第153話 南へ

文字数 793文字

 弟は優しい子だ。成長した暁には、民に慕われる慈悲深い王となるだろう。
 となると姉として、そう冷酷でもいられない。
 しかも隼人が命がけで助けようとした相手だ。異国に置き去りにされた境遇には、確かに同情すべきところもある。
 固唾を呑んで人々が見つめる中、阿梨の唇がゆっくりと動いた。
「人質を取り、騒ぎを起こした罪により、この者らを国外追放といたす。隼人、そなたが倭国に帰る時に一緒に連れていってやるがよい」
 周囲に驚きと安堵の空気が流れた。
 誰よりも驚いたのは捕縛された三人だった。投降を決めた時から死罪は覚悟していたのに。
「ありがとう、姉さま!」
 抱きついてくる弟を受け止めながら、阿梨は隼人に向かって苦笑いを浮かべた。
「わたしも、ずいぶんと甘くなったものだ。誰かの影響かな」
 そして父王の方を振り返り、
「父上、これでよろしゅうございますか」
 うむ、と笑みをたたえて国王はうなずいた。
「温情ある裁定、見事であったぞ」
 阿梨は満足げに微笑すると、すっと片手を掲げ、高らかに宣言した。
「帆を上げよ! 南へ戻るぞ。われらの王都へ!」

 草薙の遠海(とおみ)の浜で、桜花はひとりたたずんでいた。
 一時は帰還兵でごった返していたこの浜も、人の姿はずいぶんとまばらになり、あたりには波音だけが響いている。
「桜花」
 不意に名を呼ばれ、肩越しに振り返って桜花は眼をまるくした。そこには城で療養しているはずの伊織がいたのだ。
「伊織、動いて大丈夫なの⁉」
 まだ治りきっていないのだろう。伊織は足を引きずりながら桜花の方へと歩いてくる。
 砂に足を取られ、よろける体を素早く支えながら、桜花は伊織を見上げた。
「無理しないで、もっとゆっくり城で静養していればよかったのに」




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み