第四十六話
文字数 6,086文字
長い一日だった。一日が過ぎるのがこんなに長く感じたことは無い。前日は一睡もできず、寝不足でうつらうつらとしてしまった。それでいつもより早く寝たのだが、神経が昂っているのか目が覚めたり起きたりとしてしまう。
日が昇り朝、待ちわびたこの日。
ゼラの寝室の大きな扉の前に立つ。この館の一階はゼラが通れるように扉も大きい。
俺の後ろにはエクアド、父上、フェディエア。赤ちゃんのフォーティスは護衛メイドのサレンと、医療メイドのアステが面倒を見ている。
深呼吸をして、扉をノックする。向こうから扉を開けたのは母上だ。
「おはようカダール。入っていいわよ」
笑顔で言う。何か試されているような気がする。
ゼラの寝室は広い。それでも本来の姿になったクインとアシェンドネイルがいると、グリフォンと黒い大蛇が部屋にいるのと同じで、広い筈の部屋がそうでも無いように見える。
そこにルブセィラ女史に四人のアルケニー調査班がいると、少し狭い。
ルブセィラ女史が険しい顔で立っている。目の下に隈があり憔悴しているように見える。アルケニー調査班の四人の女性研究者も、緊張している。
カーテンに覆われ隠されたベッド、その両脇に立つのはクインとアシェンドネイル。二人も警戒するように俺を見る。
母上だけが少し呆れたように彼女達を見ている。何やら空気が張りつめているような。
「おはよう。ルブセィラ、何故、皆はそんなに緊張している?」
「おはようございます。カダール様は緊張してないのですか? なんだか開き直ったような」
「いろいろと考える時間があったから。どうして直ぐに俺をゼラと子に会わせてくれなかったかは、後にしよう。カーテンを開けてくれ」
母上とアルケニー調査班がそっとカーテンを開け、俺はベッドの右側、クインのいる方、ゼラから見て左手に近づく。
「カダール……」
「おはよう、ゼラ」
下半身の蜘蛛体を仰向けに、上体を起こしてクッションを背もたれにするゼラ。少し頬が痩せたか、不安そうに眉を下げるゼラ。
その両手には赤子が二人。ゼラの右手と左手に一人ずつ、双子の、赤子が。
寝室の中、女性陣は俺に注目し、父上とエクアドはゼラの手の赤子を見る。誰もが沈黙する静かな寝室。
ゼラの寝る特注ベッドは特大の大きさ。よく見る為に、ゼラに近づく為に、膝立ちでベッドに乗る。にじり寄る。
身を屈めて二人の子を見る。
二人とも上半身は人の姿。
下半身は頭の無い蜘蛛の姿。
俺とゼラの子は二人ともアルケニーだ。
静かなので寝ているかと思ったが、その目は薄く開いている。ぼんやりと何処を見ているか解らない目だ。
ゼラの左手の子は、真っ白な肌。
下半身の蜘蛛体も白く柔らかそうな短い毛が覆う。蜘蛛の脚は短く見えるが、これは成長してゼラのように長くなるのだろうか?
上半身の白い肌はうっすらと赤みを帯びて、そっと触れるとぷにっとしている。エクアドの子、フォーティスと同じくらいの、ぷにぷに感。
薄く開くまぶたから覗く瞳は、ゼラと同じ赤紫。ゼラの名前のもとにした、ゼラニウムの花弁のような、赤紫が薄く輝くような瞳。
髪はまだ短いのがちょろっと生えているだけだが、その髪の色は金色。これは、父上の髪と髭と同じ色。
ゼラの右手の子は、ゼラと同じ褐色の肌色。下半身の蜘蛛体も漆黒の体毛と、ゼラに似ている。触れてみれば柔らかい。
薄く開くまぶたから見える瞳も、ゼラと同じ赤紫色。二人ともきっと夜の暗闇の中では、ゼラのように、瞳が夜の星のように輝くのだろう。
こちらの子も、まだ髪はちょろっとしか無い。その髪の色は赤。俺と母上と同じ、赤い色。
これが、俺の子。俺とゼラの子。胸が熱くなる。言い様の無いなにかで、胸がいっぱいになり溢れそうになる。訳も無く泣きそうになる。
折れて治療したばかりの左手を、首から吊ってなければ、抱き上げたいところだ。
ゼラを見れば、上目使いで申し訳無さそうに俺に言う。
「あの、カダール」
「どうした? ゼラ?」
「ン、ゼラには、人間の子供は、産めなかったみたい」
「なんだ、そんなことを気にしていたのか?」
不安そうに見上げるゼラに顔を寄せて、その額に唇を落とす。
ゼラの手の中の子にも、近い方の白い子から、ゼラの右手の黒い子へと、順にその額に、そっと口づける。
「人間で無くとも、この子は俺とゼラの子だ。ゼラ、頑張ったな。ありがとう」
「ン、カダールぅ」
ほう、と息を吐いて、ゆっくりとその顔に笑みを浮かべるゼラ。
「カダール、赤ちゃん、どう?」
「二人とも可愛い。ゼラのような美人になるんじゃないか? こっちの白い子は父上と同じ髪の色、こっちの黒い子は俺と母上と、同じ髪の色。ああ、俺の血が、繋がっている感じがする」
右手で白い子の小さな指に触れる。次に黒い子の蜘蛛の脚に触れる。この胸を埋める熱と震えは、何と呼ぶものだろうか? 子が産まれ、家族が増えるとは、こんな気分なのか? ゼラの額に俺の額を合わせる。今のこの溢れそうな幸福感はなんなんだ? ゼラを強く抱きしめたい。
だが、そうすればゼラの手にする赤子を潰してしまう。それでもなにか、たまらなくなり、ゼラの額に額を押し付ける。
ゼラも手を動かさず、赤子をそっと抱いたまま、俺に顔を押し付けるように、額で押し返してくる。互いに鼻が当たる。間近のゼラの瞳が潤む。その赤い唇を、
「コホン、あー、ちょっといいか?」
クインが咳払いひとつ。緊張が解けたのか、やれやれといった顔でクインが言う。
「一応、言っておくことがある。カダールとゼラの子は、アルケニーの幼体、ということになる」
「そのようだ」
「いや、感づいてるかもしれないが、アルケニーという個体はいても、群れは存在しない。進化する魔獣の目撃情報から、人間がそういう魔獣の種族がいる、と勘違いしてるものだから」
深都の住人が子を産んだことは無いという。それは親子というものも無いということだ。闇の母神が深都の住人の母なのだろうが、子を産み育てる深都の住人は皆無ということになる。
「アルケニーの子供が見つかった、という話も無いだろ。例外は、改造されたハウルルという少年ぐらいか」
「伝承の魔獣、深都の住人は、その種族が一代限りということか」
ただでさえ目撃情報は少ないが、親子のラミア、親子のアルケニー、というのは聞いたことが無い。ならば、
「俺とゼラの子は、この世で初めての、進化する魔獣の子、となるのか?」
クインが頷く。アシェンドネイルが話す。
「その様子だと心配したのが無駄だったみたいね。付け加えておくと、髪の色を見たら分かると思うけど、赤毛の英雄の因子を受け継いでいるわ。金髪の子は隔世因伝ね、ウィラーイン家の血が入っているのは間違い無い。赤毛の英雄は心配無さそうだけど」
アシェンドネイルの目が父上を見る。
「どう? 自分の血を引く孫が、下半身蜘蛛の魔獣と産まれたのを目にして、どんな気分? 英雄の父?」
「ん?」
ゼラの手の赤子を見つめ、ふにゃりとだらしない顔をしていた父上が、聞いてなかった、という顔でアシェンドネイルを見る。
「アシェンドネイル、今、なんと言ったか? 聞こえなかった」
「……もう、なんなのこの親子は。心配しただけ、無駄に消耗して馬鹿みたいじゃない」
ふー、と息を吐いて不機嫌な顔になるアシェンドネイル。俺は改めてルブセィラ女史に顔を向ける。
「いったい、何を心配していたのか、話してもらおうか」
ルブセィラ女史とアルケニー調査班は、安堵の吐息を、はー、と合唱するように吐く。ルブセィラ女史が眼鏡の位置を指で直し、顔を上げる。憔悴した顔で俺に言う。
「ルミリア様の言う通り、考えすぎの要らぬ心配でしたか……」
「それが何を心配していたのか、俺にはさっぱり解らん。説明してもらうぞ。何故、待たされることになった?」
「カダール様が、ゼラさんの子を、己の子と受け入れられるかどうか、不安に駆られました」
「そんなことか? まったく馬鹿馬鹿しい」
呆れてため息が出る。いったい何を言い出すのか。
「いやー、そういう心配するもんだろ」
隣のクインが言う。俺を見下ろし、右手でゼラの頭をくしゃくしゃと撫でながら。
「下半身蜘蛛の魔獣を、自分の子と認めず、受け入れられない。頭で受け入れようとしても、魔獣への恐怖心、嫌悪感から、気持ちで受け入れられない。父親はそうなるんじゃないかって、そこの眼鏡が言い出して、あたいらも皆、心配になっちまった」
「俺には覚悟が足りないと、ゼラと、ゼラの子への愛が足りないと、そう思われていた訳だ。ルブセィラ、それが丸一日、会えなかった理由か?」
「はい。それに人間でも産まれたばかりの赤子は、血塗れでしわくちゃです。今回のゼラさんの出産は、なかなか出血が止まらず、凄惨な出産現場になりましたし」
「そんなに、酷かったのか?」
「産まれた赤子が出来るだけ可愛く見えるようにと、血汚れを落として、赤子の肌を綺麗にして、部屋も綺麗にして。アシェンドネイルとクインにも手伝ってもらいました」
このゼラの寝室を綺麗にして、血塗れの赤ちゃんも綺麗にして、お披露目に万全の状態にしてから俺に会わせれば、赤ちゃんの印象が良くなる、ということだったらしい。あのなあ。
「今更、俺がアルケニーの子に怯んだりすると、侮られていたのか」
「申し訳有りませんカダール様。疑心暗鬼が膨らみ、余計なことをしました」
余計なこと、というかあらゆる事態を想定して対処しようという研究者、だからなのか。
クインもアシェンドネイルも心配していた、というのも、俺とゼラとその子がこれまでに無い存在だから、何が起きるか解らない。それでいろいろと不安にもなるのか。
母上がクスリと笑い、一枚の紙を取り出す。
「だから言ったでしょう。カダールにその心配は要らないと。預かったこの紙は、もう必要無いわね」
「母上、それはなんですか?」
「ルブセィラから預かった、ルブセィラの実家カリアーニス家への離縁状」
「はあ? 何故、そんなものを? ルブセィラ、どういうつもりで?」
ルブセィラ女史はやや俯き、眼鏡が落ちないように指で支える。
「もしもカダール様が、ゼラさんの子を受け入れられないときは、私がこの二人の子を預かり、人里離れたところで育てようかと。私がカリアーニス家のままでは捜索されてしまいますし、その子達が貴族に利用されることも考えられます」
「その為に家を捨てる覚悟だったのか? ルブセィラ?」
「はい」
ルブセィラ女史は顔を上げる。目の下には隈があり、顔色は悪い。ゼラの出産から徹夜で疲労しているが、目は力強い。
「私にとって、ゼラさんはもうただの研究対象では無くなってしまいました。学術的興味も尽きませんが、もしものときは、ゼラさんの子を、私が守り育てようと」
「ルブセ、ありがと。でもだいじょうぶだったよね」
ゼラがルブセィラ女史を見る。ルブセィラ女史が身体の向きを変えてゼラを見る。
もとは研究者と研究対象。それが一緒にお茶を飲み、一緒に食事をし、一緒に風呂に入り。ゼラにとってルブセィラ女史は、いろいろと教えてくれる先生で、ルブセィラ女史にとってもゼラは教え子で、ただの研究対象では無くなってしまったと。あけすけにいろいろと話し合える二人は、今では気心の知れた友人にも見える。
「これはもう、いらないわね」
母上が手の紙をビリビリと破いていく。魔獣研究者ルブセィラ女史。人の中で最もゼラの身体に詳しく、ゼラの為ならば家を捨てる覚悟も決める、ゼラの、人の先生にして友人。
「ルブセィラ、これからもゼラのことを頼む」
「はい……」
ルブセィラ女史は頷き、そのままフラリと倒れそうになる。慌ててアルケニー調査班が支える。疲労と寝不足と心労で限界に来たらしい。そんなにゼラとゼラの子を心配していたのか。
アルケニー調査班にルブセィラ女史を運んでもらい、自室で休ませる。
「ゼラちゃん、触っていい?」
「ウン」
フェディエアがゼラの抱く双子の赤ちゃんにそっと触れる。母上もゼラに近寄り、赤子の頭を優しく撫でる。
「ワシも後で触らせてもらうかの」
「はい父上、それと俺とゼラの子はアルケニーでした」
「うむ、カダールとゼラの間に子が産まれても、その子にウィラーイン家は継げぬ、と、はっきりと解った」
ウィラーイン家といえども、アルケニーを当主、そして伯爵家の後継ぎとすることは難しい。産まれた子が人に近い姿であっても、今のスピルードル王国が認めるのは不可能だろう。それは解っている。
父上がエクアドに向き直る。
「エクアドよ、ワシの後はエクアドが次期伯爵だ。ワシに何かあれば、ウィラーイン家を頼む」
「はい、ハラード様」
「孫のフォーティスが無事に成長し、知恵と力を備えたときには、フォーティスをウィラーイン伯爵とせよ。それと、ゼラとゼラの子だが」
父上が俺の顔を見る。
「ゼラとカダールが正式に婚姻しておらぬ。その為に、未だゼラとその子に家名を名乗らせる訳にはいかぬ」
「解っています、父上」
「しかし、ゼラもゼラの子も、ワシらの家族だ」
言って父上は微笑む。幼い頃は父上の跡を継ぎ、立派な当主となるつもりだった。それは叶わなくなったが、今後はエクアドと共にウィラーイン家を支える。父上はまだまだ隠居しないだろうが。
こうして親から子に、子から孫へと受け継がれていくものがある。いずれゼラとちゃんとした結婚式を上げれば、ゼラもゼラの子も、ウィラーインの姓を名乗れるだろう。
もう一度、ゼラに近づく。双子のアルケニーの子にそっと触れる。柔らかな頬に指で触れると、
「ンア?」
小さな声で返事をしてくれる。あぁ、この子達の名前を考えねば。クインもアシェンドネイルも、妹の小さな子達を見て柔らかく微笑んでいる。
俺が父になる。ゼラが己の身体を作り変えてまで求めた、俺とゼラの子達。新しい家族になる小さな子。父上に、母上に、兄となったエクアドに、姉となったフェディエアに、ウィラーイン家に仕える館の者に、ルブセィラ女史に、アルケニー監視部隊に、そして、クインとアシェンドネイルの様子から、おそらくは深都の住人にも祝福されて産まれた子。ローグシーの街の者も、知れば喜ぶことだろう。
きっと、幸せになる。
幸せに、してみせる。
ゼラに囁く。詩人でも無い俺に、この胸に込み上げる想いを、上手く表す言葉は他に思いつかないが、
「ありがとう、ゼラ」
「むふん」
嬉しそうなゼラの微笑みは、少し大人びて見えた。