第124話 生きている実感

文字数 738文字

 阿梨は扉を開け、出ていきざま、何かを思い出したように振り返った。
「ところで、ふじね、とは誰の名だ? 恋人か? うわごとで何度も呼んでいたぞ」
 耳まで赤くなる隼人に、にやっと笑うと扉の向こうに姿を消す。
 かたわらで自分を見つめる白瑛に、隼人は感謝をこめて微笑した。
「ありがとう、王子。あなたこそ、わたしの命の恩人です」
 白瑛はくりっとした瞳で笑い返した。
 少年の柔らかなくせ毛が隼人の鼻先で揺れる。
「阿梨姉さまの言ったことは気にしないで。姉さまはね、厳しいけれど、本当はとても優しい人なんだ」
 隼人はわかっています、という風にうなずいた。確かにもの言いはきつかったが、阿梨のまなざしは泉のように澄んでいた。
 横になったまま木組みの天井を眺め、ふうっと息を吐く。
 ……生きているのだ、自分は。
 身体の痛みと共に実感を噛みしめる。
 事実上、捕虜のようなものだが、生きていることには変りなかった。

 その頃、遠海には傷病兵を乗せた船が次々と流れ着いていた。
 曽我水軍の船だけではない。羅紗の各地から敗残の船がぼろぼろの姿になって、かろうじて祖国へ戻ってきたのだ。
 地元の領民たちも総出で救助に当たったが、とても追いつかない。
 彼らとて本来は余裕などない。漁をし、日々の暮らしで精一杯なのだ。
 船は毎日のように流れ着き、傷病兵の数は増すばかり。
 中にはせっかく祖国にたどり着いたのに、満足な手当ても受けられず、命を落とす者さえいた。
 遠海の悲惨な状況は、城にいる藤音のもとへも報告される。
 現状を聞いた藤音はひとり庭を歩きながら、思案にふけっていた。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み