第三十八話
文字数 5,143文字
視界は全て赤の一色。上も下も解らない。俺の身体がどうなっているかも解らない。
赤の世界、闇の母神、ルボゥサスラアの瞳の中。以前、この赤の世界に意識を取り込まれたときは、俺は幼いゼラの中にいた。小さなタラテクトだった頃のゼラの記憶に、思い出の中に。
今の赤の世界は、吹き荒れる竜巻の中のようだ。グルグルと回り、もみくちゃにされる。胸がズキリと痛む。この痛みはゼラの感じている痛みなのか?
――ああ、ハウルル――
ゼラが泣いている。ゼラの声、苦しげに泣くゼラの声が、赤い世界の暴風の中に木霊する。
――痛いよ、苦しいよ、どうして? ハウルル――
赤い世界の中にハウルルがいる。ゼラの腕の中で身体が溶けて崩れる。白い肌がズルリと落ち、肉が崩れ赤黒い液体になって、ゼラの手のひらから落ちていく。手に残るのは、血と肉の混ざった液体に薄い赤色の髪の毛。
ゼラの見たハウルルの最後が、何度も何度も繰り返される。
――ハウルル、ハウルルう、あああ――
〈ああ、蜘蛛の子が……〉
聞き覚えのある声、これは闇の母神か?
〈おお、おっぱいいっぱい男〉
その呼び名はやめろ。ゼラはどうなっている?
〈蜘蛛の子は苦しんでいる。人の心の痛みに耐えられなくて〉
それが棄人化か?
〈幼い蜘蛛の子は苦しみから逃れようと、人への憧れ、人と関わる記憶、思い出を捨てて、もとの魔獣へと戻ろうとしている。あぁ、憐れな……〉
記憶と思い出を捨てる? それはどうすれば止められる?
〈声をかけて、なんとか、なんとか蜘蛛の子を泣き止ませて、落ち着かせて、〉
闇の母神、ルボゥサスラアの声は震えている。どうやらこちらも動揺しているらしい。だが、闇の母神よ、ゼラを泣き止ませてどうする?
〈おい、お前?〉
親しい者がいなくなって、悲しいのは当然のこと。ゼラ、ハウルルがいなくなって悲しいのなら、今は思いっきり泣け!
――ああ、カダール、あ、ああああああ!
赤い世界の中で風が更に吹き荒れ強くなる。地面の無い赤だけの視界の中、ゼラの嘆きの竜巻に揉まれてクルクルと回る。全身を引き裂かれるような痛みが襲う。
〈やめろお前! 蜘蛛の子を泣かせるな!〉
泣くべきときに泣かずにどうする!
〈このままでは、蜘蛛の子が壊れる!〉
嘆くことを押さえつける方が、ゼラの心が壊れる。闇の母神よ、前のときのように俺の中から記憶を、俺のハウルルについての思い出をここに出してくれ。
〈お前は、お前は蜘蛛の子をいたぶるつもりか!?〉
違う、ゼラに思い出してもらうためにだ。
〈思い出して? それで、どうなる?〉
一時の嘆きに流されてハウルルの思い出を忘れることは、ゼラの為にならない。いいからさっさとやれ! ルボゥサスラァ!
〈えぇい、賭けようぞ! お前の情と意図に!〉
胸の中から抉り出される。強引に身体の中からいろいろなものを引きずり出されるような、一瞬の寒気。
――あ、ハウルル、ハウルルぅうう!――
赤い世界に映し出されるのは、薄い赤い髪、金の瞳のハウルル。俺の記憶のハウルルは横顔ばかりだ。ハウルルの顔の向く先は、いつもゼラと母上ばかりだから。
ゼラに抱かれて目を細めるハウルル。ゼラが手にするクッキーを食べるハウルル。ゼラと額をくっつけて、くすぐったそうに微笑むハウルルとゼラ。ゼラを見つめるハウルルは安心したように、柔らかく微笑んでいる。
――ああ、カダール、胸が、痛いよ。胸にぽっかりと穴が空いて、そこに誰かが手を入れて、心臓を、握り潰そうとしてるみたいに――
その痛みは、悲しいっていうんだ。ハウルルがいなくなって、ゼラは悲しいんだ。
――カダール、頭が、痛いよ、熱いよ。黒い炎が、頭の中をじくじくと、燃やしてるみたいに――
その熱は、怒りだ。ハウルルが酷い目にあわされて、それを許せなくて、ゼラは怒っているんだ。
――痛くて、辛くて、苦しくて、目の前がグラグラして、ハウルル、もう、こんなの、イヤ、こんな思いをするなら、もう――
ゼラ、ハウルルのことを忘れないでくれ。
――でも、こんなの、耐えられない、カダール――
ゼラ、悲しくても苦しくても、ハウルルのことを忘れないでくれ。
――カダールは、痛くないの? 悲しくないの?――
俺だって悲しいし、ハウルルをこんな目に遇わせたことは許せない。それに、俺にはハウルルの気持ちが解る。
――ハウルルの気持ち?――
ゼラと母上に抱かれるハウルルを見て、歳の離れた弟のように思えてきた。はじめはゼラに可愛がられるハウルルを見て、少しばかり嫉妬してしまったものだが。
ハウルルはゼラのことが好きで、そこは俺と同じだ。ハウルルはゼラに惚れた男という俺の同志だ。
俺もハウルルと同じ状況ならハウルルと同じことをする。自分の身体が思い通りにならずに暴れ出してゼラを襲うなら、ゼラを守る為に己を殺す。
――ヤだあ! カダールまで死んじゃヤだあ!――
聞いてくれゼラ。ハウルルはゼラを傷つけたく無かったんだ。そのために支配に抗いハウルルは、
――ゼラは、ハウルルにいなくなって欲しく無いのに、ずっと一緒にいたかったのに――
ハウルルもそうだ。ゼラと一緒にいたい、ずっと側にいて欲しい。だが、それよりもゼラを傷つけて悲しませたくなかったんだ。ゼラには笑顔でいて欲しいんだ。
ゼラ、ゼラを守るために戦ったハウルルの顔を良く見てくれ。
――ハウルル……
胸に赤いサソリのハサミを突き刺したまま、ゼラの腕に抱かれるハウルル。俺が見たあのときの二人の姿。ハウルルもゼラも、ハウルルの胸から出る血にまみれ、ゼラは涙を流してハウルルの名前を呼んでいる。
俺が見た視界だから見えるのは、見つめ合う二人の横顔。ハウルルは満足そうに微笑んで、小さな声でゼラに言う。
「ぜら、おねえちゃん、すき」
――ゼラが、ハウルルを守るの、それなのにハウルルがゼラを、ゼラは守りきれなかったのに、なんで、ハウルルがゼラを、ハウルル、なんで笑うの?――
ゼラを傷つけずにすんだことが、誇らしいから。
涙を流すゼラを見て、大好きなゼラが自分のことを大切に思ってくれているのが、嬉しいから。
――ハウルルが、死んじゃって、痛くて、苦しくて――
ゼラ、悲しみと怒りに飲まれて、ハウルルのくれた優しさと暖かさを忘れないでくれ。
――でも、ハウルルはもういない――
それでもゼラがハウルルのことを忘れてしまえば、ゼラの中からハウルルは消えてしまう。
ハウルルはゼラのことが好きで、ハウルルがゼラに向けた笑顔を憶えているのは、ゼラしかいないんだ。
そしてハウルルの願いを、
――ハウルルの、願い?――
ゼラに幸せでいて欲しい。そのためならハウルルは命を捨てても惜しくない。
ハウルルが身命を賭した願いを、ゼラは叶えて欲しい。
――そんなの、そんなの――
あぁ、すぐには無理だ。だから、ゼラ、今はハウルルの為に泣いていい。俺が全て受け止める。
――でも、カダール、ゼラは、もう、こんな――
ゼラがどんな姿になろうとも、俺はゼラを抱きしめる。ゼラのことを離さない。
――カダール――
ハウルルの為に、我を失う程に悲しみ怒る、そんな優しいゼラのことが、俺は大好きだ。
――あ、ああ、カダール、あああ――
ゼラが泣いている。嘆きの嵐は止み、静かにしくしくと。吹き荒れる風が穏やかに、それでも胸に走る痛みは消えないまま。
何があろうとも俺はゼラと共に在る。
〈蜘蛛の子が? 棄人化が?〉
闇の母神よ、ゼラはどうなった?
〈こんなことが? お前は、いったいなんだ?〉
なんだと言われても、俺はただの人間の男で、ゼラの恋人だ。
〈ただの人間にこのようなことが、いや、お前は既に蜘蛛の子と深く繋がっていたのだったか〉
ゼラは? 少し落ち着いたようだが。
〈もう心配無いようだ。これほど早く棄人化から戻るなど、なるほど、蜘蛛の子の帰る場所がそこにあるということか〉
闇の母神の声は落ち着きを取り戻している。ゼラが心配無いというのは、もとに戻ったのか? 向こうは、母神の瞳の外はどうなっている?
〈それはお前の目で確かめるといい〉
む、闇の母神はさっきまでオロオロしていたのに、また偉そうに戻ってしまった。
〈ぬ、偉そうなのはお前の方だ。このルボゥサスラァに指図するなど、何様だ? おっぱいいっぱい男のくせに〉
その呼び名はやめてくれ。俺の名前はカダールだ。せめて名前で呼んでくれ。
〈ふん、お前などおっぱいいっぱい男で十分だ。さっさと我が瞳の中から出て行け〉
用が済めば出て行けとは。放り投げられるように意識が遠ざかる。遠く小さくなる声が最後に、祈るように聞こえる。
〈娘を、蜘蛛の子を頼む、カダール〉
闇の母神が、この世全ての魔獣の母が、俺に頼み事とは。頼まれなくとも俺はゼラを離さない。
あぁ、俺もルボゥサスラァに会うことがあれば、言わなければならないことがあるのを思い出した。
娘を、ゼラを俺にくれ、と、ゼラの母に言うのを忘れていた。
赤い世界の中は、在りし日のハウルルの微笑む横顔が、いくつもいくつも浮かぶ。
正面から真っ直ぐに見つめる金の瞳。ゼラが思い出した、ハウルルの微笑み。胸が暖かくなるような、柔らかな笑顔。
「ぜー、ら、」
母を呼ぶようにゼラと呼ぶハウルルの声を聞きながら、赤い世界から押し出される。
◇◇◇
「アアアアアア!」
目覚めれば泣き声が聞こえる。胸に抱いたゼラが大声で泣いている。
辺りを見回せば、廃墟の遺跡。ウェアウルフとの戦闘は終わったらしく、全員が俺とゼラを見守っている。
ゼラの両手と脚にはロープと鎖が巻きつき、そのゼラに俺がしがみついてる。母神の瞳が赤い光を発してから、さほど時間は過ぎてないらしい。
エクアドが俺を呼ぶ。
「カダール! どうなった?」
「もう大丈夫だ。ゼラの拘束を解いてくれ」
俺は左手に赤い宝石を握ったまま、泣きじゃくるゼラを胸に抱きしめている。右手でゼラの背を撫でると、ゼラの胸当てから下、背中に生えた体毛がパラパラと抜け落ちる。
「アアアあああ」
風の抜けるような声が、聞き慣れたゼラの声に変わる。いつもの甘く高い声に。胸当ての下から見える腹からも、黒い体毛が抜け落ちて褐色の肌が見える。ゼラの手も指もするすると短くなり、虫の足のような指が見慣れた人の手に変わる。
「あああ、カダール、ハウルルが、ハウルルがぁ」
裂けるように開いていた下顎が、蜘蛛のようだったゼラの顔がもとへと戻り、口が人語を話せるように。目も白目の部分が戻り、いつもの赤紫の瞳からはポロポロと涙が溢れる。
ゼラがもとに戻った。強く抱きしめるとゼラは声を上げ、子供のように泣く。
「ゼラ、今はハウルルのために、ちゃんと泣け」
「うああああん」
優しさが失われることに悲しみを覚え、理不尽を許せず正そうという思いが怒りになる。
仇であるレグジートはもとの形も解らないほどの肉片へと変わった。
だが復讐を遂げてもハウルルは戻らない。やり場の無い恨み、憎しみは簡単には消えない。
それでも、ハウルルのくれた優しさを知るから悲しみを感じ、ハウルルのくれた暖かさがあるから、怒りを覚える。
ならば悲しみもまた、いつか優しさへと、怒りはやがて喜びへと。時が必要でもゼラがハウルルのことを忘れなければ。
ハウルルのくれたものは悲しみだけでは無いのだから。今は嘆きの嵐に飲まれていても。
嘆くゼラを胸に抱き、足下を見れば、そこにハウルルの赤いサソリのハサミと尻尾の先が落ちている。
初めて会ったときは、母上に抱かれて、包帯に巻かれた痛ましい姿でおどおどとしていた。身体が治れば元気になり、俺を睨んだりもした。
ゼラを独り占めしようとした、俺のライバル。
ゼラに惚れた、ゼラを愛した俺の同志。
身命を捨ててゼラを守った小さな蠍の騎士。
赤毛の英雄の呼び名は、俺よりもハウルルに相応しい。
ハウルル、安心して眠れ。ゼラのことは心配するな。
お前と同じ男、ゼラに惚れた俺が、これからもゼラを守るから。
胸の中のゼラの嘆く声が、森の中の廃墟に木霊する。
赤の世界、闇の母神、ルボゥサスラアの瞳の中。以前、この赤の世界に意識を取り込まれたときは、俺は幼いゼラの中にいた。小さなタラテクトだった頃のゼラの記憶に、思い出の中に。
今の赤の世界は、吹き荒れる竜巻の中のようだ。グルグルと回り、もみくちゃにされる。胸がズキリと痛む。この痛みはゼラの感じている痛みなのか?
――ああ、ハウルル――
ゼラが泣いている。ゼラの声、苦しげに泣くゼラの声が、赤い世界の暴風の中に木霊する。
――痛いよ、苦しいよ、どうして? ハウルル――
赤い世界の中にハウルルがいる。ゼラの腕の中で身体が溶けて崩れる。白い肌がズルリと落ち、肉が崩れ赤黒い液体になって、ゼラの手のひらから落ちていく。手に残るのは、血と肉の混ざった液体に薄い赤色の髪の毛。
ゼラの見たハウルルの最後が、何度も何度も繰り返される。
――ハウルル、ハウルルう、あああ――
〈ああ、蜘蛛の子が……〉
聞き覚えのある声、これは闇の母神か?
〈おお、おっぱいいっぱい男〉
その呼び名はやめろ。ゼラはどうなっている?
〈蜘蛛の子は苦しんでいる。人の心の痛みに耐えられなくて〉
それが棄人化か?
〈幼い蜘蛛の子は苦しみから逃れようと、人への憧れ、人と関わる記憶、思い出を捨てて、もとの魔獣へと戻ろうとしている。あぁ、憐れな……〉
記憶と思い出を捨てる? それはどうすれば止められる?
〈声をかけて、なんとか、なんとか蜘蛛の子を泣き止ませて、落ち着かせて、〉
闇の母神、ルボゥサスラアの声は震えている。どうやらこちらも動揺しているらしい。だが、闇の母神よ、ゼラを泣き止ませてどうする?
〈おい、お前?〉
親しい者がいなくなって、悲しいのは当然のこと。ゼラ、ハウルルがいなくなって悲しいのなら、今は思いっきり泣け!
――ああ、カダール、あ、ああああああ!
赤い世界の中で風が更に吹き荒れ強くなる。地面の無い赤だけの視界の中、ゼラの嘆きの竜巻に揉まれてクルクルと回る。全身を引き裂かれるような痛みが襲う。
〈やめろお前! 蜘蛛の子を泣かせるな!〉
泣くべきときに泣かずにどうする!
〈このままでは、蜘蛛の子が壊れる!〉
嘆くことを押さえつける方が、ゼラの心が壊れる。闇の母神よ、前のときのように俺の中から記憶を、俺のハウルルについての思い出をここに出してくれ。
〈お前は、お前は蜘蛛の子をいたぶるつもりか!?〉
違う、ゼラに思い出してもらうためにだ。
〈思い出して? それで、どうなる?〉
一時の嘆きに流されてハウルルの思い出を忘れることは、ゼラの為にならない。いいからさっさとやれ! ルボゥサスラァ!
〈えぇい、賭けようぞ! お前の情と意図に!〉
胸の中から抉り出される。強引に身体の中からいろいろなものを引きずり出されるような、一瞬の寒気。
――あ、ハウルル、ハウルルぅうう!――
赤い世界に映し出されるのは、薄い赤い髪、金の瞳のハウルル。俺の記憶のハウルルは横顔ばかりだ。ハウルルの顔の向く先は、いつもゼラと母上ばかりだから。
ゼラに抱かれて目を細めるハウルル。ゼラが手にするクッキーを食べるハウルル。ゼラと額をくっつけて、くすぐったそうに微笑むハウルルとゼラ。ゼラを見つめるハウルルは安心したように、柔らかく微笑んでいる。
――ああ、カダール、胸が、痛いよ。胸にぽっかりと穴が空いて、そこに誰かが手を入れて、心臓を、握り潰そうとしてるみたいに――
その痛みは、悲しいっていうんだ。ハウルルがいなくなって、ゼラは悲しいんだ。
――カダール、頭が、痛いよ、熱いよ。黒い炎が、頭の中をじくじくと、燃やしてるみたいに――
その熱は、怒りだ。ハウルルが酷い目にあわされて、それを許せなくて、ゼラは怒っているんだ。
――痛くて、辛くて、苦しくて、目の前がグラグラして、ハウルル、もう、こんなの、イヤ、こんな思いをするなら、もう――
ゼラ、ハウルルのことを忘れないでくれ。
――でも、こんなの、耐えられない、カダール――
ゼラ、悲しくても苦しくても、ハウルルのことを忘れないでくれ。
――カダールは、痛くないの? 悲しくないの?――
俺だって悲しいし、ハウルルをこんな目に遇わせたことは許せない。それに、俺にはハウルルの気持ちが解る。
――ハウルルの気持ち?――
ゼラと母上に抱かれるハウルルを見て、歳の離れた弟のように思えてきた。はじめはゼラに可愛がられるハウルルを見て、少しばかり嫉妬してしまったものだが。
ハウルルはゼラのことが好きで、そこは俺と同じだ。ハウルルはゼラに惚れた男という俺の同志だ。
俺もハウルルと同じ状況ならハウルルと同じことをする。自分の身体が思い通りにならずに暴れ出してゼラを襲うなら、ゼラを守る為に己を殺す。
――ヤだあ! カダールまで死んじゃヤだあ!――
聞いてくれゼラ。ハウルルはゼラを傷つけたく無かったんだ。そのために支配に抗いハウルルは、
――ゼラは、ハウルルにいなくなって欲しく無いのに、ずっと一緒にいたかったのに――
ハウルルもそうだ。ゼラと一緒にいたい、ずっと側にいて欲しい。だが、それよりもゼラを傷つけて悲しませたくなかったんだ。ゼラには笑顔でいて欲しいんだ。
ゼラ、ゼラを守るために戦ったハウルルの顔を良く見てくれ。
――ハウルル……
胸に赤いサソリのハサミを突き刺したまま、ゼラの腕に抱かれるハウルル。俺が見たあのときの二人の姿。ハウルルもゼラも、ハウルルの胸から出る血にまみれ、ゼラは涙を流してハウルルの名前を呼んでいる。
俺が見た視界だから見えるのは、見つめ合う二人の横顔。ハウルルは満足そうに微笑んで、小さな声でゼラに言う。
「ぜら、おねえちゃん、すき」
――ゼラが、ハウルルを守るの、それなのにハウルルがゼラを、ゼラは守りきれなかったのに、なんで、ハウルルがゼラを、ハウルル、なんで笑うの?――
ゼラを傷つけずにすんだことが、誇らしいから。
涙を流すゼラを見て、大好きなゼラが自分のことを大切に思ってくれているのが、嬉しいから。
――ハウルルが、死んじゃって、痛くて、苦しくて――
ゼラ、悲しみと怒りに飲まれて、ハウルルのくれた優しさと暖かさを忘れないでくれ。
――でも、ハウルルはもういない――
それでもゼラがハウルルのことを忘れてしまえば、ゼラの中からハウルルは消えてしまう。
ハウルルはゼラのことが好きで、ハウルルがゼラに向けた笑顔を憶えているのは、ゼラしかいないんだ。
そしてハウルルの願いを、
――ハウルルの、願い?――
ゼラに幸せでいて欲しい。そのためならハウルルは命を捨てても惜しくない。
ハウルルが身命を賭した願いを、ゼラは叶えて欲しい。
――そんなの、そんなの――
あぁ、すぐには無理だ。だから、ゼラ、今はハウルルの為に泣いていい。俺が全て受け止める。
――でも、カダール、ゼラは、もう、こんな――
ゼラがどんな姿になろうとも、俺はゼラを抱きしめる。ゼラのことを離さない。
――カダール――
ハウルルの為に、我を失う程に悲しみ怒る、そんな優しいゼラのことが、俺は大好きだ。
――あ、ああ、カダール、あああ――
ゼラが泣いている。嘆きの嵐は止み、静かにしくしくと。吹き荒れる風が穏やかに、それでも胸に走る痛みは消えないまま。
何があろうとも俺はゼラと共に在る。
〈蜘蛛の子が? 棄人化が?〉
闇の母神よ、ゼラはどうなった?
〈こんなことが? お前は、いったいなんだ?〉
なんだと言われても、俺はただの人間の男で、ゼラの恋人だ。
〈ただの人間にこのようなことが、いや、お前は既に蜘蛛の子と深く繋がっていたのだったか〉
ゼラは? 少し落ち着いたようだが。
〈もう心配無いようだ。これほど早く棄人化から戻るなど、なるほど、蜘蛛の子の帰る場所がそこにあるということか〉
闇の母神の声は落ち着きを取り戻している。ゼラが心配無いというのは、もとに戻ったのか? 向こうは、母神の瞳の外はどうなっている?
〈それはお前の目で確かめるといい〉
む、闇の母神はさっきまでオロオロしていたのに、また偉そうに戻ってしまった。
〈ぬ、偉そうなのはお前の方だ。このルボゥサスラァに指図するなど、何様だ? おっぱいいっぱい男のくせに〉
その呼び名はやめてくれ。俺の名前はカダールだ。せめて名前で呼んでくれ。
〈ふん、お前などおっぱいいっぱい男で十分だ。さっさと我が瞳の中から出て行け〉
用が済めば出て行けとは。放り投げられるように意識が遠ざかる。遠く小さくなる声が最後に、祈るように聞こえる。
〈娘を、蜘蛛の子を頼む、カダール〉
闇の母神が、この世全ての魔獣の母が、俺に頼み事とは。頼まれなくとも俺はゼラを離さない。
あぁ、俺もルボゥサスラァに会うことがあれば、言わなければならないことがあるのを思い出した。
娘を、ゼラを俺にくれ、と、ゼラの母に言うのを忘れていた。
赤い世界の中は、在りし日のハウルルの微笑む横顔が、いくつもいくつも浮かぶ。
正面から真っ直ぐに見つめる金の瞳。ゼラが思い出した、ハウルルの微笑み。胸が暖かくなるような、柔らかな笑顔。
「ぜー、ら、」
母を呼ぶようにゼラと呼ぶハウルルの声を聞きながら、赤い世界から押し出される。
◇◇◇
「アアアアアア!」
目覚めれば泣き声が聞こえる。胸に抱いたゼラが大声で泣いている。
辺りを見回せば、廃墟の遺跡。ウェアウルフとの戦闘は終わったらしく、全員が俺とゼラを見守っている。
ゼラの両手と脚にはロープと鎖が巻きつき、そのゼラに俺がしがみついてる。母神の瞳が赤い光を発してから、さほど時間は過ぎてないらしい。
エクアドが俺を呼ぶ。
「カダール! どうなった?」
「もう大丈夫だ。ゼラの拘束を解いてくれ」
俺は左手に赤い宝石を握ったまま、泣きじゃくるゼラを胸に抱きしめている。右手でゼラの背を撫でると、ゼラの胸当てから下、背中に生えた体毛がパラパラと抜け落ちる。
「アアアあああ」
風の抜けるような声が、聞き慣れたゼラの声に変わる。いつもの甘く高い声に。胸当ての下から見える腹からも、黒い体毛が抜け落ちて褐色の肌が見える。ゼラの手も指もするすると短くなり、虫の足のような指が見慣れた人の手に変わる。
「あああ、カダール、ハウルルが、ハウルルがぁ」
裂けるように開いていた下顎が、蜘蛛のようだったゼラの顔がもとへと戻り、口が人語を話せるように。目も白目の部分が戻り、いつもの赤紫の瞳からはポロポロと涙が溢れる。
ゼラがもとに戻った。強く抱きしめるとゼラは声を上げ、子供のように泣く。
「ゼラ、今はハウルルのために、ちゃんと泣け」
「うああああん」
優しさが失われることに悲しみを覚え、理不尽を許せず正そうという思いが怒りになる。
仇であるレグジートはもとの形も解らないほどの肉片へと変わった。
だが復讐を遂げてもハウルルは戻らない。やり場の無い恨み、憎しみは簡単には消えない。
それでも、ハウルルのくれた優しさを知るから悲しみを感じ、ハウルルのくれた暖かさがあるから、怒りを覚える。
ならば悲しみもまた、いつか優しさへと、怒りはやがて喜びへと。時が必要でもゼラがハウルルのことを忘れなければ。
ハウルルのくれたものは悲しみだけでは無いのだから。今は嘆きの嵐に飲まれていても。
嘆くゼラを胸に抱き、足下を見れば、そこにハウルルの赤いサソリのハサミと尻尾の先が落ちている。
初めて会ったときは、母上に抱かれて、包帯に巻かれた痛ましい姿でおどおどとしていた。身体が治れば元気になり、俺を睨んだりもした。
ゼラを独り占めしようとした、俺のライバル。
ゼラに惚れた、ゼラを愛した俺の同志。
身命を捨ててゼラを守った小さな蠍の騎士。
赤毛の英雄の呼び名は、俺よりもハウルルに相応しい。
ハウルル、安心して眠れ。ゼラのことは心配するな。
お前と同じ男、ゼラに惚れた俺が、これからもゼラを守るから。
胸の中のゼラの嘆く声が、森の中の廃墟に木霊する。