第三十八話

文字数 5,143文字

 視界は全て赤の一色。上も下も解らない。俺の身体がどうなっているかも解らない。
 赤の世界、闇の母神、ルボゥサスラアの瞳の中。以前、この赤の世界に意識を取り込まれたときは、俺は幼いゼラの中にいた。小さなタラテクトだった頃のゼラの記憶に、思い出の中に。

 今の赤の世界は、吹き荒れる竜巻の中のようだ。グルグルと回り、もみくちゃにされる。胸がズキリと痛む。この痛みはゼラの感じている痛みなのか?

 ――ああ、ハウルル――

 ゼラが泣いている。ゼラの声、苦しげに泣くゼラの声が、赤い世界の暴風の中に木霊する。

 ――痛いよ、苦しいよ、どうして? ハウルル――

 赤い世界の中にハウルルがいる。ゼラの腕の中で身体が溶けて崩れる。白い肌がズルリと落ち、肉が崩れ赤黒い液体になって、ゼラの手のひらから落ちていく。手に残るのは、血と肉の混ざった液体に薄い赤色の髪の毛。
 ゼラの見たハウルルの最後が、何度も何度も繰り返される。

 ――ハウルル、ハウルルう、あああ――

〈ああ、蜘蛛の子が……〉

 聞き覚えのある声、これは闇の母神か?

〈おお、おっぱいいっぱい男〉

 その呼び名はやめろ。ゼラはどうなっている?

〈蜘蛛の子は苦しんでいる。人の心の痛みに耐えられなくて〉

 それが棄人化か?

〈幼い蜘蛛の子は苦しみから逃れようと、人への憧れ、人と関わる記憶、思い出を捨てて、もとの魔獣へと戻ろうとしている。あぁ、憐れな……〉

 記憶と思い出を捨てる? それはどうすれば止められる?

〈声をかけて、なんとか、なんとか蜘蛛の子を泣き止ませて、落ち着かせて、〉

 闇の母神、ルボゥサスラアの声は震えている。どうやらこちらも動揺しているらしい。だが、闇の母神よ、ゼラを泣き止ませてどうする?

〈おい、お前?〉

 親しい者がいなくなって、悲しいのは当然のこと。ゼラ、ハウルルがいなくなって悲しいのなら、今は思いっきり泣け!

 ――ああ、カダール、あ、ああああああ!

 赤い世界の中で風が更に吹き荒れ強くなる。地面の無い赤だけの視界の中、ゼラの嘆きの竜巻に揉まれてクルクルと回る。全身を引き裂かれるような痛みが襲う。

〈やめろお前! 蜘蛛の子を泣かせるな!〉

 泣くべきときに泣かずにどうする!

〈このままでは、蜘蛛の子が壊れる!〉

 嘆くことを押さえつける方が、ゼラの心が壊れる。闇の母神よ、前のときのように俺の中から記憶を、俺のハウルルについての思い出をここに出してくれ。

〈お前は、お前は蜘蛛の子をいたぶるつもりか!?〉

 違う、ゼラに思い出してもらうためにだ。

〈思い出して? それで、どうなる?〉

 一時の嘆きに流されてハウルルの思い出を忘れることは、ゼラの為にならない。いいからさっさとやれ! ルボゥサスラァ!

〈えぇい、賭けようぞ! お前の情と意図に!〉

 胸の中から抉り出される。強引に身体の中からいろいろなものを引きずり出されるような、一瞬の寒気。

 ――あ、ハウルル、ハウルルぅうう!――

 赤い世界に映し出されるのは、薄い赤い髪、金の瞳のハウルル。俺の記憶のハウルルは横顔ばかりだ。ハウルルの顔の向く先は、いつもゼラと母上ばかりだから。
 ゼラに抱かれて目を細めるハウルル。ゼラが手にするクッキーを食べるハウルル。ゼラと額をくっつけて、くすぐったそうに微笑むハウルルとゼラ。ゼラを見つめるハウルルは安心したように、柔らかく微笑んでいる。

 ――ああ、カダール、胸が、痛いよ。胸にぽっかりと穴が空いて、そこに誰かが手を入れて、心臓を、握り潰そうとしてるみたいに――

 その痛みは、悲しいっていうんだ。ハウルルがいなくなって、ゼラは悲しいんだ。

 ――カダール、頭が、痛いよ、熱いよ。黒い炎が、頭の中をじくじくと、燃やしてるみたいに――
 
 その熱は、怒りだ。ハウルルが酷い目にあわされて、それを許せなくて、ゼラは怒っているんだ。

 ――痛くて、辛くて、苦しくて、目の前がグラグラして、ハウルル、もう、こんなの、イヤ、こんな思いをするなら、もう――

 ゼラ、ハウルルのことを忘れないでくれ。

 ――でも、こんなの、耐えられない、カダール――

 ゼラ、悲しくても苦しくても、ハウルルのことを忘れないでくれ。

 ――カダールは、痛くないの? 悲しくないの?――

 俺だって悲しいし、ハウルルをこんな目に遇わせたことは許せない。それに、俺にはハウルルの気持ちが解る。

 ――ハウルルの気持ち?――

 ゼラと母上に抱かれるハウルルを見て、歳の離れた弟のように思えてきた。はじめはゼラに可愛がられるハウルルを見て、少しばかり嫉妬してしまったものだが。
 ハウルルはゼラのことが好きで、そこは俺と同じだ。ハウルルはゼラに惚れた男という俺の同志だ。
 俺もハウルルと同じ状況ならハウルルと同じことをする。自分の身体が思い通りにならずに暴れ出してゼラを襲うなら、ゼラを守る為に己を殺す。

 ――ヤだあ! カダールまで死んじゃヤだあ!――

 聞いてくれゼラ。ハウルルはゼラを傷つけたく無かったんだ。そのために支配に抗いハウルルは、

 ――ゼラは、ハウルルにいなくなって欲しく無いのに、ずっと一緒にいたかったのに――

 ハウルルもそうだ。ゼラと一緒にいたい、ずっと側にいて欲しい。だが、それよりもゼラを傷つけて悲しませたくなかったんだ。ゼラには笑顔でいて欲しいんだ。
 ゼラ、ゼラを守るために戦ったハウルルの顔を良く見てくれ。

 ――ハウルル……

 胸に赤いサソリのハサミを突き刺したまま、ゼラの腕に抱かれるハウルル。俺が見たあのときの二人の姿。ハウルルもゼラも、ハウルルの胸から出る血にまみれ、ゼラは涙を流してハウルルの名前を呼んでいる。
 俺が見た視界だから見えるのは、見つめ合う二人の横顔。ハウルルは満足そうに微笑んで、小さな声でゼラに言う。

「ぜら、おねえちゃん、すき」

 ――ゼラが、ハウルルを守るの、それなのにハウルルがゼラを、ゼラは守りきれなかったのに、なんで、ハウルルがゼラを、ハウルル、なんで笑うの?――

 ゼラを傷つけずにすんだことが、誇らしいから。
 涙を流すゼラを見て、大好きなゼラが自分のことを大切に思ってくれているのが、嬉しいから。

 ――ハウルルが、死んじゃって、痛くて、苦しくて――

 ゼラ、悲しみと怒りに飲まれて、ハウルルのくれた優しさと暖かさを忘れないでくれ。

 ――でも、ハウルルはもういない――

 それでもゼラがハウルルのことを忘れてしまえば、ゼラの中からハウルルは消えてしまう。
 ハウルルはゼラのことが好きで、ハウルルがゼラに向けた笑顔を憶えているのは、ゼラしかいないんだ。
 そしてハウルルの願いを、

 ――ハウルルの、願い?――

 ゼラに幸せでいて欲しい。そのためならハウルルは命を捨てても惜しくない。
 ハウルルが身命を賭した願いを、ゼラは叶えて欲しい。

 ――そんなの、そんなの――

 あぁ、すぐには無理だ。だから、ゼラ、今はハウルルの為に泣いていい。俺が全て受け止める。

 ――でも、カダール、ゼラは、もう、こんな――

 ゼラがどんな姿になろうとも、俺はゼラを抱きしめる。ゼラのことを離さない。

 ――カダール――

 ハウルルの為に、我を失う程に悲しみ怒る、そんな優しいゼラのことが、俺は大好きだ。

 ――あ、ああ、カダール、あああ――

 ゼラが泣いている。嘆きの嵐は止み、静かにしくしくと。吹き荒れる風が穏やかに、それでも胸に走る痛みは消えないまま。
 何があろうとも俺はゼラと共に在る。

〈蜘蛛の子が? 棄人化が?〉

 闇の母神よ、ゼラはどうなった?

〈こんなことが? お前は、いったいなんだ?〉

 なんだと言われても、俺はただの人間の男で、ゼラの恋人だ。

〈ただの人間にこのようなことが、いや、お前は既に蜘蛛の子と深く繋がっていたのだったか〉

 ゼラは? 少し落ち着いたようだが。

〈もう心配無いようだ。これほど早く棄人化から戻るなど、なるほど、蜘蛛の子の帰る場所がそこにあるということか〉

 闇の母神の声は落ち着きを取り戻している。ゼラが心配無いというのは、もとに戻ったのか? 向こうは、母神の瞳の外はどうなっている?

〈それはお前の目で確かめるといい〉

 む、闇の母神はさっきまでオロオロしていたのに、また偉そうに戻ってしまった。

〈ぬ、偉そうなのはお前の方だ。このルボゥサスラァに指図するなど、何様だ? おっぱいいっぱい男のくせに〉

 その呼び名はやめてくれ。俺の名前はカダールだ。せめて名前で呼んでくれ。

〈ふん、お前などおっぱいいっぱい男で十分だ。さっさと我が瞳の中から出て行け〉

 用が済めば出て行けとは。放り投げられるように意識が遠ざかる。遠く小さくなる声が最後に、祈るように聞こえる。

〈娘を、蜘蛛の子を頼む、カダール〉

 闇の母神が、この世全ての魔獣の母が、俺に頼み事とは。頼まれなくとも俺はゼラを離さない。
 あぁ、俺もルボゥサスラァに会うことがあれば、言わなければならないことがあるのを思い出した。
 娘を、ゼラを俺にくれ、と、ゼラの母に言うのを忘れていた。
 赤い世界の中は、在りし日のハウルルの微笑む横顔が、いくつもいくつも浮かぶ。
 正面から真っ直ぐに見つめる金の瞳。ゼラが思い出した、ハウルルの微笑み。胸が暖かくなるような、柔らかな笑顔。

「ぜー、ら、」

 母を呼ぶようにゼラと呼ぶハウルルの声を聞きながら、赤い世界から押し出される。

 ◇◇◇

「アアアアアア!」

 目覚めれば泣き声が聞こえる。胸に抱いたゼラが大声で泣いている。
 辺りを見回せば、廃墟の遺跡。ウェアウルフとの戦闘は終わったらしく、全員が俺とゼラを見守っている。
 ゼラの両手と脚にはロープと鎖が巻きつき、そのゼラに俺がしがみついてる。母神の瞳が赤い光を発してから、さほど時間は過ぎてないらしい。
 エクアドが俺を呼ぶ。

「カダール! どうなった?」
「もう大丈夫だ。ゼラの拘束を解いてくれ」

 俺は左手に赤い宝石を握ったまま、泣きじゃくるゼラを胸に抱きしめている。右手でゼラの背を撫でると、ゼラの胸当てから下、背中に生えた体毛がパラパラと抜け落ちる。

「アアアあああ」

 風の抜けるような声が、聞き慣れたゼラの声に変わる。いつもの甘く高い声に。胸当ての下から見える腹からも、黒い体毛が抜け落ちて褐色の肌が見える。ゼラの手も指もするすると短くなり、虫の足のような指が見慣れた人の手に変わる。

「あああ、カダール、ハウルルが、ハウルルがぁ」

 裂けるように開いていた下顎が、蜘蛛のようだったゼラの顔がもとへと戻り、口が人語を話せるように。目も白目の部分が戻り、いつもの赤紫の瞳からはポロポロと涙が溢れる。
 ゼラがもとに戻った。強く抱きしめるとゼラは声を上げ、子供のように泣く。

「ゼラ、今はハウルルのために、ちゃんと泣け」
「うああああん」

 優しさが失われることに悲しみを覚え、理不尽を許せず正そうという思いが怒りになる。
 仇であるレグジートはもとの形も解らないほどの肉片へと変わった。
 だが復讐を遂げてもハウルルは戻らない。やり場の無い恨み、憎しみは簡単には消えない。
 それでも、ハウルルのくれた優しさを知るから悲しみを感じ、ハウルルのくれた暖かさがあるから、怒りを覚える。
 ならば悲しみもまた、いつか優しさへと、怒りはやがて喜びへと。時が必要でもゼラがハウルルのことを忘れなければ。
 ハウルルのくれたものは悲しみだけでは無いのだから。今は嘆きの嵐に飲まれていても。
 
 嘆くゼラを胸に抱き、足下を見れば、そこにハウルルの赤いサソリのハサミと尻尾の先が落ちている。

 初めて会ったときは、母上に抱かれて、包帯に巻かれた痛ましい姿でおどおどとしていた。身体が治れば元気になり、俺を睨んだりもした。
 ゼラを独り占めしようとした、俺のライバル。
 ゼラに惚れた、ゼラを愛した俺の同志。
 身命を捨ててゼラを守った小さな蠍の騎士。
 赤毛の英雄の呼び名は、俺よりもハウルルに相応しい。
 ハウルル、安心して眠れ。ゼラのことは心配するな。
 お前と同じ男、ゼラに惚れた俺が、これからもゼラを守るから。

 胸の中のゼラの嘆く声が、森の中の廃墟に木霊する。
 
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登場人物紹介

ゼラ

もとは蜘蛛の魔獣タラテクト。助けてくれた騎士カダールへの想いが高まり、進化を重ねて半人半獣の魔獣アルケニーへと進化した。上半身は褐色の肌の人間の少女、下半身は漆黒の体毛の大蜘蛛。お茶で酔い、服が嫌い。妥協案として裸エプロンに。ポムンがプルン。しゅぴっ。

カダール=ウィラーイン

ウィラーイン伯爵家の一人息子。剣のカダール、ドラゴンスレイヤー、どんな窮地からでも生還する不死身の騎士、と渾名は多い。八歳のときに助けた蜘蛛の子と再会したことで運命が変わる。後に黒蜘蛛の騎士、赤毛の英雄と呼ばれる。ブランデーを好む、ムッツリ騎士。伝説のおっぱいいっぱい男。

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