第二十七話
文字数 4,135文字
〈なんだ、これは?〉
吹き荒れる風が突然に止み、呆れたような女の声が。視界がもとに戻り周囲を見渡せば、ゼラの記憶が、思い出がぐるりと巡る空間に、俺の心が映されている。俺の記憶が、俺のゼラへの想いが。それは、
……それは、えぇと、その、なんだ? なんでだ?
周りを見回して見れば、そこにあるのは、
ゼラの褐色の双丘。
立派なポムン。
大きくて堂々として、ツンとやや上を向き突き出るような、
健康的でまろやかな、張りのある曲線。
頂点には褐色に映える薄桃色の魅惑の突起。
あっちもこっちも、
オッパイ、オッパイ、オッパイが?
え? えぇ? えええ?
〈……人の意識の奥底など、汚れた邪意が溢れるものではあるが……〉
ぬぐ? ひ、人の根源的な欲望は生物として生き抜くための、食欲性欲睡眠欲の三大欲求で、そんな人の意識の底には生物として当然の、
〈ここまでオッパイばかりというのは……〉
ゼラは服を着るのを嫌がるんだ! 夜はいつも裸で! だから裸のゼラが記憶に残るのは当然の事だ! それにオッパイだけじゃ無いぞ! こっちを見ろ! ほら服を着てるゼラがいるぞ!
〈裸に白いエプロン、それに赤いベビードール、か〉
他にもあるだろうが!
〈あるにはある、か。蜘蛛の子のおへそをコチョコチョして、くすぐったがって身を捩ってる蜘蛛の子を見て、可愛いと呟いているお前がいる〉
呆れたように言うな! お前が俺の中身を引きずり出したんだろうが! 恥ずかしくて死にたいのは俺の方だ!
〈そんなに溜まっているのか……、こっちには糸で縛られて身動きできない裸の蜘蛛の子が……〉
仕方無いだろうが! ムニャムニャしたくてもできないし! ゼラだってしたいってずっと欲求不満だ! 夜に目を潤ませて身体を擦り付けるゼラを宥めて、これまでどれだけムラムラモヤモヤした夜を過ごしてきたと! ちくしょう! 俺の身体が頑丈ならゼラの想いに応えてやれるのに! ムニャムニャして幸せだってゼラが言うから! ゼラを喜ばせたいのにどうすればいいんだこのやろう! 初めて一回しただけでそのあとずっとおあずけだ! ゼラといろいろしたいと腹の底で思い続けて何が悪い!
〈自己弁護を諦めて、キレるか……〉
くそう、だが、これでゼラを助けられるのか?
〈蜘蛛の子の魔法で人を治したは、これか?〉
示されたものは俺の記憶のひとつ。エクアドとルブセィラ女史とテーブルを囲んでいるところ。ルブセィラ女史が眼鏡を指でクイと上げる。
「ゼラさんの出張治療院の継続ですか」
「そうだ。町でもやってみてはどうかと」
「小さな村なら顔見知りばかりで、村の外から来た者は警戒できますが。不特定多数が訪れる町では警備が難しいかと」
「エクアド、なんとかならないか?」
「大きな町だと治癒術師を抱えて
「そこは教会と交渉するか」
「カダール、ゼラの魔法は便利だが頼り過ぎると目を引くし、あとで何が起きるか解らんぞ」
「それでも人を癒す蜘蛛の姫と評判が上がれば、教会もゼラを聖獣認定しやすくなるだろう。ゼラの味方になってくれる人を増やす機会でもある」
「また貴族の密偵辺りが怪我人の振りでもして来そうだな」
「アルケニー監視部隊には負担だが、マラソンよりはいいだろう?」
〈蜘蛛の子を聖獣に、か〉
あぁ、ゼラが人と暮らしていくには教会がゼラを危険な魔獣では無い、と、してくれるとありがたい。出張治療院に訪れるのがゼラに好意的な者ばかりで、そこにラミアがいたことを見抜けなかったのは俺の落ち度だ。
〈蛇の子の術が人間に見抜けるものか。だが、オッパイ以外にも蜘蛛の子のことを考えてはいたか〉
ぐ、ぬう、なんでこんなにあっちもこっちもゼラのオッパイばかりが。ポムンが、うぬぬ。
〈いや、これはお前の意識の底なのだが? 最早、気取ることも無いだろう?〉
俺はゼラのオッパイだけが好きなんじゃ無い! オッパイ含めてゼラの全てが好きなんだ!
〈人では無い魔獣で、下半身は蜘蛛だが〉
とっくに見慣れた。最近はあの蜘蛛の脚で走るところに壁とか木を登るところは、カッコイイと思う。
〈お前の血を求める蜘蛛の子だが〉
ゼラが俺の血を舐めて恍惚としてるところは色気があるし、ゼラに求められるというのも悪くはない気分だ。キズ口を舌でなぞられると少し痛いがゾクゾクする。
〈蜘蛛の子を抱いた時点でとっくにいかれていたか。まったく……。色事とオッパイばかりだが、それで逆に蜘蛛の子を利用しようという邪意が無いことは認めよう。純粋なスケベ心の持ち主であると、これが蜘蛛の子の想い人か〉
ぐぬ、いや、だから、俺はゼラの一途な想いに惚れているのであって、それはえろいこともしたいはしたいがそれだけでは無くてだ。俺はゼラのことをちゃんと見たいと。
〈蜘蛛の子しか見ておらんではないか、お前は。まったく、邪なだけであれば恨むことも憎むこともできようものを、どうして人間とは……〉
映る過去の記憶のひとつが大きくなる。これはゴスメル平原でゼラが暴走したときか?
「ゼラ! 止まれ! 止まってくれ!」
「くーあ! ろす! ろす!」
このとき、俺はゼラの暴走を止めようとして、自分の左手を切って血をゼラに飲ませた。ゼラの後ろから羽交い締めにするようにして、血の流れる左手をゼラの口につける俺がいる。
〈お前の血を蜘蛛の子が憶えていれば、隷属の約に抗えよう。さて、外界はどうなっている?〉
女の声に隅に追いやられていた絵が拡大して映る。額に銀のサークレットをつけた男、邪神官ダムフォス。だが、先ほどとは違いその顔に余裕が無くなっている。
「く、どうしたアルケニー! 俺の命令を聞け! まだボサスランの瞳に抵抗しているのか?」
ダムフォスは右手に持つ赤い石をゼラの目に近づけて、左手から流れる血をゼラの口に入れようとする。
「ゼンドル! ボルマ! 男二人にいつまで手こずっている! さっさとその二人を殺せ!」
マンティコアと四腕オーガ。どちらがゼンドルでどちらがボルマか解らないが、父上がマンティコアと戦っている。マンティコアのサソリの尾は切り落とされたようだが、父上の額からは血が流れている。左手の小剣は落としたのか右手の長剣ひとつに。火系の魔法か、父上の左肩から左腕にかけて焼けた跡がある。
エクアドは四腕オーガと対峙している。四腕オーガは全身に槍キズがあり腕は一本力無く垂れ下がっているが、残りの三本の腕を振り回す。エクアドもまた無傷では無く口から血を吐いて足がふらついている。
どれだけの時間二人は戦っていたのか? 槍のエクアドでも、俺の剣の師である父上でも、マンティコアと四腕オーガは難敵。アルケニー監視部隊はまだ援護に来てないのか?
ダムフォスが焦った声で叫ぶ。
「アシェ! 何をしている、邪魔者を殺せ!」
「私が動けば術が解けて、黒蜘蛛の騎士が自由を取り戻しますが?」
「く、えぇい! アルケニーよ、我が血に服従せよ! イルアルア、ボサスラン、イルアルア、ボサスラーン! 我に従え! 血の主の命に従え!」
ゼラは石のように固まったままダムフォスの前にいる。その顔はダムフォスの血で赤く染まっていて、ゼラの顔にベタベタと血を擦り付けるなクソ野郎!
〈これは手を出すまでもなかったか〉
どういうことだ?
〈未だに蜘蛛の子の心奥にお前がいる。投げ出されもせずに〉
女の声が呆れたように呟くように。次いで響くのは、聞きなれた高く甘い声。
『この血、あったかく無い。やさしく無い』
ゼラ? これは今のゼラの声か?
『この血は、カダールじゃ無い』
そうだゼラ、邪神官の血なんて吐き出せ! 口から出せ!
『カダールの血、口に入れたら、身体、震える。フワッとする』
俺の血が欲しいならいくらでも飲ませてやる! ゼラ! そいつから離れるんだ! 目を覚ませ!
『この血は、ちがう!』
ゼラが叫ぶ。辺り一面がボサスランの瞳と同じ赤の色一色に染まる。軋む音がしてその赤にヒビが入っていく。
その世界に女の声が木霊する。その声に最初に聞こえた悲しみはもう無く、代わりに呆れたような微笑むような暖かみがある。
〈既に互いに深く繋がっていたか。蜘蛛の子も、何故こんな愚かでエロイ男と……〉
愚か者にエロイ男と散々罵ってくれたが、お前はいったい何者なんだ?
〈お前が知る必要も無い〉
手を出すまでもなかった、とか言ってもいたな? では俺の記憶と想いをほじくり返す必要も無かったんじゃないか?
〈蜘蛛の子の想い人、お前を試し見定めるが目的のひとつ。お前の蜘蛛の子への想いを確かめた。それがここまで深いとは〉
俺のゼラへの想いに偽りは無い。
〈オッパイとムニャムニャしたいばっかりで、偽りは無くとも隠したいか、このムッツリスケベが〉
うぐぐ、惚れた女を抱きたいと思って何が悪い!
〈ひとつだけ教えてやろう。蜘蛛の子はお前を食わぬよ。今はまだ〉
ビシビシと赤い世界に黒いヒビが入っていく。女の声が遠くなる。
〈そしてお前の情が伝われば、他の業の者も少しは慰められよう……〉
砕け散る赤い世界から弾き飛ばされる。赤い色、ボサスランの瞳の色の世界が砕けて失せる。あの女の声は、ラミアのアシェを蛇の子と呼び、アルケニーのゼラを蜘蛛の子と呼ぶ。ゼラに人になる方法を教えて、ゼラに母と名乗った。
もしかしてあの声の主とは、闇の母神なのではないか?
粉々に砕けた赤い世界が暗闇になり、俺の身体が戻ってきた感覚がある。目を開けばそこはもとの世界。ボサスランの陣は灰色の輝きを失い、邪神官ダムフォスは、手の中に残る砕けた赤い石の欠片を見て呆然としている。
「ゼラ!」
「カダール!」
瞳に光を取り戻し、顔を血に染めて俺の名を呼ぶゼラがいる。