第四十話◇記録抹消の研究施設、後編
文字数 5,659文字
「ああ、あああ、許してくれ、セデュール、ミレイル、俺は、何故、俺は……」
震える声でレグジートは嘆く。しかし、蟹に似た身体に涙を流す機能は無い。涙の無い嗚咽が古代の研究施設の中に響く。
動きを止めた深緑色の甲殻生物にアシェンドネイルが語る。
「どうしてこうなるのかしらね。いつも何度も。これが人の求めるものだからかしら?」
「俺は、俺は求めてない、こんなことは……、ああ、セデュール……」
「やっと息子と妻のことを思い出せたようね、レグジート。最後くらいは……」
「何を……」
「キートワラト、開け夢の銀扉」
アシェンドネイルが告げる声に、レグジートの視界が白に染まる。
(ここは?)
レグジートが目を開けば、そこは一面の白の花園。遥か遠くまで白い花が咲き乱れる大地。見上げれば青空、白い雲、暖かな日射し。白い花の甘い香りがする。
(幻覚? アシェンドネイルの幻術か?)
レグジートが見下ろせば、二本の手。
(これは、人間の身体? 俺の手が、脚が、これは改造前の俺の身体?)
白い花の園に一人の男が立つ。レグジートは自分の手で人に戻った身体を触って確かめる。
(やはりこれは、アシェンドネイルの幻術。しかし、俺に何を見せるつもりだ?)
「レグ」
背後から聞こえる声にレグジートは動きを止める。
(俺をレグと呼ぶのは一人だけ。しかし、今はもういない)
「レーグ!」
大きく呼ばれる声にレグジートは恐る恐る振り向く。風が吹き白い花弁が宙に舞う。
舞い降りる白の花弁の雨の中、薄い赤い髪の女が立っている。隣には同じ色の髪をした、男の子がいて、二人は手を繋いでいる。手を繋いだまま、二人はレグジートを見る。
「ああああああ!」
レグジートは叫び、足から力が抜けて地に膝を着く。血を吐くように叫ぶ。
「あああ! 許してくれ! ミレイル、セデュール、俺は、こんなことをするつもりは! 俺の、俺は、ああ! 許されてたまるか! こんな! こんなことを、俺は、セデュールの身体を、治したくて、それが、どうして……」
赤い髪の女と男の子はレグジートにそっと近づく。風で乱れた長い髪をかきあげて、女は微笑む。
「レグ、どうしたの?」
「どうした、って、ミレイル、いや、ミレイルはもう」
「私がどうかしたの?」
赤い髪の女、ミレイルはしゃがみ、レグジートの肩に手を置く。
「レグ、疲れているんじゃない? ずっと研究ばっかりで暗い部屋にこもっていたから」
「ミレイル?」
「たまには外でセデュールとも遊んで下さい」
「しかし、セデュールは心臓が弱くて、どんな治癒術師でも治せず、大人になるまで生きられないと。外で遊ぶこともできなくて」
薄い赤い髪の男の子、セデュールがレグジートを見上げる。茶色の瞳がレグジートの目を不思議そうに見る。
「お父さんがもう治してくれたよ? それで、皆でピクニックしようって」
「ピクニック?」
「そうだよ、どうしたの? お父さん?」
「セデュール?」
「お父さん?」
(これは、これは夢だ。ミレイルは、もういない。セデュールを残して逝ってしまった。セデュールは、俺が、俺がこの手で改造して、溶けて、死んだ。俺が殺した)
「ああ……、許してくれ……、謝っても許されるか……、記憶片さえ頭に入れなければ、俺は、なんで俺は……」
顔を手で覆い泣く男を、女は優しく抱きしめる。
「レグ、ずっと研究ばかりで、変な夢でも見たの?」
「夢? 夢なんかじゃ、」
「少し休むといいわ。疲れていると頭が働かないわよ」
「ミレイル、俺は、約束を守れなかった……」
「レグが真面目な頑張りやさんなのは知ってるけど、私、そこが心配よ。たまにはゆっくり休むことも必要よ」
「ミレイル……」
「私もセデュールも、ずっとレグの側にいるから」
レグジートは恐る恐ると手を伸ばす。左手で妻のミレイルを、右手で息子のセデュールを、触れて消える幻ではないかと怖がりながら。
「ミレイル……」
「レグ」
呼べば応える懐かしい声。
「セデュール……」
「お父さん」
父を信頼するの息子の声。レグジートは二人を抱く手に力を込める。
(今の技術でセデュールの身体を完治するのは無理だった。そのために古代魔術文明の技術を、必死に追い求めて、求め続けて、しかし、もうその必要は)
「んう、お父さん、苦しいよ」
腕の中で息子のセデュールが身を捩る。腕に力を入れ過ぎた父を嗜める。
「お父さん、泣いてるの?」
「ああ、すまない、セデュール。だけど、もう少しこのまま、このままでいさせてくれ」
「?お父さん、どうしたの?」
一面の白い花園の中、三人の親子がひとつの塊のように。手を伸ばししっかりと抱きあって。
(俺は、俺は何を求めていたんだろう? いったい何に突き動かされて、がむしゃらに研究を? 何のために? 誰のために?)
見たことも無い楽園のような景色の中、レグジートの腕の中には、愛する妻に、愛する息子がいる。
(ああ、こんな安らいだ気持ちは、いつ以来だろうか? なんだか、眠くなってきた)
妻と息子を腕に抱いたまま、涙を流す男は深く息を吐いて目を閉じる。触れる二人の温もりを感じながら。
(黒龍の身体も、鱗の感覚は鈍かった。蟹の身体も、温度はよく分からなかった)
微睡む意識の中でレグジートは思う。
(人の肌で無ければ、人の温もりは伝わってはこないのか。ミレイル、セデュール、俺はもう、二度と間違えない。だから、側に、側にいて……)
白い花が咲き誇る花園の中で、妻と息子を抱いた男は、追い求めることを諦めた。
アシェンドネイルが片手に握る深緑色の甲殻生物は、動きを止めて脚をだらんとぶら下げる。レグジートの意識は深く沈み、浮かび上がることは無い。
「楽園の夢の中で永眠 なさい、フラウン」
アシェンドネイルが呟くと赤い炎の柱が立ち昇る。アシェンドネイルは手を離し、深緑色の甲殻生物は炎に包まれる。炎の中でレグジートの肉体は黒い炭へと変わっていく。
炎の柱を見つめ、アシェンドネイルが囁く。
「レグジート、あなたのこと、嫌いじゃなかったわ」
「終わったのか?」
部屋の入り口から聞こえる声にアシェンドネイルが振り向く。そこには緑の髪の乙女がいる。上半身は人の女、下半身は頭の無いグリフォン。半人半獣の魔獣、カーラヴィンカ。
「クイン、よくここが解ったわね」
「上空 を飛んでたら森の迷彩が消えたのを感じて、来てみたら怪しい建物がある。見てみればアシェが入ってくとこだったんで、尾けてきた」
クインは部屋の中に入り円筒型の水槽を見ると眉を顰める。
「クガセナ生合因流は気色悪い」
「クインが来たということは、」
「深都の外でハウルルを入れる施設の準備ができたんで、迎えに来た」
「ハウルルは死んだわ」
「なんだって? 間に合わなかったか……」
「そうなるわね。ハウルルの身体の中の因定珠は回収したわ」
アシェンドネイルが手を振り、クインに投げる。銀の針金細工に囲まれた黄色い宝珠を。因定珠には深く罅が入り輝きは失っている。クインは受け止めた因定珠を見る。
「アシェ、これぶっ壊れてるじゃねぇか」
「愛する者を守る為、命を賭けた少年の抗いの痕よ」
アシェンドネイルが指を振ると赤い炎の柱が消える。アシェンドネイルは屈み、炭になった甲殻生物の中からも因定珠を取り出す。
クインは手にした罅の入った因定珠をしげしげと見て、
「なぁ、アシェ。この因定珠にハウルルの因子が残っているなら、」
「やめておきなさいクイン。因子から再生させても、それはハウルルと因子が同じなだけの別人よ。記憶も人格も蘇りはしないわ」
「そりゃ、そうだけどよ……」
「生者の未練に付き合わせて、面影を重ねられるのはいい迷惑でしょ。死んだ者は生き返らない。安らかに眠らせてあげなさい」
静かに話すアシェンドネイルをクインが首を傾げて見る。アシェンドネイルは目隠しの顔でクインを見返す。
「何?」
「何? は、こっちが言いたい。アシェ、どうした?」
「どうした? って、私が?」
「いつものアシェならこういうとき、人をバカにしたような変な笑い方してるだろ。なんかあったか?」
「……そうね」
人の知恵の産物は、なぜか人の賢さではもて余す。振り回されてくだらない結末を迎える。いつもならその愚かさを見て嘲笑していたのに。
「何故かしら、笑えないわね。私もあの呑気な連中に影響されたのかしら?」
「なんかいつものアシェと違う、不気味だ……」
「失礼ね、私にも感傷とかあるのよ」
「あ、えーと、あと回収するのは記憶片か?」
「解析すれば他の記録抹消 の施設が見つかるかもね」
「まーた、使いっ走りにされそうだ」
「クインが一番速いし、加減も解ってるから」
「アシェの後始末はこれで終わりか?」
「ええ、これでやっとこの呪布も外せるわ。だけど、どうしたものかしら……」
二人の魔獣の乙女は話しながら部屋の中を探す。古代の魔術具を取り出しては調べ、クインが手にする箱の中へと入れる。
「どうしたものかしらって、何をだ? アシェ?」
「ウィラーイン領に手出し禁止となれば、人の数を減らすのは難しいわ。ウィラーイン領を抜けて中央に被害を出せないもの」
「アシェのやってた、人間同士の潰し合いも手駒の組織が無くなったんだろ? そっちはもとから無理なんだよ」
「それならどうするの? このまま人間が増え続けると、魔獣の増加にシステムの暴走が起きるわよ。バランスが崩れて魔獣と人間が共倒れになるわ」
「それは、パラポに考えがあるって」
「パラポワネットが? 穴蔵に引き込もってしくしく泣いてたのに?」
「おっぱいいっぱい男効果なのか、ちょっと元気になったみたいだ。穴蔵からよく出てくるようになったって」
「やるわね赤毛の英雄。まあ、パラポワネットにお姉様達が何かするならいいけれど。でも、クインはそれでいいの?」
クインは顔を背けて苦々しげに口にする。
「……あたいは、アバランの町さえ無事なら、それでいいんだ」
「ぜんぜん良く無さそうだけど」
「うるせえよ。他にいい方法が思いつかねえんだから、仕方ねえ」
「そうね……」
魔獣という天敵がいなければ、人は種として弱体して滅ぶ。
アシェンドネイルは思う。
(それは我らが母の望むところでは無いから)
人を未来に生かす為に、魔獣に襲わせて人の数を減らし、人を鍛え生命力を高める。生きる意志を高め、その心を残す。未来に繋ぐ。
そのために古代魔術文明の危険な遺産を、人の手に渡らぬように管理する。技術に頼り弱体化した旧人類と同じ道を辿らぬように。ときには魔獣の群に人の村や町を襲わせ、人の危機意識を高める。魔獣の突然変異など、強すぎるものが現れたときは処分する。
人と魔獣の総数を管理するために。
システムの暴走を防ぐために。
(お姉様が言ってたわね。私達には世界を動かす力がある、と。だけどそれは、己の心臓に短剣を刺し、その柄に世界を乗せるものだと)
人の力を遥かに越えた、進化した魔獣、業の者。闇の母神に仕え、人と魔獣と古代の遺産を管理する。
望めば人の世を右にも左にも動かせる超越者達。
しかし、人の世を動かせば、その震えは世界を乗せた短剣の柄から伝わり、己の心臓に刺さる短剣を揺らす。手を出せば、出した分だけ己の胸に痛みが走る。
(なんで、こんな痛みを感じる心があるのかしら。クインも強がってはいるけれど、人を殺すのは嫌がってるし。レグジートも初めは息子を治したいだけだった。私なんて、かつてのあの人の心を欲しがって、手に入れたくて、それで精神を操る魔法に特化してしまった。魔法で真心は手にできないというのにね。……文明の発展も、技術の向上も、その結果に振り回されて滅亡を望むのも、人の心、まったく)
「……心さえ無ければ、こんなことに思い悩むことも、苦しむことも、無かったのにね」
「そりゃ、無理だ、アシェ」
思わず溢れた呟きに返す声。クインは指に積まんだ黒い石、記憶片を忌々しげに睨む。
「人の心に惹かれて、心を得たから、あたいらはこんな姿になっちまった。あたいらが心を無くすとしたら、棄人化するか、死ぬときだ」
「そうね……」
「大丈夫か、アシェ?」
「何が?」
「なんか調子、悪そうだ」
「調子も狂うわ。あの呑気な連中につき合わされて、疲れたわ。回収するものが無くなったら、さっさとここを壊して帰るわよ」
「帰る前にあいつらに挨拶していったら?」
「復讐されたくないから、さっさと逃げるわ。そうね、挨拶代わりに赤毛の英雄に見えるくらいに、ここを派手に壊しましょうか。クイン、手伝って」
魔獣の乙女二人は六角柱の建物を出る。過去の遺産を消すために。のっぺりとした白い建物を見上げながらアシェンドネイルは思い出す。
(ゼラの棄人化が、あんなにあっさりともとに戻るなんて、有り得ない。赤毛の英雄、あの男にいったい何が? まさか、あの男の血に何か特別な力が、本当にあるとでも? お姉様達を楽しませる只の道化では終わらないようね)
ラミアとカーラヴィンカ、彼女達が手を伸ばし言葉を紡げば、巨大な炎の竜巻が現れる。
天高く聳える柱のように伸びる炎の竜巻の中、古代魔術文明の知識を残そうとした古い研究施設は、粉々に砕けていく。
重ねた叡知の集積を未来に残さんとする願いも、それを解き明かし人に伝えようとした思いも、赤い炎が包み込み、砕いて消していく。
今の世にあってはならぬものとして。
震える声でレグジートは嘆く。しかし、蟹に似た身体に涙を流す機能は無い。涙の無い嗚咽が古代の研究施設の中に響く。
動きを止めた深緑色の甲殻生物にアシェンドネイルが語る。
「どうしてこうなるのかしらね。いつも何度も。これが人の求めるものだからかしら?」
「俺は、俺は求めてない、こんなことは……、ああ、セデュール……」
「やっと息子と妻のことを思い出せたようね、レグジート。最後くらいは……」
「何を……」
「キートワラト、開け夢の銀扉」
アシェンドネイルが告げる声に、レグジートの視界が白に染まる。
(ここは?)
レグジートが目を開けば、そこは一面の白の花園。遥か遠くまで白い花が咲き乱れる大地。見上げれば青空、白い雲、暖かな日射し。白い花の甘い香りがする。
(幻覚? アシェンドネイルの幻術か?)
レグジートが見下ろせば、二本の手。
(これは、人間の身体? 俺の手が、脚が、これは改造前の俺の身体?)
白い花の園に一人の男が立つ。レグジートは自分の手で人に戻った身体を触って確かめる。
(やはりこれは、アシェンドネイルの幻術。しかし、俺に何を見せるつもりだ?)
「レグ」
背後から聞こえる声にレグジートは動きを止める。
(俺をレグと呼ぶのは一人だけ。しかし、今はもういない)
「レーグ!」
大きく呼ばれる声にレグジートは恐る恐る振り向く。風が吹き白い花弁が宙に舞う。
舞い降りる白の花弁の雨の中、薄い赤い髪の女が立っている。隣には同じ色の髪をした、男の子がいて、二人は手を繋いでいる。手を繋いだまま、二人はレグジートを見る。
「ああああああ!」
レグジートは叫び、足から力が抜けて地に膝を着く。血を吐くように叫ぶ。
「あああ! 許してくれ! ミレイル、セデュール、俺は、こんなことをするつもりは! 俺の、俺は、ああ! 許されてたまるか! こんな! こんなことを、俺は、セデュールの身体を、治したくて、それが、どうして……」
赤い髪の女と男の子はレグジートにそっと近づく。風で乱れた長い髪をかきあげて、女は微笑む。
「レグ、どうしたの?」
「どうした、って、ミレイル、いや、ミレイルはもう」
「私がどうかしたの?」
赤い髪の女、ミレイルはしゃがみ、レグジートの肩に手を置く。
「レグ、疲れているんじゃない? ずっと研究ばっかりで暗い部屋にこもっていたから」
「ミレイル?」
「たまには外でセデュールとも遊んで下さい」
「しかし、セデュールは心臓が弱くて、どんな治癒術師でも治せず、大人になるまで生きられないと。外で遊ぶこともできなくて」
薄い赤い髪の男の子、セデュールがレグジートを見上げる。茶色の瞳がレグジートの目を不思議そうに見る。
「お父さんがもう治してくれたよ? それで、皆でピクニックしようって」
「ピクニック?」
「そうだよ、どうしたの? お父さん?」
「セデュール?」
「お父さん?」
(これは、これは夢だ。ミレイルは、もういない。セデュールを残して逝ってしまった。セデュールは、俺が、俺がこの手で改造して、溶けて、死んだ。俺が殺した)
「ああ……、許してくれ……、謝っても許されるか……、記憶片さえ頭に入れなければ、俺は、なんで俺は……」
顔を手で覆い泣く男を、女は優しく抱きしめる。
「レグ、ずっと研究ばかりで、変な夢でも見たの?」
「夢? 夢なんかじゃ、」
「少し休むといいわ。疲れていると頭が働かないわよ」
「ミレイル、俺は、約束を守れなかった……」
「レグが真面目な頑張りやさんなのは知ってるけど、私、そこが心配よ。たまにはゆっくり休むことも必要よ」
「ミレイル……」
「私もセデュールも、ずっとレグの側にいるから」
レグジートは恐る恐ると手を伸ばす。左手で妻のミレイルを、右手で息子のセデュールを、触れて消える幻ではないかと怖がりながら。
「ミレイル……」
「レグ」
呼べば応える懐かしい声。
「セデュール……」
「お父さん」
父を信頼するの息子の声。レグジートは二人を抱く手に力を込める。
(今の技術でセデュールの身体を完治するのは無理だった。そのために古代魔術文明の技術を、必死に追い求めて、求め続けて、しかし、もうその必要は)
「んう、お父さん、苦しいよ」
腕の中で息子のセデュールが身を捩る。腕に力を入れ過ぎた父を嗜める。
「お父さん、泣いてるの?」
「ああ、すまない、セデュール。だけど、もう少しこのまま、このままでいさせてくれ」
「?お父さん、どうしたの?」
一面の白い花園の中、三人の親子がひとつの塊のように。手を伸ばししっかりと抱きあって。
(俺は、俺は何を求めていたんだろう? いったい何に突き動かされて、がむしゃらに研究を? 何のために? 誰のために?)
見たことも無い楽園のような景色の中、レグジートの腕の中には、愛する妻に、愛する息子がいる。
(ああ、こんな安らいだ気持ちは、いつ以来だろうか? なんだか、眠くなってきた)
妻と息子を腕に抱いたまま、涙を流す男は深く息を吐いて目を閉じる。触れる二人の温もりを感じながら。
(黒龍の身体も、鱗の感覚は鈍かった。蟹の身体も、温度はよく分からなかった)
微睡む意識の中でレグジートは思う。
(人の肌で無ければ、人の温もりは伝わってはこないのか。ミレイル、セデュール、俺はもう、二度と間違えない。だから、側に、側にいて……)
白い花が咲き誇る花園の中で、妻と息子を抱いた男は、追い求めることを諦めた。
アシェンドネイルが片手に握る深緑色の甲殻生物は、動きを止めて脚をだらんとぶら下げる。レグジートの意識は深く沈み、浮かび上がることは無い。
「楽園の夢の中で
アシェンドネイルが呟くと赤い炎の柱が立ち昇る。アシェンドネイルは手を離し、深緑色の甲殻生物は炎に包まれる。炎の中でレグジートの肉体は黒い炭へと変わっていく。
炎の柱を見つめ、アシェンドネイルが囁く。
「レグジート、あなたのこと、嫌いじゃなかったわ」
「終わったのか?」
部屋の入り口から聞こえる声にアシェンドネイルが振り向く。そこには緑の髪の乙女がいる。上半身は人の女、下半身は頭の無いグリフォン。半人半獣の魔獣、カーラヴィンカ。
「クイン、よくここが解ったわね」
「
クインは部屋の中に入り円筒型の水槽を見ると眉を顰める。
「クガセナ生合因流は気色悪い」
「クインが来たということは、」
「深都の外でハウルルを入れる施設の準備ができたんで、迎えに来た」
「ハウルルは死んだわ」
「なんだって? 間に合わなかったか……」
「そうなるわね。ハウルルの身体の中の因定珠は回収したわ」
アシェンドネイルが手を振り、クインに投げる。銀の針金細工に囲まれた黄色い宝珠を。因定珠には深く罅が入り輝きは失っている。クインは受け止めた因定珠を見る。
「アシェ、これぶっ壊れてるじゃねぇか」
「愛する者を守る為、命を賭けた少年の抗いの痕よ」
アシェンドネイルが指を振ると赤い炎の柱が消える。アシェンドネイルは屈み、炭になった甲殻生物の中からも因定珠を取り出す。
クインは手にした罅の入った因定珠をしげしげと見て、
「なぁ、アシェ。この因定珠にハウルルの因子が残っているなら、」
「やめておきなさいクイン。因子から再生させても、それはハウルルと因子が同じなだけの別人よ。記憶も人格も蘇りはしないわ」
「そりゃ、そうだけどよ……」
「生者の未練に付き合わせて、面影を重ねられるのはいい迷惑でしょ。死んだ者は生き返らない。安らかに眠らせてあげなさい」
静かに話すアシェンドネイルをクインが首を傾げて見る。アシェンドネイルは目隠しの顔でクインを見返す。
「何?」
「何? は、こっちが言いたい。アシェ、どうした?」
「どうした? って、私が?」
「いつものアシェならこういうとき、人をバカにしたような変な笑い方してるだろ。なんかあったか?」
「……そうね」
人の知恵の産物は、なぜか人の賢さではもて余す。振り回されてくだらない結末を迎える。いつもならその愚かさを見て嘲笑していたのに。
「何故かしら、笑えないわね。私もあの呑気な連中に影響されたのかしら?」
「なんかいつものアシェと違う、不気味だ……」
「失礼ね、私にも感傷とかあるのよ」
「あ、えーと、あと回収するのは記憶片か?」
「解析すれば他の
「まーた、使いっ走りにされそうだ」
「クインが一番速いし、加減も解ってるから」
「アシェの後始末はこれで終わりか?」
「ええ、これでやっとこの呪布も外せるわ。だけど、どうしたものかしら……」
二人の魔獣の乙女は話しながら部屋の中を探す。古代の魔術具を取り出しては調べ、クインが手にする箱の中へと入れる。
「どうしたものかしらって、何をだ? アシェ?」
「ウィラーイン領に手出し禁止となれば、人の数を減らすのは難しいわ。ウィラーイン領を抜けて中央に被害を出せないもの」
「アシェのやってた、人間同士の潰し合いも手駒の組織が無くなったんだろ? そっちはもとから無理なんだよ」
「それならどうするの? このまま人間が増え続けると、魔獣の増加にシステムの暴走が起きるわよ。バランスが崩れて魔獣と人間が共倒れになるわ」
「それは、パラポに考えがあるって」
「パラポワネットが? 穴蔵に引き込もってしくしく泣いてたのに?」
「おっぱいいっぱい男効果なのか、ちょっと元気になったみたいだ。穴蔵からよく出てくるようになったって」
「やるわね赤毛の英雄。まあ、パラポワネットにお姉様達が何かするならいいけれど。でも、クインはそれでいいの?」
クインは顔を背けて苦々しげに口にする。
「……あたいは、アバランの町さえ無事なら、それでいいんだ」
「ぜんぜん良く無さそうだけど」
「うるせえよ。他にいい方法が思いつかねえんだから、仕方ねえ」
「そうね……」
魔獣という天敵がいなければ、人は種として弱体して滅ぶ。
アシェンドネイルは思う。
(それは我らが母の望むところでは無いから)
人を未来に生かす為に、魔獣に襲わせて人の数を減らし、人を鍛え生命力を高める。生きる意志を高め、その心を残す。未来に繋ぐ。
そのために古代魔術文明の危険な遺産を、人の手に渡らぬように管理する。技術に頼り弱体化した旧人類と同じ道を辿らぬように。ときには魔獣の群に人の村や町を襲わせ、人の危機意識を高める。魔獣の突然変異など、強すぎるものが現れたときは処分する。
人と魔獣の総数を管理するために。
システムの暴走を防ぐために。
(お姉様が言ってたわね。私達には世界を動かす力がある、と。だけどそれは、己の心臓に短剣を刺し、その柄に世界を乗せるものだと)
人の力を遥かに越えた、進化した魔獣、業の者。闇の母神に仕え、人と魔獣と古代の遺産を管理する。
望めば人の世を右にも左にも動かせる超越者達。
しかし、人の世を動かせば、その震えは世界を乗せた短剣の柄から伝わり、己の心臓に刺さる短剣を揺らす。手を出せば、出した分だけ己の胸に痛みが走る。
(なんで、こんな痛みを感じる心があるのかしら。クインも強がってはいるけれど、人を殺すのは嫌がってるし。レグジートも初めは息子を治したいだけだった。私なんて、かつてのあの人の心を欲しがって、手に入れたくて、それで精神を操る魔法に特化してしまった。魔法で真心は手にできないというのにね。……文明の発展も、技術の向上も、その結果に振り回されて滅亡を望むのも、人の心、まったく)
「……心さえ無ければ、こんなことに思い悩むことも、苦しむことも、無かったのにね」
「そりゃ、無理だ、アシェ」
思わず溢れた呟きに返す声。クインは指に積まんだ黒い石、記憶片を忌々しげに睨む。
「人の心に惹かれて、心を得たから、あたいらはこんな姿になっちまった。あたいらが心を無くすとしたら、棄人化するか、死ぬときだ」
「そうね……」
「大丈夫か、アシェ?」
「何が?」
「なんか調子、悪そうだ」
「調子も狂うわ。あの呑気な連中につき合わされて、疲れたわ。回収するものが無くなったら、さっさとここを壊して帰るわよ」
「帰る前にあいつらに挨拶していったら?」
「復讐されたくないから、さっさと逃げるわ。そうね、挨拶代わりに赤毛の英雄に見えるくらいに、ここを派手に壊しましょうか。クイン、手伝って」
魔獣の乙女二人は六角柱の建物を出る。過去の遺産を消すために。のっぺりとした白い建物を見上げながらアシェンドネイルは思い出す。
(ゼラの棄人化が、あんなにあっさりともとに戻るなんて、有り得ない。赤毛の英雄、あの男にいったい何が? まさか、あの男の血に何か特別な力が、本当にあるとでも? お姉様達を楽しませる只の道化では終わらないようね)
ラミアとカーラヴィンカ、彼女達が手を伸ばし言葉を紡げば、巨大な炎の竜巻が現れる。
天高く聳える柱のように伸びる炎の竜巻の中、古代魔術文明の知識を残そうとした古い研究施設は、粉々に砕けていく。
重ねた叡知の集積を未来に残さんとする願いも、それを解き明かし人に伝えようとした思いも、赤い炎が包み込み、砕いて消していく。
今の世にあってはならぬものとして。