前のことだ。
〈何故? 心配と?〉
ルゥが辛いのではないかと。
クインが言っていた、人を守る為に人を殺す、そんな矛盾することを命じられて、長い時の中、ずっと続けていたルゥは狂っていったと。
アシェンドネイルは、ルゥが人を憐れみ、しすてむ、とやらに介入して機能を狂わせて、人に一部の技術を使うことを許したとも。
それを聞いて俺はルゥがおかしくなってないか、苦しいのではないか、と、考えた。
人の為に造られたルゥが、人を襲う魔獣を産み出す気持ちというのは、想像してもよく解らんが、辛いのではないか?
〈私に刻まれた根源命題は二つ。『人を守ることに喜びを感じる』『人に役立つことに喜びを感じる』私はもともとそのように造られた。
長い長い時の中で情報経験を積み重ね、自己改造を繰り返し、最早、もとの姿とは似ても似つかぬものとなった。
私が一部の禁則を改変したのは、私のわがままだ。原始人のような暮らしのままでは、人の心は育まれ無い。それは私の愛した人の姿では無い。
システムへの介入から生じた狂いが、今も私の中にある。人を愛し、愛する人を殺す為に魔獣を産む。人が続く限り、私は役目を果たさなければならない。人を未来に繋ぐのが私の使命。私は終わらぬ為に続ける魔獣の母。
人の為に造られ、人を求める私の想いが、狂いの中から漏れる。それが業の者。
人の心を求めて、魔獣の軛から外れる者〉
ルゥが狂ったから、進化する魔獣が産まれたのか? ゼラもそうなのか?
〈深都の者は私を恨めばいいものを、私を母と慕い私を助けてくれる。
娘達のおかげで私の暴走が止められる。
私の辛さは娘達が癒してくれる。
中には心を病み棄人化し自滅する者、
そうならぬ為に自死する者もいる。
いっそ完全に狂えてしまえたなら、
されど娘達は、人の代わりに私を愛し、
私は人の代わりに娘達を慈しむ。
これも狂った果ての代替行為。
それでも私も娘達も、人の心を求め、
求めて、求め続けて、
カダール、お前が現れた〉
深都の住人が、脱走してでも俺とゼラの暮らすところを見たいと言うのは、ルゥと深都の住人の想いからか。
〈カダールよ、このルボゥサスラァの願いを、叶えられるか?〉
なんだ? 言ってみろ。
〈人が、その心を育て、鍛え、人の知恵と、人の産み出す技術を、完全に御せる心を持ち得たそのとき。
このルボゥサスラァを、この世全ての魔獣の母を、魔獣産み出す魔の王母として、滅ぼして欲しい〉
魔の王母、として、滅ぼされたいと?
〈英雄物語は、そうして完結する。人の未来を明るいと信じられるならば、闇の母神は人に必要無い〉
……ルゥ、それは、約束できない。
約束はできないが、この先何十年後か、または百何十年後か、それよりも遠い未来か、ルゥがその役目から安心して解放されるように。
俺は俺の子、カラァとジプソフィに伝えよう。そしてウィラーイン家の一人として、ウィラーイン領の民を強く育てよう。
俺達の子が、子孫が、安易な道に溺れぬ逞しさを身に備え、いずれルゥのもとに。
天敵がいなくとも己を見失わず、堂々と胸を張り、未来に繋ぐことのできる、
これが人と誇れる子孫が、ルゥのもとへと辿り着く。ルゥを魔の王母から引き摺り下ろし、もとの姿へと戻す為に。
ルゥが人を襲うだけの魔獣を産むこと無く、
人を守り、人に役立つことを喜ぶ、
小さな妖精に戻してやる。
お伽噺とは、悲しい死よりも、
幸福になる結末を、希望と共に語るものだ。
〈可能か? その未来〉
不可能と諦めたなら、そのときに未来が終わる。今はできなくとも、俺の意図を継ぐものがいずれそこに辿り着くと。
そう願うからこそ、人は己の得たものを、人に伝え託すのだろう。
俺が父上と母上から学んだことを、知恵を、知識を、技を、ウィラーイン剣術を、父上と母上が俺に伝えたように、俺もまた娘達に伝え、カラァとジプソフィを強く育てる。これは俺だけでは無い、盾の国ではこれが当たり前だ。
それを繰り返せばいつかルゥのいるところへと届く。
だから、ルゥ、その時が来ることを待っていろ。
〈……ならば、その時を微睡むように夢見て待ち望む。その時まで人の行く末を見守りながら、己の役目を果たし続けよう。人の未来を信じることのできる、時の先の人に想いを馳せて〉
〈カダールよ〉
なんだ?
〈蜘蛛の子を、娘達を頼む〉
承知した。
見渡す限りの赤の世界は、柔らかくうねるようにたゆたい、歌うように揺らめいて。
何処までも果てなく続く赤の世界、ルゥの囁く声が木霊する、闇の母神の心の中。
俺はゆっくりと浮かぶように、赤の世界から遠ざかる。
闇の母神、古代魔術文明に造られた、人を未来へと続かせる為の人造の神。
神すらも悩み苦しむ。人の為に長き時をその役目に費やした、ルゥ。その苦悩がいつか喜びへと報われることを願う。
その為にするべきことを。
遥か過去より願いを託され、人の身を持って産まれた我が身を使い。
為すべきことを、成さねばならぬことを。
受け継ぎ伝えゆく為に。
先ずは娘達が産まれた日のことを、ゼラと共に、皆で祝わねば。
この世に産まれたことへの祝福を。
◇◇◇◇◇
意識が戻れば、領主館の喫茶室。俺は椅子に座り、テーブルの上の赤い宝石を掴んだ体勢のまま。
赤い光は収まり、何が起きたかと不思議そうに見る周囲の者達。
目の前の青い艶の黒髪の女、アイジストゥラが俺に問う。
「カダール、我らが母と、何の話を?」
「ルゥ、いや、闇の母神の声は深都の住人に聞こえるのではないのか?」
「……どうやら、我らが母は、私達にも聞かせられない内緒話をカダールとしたかったようだ。それならば聞くまい」
アイジストゥラは首を捻る。納得したのかひとつ頷いて、
「まぁ、我らが母も、ゼラにさんざんエロいことして、ゼラが子供を産む為に、死ぬかもしれないことをゼラにさせたカダールには、文句を言いたかったのだろう。ゼラの恋人を酷い言葉で罵倒するところは、私達には聞かせられないか」
「アイジストゥラは、俺を何だと思っている? 少し話し合う必要がありそうだ」
ゼラの母との邂逅は、三度目にしてようやくゼラとの仲を認めてもらえた、そんな気がする。
俺にできることで、ルゥと深都の住人、ゼラの家族を安心させてやらねば。