第三十六話
文字数 5,028文字
回復しないまま、ゼラは寝室でぐったりと横になる。
「赤いサソリの仕立て屋さんは、そのハサミで布を切り、娘の為のドレスを作ります。この布で綺麗なドレスをあの娘にと、チョッキンチョッキン、歌を歌いながら布を切ります」
「ウン、ウン」
ゼラに絵本を読んでいる。ゼラも字を読めるようになり、この絵本ならゼラにも読めるのだが、俺に読んで欲しいと言う。
ゼラはいつもうつ伏せに寝る、だが今は仰向けに。その時その時でうつ伏せか仰向けか、楽な体勢が違うらしい。今は下半身の蜘蛛体も引っくり返して蜘蛛の足が天井を向く。蜘蛛体の黒い体毛は前より艶が無くなったような気がする。
俺はゼラの背もたれになるようにベッドに座る。上半身を少し起こしたゼラを俺の胸で支えるように。
俺が椅子に座るときなどは、ゼラはいつも俺の背中に貼り付くようにいる。それが今は逆になる。俺の方がゼラの背中にくっついてその頭頂部を見下ろしている。絵本の次のページをめくる。
「赤いサソリの仕立て屋さんが振り向くと、いつもの裁縫道具がありません。あれ? 何処に行ったかな? キョロキョロすると、森のイタズラ小僧のタヌキが裁縫道具を抱えて走って行きます」
「ンー? なんでタヌキが邪魔をするの?」
「なんでだろうな?」
ゼラは身体が怠い、力が入らないという状態のまま変わらない。悪化していない分、まだマシと考えることにする。
こうして胸に抱えてしまえば、ゼラは小さい。下半身の蜘蛛の身体は大きくとも、上半身は細い少女のようなゼラ。スッポリとこの腕で抱えてしまえる。
いつもは俺を軽々と持ち上げて、振り回す力があるのが当たり前のゼラ。それが今では力が出ないと、歩くのもしんどいと言う。ゼラの黒髪をそっと撫でると、ゼラは、んふふ、と笑う。
「どうした? ゼラ?」
「ンー、カダールがゼラを心配してくれて、優しくしてくれて、病気になるのも、嬉しい」
「病気にならなくても、俺はゼラのことを心配している」
「むふん、カダール独り占め」
「病気のときは心細くなったりするから、こうして誰かが側にいるのがいいんだ」
「誰かじゃなくて、カダールがいい」
いつもより甘えんぼになったゼラをそっと抱きしめる。
「早く良くなるといいな」
「ンー……」
右手でゼラを撫で、左手で絵本のページをめくる。絵本はゼラの下腹の上に。服を着るのを嫌がるゼラは、今は素っ裸だ。絵本に手をかける俺の手を、ゼラが両手できゅ、と握る。
「ゼラ?」
「えっとね、カダール、」
「なんだ?」
「ウウン、ンー、ちょっと、お腹空いた」
「そうか、じゃあシチューを持ってきてもらおう」
肉を細かく切り、柔らかくなるまでじっくりと煮込み、味付けはしない。野菜や果物は入れない、細切れにした肉のお粥のようなシチュー。これにチーズが今のゼラの食事に。
ゼラの容態が良くも悪くも変わらないまま、一ヶ月が過ぎ、そろそろ二ヶ月目に。
ルブセィラ女史が毎日ゼラの身体を調べているが、症状は変わらない。妊娠を疑っているがゼラのお腹は細いままで大きく膨らんだりはしない。お腹の中から心音が聞こえてきたりということも無い。
これはいったいなんなのか、ゼラに何が起きたのか。解らないまま時が過ぎる。
ゼラが眠ったときにエクアドと話す。
「カダール、ゼラの様子は?」
「今日はいつもより食欲があった。チーズをいつもより二切れ多く食べた」
「それでも前の食事量よりは減っている」
「街の方はどうだ?」
「ローグシーの街の住人も、ゼラを心配している。これまで街壁建設に孤児院の訪問、出張治療院に訓練場視察。何もなくてもルミリア様と遊びに行ったりと、街に顔を出していたゼラが館に引きこもったのだから」
「これは誤魔化すこともできないか」
「ゼラの身代りというか影武者ができる者なんていない。だからゼラは風邪を引いて寝込んでいる、ということになっている」
「本当にただの風邪であれば良かったのだが」
エクアドが俺の肩を掴む。
「今はカダールがしっかりとしろ。弱気になるな」
「あぁ、ありがとうエクアド。馬車の方はどうなった?」
「完成してアルケニー監視部隊の宿舎の方にある。あの鎧鍛冶姉妹は変わり物なら、鞍でも馬車でも何でも手を出すのか」
「無茶な注文をすると職人魂が震えるらしい。その分、金はかかるが」
「作らせておいてなんだが、あの馬車を使う事態になるのは避けたいとこだ」
「だが、万一のことを考えて備えておかなければならない」
特注のゼラを乗せられる大型馬車。ゼラを連れて逃げるには、動けないゼラを運ぶ手段が必要だ。
魔獣深森での王種誕生も警戒している。このローグシーの街が落とされることは、そうそう無いだろうが、何が起きるか解らない。脱走した深都の住人が魔獣深森深部で暴れて、追われた深部の魔獣が出てくるという可能性も有りうる。
警戒するのは魔獣だけでは無い。今のローグシーの街にはゼラを探ろうというのが、あちこちから来ている。ゼラの不調に、ゼラが館に引きこもったことは既に知られていることだろう。弱ったゼラを捕獲しようとウィラーイン家に挑む愚か者は、そうそういないだろうが。
「ウィラーイン領の外の動きは?」
「総聖堂聖剣士団は中央に戻ったと聞いている。スピルードル王国を出て至蒼聖王家に帰るところだろう」
「深都の脱走者は?」
「未だ何も掴めず、こちらは探すのは難しくなるかもしれない」
「人に化けたとしても目立つと思うのだが?」
「スピルードル王国含め、盾の三国に中央から来る人が少し増えて来ている。これはシウタグラ商会長パリアクスから聞いた話だ」
青い髪の商会長パリアクスがエクアドにした話とは。
『中央で暮らす人の中には中央を出ようと考えている人がいます。中央では至蒼聖王家を守る守護四大国などは、下水道が整い人の生活は便利です。魔獣の被害もほとんど無く、安全で人口は増えています。
ですが食料は盾の三国からの輸入に頼るところもあり、食料品含め物価は高い。
そして安全と便利な生活とはタダではありません。下水道も道路も維持をするには資材に人材が必要で、安全と平和は続けば続く程にそのコストが高まります。それを税で補うことで、中央は増税を繰り返してきました。一度上げた生活水準を落としたく無ければ、国の税は増え続けます。それが今の中央の民の生活を圧迫する。
中央が盾の国を野蛮人の住むところと言うのは、不満の捌け口という面もありますね。
反面、盾の国では魔獣深森に近い危険なところほど、そこに人が居着いて欲しいと税は安くなります。中央での税と物価に悩む民は、危険でも金のかからない地域への移住を考える者が、貧困層に増えつつあります。
もちろん中央は労働力を減らしたくは無く、盾の国の危険性を民に流して脅かしたりしてますが。
中央では聖王家の遷都反対派と賛成派が揉めているようですが、遷都賛成派が噂として聖獣一角獣の御言葉を流したようです。
遷都せよ、という聖獣一角獣の御言葉は、中央に未曾有の災厄が訪れる預言ではないかと。中央にいても危険となるかもしれない、と、これが切っ掛けになったのか、盾の三国への移住希望者が増えてきています。
もっともこれまで住んでいた土地への愛着、その地での親戚の繋がりなど、身軽に移住できる人ばかりではありませんが。
え? 私がこの事態を読んでいたのではないかって? いえいえ、まさか、私はこれからスピルードル王国が力をつけると予想はしてましたが、こんな事態になるとは考えてもいませんでしたよ。一角獣の御言葉なんて先読みできるものでは無いですし。それができたら門街キルロンの土地や家を先に買って、今頃高値で売って稼いでます。
中央がこうなれば、シウタグラ商会としては中央からの輸入を減らし、このローグシーの街を拠点とできて良かったです。これからは北のメイモントと南のジャスパルとの取引を増やして行きたいですから』
俺達では掴みにくい中央の実情を、商会長パリアクスが伝えてくれる。商人の情報網は侮れない。
「中央ではそんなことになっているのか。中央の民の暮らしは知らないから、商人のパリアクスが来てくれたのは俺達にとっても有り難い」
「平気で密輸をしてしまうあたり、目が離せない人物だが」
「利益に加えて面白みを求めているのか、そのあたりがエルアーリュ王子と気が合うところか?」
「それと、これはそのパリアクスからだ」
「む?」
エクアドの出す袋の中を覗けば、土の匂いとツンとする濃い草木の緑の香り。
「パリアクスがハンターギルドに依頼して魔獣深森から採集してきた、エルダーフラワーだ。滋養強壮に良いのでゼラにと」
「これはパリアクスに礼をしなければ。ゼラは薬は嫌がるが、煎じて飲ませてみよう」
「それと、ルブセィラとアルケニー調査班にあまり無理はさせたく無い」
「解っている。だが、“
「だからと言ってルブセィラに倒れられても困る。ほどほどに抑えないと。あとはカダール、お前がちゃんと飯を食え」
エクアドに背中をポンと叩かれる。
いつも元気なゼラが静かになると、広い領主館は一段と静かな気がする。
無駄と解っていても赤い宝石に呼び掛けてみる。
「ゼラが病気になった。原因不明だ」
アシェンドネイルが忘れて置いていった赤い拳大の宝石、闇の母神の瞳。俺がこの石の赤い光に意識を取り込まれたとき、闇の母神ルボゥサスラアの声を聞き、話をした。
そのときの事を深都の住人は見たと、クインは言っていた。
「俺たちではゼラの病気を治せない、どうすればいいのか教えてくれないか?」
深都の住人に届かないかと、母神の瞳に話しかける。ルブセィラ女史に母上が調べてもこの赤い宝石の使い方は解らない。
クインがこの館に来たとき、晩餐でルブセィラが闇の母神の瞳について訪ねたが、クインは詳しいことは何も教えてくれなかった。
この母神の瞳を回収しようとしたクインに、母上とルブセィラ女史が酒を勧めてウヤムヤにしたので、今もアルケニー調査班の研究室で保管されている。
「深都の住人よ、聞こえていたなら、どうかゼラを治す方法を教えてくれ」
相手が敵なら剣を振り回してどうにかなる。どうにかならなくても、どうすればいいか解る。ゼラの不調を治すには、どうすればいいかまるで解らない。ゼラの原因の解らない不調、時が過ぎてもゼラのお腹が膨らむことも無く、今では妊娠も疑わしい。ならば、これは何なのか?
今の俺はゼラを治す知恵も力も無く、神頼みのように祈ることしかできない。応えの返らない赤い宝石に話しかけるのが、滑稽だ。
ゼラを守ると言ったのに、俺には何もできない。側にいることしかできない。
「闇の母神よ、頼む、ゼラを……」
赤い宝石は静かなまま、ランプの明かりを受けて美しく冷たく輝くだけ。
「カダール様、エルダーフラワーのエキスができました」
「ありがとうルブセィラ、ゼラに飲ませてみよう」
「何かお腹に入れてからの方が良いでしょう。なので食後に少し、ゼラさんは苦くてイヤだと言いそうですね」
ゼラの調子の良いときは、庭をゆっくりと歩けるようにはなった。かつてのように屋根に跳び上がる元気は無いが、のんびりと庭の花を眺め、花壇の隅のハウルルの墓にそっと祈る。
「ゼラ、寒くないか?」
「ウン、ちょっと、さむい」
突然に具合が悪くなり、なかなか良くならないのにゼラは落ち着いている。そのことを少し不思議に感じてはいる。
そして事態が動き出す。積み上げた積み木が崩れるかのように。
エクアドの兄ロンギアが馬を走らせローグシーの街へと慌てて来た。途中で合流したのか、王都に行っていたウィラーイン諜報部隊フクロウの隊員と共に。急いで馬を走らせて来たロンギアを領主館に迎え、長椅子に座らせる。
果実水を飲み一息ついたロンギアが、険しい顔で口を開く。
「中央で異変だ、魔獣深森が、中央に現れた」