第29話 ただひとり

文字数 688文字

 いつしかすっかり陽は沈み、月明かりが二人の姿を照らしていた。蘇芳の漆黒の髪が艶やかに月の光に映え、瞳は吸いこまれそうに深い。
「……美しいな」
 藤音の姿を愛でるように見つめながら、蘇芳はしみじみとつぶやいた。
「月の光の下でもまた趣がある。初めて見た時には正直、驚いたぞ。あの隼人がこのような美しい奥方をもらうとは。どこの野暮な田舎娘かと思っていたが」
 美しいのは蘇芳の方だと思いつつ、藤音はふっと笑った。
「わたくしなど田舎娘でございますわ。蘇芳さまこそ、さぞかし美しい奥方がおいでなのでは?」
 まあな、と蘇芳は皮肉めいた口調で答えてみせた。
「俺にも正室はいる。皇家の血筋で、美しく、おそろしく気位の高い女だ。もっとも顔をあわせるのは年に数回くらいだがな」
 藤音は言葉を失った。それで夫婦といえるのだろうか。
 蘇芳は藤音に顔を近づけ、その手を取った。
「こんな田舎に埋もれさせておくには惜しい美しさだ。どうだ、俺と共に都に来ぬか? 側室として華やかな都に屋敷をかまえ、思うまま贅沢をさせてやるぞ」
「お(たわむ)れを……」
 藤音は軽く受け流し、場を去ろうとした。が、蘇芳が壁に手をつき、行く手をふさがれてしまう。
「戯れではなく、本気だが。いきさつは知っている。どうせそなたは人質も同然の身、盟約のための縁組であろう。何の未練があるというのだ?」
 いいえ、と藤音はきっぱりと否定した。
「隼人さまは決してそのようには考えておられません。わたくしをとても大切にしてくださいます」
 自分も最初は人質だと思っていた。だが真実は違ったのだ。
「わたくしの夫は生涯、九条隼人ただひとりと心に決めております」




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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